ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

信州松本へ その二

やっと書けそうです!
旅から帰って、道程を地図で辿り、出費計算をして家計簿に記入し、パンフレットや入館チケットなどの整理をするのは、私の楽しみです。初めての場所は、新鮮だからか、たくさんのものを見たようにも感じるのですが、家で確かめると、それほどでもないような気がして、そのギャップに愕然とすることもあります。
まぁ、疲れを残さないようなペースで、気分転換と思い出づくりができれば、それでよしとしましょう。
信州は、南木曾や穂高安曇野など、比較的近距離で涼しそうなので、のんびりした初夏から真夏の短期旅行にはぴったりです(参照:2008年5月2日・5月28日・2009年8月29日付「ユーリの部屋」)。学部時代には、クラスメートに誘われて、美ヶ原に行って、涼しさに騙されてすっかり日焼けしてしまったこともありましたが、別の年には、軽井沢でキャンプを楽しんだことを思い出します。それに、全体として山ばかりなのに、博物館や美術館などの文化施設がたくさんあり、県民の誇り意気を感じることができます。
例によって、気分転換の一泊二日旅行なので、「青春18きっぷ」なるものを購入して、名古屋までは新幹線で、その後は鈍行で、ゆるりゆるりとお茶を飲みながらの行路でした。朝早めに出発したので、お昼前には松本駅に到着。おそばと手打ちうどんを堪能しました。
「地方はぼろぼろ」だと、首相だった頃の麻生氏が述べていましたが、雰囲気としては、松本あたりの地方都市の方が、どことなく懐かしくて、私は好きです。静かだし、空気もいいし、超高層ビルがなくて、空が広く見えます。
8月8日は長野県知事選挙だそうで、三人の候補者のポスターがありました。そのうち一人は、いわさきちひろの息子さんでした(参照:2009年8月29日付「ユーリの部屋」)。
市内観光には、周遊バスの路線が東西南北4本あり、だいたい各20分で一周りできるというコースです。もちろん、北コースと東コースを選び、割引券を購入して、安上がりに済ませました。
松本城は、黒塗りの六階建てで、国宝。小学校6年生の二学期まで、名古屋城近くで生まれ育った、元「名古屋嬢」の私にとっては、一見、お堀も小さく感じられなくもなかったのですが、中に入ってみると、団体客で混雑していた割には、風の通りが非常に良くて涼しく、市内の眺めもすばらしく、おもしろく思いました。名古屋城なんて、あまりにも近過ぎ、小さな頃から何度も行っているので、お城の意義を深く考えることもなく来てしまったのですが、改めて地方史を学び直したくなってきました。
急勾配の階段を、中高生らしい女子生徒達が、きゃあきゃあ叫びながら、こわごわ上り下りしていましたが、さすがはバリアフリー世代ですね。私なんて、これぐらい、何ともありませんでした!普段から、近所の小高い山の石階段を散歩しているおかげでしょう。
興味深かったのは、城内の展示説明。例えば、鉄砲。オランダやポルトガルから学んだ製法ではなく、「日本独自の製法」だと、誇らしげな文章。また、「女性もしっかり働いていた」のだという図絵。そして、山がちな土地であっても、松本城近くを発掘してみたところ、尾張三河あたりから塩漬けにした魚が送られてきたらしい跡が見つかり、「豊かな食生活をしていた」と誇示。さらに傑作だったのが、陶器などの食器には高価なものが発見されなかったが、それは「恐らく盗まれたのでしょう」という解説。
盗まれたと推測するならば、その証拠を出していただきたかったですね。
院生の時のある授業で「長野県の人は、よその人に言うことと、実際に身内で言うこととが、まるで逆なことがあるから、気をつけるように」と聞いたことがあります。本音と建前なんて、いかにプリミティブであろうと、どの国のどの社会にだってあるでしょうに...。でも、土地柄から歴史的に、身を守るための方策として、そのような特徴が目立つのだそうです。ホントかな?
さて、城外の公園がきれいだったので散歩しようとしていたら、江戸千家野点にお声がかかりました。すっかりさび付いたものの、その昔習っていたお点前のお作法を遠い記憶から呼び起こして、思い切って座ってみました。
主菓子は「夏すだれ」、お茶杓は「青山(せいざん)」(仏教語だそうです)、お棗は「篭棗」とのことでした。
三十分後には、各地のお城の写真パネルを見て回りました。今回の松本城名古屋城の他には、清洲城犬山城、姫路城、熊本城、彦根城大阪城、二条城、安土城に行ったことがありますが、もっと訪れてみたいものです。
それから、周遊バスで旧松本カトリック教会司祭館と開智学校へ。その頃には曇っていて、小降りの雨。涼しいのは助かります。
司祭館は「県宝」だそうで、 そういう名称は初耳でした。「明治21年(1888年)、松本カトリック教会神父クレマン師(フランス人)により、旧藩政時代の武家屋敷跡地に建てられた西洋館」との説明。現代感覚からすれば、小さな二階建ての建て物ですが、中に入ると、つましく品のよい調度といった感じのテーブルや暖炉などが各部屋に設けられ、当時の雰囲気が偲ばれます。いったい何が語られていたのでしょうか。子ども時代に読んだ西洋の物語からの連想で、何やら想像するだに楽しくなります。
「県内に現存する最古の宣教師館」で、「県内のキリスト教の歴史を知る上でも貴重な建物」とのことですが(以上は、長野県公式ホームページ(http://www.pref.nagano.jp)からの引用です)、実は、長野県内でも、明治以降、知識人や指導者層の間にキリスト教が広まったため、内村鑑三、植村正久、矢内原忠雄氏などが信州をよく訪問されていたとのプレート説明が、室内にありました。もちろん、写真におさめてきました。
次は明治村でもお馴染みの開智学校へ。天使像が正面上部に二人飾りのようについているのですが、今見るとそれほど洗練されているとも言えなさそうな...。でも、棟梁さんが上京して洋風建築を学び、なんとか擬洋風の校舎を建てたのですから、当時としては超ハイカラ・モダン。
何よりおもしろかったのが、教科書展示。私の卒論テーマであった、第三期国定国語教科書もありました!さすがは教育県、古い教科書も丁寧に保存して、資料館におさめてあるそうです。また、小学校一年生の時を思い出させるような、ところどころ穴のあいたごつい木机と椅子の教室。雨の日の休み時間には、この穴に消しゴムのかすを集めて詰め込み、先を尖らせた鉛筆でつっついては「お餅つき」と呼んで、遊んでいたのでした。かわいかったなあ、あの頃の私....。
この頃の学校の先生は、自信と誇りを持って、単なる立身出世というエゴを超えて、徳目や倫理修身を含めて、厳しく子ども達を教育していた様子がうかがえます。当時の試験問題まで展示されていましたが、墨で書いた帳面風の試験用紙の問題は、大変難しく、というよりも、(本当は確実な答えなんてあり得ないのでは?)というものでした。難し過ぎる問題をあえて出すことで、子ども達を鼓舞し、優等生は一家の誇りでもあったようです。
松本では、教育の重要性を人々に説いて回る指導者が優れていて、貧しい子守の娘達にも、きちんと学校に通わせるだけの識見を持った旦那様や教師がいたそうです。最低限、文字の読み書きが誰でもできることは、ユダヤ人も誇りにしている伝統ですが、日本にもそれが根付いていることのありがたさは、いわゆる途上国と呼ばれた国々に住んでみると、とてもよくわかります。以前、ある大学から送っていただいたDVDを見ていたら、イスラエル人の大学教員の女性が「ユダヤ人は昔から、誰でも文字が読み書きできた。だから、そういう伝統を持たなかったアラブ系ムスリムとの対話は難しい」と、誇らしげに語っていました。(ずいぶんはっきり言うなぁ)と驚きましたが、松本の旧開智学校で教科書展示などを見ているうちに、ここの人々も、同じ誇りを共有しているのでは、という気がしてきました。
その後は、バスに乗って松本駅まで戻り、しばらく待って、東コースの周遊バスへ。こちらは、乗り降りして見物するのではなく、足休めがてら、バス市内観光のつもりでした。松本市内も棲み分けがあり、工芸品の店が並ぶ地区と、住宅街と、そして昔の建物を記念館にした場所と、はっきりしていることに気づきました。
ちょうど夕方になったので、バスで浅間温泉へ。和風の落ち着いた宿で、ゆっくりとくつろげました。食事は階下の個室のお座敷で仲居さんに給仕していただき、上げ膳据え膳。見た目はちょこちょこと美しく少なめの品なのに、フルコースを終えるとおなかいっぱいというのも、改めて知りました。
そして、温泉へ。単純アルカリ性でぬるめでしたが、それが体によく効くようです。初めは貸し切りで一人で悠然としていたのに、いつの間にか、若い人達が一人ずつ、それぞれに入ってきました。おばあさんやおばさん達は、こういう場所で必ず挨拶をするのに、私達より下の世代は、まずしないということも、再確認。なんと、途中で歯磨き粉の匂いがするので見てみると、石鹸泡を猛然と飛び散らした人が、湯船近くのシャワーで、歯まで磨いていたのでした。はぁ〜。
翌朝も6時半頃、温泉へ。この時には、60代から70代ぐらいのおばさんやおばあさんが計7人ぐらいいて、それぞれの行動をしていましたが、「おはようございます」と誰もが挨拶をしてくださいました。それに、昨晩と同じ二つの湯船に順につかっていたら、愛想の良さそうなおばさんが、「露天風呂も気持ちいいですよ」と、教えてくださいました。ちょっと狭いけれど、早朝の露天風呂は、山と空が見上げられるのが最も新鮮で気分爽快です。
それから、再びお座敷での朝食。その後はラウンジでコーヒーを。と思ったら、露天風呂を教えてくださったおばさんが、夫婦連れ二組の一員におさまって、テーブルでお茶をされていました。ふうん、温泉浴場では、おばさん二人で何やらもぞもぞと相談事のようにおしゃべりされていたのに、ご主人同伴だと、すっかり静かになるのですね。なるほど。
宿泊所についてのアンケートを提出したところ、手作り手鞠のキーホルダーを二本、いただきました。
その後は、チェックアウトして、バスに乗り込み、信州大学へ。主人のアメリカ留学時代の友人が勤務している大学ですが、キャンパスが違うようでした。学会で日本国内のいろいろな大学を訪問してきましたが、2000年頃から、交通の便のよい大学が好まれるようになり、信州大学は、まさに初めて。ただし、おととい書いたことなので、ここまでに留めます。
次は、バスで旧制松本高校へ。なんと休館日で、中には入れず、残念。ここで小塩節先生らが青春時代を過ごされたのだと思うと、その風格に少しでも長く触れていたい気分になりました。一通りぐるりと回った後は、公園へ。ここの彫刻は、正直なところ、今一つセンスが私と合わない感じがしましたが、何かを伝えたいという思いは、確認できました。
松本と言えば、音楽。サイトウ・キネン・オーケストラで有名なコンサートホールは、また次回に、ということで、駅でプログラムパンフレットだけはいただいてきました。小菅優さん(参照:2007年7月4日付「ユーリの部屋」)が登場されるそうです。そういえば、ヴァイオリン才能教育の鈴木メソードで有名な鈴木鎮一先生が、松本でレッスンを開始されたのでした。うちの妹も、鈴木ヴァイオリンで習っていましたが、その効果はいかに?

さて、そうこうするうちに、帰路につく時間になりました。といっても、私達の場合、国内の私的旅行は、行きの交通路と宿だけは確保し、帰りは気儘に自由なフリースケジュールにするのが恒例です。初めは、ロープウェイにでも乗ろうかという話があったのですが、遠そうなのでやめて、鈍行で塩尻経由で中津川へ。ワンマンカーで停車時間が長いために、とても暑く、車内で読もうと準備しておいた学会発表の資料コピーが読めませんでした。熱中症だけは気をつけようと、何本もお茶を買い足して飲み続けました。
津川駅に近づく頃、向かい側の席に座っていた60代ぐらいのむっちりしたおじさんが話しかけてきました。「私は名古屋出身なんですが、暑いから家を出て、青春18きっぷを買って、電車の鈍行に乗って、旅しているんですがね、昨日は東京で泊まってきたんです。これから、乗り換えて、西日本に行ってみようかと...。ま、お疲れさまでした」と。「お気をつけて」とお別れしましたが、そういう夏の過ごし方もあったんですね。男の一人旅。でも、ちょっと電車内の温度からして、間違っていたかも?
中津川でお土産を買い、再び電車に。土曜丑の日とのことで、名古屋で下車して、ウナギを食べようと言い出したのですが、名古屋駅もすっかり景観が変わり、高層ビルがニョキニョキ。そこで、すっかり夢中になって、駅前のビルなどの写真を撮って回りました。松本城内でいただいた野点で思い出しましたが、結婚前にお茶を習っていた毎日新聞社のビルがいつの間にかなくなり、モダンな高層ビルに変貌していました。思い出と共にビルも消えたのですね....。
以前、昼食をとったレストラン街に行ってみたのですが、あまりにも高過ぎ、しかもお客さんがほどんど入っていないので、懐かしい名鉄百貨店へ。ここでは1000円ぐらい安かったのですが、さすがに40人ぐらいの人々が座って順番待ち。これじゃ帰れない、とデパ地下へ行って、国産うなぎ弁当なるものを買って、何とか間に合わせました。結局、ウナギ騒ぎで、1時間15分、名古屋に留まりました。
折衷案として、名古屋から米原までは新幹線に乗ることにし、車内でせっせと、無言のままいただきました。ふうっ。
米原まで着けば、後はJRで何とでもなります。我が町には新しい駅ができて、本当に便利になりました。町会議員さんの中には、財政難と景観保存を理由に、駅設置に強く反対していた人もいましたが、今となっては、ありがたい限りです。

このように綴ることで、記憶の重ね塗りができます。松本よ、ありがとう!