『チベット密教 心の修行』 と 『沙石集』 等 より

hiro732014-10-06


・・・
さらには、「与える(トン)・受け取る(レン)」の修行が現実のものとなったと考えることもできます。深い慈悲心から「与える(トン)・受け取る(レン)」の瞑想を行なうことで、他者(一切衆生)の苦しみを受け取ることができるようになったために、自分はいま苦しい状況(逆境)に立たされているのだと思って歓喜することもできるでしょう。また、「私の受けている苦しみによって、一切衆生の苦しみが癒されていくように」と願い「その願いが、いままさに実現したのだ」と喜びを感じることもできるでしょう。
・・・



チベット密教 心の修行』ゲシェー・ソナム・ギャルツェン・ゴンタ,藤田省吾 共著 法藏館 第三章 悟りへの道 「逆境」を悟りへの道に変える p.214 より引用させていただきました。





・・・法界ヲ身(しん)トシテ*、自他異ナラザレバ、衆生ノ苦(く)、則(すなわち)菩薩(ぼさつ)ノ苦ナルヲ、代(かはり)テ受(うく)トイヘリ。・・・
(* 万有の総称《意識の対象となる一切のもの》を法界といい、その本性、即ち真如を身としているので。)



『日本古典文學大系 85 沙石集』無住 編 渡邊綱也 校注 岩波書店 巻第二(九)菩薩代受苦事 p.126 より引用させていただきました(「代受苦ノ義ニ、古徳、七ノ意ヲノベタリ《p.125》」の七つ目)。





【代受苦】だいじゅく 他人に代わって苦しみを受けること。菩薩の大慈悲心についていう。大悲代受苦ともいう。・・・



『佛教語大辞典 下巻 ス―ワ』中村元 著 東京書籍 p.931 より引用させていただきました。





なぜ、つらい苦しみが、私たちに次から次へともたらされるのか・・・
おそらく、人間の知恵では、「本当のところはどうしてなのか分からない」というのが事実なのでしょう。


しかし、人間であるからこそ、「その理由や意味の分からない苦痛」というものに耐えていくことは非常に困難です。


私はこの問題についていろいろと考え悩みましたが、とりあえず現段階では、言わば「心の杖」として「代受苦」という考え方をとることが、生きていくために必要なのではないかと思い当りました。


つまり、「今まさに私が苦しんでいるこのことが、世界のどこかにいる誰かの苦痛を減らしている・・・ 私のこの苦しみは、ご縁のある誰かの苦しみを、代わりに引き受けているということなのだ・・・」と感じることで、自らの「苦」に意味を見つけることができるのではないか、と考えるのです。


もちろんそう考えることによって、痛みや苦しみがなくなるわけではありません。
しかし、痛みや苦しみがありながらも「杖」を手にすることによって、たとえ不器用でも、この先をなんとか歩いていけるはずです。


残念ですが、少なくとも私は「一切衆生」の苦しみを代わりに引き受けられるような器ではありません。
あるいは、「一切衆生」の苦痛を、ただ想像してみるだけでも耐えられないかもしれません。


そこで、せめて
「今私がこの○○*を苦しむことによって、どなたかの苦痛が、どうか少しでも軽くなりますように」
と心の中で繰り返しとなえていきたいと思います。
(* 例えば病気、障害、経済状態、失業、人間関係・・・その他さまざまな逆境など。)


「菩薩」がなさるような「代受苦」は到底無理で、「瞑想」さえもなかなか上手にできない私ですが、今後は自分のできる範囲で「ささやかな代受苦」を目標とし、少なくとも「代受苦」という考え方をとることによって、自らの苦しみに巻き込まれたり、振り回されてしまわないように工夫していきたいです。

『福音書』と『内村鑑三所感集』より

hiro732014-09-17


(「マタイ福音書」第18章 21・22・35節より)

21 その時ペテロが進み寄ってたずねた、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したとき、何度赦(ゆる)してやらねばなりませんか。七度(しちど)まででしょうか。」
22 イエスがこたえられた、「いや、あなたに言う、七度までどころか、七十七度まで!
・・・
35 わたしの天の父上も、もしあなた達ひとりびとりが心から兄弟を赦さないならば、同じようにあなた達になさるであろう。」



(ルカ福音書第15章 18・19・20節より)

18 よし、お父さんの所にかえろう、そしてこう言おう、『お父さん、わたしは天の神様にも、あなたにも、罪を犯しました。
19 もうあなたの息子と言われる資格はありません。どうか雇人(やといにん)なみにしてください』と。
20 そして立ってその父の所へ出かけた。・・・




新約聖書 福音書』塚本虎二 訳 岩波文庫 「マタイ福音書」第18章「不埒な家来の譬」21・22節 p.127 ・35節 p.128 、 「ルカ福音書」第15章「放蕩息子の譬」18・19・20節 p.236〜237 より引用させていただきました。




内村鑑三「起ちてわが父に往かん」より)

われ一たび罪を犯さんか、われは起(た)ちてわが父に往(ゆ)かん。われふたたび罪を犯さんか、われは起ちてわが父に往かん。われ七たび罪を犯さんか、われは起ちてわが父に往かん。われ七たびを七十倍するまで罪を犯さんか、われは起ちてわが父に往かん。わが父の愛は無限なり、かれはわれの滅びんことを欲(ねが)い給(たま)わず、かれはわれにつきて永久に絶望し給わず。ゆえにわれもまた自己につきて絶望することなく、かれの無限の愛を信じ憚(はばか)らずして今日起ちてかれに往かん。ルカ伝十五章十八節。



内村鑑三所感集』鈴木俊郎 編 岩波文庫 明治四十二年(1909)「起ちてわが父に往かん」 p.278 より引用させていただきました。





以前、マタイ福音書の第18章・21〜35節を読んで、とても感銘を受けました。


しかし恥ずかしながらその理解は、「ペテロ」が言った字義通りに、罪を犯すのは「兄弟」のほうであり、被害にあって怒りを感じながら、それにもかかわらず「赦してやらねばな」らないのは当然私のほうである・・・という傲慢なものでした。


その《私が被害者だ》という認識は、実は、まるで逆だったのです・・・


今私は、自分こそが「七度」・「七たび」どころではなく、「七十七度」・「七たびを七十倍」以上も罪を犯してきたし、これからも犯していくであろう身なのだということをつくづく感じています。


ところで、私が何か悪い行いをするということと、神様・仏様から罰がくだされるということは、実は同時なのではないか・・・つまり、悪い行いをしてしまってその《悪》に気づいていないというまさにそのこと自体が、既に神仏からの罰を受けているということに他ならないのではないか、と思われます。


したがって、誰が見ても明らかな「罰」というのは、本当の罰ではなく、あくまでも二次的なものだと考えます。


思えば、悪をなしている者(私)が、その行いについて、心底から悪いことだということを分かっていないのだとしたら、まさにそれこそが最大の罰ではないでしょうか。


その最大の罰の後に、誰が見ても明らかな何らかの「罰」がくだされたとしても、もはやそれは本当の意味での罰ではなく、神仏からの「どうか分かってくれ」という配慮や慈悲・愛の込もったメッセージであるにちがいない・・・そう感じます。


「私こそが(被害者ではなく)罪をおかした当人なのだ」と知ることには、酷い憂うつが伴います。とても辛いことです。
しかしそれを知ったということは、既に神様・仏様の温かい眼差しを受けているのだということを胸のうちに抱きながら、謝るべきことは謝り、償うべきことは償い、そして勇気をもって何度でもやり直す姿勢を保ち続けていきたいと思います。

三木清 『人生論ノート』 と 『内村鑑三信仰著作全集12』 より

hiro732014-01-22


三木清「習慣について」より)

一つの情念を支配し得るのは理性でなくて他の情念であるといわれる。しかし実をいうと、習慣こそ情念を支配し得るものである。一つの情念を支配し得るのは理性でなくて他の情念であるといわれるような、その情念の力はどこにあるのであるか。それは単に情念のうちにあるのでなく、むしろ情念が習慣になっているところにある。・・・習慣に形作られるのでなければ情念も力がない。一つの習慣は他の習慣を作ることによって破られる。習慣を支配し得るのは理性でなくて他の習慣である。言い換えると、一つの形を真に克服し得るものは他の形である。・・・




『人生論ノート』三木清 著 新潮文庫 「習慣について」 p.37〜38 より引用させていただきました。






内村鑑三「罪のゆるし(三)」より)

ゆるし得んがために祈るべきである。また祈りてゆるすべきである。敵をゆるすの最も善き方法は、彼のために祈るにある。・・・われ、わが敵のために祈りて、われの彼に対していだける無慈悲と憤りとは除かれ、これに代わりて春風駘蕩(たいとう)、仇恨の堅氷を解かすに足るの温雅はわが心に臨むのである。仇恨の苦きをいだきて長く不快を感ずるの必要はない。直ちに祈禱の座に近づき、わが最も憎しと思う人のために祝福(さいわい)を祈りて、完全に彼をゆるして、われもまた完全の幸福にあずかるべきである。・・・




内村鑑三信仰著作全集 12』山本泰次郎 編 教文館 「罪のゆるし(三)」 p.101 より引用させていただきました。






「祈りの習慣」によって、怒りや憎しみなどの「情念」を克服することができるのではないか・・・


例えば「神様・仏様、どうか◯◯に対して怒りや憎しみを抱くのではなく、その代わりに『◯◯に幸多かれ』と心の底から願うことができますよう、私をお助けください」と毎日繰り返し祈ってみる・・・そこから、苦しい現状が何か新しい展開につながるのかもしれません。


この「繰り返し」ということが、非常に重要です。

「繰り返し何かをしてみる(明確な行動だけでなく、じっと座って考えたり念じたりすることも含めて)」ということ、つまり「反復」こそが、人生をはじめ様々な事柄の秘密を解くことにつながる鍵となるのではないか、と思われてなりません。


程度の差こそあれ、誰もがいわゆる「なまけ者」です。仕事や勉強にせよ、何らかの作業にせよ、何かを考えることにせよ、時間と労力をかけて「反復」し続けるのは、実にしんどいものです。

しかし(実際どうなるかは置いておき)とりあえず目標と計画をたてて始めてみること、そして計画通りいかずに、たとえいったん中断してしまったとしても、完全にはあきらめてしまわないこと、じっとチャンスをうかがっておいて、ここぞという時に再び始めてみること・・・それが大切だと考えます。


「繰り返す」・「反復する」ことには、「断続」ということが含まれており、長い目で見た場合、むしろ「断続」のほうが良い結果をもたらす場合も少なくないように思われます。多大な労力を使って反復し続ければ、たいてい心身ともに折れてしまい、再開することができなくなってしまいます。おそらく、力の出し方をセーブしつつ断続させることが「習慣」を形作るコツなのでしょう。


私は、今日から「祈りの習慣」を確立できるように、繰り返し挑戦していきたいと思います。

『旧約聖書 ヨブ記』 と 『現代語訳 わが信念』 より

hiro732013-12-07


(『ヨブ記』より)

・・・
二 わたしにわかりました、
 あなたは何事でもおできになる方、
 どんな策をも実行できる方であることが。
三 〔無知をもって計画(はかりごと)を暗くするこの者は誰か。〕
 それなのにわたしはわかりもしないこと、
 知りもしない不思議について、
 語ったことになります。
・・・
・・・
六 それ故(ゆえ)わたしは自分を否定し
 塵灰(じんかい)の中で悔改めます。
 



旧約聖書 ヨブ記』関根正雄 訳 岩波文庫 第42章 p.160〜161 より引用させていただきました。






(『現代語訳 わが信念』より)

・・・このように自力が無効であることを信じるには、わたくしの知恵や思案のすべてを尽くして、もう頭の上げようがないようになるということが必要です。これが非常に骨の折れる仕事でした。・・・何が善であり何が悪であるか、何が真理で何が非真理であるか、何が幸福で何が不幸であるか、一つも分かるものではありません。わたくしには何も分からないとなったところで、いっさいのことに関して、すべて如来を信じ、如来に頼るということになりました。このことがわたくしの信念のもっとも重要な点です。
・・・




『現代語訳 わが信念』清沢満之 著 藤田正勝 訳 法藏館 14 わが信念 p.106〜107 より引用させていただきました。






口ではいくら「私なんて」と言って謙遜していても、心のどこかでは(自分ならば何とかできるはずだ、いや、きっと何とかしてやる)と思っている・・・
ところが何事も、そううまくはいかない・・・たくさんの失敗を繰り返す・・・いつの間にか行き詰まり、どんなに努力して、もがいて苦しんでも先に進めない自分というものを発見する・・・


考えれば考えるほど、この「行き詰まり」こそが、私に本当に大切なことを悟らせるためにもたらされた「お恵み」であり「お慈悲」であるのだなあ、と思われてなりません。


「私」には行き詰まり絶望することが必要だったのだ、とことん絶望しなければ“本当に大切な何か”を認識できないほど「私のおごり高ぶり」は強いものだったのだ、心の底から絶望してはじめて高慢の鼻がへし折られるのだ、とつくづく感じます。


こんなにも傲慢無礼な者を、それでもなおかつ救ってくださろうとするはたらきがある・・・その「はたらき」を「神」、「仏」や「如来」という言葉を使わずにどう表現してよいものか分かりません。


絶望こそが、光をもたらすのだと思います。
もちろん、ちょっとやそっとの絶望ではだめなのでしょう。
たたいてもたたいても、油断すればすぐに顔を出してくる「おごり高ぶり」が続く限り、今後も、何度でも「行き詰まり」が“大いなる何か”から私にもたらされ、それによる絶望を通じて、何度でも大事なことを思い出させてくださることでしょう。


逆に言うならば、もし「本当に行き詰った」のであれば、その時こそ、既に「救われている」と考えてよいのではないかと思われます。


昔から「窮(きゅう)すれば通ず(易経・繫辞[けいじ]下伝より)」と言うけれど、これはまさに真実なのだなあ、と古人の洞察力の深さに改めて感銘を受けずにはいられません。

『清沢満之集』 と 『内村鑑三所感集』 より

hiro732013-07-13

(『清沢満之集』より)

無限大悲の如来は、如何(いか)にして私に此(この)平安を得せしめたまうか。外(ほか)ではない、一切の責任を引受けてくださるることによりて私を救済したまうことである。如何(いか)なる罪悪も、如来の前には毫(ごう)も障(さわ)りにはならぬことである。私は善悪邪正(ぜんまくじゃしょう)の何たるを弁ずるの必要はない。・・・

・・・如来は、私の一切の行為に就(つい)て責任を負うて下さるることである。私は只(ただ)、此(この)如来を信ずるのみにて、常に平安に住することが出来る。如来の能力は無限である。如来の能力は無上である。如来の能力は一切の場合に遍満(へんまん)してある。・・・




清沢満之集』安冨信哉 編 山本伸裕 校注 岩波文庫 第1部 他力の大道 2 我は此(かく)の如く如来を信ず(我[わが]信念) p.20〜21 より引用させていただきました。





(『内村鑑三所感集』より)

われわが神に依り頼みてわが責任の重きを思わず、そはわれこれを担うにあらざればなり。われわが身を神に委(ゆだ)ねて神はわがためにわがすべての責任を担い給う。われ時には全宇宙がわがために活動(はたら)きてわが用をなすかのごとくに思う。




内村鑑三所感集』鈴木俊郎 編 岩波文庫 明治三十七年(1904) 責任軽し p.112 より引用させていただきました。






私は過去に「依頼も承諾もしていないのに、生きることに関する責任が既に被せられているということを、果たしてどのように考えたらよいのでしょうか」と書きました(2005-07-29 鷲田清一『「聴く」ことの力』より)


しかし、今はその考え方を撤回します。
そもそも、この「問い」自体が間違っていたのです。


「私の生に対する責任を“私が”持っている」とか(もっと言うならば)「“私の”生」とかいうような思いが、どれほど傲慢であるか・・・
そのことに、全く気づきもしていなかった自分が、実に恥ずかしい限りです。


このような自らの傲慢さを認識しないまま一生が終わらなくて、本当によかったと思いますし、そしてまた、その、おごりたかぶりを教えてくださった何か大いなるものの「はたらき」を感じずにはいられません。


“私が”、“私の”、“私こそ”・・・そのような意識が、消え去ることは非常に難しいです。しかしたとえ一瞬であっても、その意識が薄れたときに垣間見られる、すでに自然に「はたらいてくださっている何か」を忘れずに、いつも心に保ち続けられるようになりたいと願います。

『内村鑑三所感集』 より

hiro732013-02-06


明治三十四年(1901) 善きこと三つ p.44 
○健康のみが善きことではない、病気もまた善きことである、同情と推察とはより多く病気のときに起こるものであって、多年の怨恨(えんこん)も一朝(いっちょう)の病気のために解けることがある。

・・・


明治三十九年(1906) 患難の解釈 p.173
患難(かんなん)はこれを消極的に解すべからず、積極的に解すべし。これを神の刑罰として解すべからず、神の恩恵として解すべし。神の憤怒(ふんぬ)の表彰として解すべからず、その慈愛の示顕(じげん)として解すべし。・・・



明治三十九年(1906) 恩恵としての患難 p.175
・・・神は無益に患難を下し給わず、これを自己かまたは他人を救うために下し給う。患難はたしかに神の恩恵なり・・・



明治四十二年(1909) 損失の利益 p.260
一友人を失うはさらに他により善き友人を得んがためなり、一事業に失敗するはさらに他により貴き事業に成功せんがためなり、壊(くち)るこの世の物を失うは壊ざる天に宝を積まんためなり。失うは得ることなり・・・



明治四十四年(1911) 善事としての困難 p.335
善をなすことのみ善事にあらず、困難に耐ゆること、これまた大なる善事なり。われらは自ら困難に耐えて困難にある多くの同胞を慰むるをうるなり。・・・



明治四十四年(1911) 恩恵と永生 p.341
・・・無限の恩恵は無限の生命を証す。われはこの短き生涯において神の恩恵を受けつくすあたわざるを知りて、わがためになおこれを享(う)くるの時と所との存するあるを識る。・・・・



大正三年(1914) 誤らざる生涯 自分の実験 p.377
余(よ)のなすべきことはすべて成功なりし、余のなすべからざることはすべて失敗なりし。余が余のなすべからざることをなさんとせしや、神は悪人を送りてこれを毀(こぼ)たしめ、あるいは疾病(やまい)を送りてこれを妨げ給えり。これに反して余がなすべきことをなさんとせしや、神は友を送りてこれを外より助けしめ能力(ちから)を加えて衷(うち)よりこれを補い給えり。・・・



大正四年(1915) 悪評の幸福 p.389
人に善く思わるるは危険である、かれに悪しく思わるる時が来るからである。人に悪しく思わるるは安全である、われはかれが思うよりも善くなることができるからである。・・・最も安全にして最も幸福なることはすべての人の悪評の下に謙遜なる生涯を送ることである。



大正五年(1916) 恐るべからざるもの三 p.394
・・・失敗は方針を転ぜよとの神の命令である、われらは失敗を重ねて神の定め給いにしわが天職につくのである。・・・患難はわれらを神の懐(ふところ)に駆(お)い追(や)るためのかれの鞭(むち)である、われらは患難に遭うて神のわれらのために設け給いにし休息(いこい)の牧場(まきば)に入るのである。・・・




内村鑑三所感集』 鈴木俊郎 編 岩波文庫 より引用させていただきました。


私たちに次々とやってくる様々な苦難は、もちろん嫌なことであり、避けて通りたいものです。しかし、よく考えてみると、もしそれらの苦難を「神」や「仏」あるいは「(宇宙の“はたらき”であるところの)大いなるもの」からいただいた大切な学びの機会なのだと捉えることができるならば、もはやそれらは苦難ではなくなります。


「これには、きっと深い意義が隠されているに違いない」と考えて、「ここから、私はどのようなことを学ぶことができるのだろう」と、常に問い続ける姿勢を保つことが大切だと思います。


苦難は単なる苦難ではなく、とても貴重な勉強の場なのかもしれないのです。そう考えると、本当に、ありとあらゆることに有り難いと思わずにはいられなくなります。それが良いことであろうと、(見かけの上では)悪いことであろうと、全ての起こったことについて感謝を捧げる“相手”を何らかのかたちで認識していること、そして現に感謝できていること・・・もしそうできている自分を発見したならば、それは、なんと幸せなことでしょうか・・・


もちろん、その問題に隠された深い意義というものは、「大いなるもの」の眼で見てはじめて理解できることなのであって、もしかしたら人間の小賢しい思考の及ぶものではないのかもしれません。つまり、私がいくら問い続けても、いつまでも答えが分からないということもあり得ます。しかし、たとえそうであっても、絶えず「大いなるもの」の“存在”や“はたらき”を感じつつ、その問いを持ち続けながら、謙虚に生きていくことが大事なのではないかと考えます。まさにそれこそが「祈り」の日々を送るということなのではないか・・・そう思われてなりません。


それにしても、もし「苦難」が(つまり大切な「学びの機会」が)死の間際まで私たちに与え続けられるのだとすれば、私はやはり、肉体が朽ちるか燃やされるかした後の・・・その先の「何か」、あるいは古くから言われているところの「浄土」や「天国」というものを想定せざるを得ません。しかし残念ながら、そうした「何か」というものは、それこそ人間の小賢しい言葉の及ぶ範囲ではない事柄なのだろうと思います。

トルストイ 「要約福音書」 より


緒言 p.256下段(トルストイの言葉)
・・・
予は光を知らなかったのである、そして、人生には真理の光はないものと考えていたのである。しかるに、人はただこの光のみによって生きるものであることを確信するにおよんで、予は、その源泉を求めはじめて、ついにそれを、あやまてる教会の注釈にもかかわらず、福音書のなかに見いだしたのである。・・・



(以下、「要約福音書」の中のイエスの言葉)
3 生命の本源 p.275上〜下段
・・・わが言う神の国は、その接近を眼をもって見うるものではない。・・・神の国は、時間ないし空間のうちに存在するものではない。・・・あたかも電光のように――そこにも、ここにも、いたるところにあるものである。・・・わが説くところの神の国は――汝らのうちにあるからである。・・・


神の国 p.282下段
・・・一、怒ってはならぬ。すべての者に平和でなければならぬ。二、淫蕩なる肉欲を享楽してはならぬ。三、何事にまれ、なんぴとの前にも誓ってはならぬ。四、悪に抗してはならぬ、裁いてはならぬ、訴えてはならぬ。五、各国民のあいだに差別を設けてはならぬ、他国人をも自国人同様に愛さなければならぬ。・・・以上の戒律はすべて、つぎの一つのなかに含まれている――汝人にせられんと思うことは、すべて人にもそのごとくせよ。・・・

p.283上段
・・・
また祈る時には、偽善者のように言葉を費やすな。・・・

p.283下段
・・・
地上に蓄えを用意してはならぬ。地上にては虫がくい、錆びがつき、盗人が盗む。ただ天の富を蓄えよ。・・・



5 真の生命 p285下段〜p.286上段
・・・
わが教えを悟って、それにしたがえ。さらば、汝ら生命において平安と歓喜とをうるであろう。・・・心さえ平安温良であれば、汝の生涯には幸福が見いだされるであろう。・・・

p.292上段
・・・父の意志とは、怒るなかれ、放蕩するなかれ、誓うなかれ、悪に抗するなかれ、人に差別を立つるなかれ、これらのうちにあるものと告げよ。・・・


6 偽りの生命 p.295下段〜p.296上段
・・・おのが肉の生命のために思いわずらうものは、真の生命を滅ぼすものだからである。しかし、父の意志を行なって肉の生命を滅ぼすものは、真の生命を救うものである。・・・


7 われと父とは一なり p.305上段
・・・生命と光とは同じものである。・・・わが教えによれば、人生に意義がある・・・

p.309上段
・・・真理を証明(あかし)することはできない。真理は、それ以外のすべてのものを証明(あかし)するものである。・・・


8 生命は時間を超越している p.315下段
・・・
信仰とは、ある驚くべき事物を信ずることにあるのではなくて、自己の地位を悟り、救いの何であるかを悟ることのうちにあるのである。汝もしおのが地位を悟れば、報酬を期待することなく、汝にゆだねられたことを信ずるに至るであろう。・・・



トルストイ全集 14 宗教論上』中村白葉・中村融 訳 河出書房新社 「要約福音書」(中村白葉 訳)より引用させていただきました。



仏教で言うところの「十善戒」の内容と、この「要約福音書」の中でイエスが語った戒律の内容とを比べると、共通する部分がかなりあることに驚かされます。


「不殺生」は「一、・・・すべての者に平和でなければならぬ」に含まれるのではないかと思います。

「不偸盗」は(ここでは引用していないp.300上段の)「盗むなかれ」と、「不邪婬」は「二、淫蕩なる肉欲を享楽してはならぬ」と、「不妄語」は(ここでは引用していないp.300上段の)「偽るなかれ」と同じです。

「不両舌」と「不悪口」はぴったりくるものではありませんが(ここでは引用していないp.318下段の)「人にたいして悪念をいだくな」に含まれるように考えられますし、「不綺語」は「祈る時には、偽善者のように言葉を費やすな」と共通するものがあるように思われます。

「不慳貪」は「地上に蓄えを用意してはならぬ・・・ただ天の富を蓄えよ」と似ており、「不瞋恚」は「一、怒ってはならぬ」と同一です。

「不邪見」については、この「要約福音書」全体に真理を悟って生きるべきとのメッセージがあふれていますので、広い意味では共通するのではないかと思います。


仏教と(ここではトルストイがとらえたところの)キリスト教という、成り立ちが全く別の宗教において、このように戒律の共通する部分が多いのだとすれば、それらの戒律はかなり普遍的な「善」を含んでいるのではないかと私には思われます。


ところで、ここで使われている「真理の光」「生命の本源」「神の国」「真の生命」「父」などの言葉は、煩悩のない本当の(または本来の)私、その私が、その中に溶け込んで一部となっているところの宇宙のはたらき、宇宙の流れ、大いなる存在・・・そういった「何か」を表現するものだろうと思います。

呼び名は何でもよい、と私は考えています。それを「神」と呼んでも「仏」や「如来」と呼んでも、いっこうにかまわないと私は感じています。


そして、ここで使われている「肉の生命」というのが、煩悩によって汚れた(または眼をさえぎられた、つまり真理を見ていない)仮の「私」のことではないか、と思います。

本当の私は本来その「大いなるもの、または大いなるはたらき」の中に渾然一体となって溶け込んでいるのに、煩悩があるゆえに、この人生を生きている限り誰もがその煩悩をどうすることもできないがゆえに、そこから「私」を分離し、それに執着してしまう・・・そのことが「肉の生命」という言葉で表現されているのではないかと感じます。


仏教の「十善戒」にせよ、この「要約福音書」の中で述べられている戒律にせよ、全てをいっぺんに行うことなど(少なくとも私には)とてもできません。そんなことをしたら(仮の「私」はすぐに)パンクしてしまいます。

しかし、たとえほんの少しであっても、無理のない範囲で、何か私にもできそうなことはありそうです。全てができないからといって最初から諦めてしまうのではなく、できるところから、少しずつでも行なっていければよいなと思っています。
また、「いくら行いたいと思っても、できない自分」というものを痛感する場面も、当然のことながら多くあることでしょう。その「できない自分」を見つめていきたいと考えています。
それらが、生涯において、本当の意味での「幸福」や「意義」を見い出すための道を歩んでいく、ということなのだと私は信じます。