「日本のおっぱい」乳がんダイアリー

2011年乳がんになりました。

「死を想え」

昨晩は、舞踏家で山海塾の創立メンバーの一人、滑川五郎さんの「お別れ会」が下北沢でありました。

去年の9月24日、栃木県大谷で61才で亡くなりました。仙人のような死に方だったそうです。

30年、25年来の仕事仲間、友人、舞踏のお弟子と言われる方たちが50人も集まって、「五郎さんには、皆、大変な迷惑をかけられたなあ!」と笑いながら、酔っぱらう会でした。

私たちがよく知っていた頃、五郎さんの事務所に通っていた若き舞踏家たちも今では舞踏から離れている人も多くて。社会の中堅と言われる年齢で、奥さんや子どもを連れて来ていて、眩しい思いがしました。

会場では五郎さんの舞台の映像がずっと流れていましたが、彼の肉体は若い頃から亡くなるまで、ほとんど衰えず、美しい姿をしていました。私が観た肉体表現をする人の中でも五郎さんほど、「綺麗」な人を他に知りません。

そして、昨日は息子の24才のお誕生日でもありました。

歯医者の流儀

今日は寒くて、何となく色々とやる気が出ないなあ、と昼休みに歯を磨いていたら、前歯の極々上部が一部黒くなっていることに気がつきました。何か、歯も浮いた感じだし、嫌な予感。

早速、友人の間でちょっと評判になっている近所の歯医者さんに電話して夕方診てもらうことにしました。

「歯石をとってないでしょう?酷いことになってます。歯槽膿漏で、もうすぐ歯が動いてきますよ。」と初診の歯医者さんに口を診るなり、ショッキングなことを言われてしまいました。去年まで通っていた山の中にあるおじいちゃん先生のところでは、「歯石とってください。」というと「そうだねえ。」とのんびりと口の中を綺麗にしてくれていたと思っていたけど、それじゃあやっぱり足らなかったのですね。

抗がん剤治療以降、未だに口の中の様子に何となく違和感があって、味覚は100%完全にもどっていないし(塩味に自信無し)、歯磨きはちゃんとしているつもりでも、口のケアへの意識は低いままでした。反省です。

それにしても、歯医者さん。子どもの時からつい最近まで通っていたところを含めて、いくつか知ってるけど、それぞれに違うこだわりがあるものだなあ、と今日は再確認してしまいました。

このたびの歯医者さんは、病院のどこにもかしこにも「標語」のようなものや新しい治療に関するパンフレットや、製品、お薬の案内が所狭しと張ってあるし置いてある。治療台の上には、「Love, Peace xxxx(覚えられない)」のステッカー、台の上の照明のところには、動物のマスコットがマグネットで何匹も並んでいます。

の割には、当のご本人はこざっぱりした後期中年でもばりばりの雰囲気の先生。

初診のアンケートは細かくて、「肩こりはありますか?右?左?両方?」とか「歯医者は緊張しますか?」とか、「足がつりますか?」とか「頭痛はしますか?」とか「便秘はしますか」とか一見治療とは関係なさそうな質問が。その上、カラダのバランスを診る(噛み合わせとの関連?)とかで、全身の立ち姿の写真を前後左右からパチパチ。口の中の写真も鏡をくわえさせられて、上あご下あごと、パチ。

肝心の前歯の虫歯は即効で治してくれて、その手際に良い事!「歯石をとるおつもりなら、予約をして行ってください。」と言われて、予約をしました。

帰りに気がついた受付の張り紙は、「バッチフラワーレメディを始めました。治療が恐い方には良いかと思いますので、ご遠慮なくお声をおかけください。」とあり、隣には「鍼灸歯科医師」のお免状も。

通えば通う程、新しい発見のありそうな歯医者ではありませんか。

医者になるということ

3月末に、週末だけではあるけれど、一年間通った国立北京中医薬大学の薬膳専科を卒業することが出来ました。

薬膳といっても、中医学の基礎理論や、中薬学、方剤学など徹底的に勉強させられて、覚えなくてはならないことが沢山あり、2月3月は頭の中にそれらを詰め込むだけで一杯、一杯。なのに、詰め込んでも詰め込んでもこぼれ落ちる…

卒業試験があったので、何十年ぶりに試験勉強をしました。右手は腱鞘炎のようになるし、肩はこるし、目はショボショボだし。単語帳を作ったり。

中医学っていうのは、四文字熟語の学問です。
弁証論治
標本同治
八綱弁証
気血津液
肝陽上亢
痰湿内阻
気血不足
気滞血瘀
心陽暴脱...

お陰さまで、忘れていた漢字をずいぶんと思い出しました。

診断学や内科学といった中医の科目もあります。実習こそありませんが、紙の上で症例を診て「弁証」(西洋医では「診断」)の練習もしました。

お医者になるっていうことは大変なことです。全てのお医者がこれほどの知識を身につけているのか、と思うと気が遠くなりそうになりました。私は、その中のほんのほんの一部分しか勉強できなかったけど、それでも、アップアップしていたけど、実際にお仕事している人たちは、どんなにか真剣に努力して知識を身につけて、さらに毎日その知識を磨いていることでしょう。

今まで会ったお医者や、ばりばりお仕事しているお医者の高校の同級生たちの顔を一通り思い出して、改めて尊敬の念を持った次第です。

よもや「あのお医者は、何にもわかってない!」とか「ヤブ医者」なんてことは、もう決して口には出せません。モノを知らないとは、恥ずかしいことです。

23回目の誕生日に

3月28日は、フィリピン生まれでフィリピン育ちのエリカの23回目の誕生日でしたが、その朝、彼女のメールボックスに大学の同級生が血液のガンで亡くなったという報せが届きました。

「ステージIIIと言われてから、まだ2、3ヶ月しか経ってないのに…そんなに進行が速いということがあるんでしょうか?」と動揺を隠しきれません。

頭がぼんやりして、思わず口に出たのは、「ご両親も、さぞ辛いでしょうね。」とありきたりで、エリカには何の慰めにもならない言葉でした。

「両親は、とてもショックだと思います。彼女は、奨学金をもらって大学を出て働き始めたばかりで、これからやっと家族全員が楽になる、っていう時だったから。お父さんは、建設現場で働いていますが、お給料は少なくて、お母さんは働くところはありません。小さい弟もいます。彼女の将来に皆、期待していたから。これから、家族はどうなるか…」

頭から冷水をかけられた気持ちで、思わずエリカの顔をじっと見つめてしまいました。

「お金があったら、こんなに早く死ななくてすんだかもしれませんね。フィリピンでは私立の病院は高くて、普通では行けません。公立の病院はいつも混んでいて、救急の患者が優先されて、行っても『今日は診察できない』とか『空いているベッドがない』とか帰されることもよくあります。ああ、どうしてこんなに早く死んでしまったのかしら。」

親が子どもの死を悲しむのに、こういう悲しみ方があるのだということを、病院で診てもらえることがすでに特権で特別なのだということを、隣の国で普通に起こっていることは私の「当たり前」とはこんなに違うんだ、ということを、そしてそこで生きている人たちの逞しさや強さを、まざまざと示された日となりました。

2年前の3月11日は。

2011年3月10日に二度目の抗がん剤治療を受けて、11日の金曜日は点滴の翌日なのでまだ副作用がやってこない日でした。三週間毎の木曜日の午後に点滴を打つと、だいたい3日後の日曜日の午後あたりから副作用がじわじわとやって来て、次の週一週間はほとんど起きれない、だるいというかカラダが動かない、食欲もない、眠れない、もちろん家事など論外、になるので、点滴後のその金曜日は動けるうちに、とせっせと掃除、洗濯や一週間出来ないことをすませてから、お昼ご飯を食べて、3時過ぎに犬の散歩を手伝ってくれることのなっていたお友だちのお嬢さんを待っていました。

そして午後2時47分。ものすごい揺れに、何があってもよいようにと、まずは犬二頭にリードをつけて、一緒に玄関から飛び出しました。いつも昼間行方不明の我が家の猫も、直前に何かを感ずいたのか、怯えたように玄関のすぐ外まで戻って来ていました。その割には、近所の人は誰も外に出て来なくて、拍子抜け。我が家の周辺は、落ち着いたものでした。

都内の実家に電話をすると、家の中で棚が落ちたりしたようでしたが、留守番の父は案外と冷静で、「ママが今池袋にいるんだよ。夕方には親戚のお通夜に行くんで待ち合わせしているんだ。」慌てて母と一緒に買物に出かけている妹の携帯に電話しましたが、通じません。メールを出したら、そちらには返事があって、池袋のデパートの避難所に母と一緒にいて無事、とのことでした。

約束通りやって来たドッグシッターと、「地震、すごかったわねえ。」と言いながら、のんきに副作用の前には運動を、と山まで一緒に散歩。帰ってからテレビをつけたら、「津波がきます」の連呼とどうやら交通機関が麻痺しているらしい報道。テレビを見ながら「高速道路は開いているみたいよ」という彼女の言葉(情報を見間違いたらしいのですが。)を鵜呑みにして、妹にメールで「池袋まで迎えに行こうか?」と聞いたら、「来てほしい」という返事が来ました。

父は父で、停電でテレビが見られないので「電車はすぐに復旧するだろう」と思い込み、お通夜の格好をして駅に行ったら全く電車が動いていないので、びっくりして引き返したそうです。

都内で仕事をしている夫に電話すると、「こんな時に、都内に車で来るなんて馬鹿げてるし、やってはいけないことだ」としかられましたが、妹は「道路はそんなに混んでないし、来てくれると助かるわ。デパートからは追い出されるし、駅は閉鎖されている。どの店も人が一杯で座るところもなくて困っている。」「近くのホテルを取ったら?」と言っても、「全部いっぱい。」

思い切って5時に車で都内に出発しました。まずはガソリンを満タンにしたことは、我ながら冷静だったと思います。でも当然ながら、高速道路は閉鎖中。幹線道路は進めば進む程渋滞がひどくなって、結局10キロか15キロ先の川越まで3時間かかり、それ以上行くことを断念しました。Uターンしたら、道はガラガラであっという間に自宅に戻ることができました。母たちは、幸い池袋駅近くのホテルで親切にしてもらってレストランの片隅の席に座らせてもらって真夜中過ぎの電車で自宅まで帰れたそうです。

夫はというと、早々と会社に泊まることを決めて、その日は会社のスタッフ全員プラス、スタッフの親戚まで避難して来て、皆で一夜をすごしたようでした。

池袋に迎えに行く途中からです。何だか大変なことが起こっている、ということが、少しずつ水かさが増していくように、じわじわと実感が湧いてきたのは。

初めて津波の映像を目にしたのが、いつだったのかは覚えていません。11日のうちに観たのか翌日だったのか。

一週間、テレビで繰り返される映像に釘付けになっていました。自分の身体の中にも津波のような副作用の感覚。そうしていても、感情的にはかえって落ち着いていたことを思い出します。「こんな状況で私ができることは、あるかしら?」とも「いえいえ、迷惑をかけないで、面倒をかけないで治療することが今出来る最善のことだろう。」とも。

二年前なのに、とても鮮明にあの日のことは思い出されます。

先週、打ち合せで泊めてもらった宮城県南三陸町の海の見える丘の上の仮設住宅では、猫がのんびりと日向ぼっこをしていました。

時給にしたら?申し訳ない…

今日、半年ぶりに診察をしてもらいに行って来ました。朝改めて予約票を見たら、血液検査もエコーも他の何の検査も予定に入っていなかった。あれ?今日は一体全体、何のために行くんだっけ?もうすっかり、前回のことを忘れている?

朝一番の時間だったので、いつもは何時間も待たされることもあるのに、すんなりと診察室に呼ばれました。
「おはようございます。」
「あれ?今日は朝が早いね。いつも違う時間なので誰かと思った。学生が一緒なので、よろしく。どうですか?変ったことはない?腫瘍マーカーも正常になってるし。」と主治医の笑顔。
腫瘍マーカー?そうだ、そうだ、去年の8月に血液検査したときのことね。)
「はい、咳が心配で伺っていたんでした。咳は完全に止まりました。背中をほぐしたら治りました。」
「え?」
「いえ、あの、お陰様で治りました。」
「そりゃ、よかった。」
「あ、今日は乳がんが見つかるちょうど一年前に自治体の乳がん検診で『異常なし』と言われた時のマンモグラフィーのフィルムを見ていただきたくて持ってきました。」
「ほお、どれどれ見せて。うーん、乳がんになってからの目で見れば、怪しい部分はあるんだけどね。この写真を先入観なしに見るとどう判断するか、というのは、難しいところだね。」
「ちょうど、昨日の朝のNHKの番組で、集団検診ではかなりの割合で『本当はがんだったのに、異常なし』のケースがある、反対に『がんの疑いがある』と言われた人の3%しか実際にはがんじゃなかったって言ってました。」
「そうなんだよね。集団検診だけではわからないこともあるんだよね。でも、後でがんが発見されれば、『見落とし』ということになってしまう。かといって、『怪しいものは全て疑う』訳にもいかない…マンモグラフィーの二枚の写真じゃ十分じゃない、四枚撮影したり、エコーも導入するように、私たちは今働きかけているところです。」
「一年前の様子がわかると、急に大きくなった癌かどうか少しは病気の性質が特定できるかと思ったんですけど。」
「うーん、それもどうかね。まあ、なっちゃったんだから、余り以前のことは見なくてもいいんじゃないかと思いますね。」

ああ、そういう考え方もありますね。なっちゃっちゃし、切っちゃったんだから、今さらですね。

「これファイルしておいていいですか?」

あ、良かった。一応、私のカルテの中には記録として残してもらえるんですね。わざわざ保健所にお願いして取り寄せた画像だったので、なぜかちょっと嬉しかったです。

認めたくはなかったけど、心のどこかで、一年前の検診は『見落とし』だったんじゃないか、と密かな疑い(というか、恨み?に近い)の感情があったんだと思います。でも今日、主治医と話して、胸のつかえが取れたみたいで、スッキリしました。

30分程こんな話しをして、手術の後を診察してもらって、8月の検査の予約を入れてもらって、お会計は210円。目を疑ってしまう値段です。診療報酬をあげるべき、だという議論ももっともだと思えます。

「良いことが書いてあるんだろうけど、英語じゃあ、年寄りには読めないねえ」と老夫婦がしげしげと眺めていた病院のポスター。

北海道で初体験

先々週の北海道紋別で、計らずも乳がん後の初体験が2つもありました。

一つは、生牡蠣を食べたこと。もう一つは、温泉に入ったこと。

牡蠣は、数年前に真夜中に中毒になって救急車を呼ぶ事件があった後は、ずっと恐くて食べていなかったけど、懐かしい面々を目の前にオホーツクの海の幸が山盛りになっているテのを見たら「ま、大丈夫。」と後先考えずに食べてしまった。翌日も何ともなくて、「中毒」は完全クリア。これで、世の中の「恐い」ものが一つ減りました。

それから、温泉。手術後に温泉には何度か入ったけれど、いつも「入浴着」を付けて入っていました。それって何か?というと、こういうものです。(乳がん患者のための製品を企画開発している素敵なメーカー「Bright Eyes」のウェブページ。

この入浴着ですが、長野県が正式に「衛生的である」と認めていて、県内の温泉施設には啓蒙のポスターが張ってあったりします。(たぶん、女湯だけだと思うけど。)

手術後一ヶ月経った頃に「ああ、温泉に入りたい」と思って、「入浴着ウェルカム」のポスターが張ってあったのを覚えていた軽井沢から近い馴染みの温泉にまずは電話をかけました。「入浴着って貸してもらえますか?」電話口の人はしばし、無言。「お持ちいただきます」そりゃそうです。自前が基本。

それからさらに一週間後、ネット通販で無事手に入れた入浴着を握りしめ、今度は違う温泉に念のために電話を入れました。「あの、手術の痕があるので、入浴着を着て入りたいんですけど。」「え??どんなものですか?初めてのお問い合わせなので、相談して折返します。」

明らかに当惑している風の電話口の人に、その頃の私は結構泣きたいような気持ちにさせられました。「ああ、電話しなければよかった。」

が、数分後、打って変わって明るい声で電話があり、「どうぞ、いらしてください。お待ちしております。」と言われて心が弾みました。温泉に入れる!

ドキドキしながら入浴。湯船に浸かって恐る恐る回りの人を見渡したら、あれ?ダーレも私のことなんか見ていないし、気にする様子もありません。ちょっと肩すかし。それどころか一人で露天風呂に入っていたら、温度計を持ってチェックに来た社員の人も「お湯の加減どうですか?ごゆっくり。」とニコッとしてあっさり行ってしまいました。自意識過剰もいいところ?

そんなことが何回かあって、入浴着が面倒くさくなっていた今日この頃。まさか、紋別に温泉があるなんて思っていなかったので、もちろん入浴着も持ってきていなかったし、真冬のオホーツクを眼下に見下ろす極上の湯なんて言っても、朝だから誰も入っていないだろう、と高をくくって行くことに。あれー!予想外に案外と地元のおばあさんで混んでいましたが、これまた誰も私の胸なんか一向に気にしてない。

「案ずるより生むが易し」です。もう、入浴着はいらない。でも実際は今まで一度も私は、入浴着を来ている人にも、手術の傷がある人にも温泉で会ったことがありません。みんなどうしているのかなあ?