ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

コミュニケーションの問題か?

しかし、気難しさはひとしお(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131206)。

日本滞在中に「敵意の壁を感じた」とは、2012年1月22日頃にいただいたメール(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120122)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120123)に本当に書かれていたことだった。私としては非常に気になる文面で、今でも引っかかっている。そのため、ある購読中の雑誌にも投稿して掲載していただき、ご本人へも英訳と冊子をお送りした経緯がある。証拠として公に残したかったためでもある。
ただ、今回もまた「誤解しているね。日本で感じたのは、敵意じゃなくて‘冷たさ’だ」と書かれてしまった。自分が政治的に共和党だから、と…。
ますます混乱。一体、いつ、どなたにお会いになったというので、遠来の大切なお客様に対する「冷たさ」を日本から感じたのか?現在、政府をあげて「おもてなしの心」をアピール中ということもあり、困った事態だ。

それに、お言葉を返すようで恐縮だが、保守派の日本が常に米国共和党のお世話になってきたことは歴然としていないか?『日高レポート』でも、いつも繰り返しそのように聞いてきた(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090104)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120318)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121021)。うちの主人の勤務先も含めて、特に日本の大企業は米国と強くつながってきたのだ。(ついでに長崎に原爆を落とされたのも、そもそもは主人の会社系列が立地していた絡みでのことらしい(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120729)。)

こういう時、なぜ日本語訳著作の出版物がないのか、なぜ面識もない一般人の私が訳文を依頼されているのか、今でも不思議に思わされる。第一、私から「敵意の壁」などと書くはずがないではないか?そんなことを全く感じてもいないし、そのような強い語法には縁遠かったからだ。

多党制の社会において、政治上の意見交換で異なった立場が出てくるのは、むしろ、場や相手を信頼しているからではないか?自由な雰囲気が前提としてあるので、「自分はそうは思わない」と表明できるのではないか?第一、一般国民として、私は政治運動に参加したことは一度もなく、いわば保守中道の無党派層だ。自宅で本を読み、音楽を聴いて過ごすのが好きなだけの凡々人だ。中東の専門家でもない。一神教に関しては、以前の仕事とリサーチと個人的な経緯から、多少は知っているというだけの話だ。訳文を依頼されたのは先方であって(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120401)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121116)、私から申し出たのではない。そのことも、証拠として繰り返しブログに掲載してきた。

滞在当時、アラブ寄りの親パレスチナ派が日本の中東学者に目立ったのは、恐らく事実だろう。しかし、それが日本全体の動向を反映しているとは絶対に言えない。また、それは私の「誤解」でもない。

例えば、10年ほど前の東京のアフガン復興支援会議でも、アフガニスタンは戦争をしかけることで、米国から多大な援助を引き出した、という論説を訳して提出したばかりだ。ところが、その援助金について、なぜか第二次世界大戦後の日本まで、一例としてドイツやイタリアと並んで、アメリカによって「利した」という一文が含まれていた。
趣旨は、アフガニスタンの人達は感謝もせず、援助金だけ引き出して、まだ暴れている、だから米国は多額の援助金を出すべきではないという主張なのだが、日本などは、ドイツやイタリア同様、戦後復興期に、アメリカの寛大な援助に大変感謝しつつも、国際社会に復帰して信用を取り戻すべく、懸命に働いたと思う。アフガン問題をドイツ、イタリア、日本の事例と並列されると、(ちょっと違うのでは?)という気がしてならないというのが、率直なところだ。もし黙っていたら、ムスリム世界と非ムスリム世界の対米敗戦国が同一線上に比較されてしまいかねない、と当時の文章から感じたまでのことだ。

それに、あの復興会議は、場所が東京で緒方貞子先生(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120420)が担当されたからこそ日本国民の注視の的となり、私でさえ覚えている。日本だって戦後の廃墟からここまで立ち直れたのだから、今度は順に日本もお手伝いしましょう、という意図だったと理解している。そしてアフガニスタンの人々は、実態は別としても、日本に対しては言葉の上で感謝している面が皆無でもない(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080828)。それは、国が違えばこその対応の違いであって、どちらが正しいとか間違っているという次元ではないのだ。

日本に対する事例を時々引用されているので、気になって確認したいだけなのだが、どうも突っぱねられてしまうので困る。私の英語力の問題なのかもしれないが、訳業が進めば進むほど、黙って機械的に送るだけというのも、寂しいのではないかと思ってのこと。もし、全部に仰せごもっともとなっていたら、「日本はアメリカの言うことに何でも従うから」と従属理論を地で行くことにならないか?文化が違えば、表現も思考表現も異なるはず。だが、それはイデオロギーや政治志向の対立では、必ずしもない。

別の例ではフランシス・フクヤマ氏(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071026)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120129)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130828)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131004)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131109)。時々、日本にも韓国にも招待されているようだし、関西の某大学でも教鞭を執られていたと聞く。しかしそれは、日本側の認識不足からではなく、第一に日系アメリカ人で、ご親戚も日本の大学関係者だというつながりがあるからなのだ。それに、私個人の感想では、フクヤマ説にはいろいろと批判もあったそうだが、議論の叩き台としては適切な参考になると思う。そして、おもしろかったのが韓国のエピソード。これは、日本人である我々には恐らくできなかったかもしれない経験だからだ。つまり、論の正しさや認識の程度を云々しているのではないということだ。少なくともフクヤマ氏は人当たりも悪くないし、質問にはきちんと応答されるという安心感がある。しかしそのことと、私がフクヤマ説をどう考えるかは、全く別次元の話なのだ。そこを混同されては困る。

少なくとも、同じ面識なしのアメリカ人の中では、ロバート・ハント先生との2001年以降のやり取りで(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120123)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121024)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121025)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130718)、こういうことは発生したことがない。日本に対してどのように考えていらっしゃるかは不明だが、少なくとも当たりの良さが滲み出ていた。何が何でもこちらが「誤解している」とされてしまっては、対話も相互理解もあり得ない。間違いも含めて話し合い、誤解を解きつつ理解を進めて問題解決に至るというのは、それこそ「文明国人」の礼儀ではないか?

米国とイスラエルと日本がもっと緊密に協力し合えば、相互に益する点が多い、という文章を、最近、ある雑誌で読んだ。裏返せば、まだ努力と協力の余地がある、という意味なのだが、執筆者はインテリジェンスに関与されていた元モサドの方だそうで、娘さんがアメリカン・スクールで最も仲良くなったのが日本の子だったそうだ。互いに違うところが引き合った面もあったらしい。つまり、子ども同士が仲良くなれるのならば、大人同士も、国同士も、経済面やハイテクや文化交流の分野で、という前向き提言の記事であって、私は気に入った。
そのことを書いただけなのだが、どういうわけか私が「誤解している」と誤解されてしまった。いやはや、本当に肩が凝りますな…。