(一)

                            八瀬 久 会員 
 太平洋戦争の終戦迄は、皇国史観軍国主義に基づく国策からの教育で〝悪逆非道〟とか〝逆賊〟を冠されて教えられた赤松氏であったが、戦後の民主主義時代に移ると歴史観も大きく変化し、中世の歴史も南北朝廷併立時代として見直された結果、赤松氏は再評価され、建武中興の最大功労者と認められるに至った。
 その後、学者や史家の多くが赤松史に拘わり、幾多の書籍や文献が世の中に呱々の声を上げたのである。そして五十年を経たが、前期赤松氏に関する史実を証する古文書等の極端に少ないこともあって、解明に至っていない点が多いと言う。肝心の家系や出自でさえも謎とされるのである。
 自家の家系調査に端を発した経緯から、取り組み始めた赤松史、「嘉吉の乱始末記」「赤松氏銘々伝」「赤松円心」等を出版したが、赤松史との拘わりも浅く、未だまだ全体を知るには程遠い状態であるが、敢えて赤松氏の家系の謎について触れて見たいと思う。
(1) 赤松系図
私が人々に赤松系図のことを話す時は、必ず次ぎのように説明することにしている。
 「赤松氏の系図には、必ずと言ってよい程のポイントが五つある。村上天皇第七皇子の具平親王、季房卿、則景、家範と則村である。この内の何れでも外すと、もう赤松の家系図ではなくなってしまうよ」
 我が国にある権威ある系図部集には次の三つがある。《尊卑分脈》(一三九九年、足利四代将軍義持時代作)、《寛政重修諸家譜》(一七九九〜一八一二年、徳川十一代将軍家斉時代作)、《群書類従系図部集》(一七九九〜一八一九年、前と同じ時代作) である。なお、この他にも現代に至って、一九七三〜七七年に刊行された《系図簒要》もある。
 赤松系図は夫々に記録されているが、中でも群書系図には六編と一門の有馬 ・ 石野と都合八編の多き赤松系図が掲載されている。この他各家に伝わるもの迄考えると随分多いことだろう。
 そして山田則景を赤松始祖としたものが多い。第六十二代村上天皇から生まれた村上源氏の系統で、具平親王の子孫と言う従三位季房卿を原流としている。季房は何らかの罪を得て、播磨国佐用庄に一時流罪となった後許されて都に帰ったが、この地にその子孫が残ったと言う。季房の曾孫と称する宇野則景と言う人があった。則景は佐用庄の山田に館を構え山田をその姓としたが、鎌倉幕府から佐用庄の地頭に任ぜられていた。
 則景には、景能 (間島の祖、彦太郎)、景盛 (上月の祖、二郎)、有景 (櫛田の祖、八郎)、家範(赤松を称す) と言う四人の子があったが、或る時、末子の家範が地頭代となり、佐用庄の僻地赤松村 (兵庫県赤穂郡上郡町赤松地区) に定住すると、始めて赤松氏を名乗った、こうして赤松氏が日本史の上に発生したのである。そして久範、茂則、茂利と続いた後、事実上の赤松始祖とも言うべき治郎左衛門尉則村が五代目である。以後について、此処では省略することにしたい。
(2) 赤松氏の擡頭と叛逆
 家範から則村にいたる間には何らの治績も伝わっていない。則村に至り急遽赤松氏は急成長すると、近隣の豪族や国人衆を傘下に収め、原流の山田氏やその又本流の宇野氏を併呑して、瞬く内に赤松党を組織、軈て後醍醐天皇の王政復古運動に参画し、抜群の功績を挙げて建武の中興を成し遂げたのである。
 しかし、その後に行われた論功行賞では、赤松一族一門が大いに期待した割りには報われなかった。
 「我々が働いたから成功した、それなのに・・・、これは何故?」
 期待は裏切られて勤皇の意欲も薄れ失意に悶々とする則村は、それを癒すべく赤松の地に帰ったものの、
 「何の為の今日迄だったのだろうか?これからは何を頼ったら・・・・」
 内面では迷いに迷う則村ではあったが、表面的には以前と変わることなく、赤心を披瀝して誠心誠意朝廷に仕えていた。だがその後も好転する兆しはなく、日一日と悪化していった。そして遂に決定的な事態が発生したのである。
「何い、新田義貞播磨国司に???」
 百万ボルトにも匹敵する衝撃が赤松一族を襲った。公卿の園基隆が国司であった時には行政官であっても、武力を持った守護職の意味はあったが、武家国司の下では最早守護職の存在感は無きに等しかったからである。
「今迄同僚であった新田義貞の命など奉ぜられるか」
 新田の風下に立つことの屈辱を思うと、もう則村の腸はでんぐり返り、血は逆流して憤怒の形相も凄まじかったものと想像して已まない。その後も何故か後醍醐天皇の忌避(?)は続き、軈て決定的な事態に進むものであった。
 赤松氏の領地であった千種村の桧を御所の造営用材に寄進しようとした円心の真心が、一度は認められたが、義貞の腹黒い策謀で反故にされると言う事態が起きたのである。
「あぁ、もう駄目だ。このままだと赤松も・・・」
 決断するとその後の赤松氏の動きは素早かった。新政に背いた足利尊氏は関東下向に際して、赤松氏を誘って一子の出陣を促したのはこの時であったが、則村はこの誘いに乗って次男の貞範を派遣している。
 こうなった上はもう行き着く所は一つよりない。足利氏との運命共同体でしかなかったのである。論功行賞における不満と相俟って、新田義貞の問題で行き着いた先にあったのは、足利尊氏に与すると言う道であったが、結果は京都六波羅に足利幕府を成立させた。こうした結果、その業績として、播磨・摂津・備前三ケ国の太守になったことは広く知られる通りであろう。           
http://d.hatena.ne.jp/hyogorekiken/20050122 (へ続く)