* 骨董の世界は、魑魅魍魎の世界 ー①
 私には、骨董品や美術品の保有欲が全くない。一流品などは美術館で見ればよいし、何ゆえに手元に
置かなければならないか不思議である。両親を見ていると、隠れた名品を探し、さり気なく、格安で
ハンターをして、倉庫に収めることが趣味のようだ。これは骨董収集家の全てにいえるが。それなら、
名だたる名品を、世界の美術館で見ればよい!というのが、私の持論。21歳の時に、ルーブル美術館
大英博物館などで、世界的名品を見た経験が、更に裏づけになった。
 鑑定団を見ている共通点は、「骨董店の主が、アマチュア気取りの素人に、太鼓持ち話術で売りつけて
いるのが殆ど。だから、出てくる当人、いやに識別感に自信を持っている。 が、それは店主の刷りこみ。
株や骨董は、素人が手を出すものではない。「買いで騙され、売りも騙され」が、素人の悲しさ。
数代前の先祖が大事にしていたお宝にも多くある。両親の場合は元プロで、特殊ケースだが、骨董世界は、
「俺おれ詐欺」より、タチが悪い側面がある。そこは特定少数の愛好家の世界。 特定少数の本物の骨董品
の周囲には、その数十、数百倍の贋物と、詐欺紛い人たちが存在する。もし、金に窮したら、どこかの
骨董市で、高そうな骨董を探して、金を持っていそうな友人に、「これは我家の蔵にあったもの。
何時でも引き取りますから、買ってもらえますか」と、売りつければよい。
 大たいが、素人が一度買った骨董品を、逆に骨董店に持って売ることはほぼない。買い手は太鼓持ち
大臣扱いで偉くなったような幻想で満足した段階で、半分以上の買いの目的を果たしている。 
だから、素人衆の倉庫は、騙された骨董品の山。で、騙す方は、買取の誓約書を平気で書く。ばれた時は、
そのまま引き取れば、詐欺ではないからだ。適当に「時代が変わりました」「この品の相場が現時点で
暴落しました」「自分も実際のところ騙されていました!」で済ますことも可能である。   ーつづく
・・・・・・
4578, そして、人生はつづく
2013年09月28日(土)
                『そして、人生はつづく』 川本三郎
  図書館で手に取ってみて、「まえがき」の文章が現在の私の心境に似ていたので驚いた。
 還暦過ぎれば、誰も似たような現実が待っている。 まずは介護が平均10年が人生の終りに控えている。
 私など、「そして、・・」より「それでも、人生はつづく」が合っている。まずは ー「まえがき」の全文ー  
《 2008年の6月に35年連れ添った家内を癌で亡くした。子供がいないのでそれから一人暮しが始まった。
その「独り居」を毎月一回、日記の形で書いていった。物書きという仕事柄、幸い、一人でいることに慣れている。
というか、物書きとは一人でいることが仕事のようなもの。 本を読む、映画を見る、音楽を聴く、町を歩く。
一人ですることばかりだ。旅も大半は一人旅。これに、家事という新しい仕事が加わった。
愛読しているアメリカ人の詩人、作家メイ・サートンの『独り居の日記』(武田尚子訳、みすず書房、1991年)は、
ニューイングランドにある緑豊かな田舎家での一人暮らしの日々を綴ったものだが、こんな言葉がある。
「私にできることといえば、瞬間瞬間を、一時間一時間を、生き続けることだけだ――小鳥に餌をやり、
部屋を片づけ、たとえ私の内部には築きえなくとも、せめて私の身の周りに、秩序と平和を創造することだ」。
一人暮し、もうじき七十歳になろうとする人間にとっても「秩序と平和を創造すること」がいかに大事であるか。
自己管理をきちんとし、静かに暮すこと。一人暮しになって静かな一日を送る困難と、幸福を知るようになった。
 家事をし、仕事をし、散歩をし、一日の終わりに酒を飲みながら、昔の映画をビデオで見る。
無論、そんな平穏な一日が毎日あるわけではないが、それだからこそ「秩序と平和」が大事なものに思えてくる。
 もうあまり大きな声でものを言いたくない。「独り居」のなかにささやかな喜びを見つけてゆきたい。
3・11のあともそんな思いで書き続けた。あれはフェリーニの映画だったか、「私は生きることより思い出すことの
ほうが好きだ。結局は、同じことなんだけど」という意味の言葉があった。日記を書くとは、まさにその日その日を
思い出にしてゆくこと。》
 アマゾンの ーBy FANTASMA UCCIDENDO MECCANISMOレビュアーが、よい!〜編者か著者のどちらかの投稿?〜
{評論家・川本三郎は2008年に妻・ファッション評論の川本恵子を亡くし、以来独りの物書き生活が始まった。
 読書、映画鑑賞、音楽鑑賞・・でも独りだ。たまには旅にも出る。一見、悠々と見えても、心は独りさびしき、
時の旅人である。面倒な“家事”も自分でしなくてはならない。そんな老境に入った著者の日々が綴られている。
著者は当たり前に生きてきたつもりだが、妻の死、そして3・11で変わった・・・ 著者は、震災後に東北を応援
しようと小さな鉄道の旅にでる。 3・11と世の中のこと・・・。 淡々と静かに自分の日々を綴る・・・ 
そして彼自身独りの人生の時は流れてゆく・・・。たった数歳しか違わないのに、私とはまるで異なる時をゆく。
それでいいのだと思う。そして、人生はつづく・・・。ターミナルは一つであっても、そこに至る道は人それぞれに
異なるのだ。独りという寂しさの重圧は、若き時には跳ね返せても、老齢に至れば、そのエナジーも枯れつつある
ことを自ら認識、体験中のトロイGKMです。余韻が残った久しぶりの大人の文章。}
▼「本を読む、映画を見る、音楽を聴く、町を歩く。一人ですることばかりだ。旅も大半は一人旅。
 ・・もうじき七十歳になろうとする人間にとっても、秩序と平和を創造すること、がいかに大事であるか。」が、
言い得て妙。私は二年半前に、その半年前までは思いもしなかった事業整理をせざるを得なくなったが、それでも、
人生はつづいている。そこでのコツは 「独り」の世界の中で、秩序正しい静かな生活を守ること。 
一応、準備を含めた45年かけた独りの世界があるが・・・
・・・・・・
4203, 呪いの時代 ー17
2012年09月28日(金)
    * あとは呪詛の効果を搾制し、贈与を活性化するしかない!      「呪いの時代」内田樹
 呪詛を抑えるに、贈与でお返しをするのが一番良い方法になる。が、放置しておけば、さらに憎悪が増す。呪い
に対し、贈与で返すのが贈与の贈与たる由縁になる。メディアは記事を売らんがために呪いの対象をつくり上げる。
手っ取り早いのが、政治家の失政と芸能人のスキャンダル。関係もないのに、いつの間に扇動され呪詛の集団に
される、俗に言う世間様レベル、B層である。呪詛は、これからも強くなるが、知恵で自分を守らねばならない。 
 ーその辺りからー
≪ 世の中はバカばかりで、システムは全部ダメであるという宣告はかなりの部分まで真実を衝いているのかも。
 私が問いたいのは、その指摘が正しいとすれば、そのような世の中を少しでも住みやすいものにするために、
あなたは何をする気なのかということである。完膚なきまでに批判し抜くことが、個人に対しても制度に対しても、
もっとも効果的な「改善」実践であるという左翼的な批評性の定型から私たちは抜け出すべきときです。
「私がこのシステムの責任者です」と名乗り、それに対するすべての批判を粛々と受け容れ、批判されればされる
ほどパフォーマンスが向上するような「責任者」が存在するなら、そのような定型的批判も有効かも知れない。
だが、実際には、そのような責任者はどこにもいないのである。 私たちはもう「壊す」時代から抜け出し、
「作る」時代に踏み入るべきだろう。命旦夕に迫る病人に向かって「生き方を根本的に変えろ」と叱りつける
人間はいない。それよりは残されたわずかな生きる時間の質を維持するためにどうするかを考えるだろう。・・・
(・・中略)私たちの意識を批判することから提言することへ、壊すことから創り出すことへ、復讐することから
受け容れることへ、傷つけることから癒やすことへ、社会全体で力を合わせて、ゆっくりと、後戻りすることなく
シフトしてゆくべき時期が来た。そのときに指南力を発揮すべきなのはメディアである。けれど、メディアは
まだ「呪い」の語法を手放すことができずにいる。この本の中で私は別に目新しい知見を語っているわけではない。
皆なが知っていることをもう一度繰り返し確認しているだけである。呪誼も贈与も人類と同じだけ古い制度であり、
それがどう機能するものかは誰でも知っている。けれども、多くの人びとはそれは神話や物語の中のことであっで、
私たちの日々の生活には何のかかわりもないと思っている。そうでない。呪誼は今人びとを苦しめ、分断しているし、
贈与は今も人びとを励まし、結びつけている。呪認の効果を搾制し、贈与を活性化すること。
私が本書を通じて提言しているのは、それだけのことである。 ≫
▼ 西アフリカ横断のバスツアーで、単調な奴隷通りという道をひた走っていた時、突然、道路の脇道にそれた。
 そこは、小さな市場になっていて、5〜6軒の店があった。呪詛の為の小物だけを売っている市場という。
アフリカの地域の多くでは、今だに呪詛の習慣があり、その効果が信じられている。そこで突然、生々しい人間の
サガを突きつけれたようだった。昔、アフリカの奴隷は、地元の部族が近くの部族を襲い、捕虜にして奴隷商人に
売ったもの。警察力など希弱な土地柄だと、近辺の争いに弱者は黙って呪詛に訴えるしかない。日本は近代国家
とはいえ、断絶の、それも20数年も落ち目の時節にあって、その鬱憤を誰かを呪うしかない。アフリカの呪詛の
小道具が、メディアによる、誰かへの集団リンチのような槍玉=記事に取って代っただけ。私たちは、ますます、
周囲の、そして政府の呪詛が強くなる。しかし、それが故に、国家の舵取りが大きく狂っていることさえ、
気づかないとしたら、命取りになりかねない事態である。
・・・・・・
3838, ツール(道具)について考えてみる ー4
2011年09月28日(水)
 20万年前に、動物は初めて言葉というツールを持った。 そして、以前から使用していた物理的道具と共に
他の動物を狩猟し勢力圏を拡大していった。 ところが一万年前に地球上に異変が生じ、それまでの果実などの
植物採取と狩猟では生きていくことが出来なくなって、牧農が始まった。 その時に、それまで培われてきた
言葉と道具が農業と牧畜の進化に役立つことになった。経験は本能で動物も植物も蓄積は可能だが、場所や時間を
越えて言葉や絵に置き換えて情報を伝えることが出来るのは人間だけ。現在の情報化革命が20万年来の人類の
革命といわれる。デジタル化とネットで情報が瞬時に地球上の個々人に行き渡るようになり、人間と社会の
有りようを根底から変えてしまった。 ツールが時代に大断層を生じさせてしまったのである。 
新たにネット世界が出来て、それが現実世界の上位になりつつある。 これが今後どのように時代を変えていくのか
想像さえ不可能。連日のようにiPadを取り上げているが、この御蔭で目的とするブログに到達するまで、
初期立ち上げを含めて数十分の一の時間で辿りつけるようになってしまった。 おまけに体積も十分の一以下で、
コードから解放され、ボードからも解放された。タッチ式のため、ネットサーフィンが非常に楽になり、
本やアプリも簡単にネットから購入可能になっている。 丁度、購入して一月経つが、それまでの情報の質量が
一桁は増えた感がする。ツールを弄るのが面白くなったら、しめたもの。アプリについては次回に書くが、
調べれば調べるほど次々と面白いものが出てくる。 目につくアプリは、ベストのものしかない。
それが時と共に改善され続けているため、使いかってが良いものが多いのは当然である。
 ところで、10年前の今日にあたる日に「目的と手段」というテーマで書いていた。 面白い偶然である。
「ツールは手段だが、目的と手段は融合するか?」という問いかけ。 前回、「畑仕事と釣がいいか、
iPadがいいか?」という問いかけになったが、それからすると、「iPadをしながら釣をすればよい」
ことになる。トイレの読書と同じ? どんどん使いかってのよいツールは、使えばよい。 
ただし、振り回されるな!ということになる。
 ・・・・・・・
3473, 幻滅論
2010年09月28日(火)         
  ーまずは背表紙より        「幻滅論」北山修著 
【「これは何のための本かを一言で言うなら、私自身の悩ましくも楽しい旅の記録であり、それに公共性を付与
するべく、人生におけるいくつかの不幸に強くなるためという思いでまとめた本だ」 文化畑から医学の世界に
入って30年、著者は臨床の日々の中で、ウィーンで生まれ欧米で発展してきた精神分析を、文化の役割を強く意識
して、日本語による日本の臨床に生かす道を考えつづけてきた。そのために、「語られた過去」の総和としての
神話や昔話に注目しながら、「イザナキ・イザナミ神話」や異類婚姻説話などの悲劇の意味を考え、「甘えの構造」
を深め、言語の研究をすすめてきた。 とくにこの数年は、浮世絵の中に夥しい数の母子像を発見して、その構図を
分析してきた。そこに読みとれるのは、人と人とのつながりであり、つながりがありつづけている
という幻想であり、つながりが断ち切られることから生じる幻滅であった。 本書にはこのような考察のすべてが
収められている。『幻滅論』は、自分と他人と環境とのつながりを知るための本でもある。子が母から切り離される
とき、抱える環境から自分が切り離されるときに生じる幻滅は、けっしてマイナスの体験ではない。
あの素晴らしい愛をもう一度」と嘆きながらも現実と触れあうチャンスとなるのだ。
類のない日本文化精神分析の本が、ここに誕生。】
 ▼ 図書館で「幻滅論」という本を見つけ借りてきた。共同幻想があれば、当然のことながら幻滅論があってよい。
幻想論といえば、吉本隆明共同幻想論がある。共同幻想とは、ネット辞書によると
【 血縁・氏族的共同体(家族)が、地縁・部族的共同体(原始的な国家)に転化する結節点として、兄妹・姉弟
対幻想に着目している。兄妹・姉弟の対幻想は、夫婦の対幻想とは違って、肉体的な性交渉を伴わない対幻想なので、
いくらでも無傷に空間的に拡大できる。兄妹・姉弟の対幻想が、他家との婚姻と言う形で空間的に拡大しているため、
国民は心理的な一体感を共有し、幻想としての国家が成立する。逆に言えば、原始的な国家の成立は、兄妹・姉弟
近親相姦が自覚的に禁止されたときに求められる。中上健次の「国家は白昼に突発する幻想化された性なのだ」
と言う言葉は、このことを指している】とある。
 ー幻想論は、ここで書いたことがある。それに対応して論理を組みたてていると思い込んでいたが、違っていた。
母子のつながりが何時までも続くという幻想が潰された時に生じる幻滅である。 親離れは動物としての本能的行為。
その辺の切口が共同幻想と違う。 一般的に幻滅するとは、対象に抱いていたイメージが地に落ちた時に出てくる言葉。 
それが親から引き離された時に起きる心理といわれても戸惑ってしまう。初めて共同幻想論を読み、改めてそれまでの
自分を振り返ると大部分が幻想に引きずりまわされていたことに気づいた。現象と実態、恋愛と幻滅、理想と現実の
ギャップなど経験があったが。そ時の心理が幻滅とすると納得する。勝手に思い込んでいたイメージが壊れるケースと、
対象にはイメージ通りとしても、その背後には自分の知らない要素があり、それが表出するケースもある。 
一番身近な結婚でも、現在では3割が離婚、残り7割の半分が実質破綻というデータがある。 幻想が、幻滅に
変わった身近な事例である。誤解で結婚し、理解して離婚である。歳を重ねると幻想も幻滅も消滅する。
・・・・・・・
3098, 政府の借金など返済の必要なし? ー1
2009年09月28日(月)
  * ほんとうかいな?
 「高校生でもわかる 日本経済のすごさ!」 三橋貴明著を図書館で手にとって、目が点になってしまった。 
  ーまずは、その概略をまとめてみると・・・ー
「国の借金が大変だ」「これ以上の国の借金を増やし続けることなどできない」 テレビや新聞その他のメディアで、
有名タレントから経済学の博士号を持った「専門家」まで多種多様な人々が、「日本の国家財政が破綻に瀕している!」
と毎日のように繰り返し繰えしています。 しかし、国債金利の最低水準にある日本国の借金は世界の中で一番
余裕ある水準であること、世界中の政府が長期的に借金を増やし続けていること、政府であろうと企業であろうと
経済規模を大きくするに借金が増えるのは当たり前であるから「国の借金をこれ以上増やせない」ということが
真っ赤なウソである。 国の借金とは何だろうか? 公的債務、すなわち政府の借金は返す必要がない、と聞いたら、
あなたはどう思いますか。 恐らくそんなはずがない。 借金は.自分たちの税金で返すか、あるいは子孫に負担を
押し付けるしかないと、反駁するかもしれません。しかし現実の世界では自国の借金を返している国など一つもない。
なぜ一つもないと断言できるのかと言えば、そもそも政府の借金を返済している国など世界に一つも無いからなのです。
一時的に「政府の借金が減ってしまった国こそあるものの、政府が自らの意志をもって節約に努め返済に勤しんでいる
国など本当に一つもありません。ましてや、国の税金で借金を返すなどと、本末転倒なことをしている国など皆無です。
 ポイントを言うと
●日本政府の借金は、世界中の国と比較して、それほど突出しているわけではない
●日本政府の借金の債権者は、実は日本国民である。
●日本政府の借金総額は大きいが資産も大きい。 あのアメリ力政府の二倍の金融資産を持っている。
●日本国家の純資産総額世界最大で、国家としては世界一番の金持ち国家
 〜〜
 どうも、この本の論法は落とし穴があるような気がする。金融資産の500兆円分はアメリカの国債を買わされて
しまって紙くずでしかないし、いつか爆発的なハイパーインフレになり、国家破綻になるのは目に見えている。
しかし、だから如何した。国民の資産が壊滅するが、国家としては何ものも失われない。それでは、国民の金融資産、
不動産資産の価値の暴落があっても、その縮小した中では同じではないか、ともいえるのである。
次回は、日本国家を家庭に例えて、説明をしている部分を紹介してみる。           ー つづく
・・・・・・・・・・
2733, 米国金融恐慌の深層 −1
 2008年09月28日(日)
朝日新聞の昨日の「論壇時評」で社会経済学者の松原隆一郎が《金融危機の深層》として、アメリカ発金融危機
の本を評論していた。内容が長いので二回に分けて掲載するが、こと、ここに至って、冷静過ぎる内容と感じたのが
私の感想である。 まずは、その内容の前半を・・・
 −−−
 今月15日、米国四大証券会社の一角、リーマン・プラザーズが米国史上最大の負債総額約6130億ドルを抱えて
経営破綻した。山一証券の約125倍という巨額の負債だった。 公的援助を米政府が拒否したことが引き金を引いた
と目されている。翌16日、FRB(米連邦準備制度理事会)は一転して、株価が急落した米保険最大手のAIGに最大
850億ドル(約9兆円)を融資すると発表、発行済み株式の約80%を取得して、管理下で再建を図ることとした。
AIGは住宅ローンの証券化商品の元本を保証するクレジット・デフォルト・スワップと呼はれる金融商品を大量に
販売しているため、元締めの一つが破綻すれは世界の金融市場に大混乱が生じる恐れありと当局は認識したらしい。 
昨年8月の株価下落(サププライムショック)は、サププライムローンそのものの焦げ付きと証券化した金融商品
評価損によっていた。ところが今年の第2四半期に至り欧米の主要金融機関は次々に巨額の損失を計上、
「金融システム危機」が予感されている。
  *真実味帯びる悲観論*
 こうした経済情勢に対し北野一は、いさ危機と認めながらも過剰反応を諌め、
実体経済の数字はそんなにひどくありません」「アメリカが駄目だと言われているほどにドルは下がって
いないのでは?なかなかに打たれ強いですよ」と述べている。 しかしその論拠の一つに「リーマン・プラザーズ
みたいな会杜でも公募.増資できている」ことが拳げられているから、悲観論が俄然、真実味を帯びてくる。
  (字数制限の関係でカット2010年9月28日)
・・・・・・・・・
2007年09月28日(金)
 2369, 大物の不在
産経新聞の、この日曜日の【論壇時評】10月号の中の「大物の不在」の論評の部分が面白い。
 (字数の関係でカット2008年9月28日)
・・・・・・・・・
2006年09月28日(木)
2004, 「私」のための現代思想  −4
   (字数の関係でカット2008年9月28日)
・・・・・・・・・
2004年09月28日(火)
1274, シュリーマンの話−2
シュリーマンの「語学習得法の秘密」ー
  ー 以下は字数の関係でカット!(2007年09月28日) 同日のクリックをしてください)
・・・・・・・・
533, 離婚事情
2002年09月28日(土)
(字数の関係でカット 2011年9月28日)
・・・・・・・
[164] 目的と手段
 2001/09/28
 目的の達成の為の手段’がときとして逆転してしまうから面白い。‘手段の目的化’に転化してしまう。
 (字数の関係でカット 2012年9月28日)

つれづれに

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  今日のYoutube

 木曽の御嶽山が噴火。 3・11以来の、初めての本州の噴火。
120の活火山のうち、要注意の20の中の、初の爆発とか。
これから、かなりの死者が出てくるのだろうが・・・ 
 広島の土砂崩れを含めて、息をつかさず災害がある。
やはり、変動期に入ってしまったということか。
https://www.youtube.com/watch?v=xf6iiIULU-k


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2733, 米国金融恐慌の深層 -1
2008年09月28日(日)
朝日新聞の昨日の「論壇時評」で社会経済学者の松原隆一郎氏が《金融危機の深層》
として、アメリカ発金融危機の本を評論していた。 内容が長いので二回に分けて
掲載するが、こと、ここに至って、冷静過ぎる内容と感じたのが私の感想である。
まずは、その内容の前半を・・・
 ---
今月15日、米国四大証券会社の一角、リーマン・プラザーズが米国史上最大の負債総額
約6130億ドルを抱えて経営破綻した。山一証券の約125倍という巨額の負債だった。 
公的援助を米政府が拒否したことが引き金を引いたと目されている。
翌16日、FRB(米連邦準備制度理事会)は一転して、株価が急落した米保険最大手のAIG
最大850億ドル(約9兆円)を融資すると発表、発行済み株式の約80%を取得して、管理下で
再建を図ることとした。AIGは住宅ローンの証券化商品の元本を保証する
クレジット・デフォルト・スワップと呼はれる金融商品を大鰍に販売しているため、
元締めの一つが破綻すれは世界の金融市場に大混乱が生じる恐れありと当局は認識したらしい。 
昨年8月の株価下落(サププライムショック)は、サププライムローンそのものの
焦げ付きと証券化した金融商品の評価損によっていた。ところが今年の第2四半期に至り
欧米の主要金融機関は次々に巨額の損失を計上、「金融システム危機」が予感されている。
 
 *真実味帯びる悲観論*
こうした経済情勢に対し北野一は、いさ危機と認めながらも過剰反応を諌め、
実体経済の数字はそんなにひどくありません」「アメリカが駄目だと言われている
ほどにドルは下がっていないのでは?なかなかに打たれ強いですよ」と述べている。
しかしその論拠の一つに「リーマン・プラザーズみたいな会杜でも公募.増資できている」
ことが拳げられているから、悲観論が俄然、真実味を帯びてくる。
・「週刊ダイヤモンド」は悲観論の郵緬を分かりやすく図式化している。損失計上ー>
貸し渋りー>景気悪化ー>焦げ付き増 ー>損失計上の「負のスパイラル」が始動、
大手金融だけでなく地銀・住宅公社からノンバンク、モノライン(証券化商品や
地方債の保証会杜)までがバランスシートを悪化させ、もはや公的資金注入は不可避とする。
・水野和夫の推計によれぱ、米国の実質的な住宅価格はさらに34%は下落する。
住宅ローン残高よりも安くなると金融資産を持たない 多くの家計で差額が不良債権
なってしまう。その紛額を大手金融機関の自己資本に匹敵する1・27兆弗と見積もれは、
現在4千億Fルの処理進捗率はいまだ31%にすぎない。これからが危機の本番ということになる。
公的資金の注入は避けられず、しかしその原資を調達しようにも増税は無理だから、
国債を外国人、なかでも中東諸国や最大の貿易黒字国である中国に買ってもらうしかない。
しかし国債に償還のあてがないとみなされれは、国際通貨としてのドル離れさえ起きる
可能性がある、と言う。 
・さらに野ロ悠紀雄は、こうしたドル危機の「原因」はサブプライムショックであるかに
見えるが、それはむしろ「結果」で真因はGDP(国内総生産)の5~6%に膨れあがった
米国の経常収支の赤字にあるとする。一財価格が同一に、どちらの通貨で運用しても
利回りが同じになるには、ドルが円に対し毎年3%減価(円高)しなけれはならない。
ではなぜ経常収支赤字が減らなかったのか。それは円安を持続させ対米輸出を
維持するために日本が資本提供をしたからで、しかしドルがードル70円程度まで低下
する圧力はかかっていたから、いずれ何かのきっかけに解消されたはずだと推測する。
 評)
 アメリ金融危機に対する多くの本が並んでいるが、
今年に入り、その最右翼の悲観論者のいう通りになってきた。ここでは最右翼の本は
扱ってなかったため、迫力に欠けた内容になってしまった。 学者タイプの人のためか
生々しさにかける。初め取り上げている北野一は甘いのか、もし恐慌になっても、それさえ
乗り越える国力がアメリカには有ると言うのか?
現在のアメリカの財政の破綻は明らかだが、資源・宇宙工学・軍事・情報関連も
含めた国力の蓄積で立ち直りは早い、というのだろうか?  野口悠紀雄の間接原因は
財政赤字というのも、納得できる。このところ悲観論者の本を何冊も読んでいるので
少し冷静になることも必要だろう。 ところで昨日のマスコミは一切アメリカの金融危機
のことを扱ってなかった。これも驚き。問題はあまりに深刻で恐慌を煽り立てることも
出来ないのか、日本のマスコミが呆けているだけなのか。
  もう火がついてしまったことは間違いない。
 
・・・・・・・・・
2007年09月28日(金)
2369, 大物の不在

産経新聞の、この日曜日の【論壇時評】10月号の中の「大物の不在」の論評の部分が面白い。
先日「ポスト・モダン主義」というテーマの内容で、{大きな物語=モダン主義の終焉により、
大物が存在しにくくなってしまった。存在したとしてもあまり脚光を浴びない時代になった}と、
書いたばかり。そのことを宗教学者山折哲雄は、宗教学者の視点から、多くの闘いを
勝ち抜いて大物になっていった本物が現代には存在しえなくなったと指摘していた。
そのプロセスで早々に寄って集って引き摺り下ろされてしまうのである。
ーまずは、その部分を抜粋してみるー
 山折哲雄は、折しも「日本から『大物』が消えた」(月刊誌・諸君)と述べる。
大物を好まなくなった現代日本の文化状況と、大物と本物との違いなどについて語るのだ。
山折は最近亡くなった2人の政治家(宮本顕治宮沢喜一)の訃報(ふほう)記事に「大物」
の形容詞が使われていないことに着目。考えてみると彼らに限らず大学の大物総長、
学界の大ボス、文壇の大御所、論壇の大家、財界の大物…みんないない。なぜか。

 ひとつには大量消費という時代の胃袋に消化(消費)され尽くし、個人が大物にまで育つ
余裕がなかったこともあろう。残るのは大量生産を担ったトヨタなどの組織ばかりである。
ところで山折の区別によると本物は、政治的利害に生きる大物と異なり、権威と真っ向から
対決し、師殺し・父殺し・神殺しによってそれを乗り越える毒々しい存在だ。しかし生命は、
そうした死を通じてのみ次代に伝えられるのであって、結局大物の不在は、師殺しにいたる
対決自体を不可能にし、伝えられる文化を小さなものにしてゆく。

 たしかにテレビ時代を通じてわれわれは一貫して、他の人間をテレビ的サイズに
縮小して眺める視線に慣れ、今またネットブログの定着で、他人の思想・行動を高みから
安易に分析・評価する手段を得た。“見下ろす”視線の獲得は一瞬、自己の拡大を錯覚
させるが、そこに結ばれるのはどうやら卑小な自画像にほかならないようだ。
そしてみんな小物になった、か。・・・・
                 (評論家 稲垣真澄)(2007/09/23 )
ーーー
大物といえば、多くの戦いの末、元親分や師匠や、親などを倒し続けた存在である。
それが現代では、そういう存在を不可能にしてしまった。
時代は、モダンからポストモダン主義になった今、大物の存在価値がなくなってのである。
現在の日本の首相を見れば歴然としている。
二代目の何の重みのない二代目のボンクラが次々と顔を出してくる。
そして、その軽さは権謀術策の末に成り上がった、昔の派閥のボスの二代目でしかない。
また、ネットブログという手段も然りである。「見下ろす」視線とはよくいったものだ。
それからくる自己拡大の錯覚は、実際のところ身に覚えがあることである。
平気で現首相を自分のサイズに縮小してしまっている。
今まで権威のある評論家が大新聞に論評してきたことがブログでは簡単に出来てしまう。
ということは、ブログこそ、ポストモダン主義の典型の存在といえる。
逆にいえば、ブログを有効に活用して情報を消化していく面白い時代になった。
小松左京ではないが、SF作家でさえも、この時代の先が読めなくなったというのも
至極尤もなことである。この情報機器の進化は我々の予測を遥かに超えている。
大物小物など如何でもよい時代になった。 
兎に角、こうなったら最先端の情報機器を可能な限り使いこなすしかない。それも楽しんで!

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2006年09月28日(木)
2004, 「私」のための現代思想  -4
       (。^0^。)ノ オッ(*^○^*) ハ~ ヨウ

社会は本来、我われがよりよく生きるためにつくられた筈だった。しかし社会そのものが
私たちを束縛し、苦しめている現実がある。そのような束縛から逃れ、「自由」を
手に入れるために、<社会><言葉><価値> から一段上に立って見直す必要がある。
この本では、その「もう一段上の視点」を <世界>と<物語>であると考える。
次の章では、その<世界>と<物語>について考えることによって、
束縛から逃れる方法を模索しているが、ここでは他人の集まりの社会について説いている。
 社会といえば、もっと身近で世間様がある。 その辺の卑しい?人の目を言うが・・。
社会と世間は、他人の集まりという面では共通だが、至近の人間関係を世間という。
その世間を卑しいというのも、問題があるか?地方で大きな壁になるのが人間関係の
固定化からくるへドロ社会ー世間になる。「馬鹿の壁」と割り切るしかないが、その一員で
しかないのも事実である。その壁は、所詮その社会の一員である自分自身そのものになる。  
     
 《 社会についての要点を抜粋してみる》
第一章 「私」を縛るものは何か ー?
  ーー≪社会≫についてーー
    
 ー 「生ー政治」 ー
フランスのフーコーは、「生かしつづけることを基本的として採用している政治」のことを、
「生ー政治」と表現している。そこでは、「生かすこと」が政治の基本原理であり、それに
則った施策が実行されます。この生かすとは「≪身体≫を生かす」ことを意味しています。
すなわち、生物的な「生」を継続して維持するために、さまざまな政治的営みを行うことが、
現代の基本的な手法として存在しているわけです。そして、それは管理のための「究極の語彙」
として意味を持っています。
《国を生かす、地域を生かす、国民を生かす、社会資本を生かす、
のが政治の目的ということか!》 (字数の関係でカット2008年9月28日)

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2004年09月28日(火)
1274, シュリーマンの話-2

シュリーマンの「語学習得法の秘密」ー
シュリーマンにとって、語学力が最大の武器であった。 語学力の方法として、
「当時売れていた小説を、丸暗記をする方法」を取っていた。ストーリーは解っているので、
意味は敢えて考えなくてもよい。更に一ヶ国さえマスターすれば、他の外国語も同じ小説で、
同じプロセスを踏めばよい。(詳細は後記) 理に適っている。
若いときにこれに気づいていれば全く違った人生が踏み出せたのにと、
今さら悔やんでも仕方がない。いや実をいうと、高校に入学をしたときの英語の先生が、
殆んど同じ方法を教えてくれていた。右の耳から入って、左に抜けていっただけなのだ。
バカの壁にしっかりと囲まれていたのだ。「全く、もう!」である。
  
 以下は幾つかのHPから抜粋し、まとめてモノである 
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シュリーマンは、1820年にドイツの一寒村に牧師の子として生れ、貧困の中から商人として
巨万の富を築き、その富を使ってトロイアなどエーゲ文明の遺跡を発掘した人物である。
彼がどうして巨万の富を築くのを可能にできたのか。それは、彼の類まれなる「語学力」にあった。
10数カ国語を自由自在に駆使し、他の商人よりいち早く情報を把握してビジネス・チャンスを
次々に掴んで富を築いていった。
彼は「多くの外国語を極めて短期間に習得した語学の達人」と言われているが、
その「語学習得法の秘密」はどんなものであったのだろう。シュリーマンの学習法は、
物語を丸暗記するという特徴的な方法を取っている。
英語では、当時よく読まれていたゴールドスミスの「ウェイクフィールドの牧師」
ウォルター・スコットの「アイバンホー」を丸々暗記している。
物語を丸暗記する方法は、ストーリーがあるので記憶に残りやすく、
文章を丸々憶えるので熟語やコロケーションなどの言いまわしがそのまま身につく。
この方法で、彼は英語を僅か半年でマスターした。
更に以下の勉強方を工夫していた。
・非常に多く音読すること。
・決して翻訳しないこと。
・毎日1時間あてること。
・つねに興味ある対象について作文を書くこと。
・これを教師の指導によって訂正すること。
・前日直されたものを暗記して、つぎの時間に暗誦すること。
・彼はさらに、会話をものにするために、その外国語が話されている
 教会にかよって説教を聴き、一語一語を口真似する方法もとっていた。
以下はジスの関係でカット!(2007年09月28日)同日のクリックをしてください)
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533, 離婚事情
- 2002年09月28日(土)
現在は三組に一組が離婚するそうだ。先日ある会で年配の女性が面白いことを言っていた。
「現代は少子化の為、嫌だったらいつでも帰ってきてもいいと娘を送り出す。
更に子供を連れてくれば一緒に暮らせるからだ。一子、二子の結婚でお互いに希少価値がある。
だから平気ですぐ離婚をする」といっていた。数年ぶりに知人に会ったら同じような事をいっていた。
息子が子供を連れて離婚をし、裁判で息子の方が親権をとったという。
息子1人では育てられないから、引き取って育だてているといっていた。
でも新しい子供が家庭に入り楽しそうであった。

それにしても三組に一組は多い。わからない事は無いが、長く連れ添っていれば愛情がわくものを?
一家族に一人はいることになる。親子三~四組うち一組になる。ということは、この文章を気をつけて
書かなくてはならない事になる。読んだほぼ全員傷つけかねない。実際のところ、そこまで多くない。

以前TVで、離婚をした中年の女タレントと数人が口をそろえて「離婚をして本当によかった!!」
と言っていた。それを黙って聞いていた小沢昭一が「苦労を友にしてきた連れ添いと歳をとって、
昔の楽しい思い出や苦労話をお茶を飲みながら、しんみり話す味もいいもんだよ」と反論。
気の強そうな女性たちにとってカウンターパンチになってしまい、その場がシーンとシラケの場に
なってしまった。居ればうるさいし居なくては寂しいのが夫婦というものだ。離婚をした独り者の
飲み屋のママは連休が嫌だといっていた。どうにもならない気持ちになるという。
家族の基本はやはり夫婦である。現在の少子化もひどい、平均1・3人。人口維持の為には2,1人が
必要という。少子化が進めば更に離婚率が増すのだろうか。

好きになる相手は自分の持ってない部分をある人に惹かれる。
うまくいっているうちはいいが、一つかみ合わくなると破綻しやすくなる。
昔、足入れ婚というのがあった。結婚の籍をいれず仮結婚をさせる。今も同棲があるが、
周囲も仮結婚と認めて合わない時はいつの間に別れさせてしまうという。

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[164] 目的と手段
 2001/09/28

 目的の達成の為の手段’がときとして逆転してしまうから面白い。
‘手段の目的化’に転化してしまう。旅館やホテルの二代目にそういうのが多い。
営業の為のゴルフを始めたのが、いつの間にかゴルフが目的になり、営業が反対に手段に
なってしまう。何処でもある話と同時に,自身にも過去に数え切れないほど経験がある。
手段を楽しむ事は大事だ、そうでなくては目的は果たせないといっていい。
といって目的を忘れて手段に没頭してしまうのが、人間の人間たるゆえんである。
 以前‘ダンスと歩行’という文章を書いたが(後記)その喩えがピッタシである。
目的は達成したと同時に次の目的の手段になる。ドアについたら次の部屋のドアへの出発点。
至近の例で旅館の二代目が商工会議所の部会の長に選ばれ、イベントにウツツをぬかし廃業に
追いこまれた例。どこかの街のことだが、やはり二代目が青年会議所理事長になり‘街の活性化’
とかを政治家やゼネコンに煽てあげられ、真にうけて社長業を放棄・・・・・、
いまや????とか。まあこれだから娑婆は面白い。

 目的が何かも解ってないから、手段が出てこないのか。そう考えれば彼にとって
逆転も何もないのか!そのあたりが本当のところか?ーー他人のことをいえた事か!
どこかの馬鹿(私のこと)、自画自賛のホームページにウツツをぬかし、つまらん事を
飽きもせず毎日書いて。馬鹿の脳内をさらけ出し恥さらして!-カミサンには冷笑され・・

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H0609歩行とダンス

 丸山圭三郎と黒鉄ひろしの対談集で“歩行とダンス”という二人の対話が面白かった。
“ドアにむかって歩いていくのが歩行、これは手段である。
ダンスはドアに向かわないし、その行為そのものが目的である。
それではドアに向かってダンスをおどって行く事はありうるか!?
ありうる!”という。 非常に含蓄のある面白い内容である。
人生、仕事、学問すべてにあてはまる内容である。今回の仕事(第二新館増築)の最中に
これをよみ、“よしこの仕事とチーク・ダンスをして、ドアまでいってやれ”と一人笑った。

 大手商社に勤めている友人と酒をのみながら右の話をしたら、本人いわく
“私はさしずめ、ホーク・ダンスだな!。好きな奴もいやな奴も次々と仕事仲間でまわってくる。
それも楽しそうな顔をしながら手に手をとっておどる妙味!”当意即妙であった。

 ドアに向かっての歩行なら誰でもできるが、それをダンスとしてリズムをとりながら
パターンをマスターし、かつ楽しみまで高めてドアに向かう事となると誰にでもできない。
ついついドアを忘れたり、ダンスを忘れてしまう。ダンスを忘れある年令に達して愚痴を
言っている人が何と多い事か。そしてその反対に逆の人も。