ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

ムスリムによる自己批判の兆候

このところ、何だか同じような話題で飽きてきました。マレーシアの研究でも、もっとおもしろくて刺激的な話があればいいのですけれど、何だかあっちにフラフラこっちにフラフラと言った感じで、それでも人々が何とかたくましく生きているっていうところでしょうか。人はいいのですが、政策だとか力配分の話になると、どうも新鮮味がありません。誰もが同じ話をあちらこちらでしているような...。相対的に見ればよい点もあるのだろうとは思いますけれど。
もう9年ぐらい前のことでしょうか、今は名誉教授でいらっしゃる某先生が、懇親会の時、ニヤニヤしながら私にこっそりと「あれ、口で言うとるだけや。本当は思うてへん」とマレー人を評していました。私も同感でしたし、今でもそう感じることが多いのですが、きちんとした資料によって断言できなかった点が悔やまれます。
そう言えば、昨日届いた『ヘラルド』には、第三代目カトリック・クアラルンプール大司教が、6月7日付で現国王Tuanku Mizan Zainal Abidinから‘Tan Sri’の称号を賜ったとの記事が載っていました。(カトリック大司教としては初代大司教に続き、2回目の‘Tan Sri’です。)8.5センチ×6センチ囲みの小さな記事です。いくらなんでも、全国でこれまで30人しか授与されていない称号なのですから、もっと堂々と大きな記事にすればよいのに、とも思いますが、何かと遠慮も働いているのでしょう。称号の重さとは正反対の、80万人コミュニティの社会的位置づけが表れているようにも感じられます。
称号を与えられる前に、この大司教が政府を相手取って、『ヘラルド』のマレー語版問題および神の名使用問題で法廷に告訴されたのですから、外部の目には、矛盾といえば矛盾、何も知らなければ単純におもしろい、という印象だろうと思われます。
このスリランカ系タミル人の大司教には、まだ司教を務められていた頃の2000年と2001年の2回、直接面会の機会を与えられました。気さくそうにひょうひょうと振舞われる方でした。英語は早口で洗練されていて、長崎のカトリックの話をよくご存じでした。そして、2001年10月6日には、お手紙までいただきました。几帳面な小さめの字で、大司教館の皆は元気にしていること、そして、私の家族の様子を温かく配慮されていました。特に当たり障りのない内容でもありましたが、いかにもカトリックらしいなあ、と思ったことを今でも覚えています。
同じ『ヘラルド』には、シンガポールブルネイ・マレーシアの司教団が大司教と共にヴァチカンを訪れ、ベネディクト16世に面会されたとの記事もありました。私にお手紙をくださった大司教が、ベネディクト16世と手を取り合って話していらっしゃるのです。
数年前には、マラヤリのカトリック研究員が、ヨハネ・パウロ二世と20分面会したことがある、と教えてくれました。マハティール前首相のヴァチカン訪問時には、10分の面会だけだったけれど、自分には2倍の時間が与えられたんだ、といささか自慢げでした。こうしてみると、なぜ、イギリス前首相のブレア氏がカトリックに改宗したかがわかるような気もしますね。3月のキリスト教史学会関西部会でも、懇親会時に、アングリカン司祭から「カトリックは強い」と聞かされました。また、神戸バイブルハウスが主催したイスラエル旅行でも、カトリック大司教が団長となると、一気に70名ほど参加希望が集まったとのこと。ムスリムの中にカトリックを敵視する人がいたとしても、なるほどなあ、という感じですね。

さて、では久しぶりに「メムリ(MEMRI)」(http://www.memri.jp)からの興味深い記事を転載いたしましょう。ムスリム世界でこのような自己批判の機運が生まれたことを、まずは喜びたいと思います。

Special Dispatch Series No 1951 Jun/12/2008


イスラムを一層傷つけているのはムスリム自身だ


最近スウェーデンの新聞が預言者ムハンマドの漫画を再掲載したこと、また、オランダの国会議員ギールト・ウィルダーズの映画「フィトナ」が公開されたことで、世界中でムスリムの抗議の波が起き、一部は暴力沙汰となった。これらの事件後、アラブの幾人かのコラムニストが暴力的なリアクションを非難する記事を書き、ムスリム自身が、同じムスリムと他の全てに対して不正行為を犯し、それによってイスラムの名前を傷つけていると述べた。
以下は、これらの記事の抜粋である。


イスラムの最大の敵はムスリム自身である


リベラルなアフマド・バグダーディー(Ahmad Al-Baghdadi)博士は、クウェートの日刊紙シヤーサに書いた記事「イスラムに反対するムスリム」で、こう述べた。「世界のほとんどの国で、ムスリムスウェーデン大使館に乱入し、放火した。そして、スウェーデン産品の輸入ボイコットを呼び掛けた・・・彼らはまた預言者ムハンマド)とイスラムの宗教を守るためとして、衛星テレ局ビを立ち上げ、さまざまな委員会や機関を組織した・・・ムスリムはこれまで、イスラム諸国(の内外で)イスラムに対して自分自身が犯した、また今も犯し続けている甚大な不正行為を斟酌したことがあるだろうか。
「わたしがこれから以下に概略を述べる諸問題を検討しよう:
「その主張、考え、文化的アイデンティティーが罪に問われてムスリムの刑務所に投獄されている囚人は何人にのぼるのか。ムスリムが身の安全と尊厳ある生活を得るため、故郷を捨てて『異端の』国家に逃れていることは、イスラムの精神に則っていることなのか・・・支配者の専制に直面して沈黙することが、イスラムの精神に則っていることなのか。ひとつのファミリーが国民のすべてを支配することが、イスラムの精神に則っていることなのか。一部ムスリム国家で壮大な宮殿が立ち並ぶ反面、国民の60パーセントが字の読めない状況は、イスラムの精神に則っていることなのか。ある億万長者が宗教的なテレビ局を開局したからと言って、この億万長者が所有する、いくつかの不品行な衛星テレビ局━番組が宗教や道徳を笑いものにしている衛星テレビ局に目をつぶるのは、イスラムの精神に則っているのか。真実は、イスラムの最大の敵がムスリム自身であることだ。なぜなら、彼らは他者(他宗教の信徒)への振る舞いで、品位と共に、抑圧に抵抗する勇気も捨てたからだ・・・」※1


預言者を傷つけているのは誰か?


エジプト人文筆家アフマド・アスワニ(Ahmad Al-Aswani)はリベラルなウエブサイト、アアファク・オルグ(Aafaq.org)に掲載した記事で、預言者ムハンマドを傷つけイスラムの精神の評判を落としたと見なすムスリム世界が犯した犯罪を列挙して、こう述べた。「漫画や書籍や映画が宗教を傷つけ、また、人々が確信して固守する信仰に悪い影響を与えるとは思えない・・・
預言者を傷つけているのは、イスラム聖戦の旗の下にアッラー預言者を引き合いに出して、全世界で、ニューヨークからマドリード、ロンドン、バリ、リヤド、カイロにかけて無実の人々を虐殺し爆弾テロで襲う者たちだ・・・
預言者を傷つけているのは、(例えば1996年エジプトのジャーナリスト協会における講演で)母親の胎内にいるユダヤ人の子供たちの殺害と自爆作戦を扇動したユーセフ・カラダウィ(Yousef Al-Qaradhawi)のような人々や、イラクにおけるジハードを宗教や預言者の名前で宣言することによって、無実の犠牲者の死を引き起こしている者たちである。
預言者を傷つけているのは、自らがモスクの礼拝や学校や衛星テレビで、他の宗教、とりわけキリスト教徒とユダヤ人の宗教を侮辱しながら(その一方で)世界に対し、宗教を貶めることに反対する決議を採択するよう呼び掛ける者たちである。ムスリム諸国がこの決議の草案を国連人権会議に提出したとき、サウジのシューラー(諮問)評議会は反対した。なぜなら、他の宗教をののしることはイスラムの中心的教えのひとつだからだ。
預言者を傷つけているのは、成人の母乳養育を裁可する、また、預言者の尿(を飲むこと)が祝福の源であると断言するファトワを発出した━または、そうした寓話を宗教学校や大学で学ぶことを許す━といった者たちである・・・預言者を傷つけているのは、キリスト教徒を愛することが禁じられていることを理由に、学校で、とりわけいわゆるイスラム(学校)で同教徒を憎むよう子供たちに教えている者たちである・・・
預言者を傷つけているのは、イスラムがひげや、(礼拝の際の深い低頭を立証する)ひたいのしみ(祈りだこ)や、ヴェールや外套といった外面的特徴を命令していると信じている者たちであり、また、(これらの外面的特徴の欠如を)理由にして、他者を異端者と咎め、殺害する者たちだ。
預言者を傷つけているのは、女性が(みだら)であると信じ、女性が犬やロバのように礼拝(の純粋性を)を損なうと信じている者たちであり・・・※2 そして、女性が知性と宗教を欠いていると信じている者たちである。彼らは、男性とあらゆる点で同等である母親、姉妹、愛人、娘や妻(について語っているということ)を忘れているのだ。
預言者を傷つけているのは(エジプト人の地質学者で哲学博士号を持つ)ザグルール・ナッジャル(Zaghlul Al-Najjar)のような人々である。こうした人々は(自分たちが)知識があると言い張りながら、嵐、火山の爆発、洪水といった自然災害が罪を犯した者に対する神の罰と見なす。また、新約聖書旧約聖書が作り話であると信じ、両聖書を貶める。しかも、これらのことをイスラム預言者の名前で行っている人々である。
預言者を傷つけているのはアラブ諸国の支配者たちである。彼らは自分たちの国を専制と独裁の最後の砦とし、自分たちの犯罪を正当化するために、宗教の聖書の聖句への服従を要求している。
預言者を傷つけている者たちは西側にはいない。彼らはわれわれムスリムの中にいるのだ。以下に述べるイスラムのひとつのモデルを形作ったのもムスリム自身だ。その(ムスリムの)モデルとは(本来)テロリストであり、偽善者であり、生命否定論者であり、ジハードの名において他宗教信徒を殺害し、また、(イスラム)共同体の諸原則(の防衛)を口実にして言論の自由を攻撃し、それによって自分たち(の権力)を維持する者たちである。彼らが口実にする諸原則も、実際のところは精神の遅滞と時代遅れの偏見以外の何物でもない・・・これこそ、他の誰でもないわれわれが作り出したものなのである。※3


・殺害行為がイスラムのイメージを破壊した


バーレーンのコラムニスト、アブダッラー・アユービ(Abdallah Al-Ayoubi)は同国の日刊紙アフバール・ハリージュ(Akhbar Al-Khaleej)に書いた記事で類似の主張を行った。「・・・ムスリムの宗教に対する危害は単に、預言者ムハンマドを貶める漫画がスウェーデンの新聞に掲載されたこと、また、オランダの国会議員が製作した・・・映画によって引き起こされたのものではない。ムスリムの宗教は現在より重大な(別の)多くの危険にさらされている。こうした危険は彼らの犯罪行動のカバーとして宗教を使う━つまりイスラム信仰の教えのせいにする者たちから出来しているのだ・・・
「人間的かつ高貴な(宗教の)教えはアルカーイダ、タリバンといった過激な『イスラム主義』運動が破壊した。これら運動は自分自身の国だけでなく、他の非ムスリムの国々で無実の(人々)におぞましい犯罪を加えている・・・(ムスリム)社会と諸国が下劣な、卑しい行為を行うとき、(イスラムの)宗教的教えに対する途方もない害を引き起こしているのだ。
「これは、例えば米国に対する9・11の犯罪の結果として・・・また、それに引き続いて起きたロンドンとマドリードの(爆弾テロ)襲撃の結果として起きたことである。
ムスリム諸国はまっさきに、(人道に対する犯罪を、アッラーの名前におけるジハードとして提示するため)イスラムとその教えを口実に使っている(分子を)排斥しなければならない・・・(イスラムの)教えが、無実の人々数十人、(果ては)数千人の殺害を正当化することはありえない。こうした重大な不正行為が、非ムスリムの目の前でイスラムのイメージを貶めたのである。
「(ムスリム)諸国は・・・(イスラム)への攻撃に対処するにあたっては、また、ムスリムの宗教的な教えを歪めた『イスラム的』過激主義と闘うにあたっては、理性的に行動しなければならない・・・
ムスリムの宗教を傷つけた者たちに対しては、感情ではなく、健全な論理を使って対決しなければならない;(対イスラム)攻撃への対応はこれまで、理性ではなく情念に基づいていた。スウェーデンの新聞が攻撃的な漫画を掲載したことに対し、同国政府になんら責任がなかったにもかかわらず、その大公使館に放火したことは誇張した対応だった。
「そうした(対応は、イスラムへの)害を阻めないだけでない。実際は、その害を大きくするだろう・・・」※4


注:
(1) シヤーサ紙(クウェート)2008年3月31日付
(2) イスラム法の解釈には、礼拝の際、女性や犬やロバがいること、あるいは通りかかっただけで、礼拝の純粋さが損なわれるとする解釈もある。
(3) www.aafaq.org 、3008年4月5日
(4) アフバール・ハリージュ紙(バーレーン)2008年3月31日付

(注:強調のためのあずき色をつけました。)