ほぼ一年がかりで本書は生まれた

4月17日、吉田日出子『女優になりたい』(晶文社)を読む。本書は女優、吉田日出子が93年に40歳を目前にこれまでの女優業を振り返る語り下し。その語りを構成したのが同じ演劇人の津野海太郎を始めとする晶文社のスタッフ。ほぼ一年がかりで本書は生まれた。吉田日出子は現在深刻な更年期障害で日常会話も時としておぼつかないという。本書の中にもそのことを思い起こさせるような無頼の青春が語られている。「もし舞台に立っているのが自分じゃなかったら、いったい、このわたしがやることになんの意味があるんだろう?」と考えた青春期の女優は「そうすると当然、今度は、その自分という人間自体がおもしろくなくちゃいけない、ということになってくるよね」とも考える。ならば自分という人間自体をおもしろくしようと「クスリでべろんべろんになりながら、おおぜいの友だちと明け方の四時ごろまで踊りまくったり」しつつも「自分を大きくしたい、広げたい」と女優は願った。私が吉田日出子という女優を最初に認識したのは70年代初頭、日本テレビの教育コント番組「カリキュラマシーン」での絶妙なコメディエンヌぶりから。その時から私は吉田日出子なる人物をお笑いの人じゃないけど絶妙に笑わせる女性タレントと子供心に認識していた。が、子供が熱狂する笑いに心血を注ぐ芸人につきまとうダークな享楽とも無縁ではなかったのだ。「ふつうの役づくりじゃラチがあかないから」そうした享楽にも手を伸ばし「どこまでやったら自分がダメになるか、そのギリギリまでいってみよう」としたというが。「でも頭がプッツンして、よだれだらけの人間になったらおしまいでしょ」と最後は踏みとどまったよう。吉田日出子は開業医の母とダムの設計技師だった養父に育てられた結構なお嬢様である。俳優座養成所には「日本中から何千人も」応募があり定員は五十人。そこで知り合った後の自由劇場のメンバーも皆結構なお坊ちゃまである。弱冠二十歳そこそこの若者らが麻布霞町一番地に当時の金額で七百万かけて自分たちの地下劇場をオープンさせたのは1966年11月14日。『巨人の星』の花形満のような御曹司揃いの若手劇団はその後めきめきと頭角を現すが「へっなんだい!坊ちゃん嬢ちゃんが、親の金を使って劇場なんか建てやがって」といった反応も当初からあったよう。何やら90年代の邦楽シーンにおける渋谷系と重なるような感。と、言うよりその何倍も親の人脈と金脈でやり放題ではないか。と、あの時代、あの世代への複雑な猜疑が今更ながら。