ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

日泰倶楽部

昨日の午後は、日泰倶楽部(正式名称はカタカナの混交表記)の会合に出掛けた。場所は大阪の綿業会館。
雰囲気は、名古屋大学同窓会の関西支部が毎年開かれる中央電気倶楽部のようで(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130519)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140518)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150517)、古い建物の重厚さと華やかさが懐かしかった。国の重要文化財指定だという。
新聞記事を見て会合が開かれることを知り、早速ファクスを送った。翌朝すぐに返答があり、出席可とのことだった。会費は2000円で、お土産付きということだったが、私の目的はお土産ではなく、20代後半から京都大学東南アジア研究センター(当時)のセミナーや学会で存じ上げていた(恐らく私を覚えていらっしゃらないだろうが、一度メール連絡をいただき、ご発言を今でも記憶している)林行夫先生の泰の出家仏教の話を久しぶりに聞きに行くことと、秋篠宮妃殿下のお父上を初めて拝見することだった。
100名以上が集まっていただろうか、泰人と結婚した日本人、泰国からの留学生らしき人達、オレンジ色の法衣を着た泰仏教僧、在日泰人も混じり、泰文化に「ハマった」日本人、泰国と何らかの形でご縁をつないでいる日本人など、一般市民に向けての公開フォーラムということだった。
今では驚きもしないが、開始時間が予定より30分ほど悠々と遅れたのに、お詫びの挨拶もないままに何となく始まったという、いかにも「日本の中の泰時間」が流れている雰囲気だった。お着物姿の女性も何人かいらしたが、主催者側のスタッフであろうか、オレンジ色の半被を着た人々も目立った。全体としては、穏やかでのんびりとした温かい(逆に言えばいい加減な)空気が漂っていた。
泰王国大阪総領事のお話では、今や五万から六万人ほどの泰人が日本で暮らし、日泰関係は長らく良好だとの由。ただ、全体として言えることとして、泰に「ハマっている」日本人と、日本から何らかの益を得たいと願っている泰人とでは、同じ現象を見ていても、同じ経験をしたとしても、恐らくは同床異夢なのだろうと、私は思っている。
院生だった頃、指導教官の依頼によって、勉強のお手伝いをするために私が個人チューターを務めていたのは、中国系ではない泰人で、地方出身だがバンコクの親戚の家にお世話になって育ち、チュラロンコーン大学で学んだという国費留学生。確か私より二歳ほど年上で、真面目で明るく、素直で聡明な女性だった。どこで知り合ったのか、日本人のボーイフレンドがいて、「“彼氏”が優しい限り」結婚する予定だと聞いていたが、今はどうしているだろうか。
泰語の名前は概して長いので、発音し易く、覚え易くするためなのか、特に若い女の子達は短音の愛称を持っており、大学留学生寮の住み込みチューターをしていた私(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071102)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090723)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100312)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110323)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151225)の周囲の泰人達も、思い出す限り、オウさんとかノンさんとか、ジュンとかジムとか、ジェンダー識別が困難な楽しげな名前で、お互いに呼び合っていた。また、一つ印象的だったのが、先に留学を終えて帰国することになった別の泰女性の部屋。期限が迫っても荷物がほとんど片付いておらず、どうするのかと心配で覗いてみたところ、後輩の泰の留学生が、「思いやり」と日本語で言いながら、その先輩の荷物の箱詰めをしているのだった。本人は既に帰国の途にあるのに、である。
彼女の友達だという中国系泰人の留学生のマンションにも、一度だけお邪魔したことがある。(彼女の場合は、泰での初婚経験を隠して日本で結婚したのだと別ルートで聞いていたが、そのことは内緒だと、チューターをしていた彼女から私は言われた。だが、泰国を頻繁に研究訪問していた日本人の夫側にいつまでも隠し通せるものでもなく、あれから二十年以上も経った今では、恐らく時効で公表してもいいだろう。)
その当時、日本人の“彼氏”を持つ彼女達の話では、「泰に興味を持つ日本人は、ちょっと変わっている」らしい。要するに、相互理解とやらで、日本側は「日本なら規範から外れるとアウトだけど、泰は緩やかに包摂している共生社会だ」などと肯定的に描写し、若い学生達を泰文化研究などへと巧みに誘導するのだが、泰人側も結構したたかで、そんな逆方向をわざわざ泳いでいるような変な日本人を冷ややかに観察しつつ、自分達にとって益がある部分(日本人と結婚して日本で暮らす)を、ちゃっかり自分のものとしていたらしいのだ。
1990年代前半のマレーシア赴任中、一度だけバンコクに行ったことがある(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070912)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090723)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091025)。母校に留学していた別の元国費留学生(中国系泰人)の家にお世話になったのだ。英国統治の影響が残る整然としたクアラルンプールの近代的な街路に比べて、泰国はいかにも東南アジア風にごちゃごちゃした街並みで、交通渋滞がひどく、排気ガスも悪かった。申し訳ないが、マレーシアの方が、食べ物もはっきりした味付けでおいしいと感じた。また、家で雇っていた女中さんの扱いが、マレーシアで私が観察したインド系や中国系の中流階級の家々と比べても、非常に居丈高で驚いた。泰語は声調が五声あり、はっきりと発音するマレーシアの首都圏やシンガポールの話し方よりも、優雅でたおやかで女らしく響くのだが、どうも本音は別のところにありそうだ、というのが、挨拶以外に泰語を全く知らない私の直感だった。
タマサート大学出身のその元留学生は、日本では黒髪を長く垂らして愛らしく素直な感じだったのに、国に帰ると、潮州系泰人らしく、バンコクでは名の通った日系企業のエグゼクティブ。颯爽と働くキャリアウーマンとして、流暢に英語を操り、時に煙草も吸い、いかにも男を手懐ける感じのやり手に変身していた。それに、目がくりくりして可愛いと思っていたのに、その時、広い自宅で「今だから教える」と見せてくれた写真によると、実は日本留学前に整形をしたのだと言う。当時のバブル全盛期の日本側は、貧しい東南アジアから来た苦学生のようなイメージを勝手に抱いて、いろいろと親切にしたり、ことさらに古着などの物品を与えたりしようとしていたが、そもそも選抜されて潤沢な奨学金を得ている国費留学生である。それに、国に帰っても、首都圏に暮らす東南アジア華人の典型として、彼女の実家は割り箸ビジネスで手広く事業を広げ、相当に裕福な家庭だとわかった。格差を言い立てるなら、日本などはまだ序の口である。また、ファラン(外人)という泰語が示すように、内と外とで態度を自然に使い分けている様子も、一緒に見たテレビ番組のドラマから覗い知ることとなった。
そんな彼女から見たら、マレーシアの方が田舎っぽく素朴で、農村から出てきたマレー人学生の間に溶け込んで、熱心に仕事に励んでいた私も同類に思えたのだろうか、せっかくの初タイ(泰/体)験だったのに、何ともちぐはぐな印象だった。その後は、連絡が全く途絶えている。
但し、石油資源国で英語が通じるマレーシアの方が泰国よりも経済的に遥かに潤っていたことは、当時も今も事実である。従来、バンコクやマニラやジャカルタは、東南アジアの日本人駐在員にとって古くから馴染みがあり、主流新聞社が支局を置くなど、情報センターとしても発展していたはずだったのだが、今では当然のことながらシンガポールが断然、群を抜いてハブ中のハブ。マレーシアにせよ、シンガポールにせよ、大英帝国の植民地時代からの筋書き通りの発展状況である。
しかし、恐らくは泰が仏教国だという点が、日本人に親しみをもたせるのであろう。それに、東南アジア随一の非植民地国である泰国の人々は、そのことに対して、日本人と同様の相当な矜持を抱いている。戦時中も親切にしてくれたと、元日本兵のおじいさんから、わざわざマレーシア赴任前に呼ばれて、名古屋で話を聞かされたことがある。
その点、英国の植民地にされたマレーシアは、何と言ってもイスラームを連邦宗教とする国。オランダの植民地だったインドネシアも、世界最大のムスリム国。ミンダナオ島など南部を除いて、フィリピンはスペイン統治を経てアメリカの支配を受けたカトリック国ということになっている。宗教が濃厚に暮らしに根付いている東南アジアで、日本人が類似点や接点をどこかに見出して魅力を感じるには、やはり泰の仏教が第一項目に挙げられよう。
その仏教だが、泰は勿論、ミャンマースリランカと同じく、小乗仏教。日本の大乗仏教との戒律や経典の相違を探ることも知的好奇心の第一歩となるし、葬式仏教と揶揄されることの長かった最近までの日本に比して、少なくとも90年代半ば頃までの泰は、実践仏教(と、その規範を逸脱した日常的な別の“実践”の部分)。その辺りが、研究者や観光旅行者や一時滞在者にとって惹きつけられる特徴であったようだ。
今回のお話の内容は、特に泰好きな日本人というわけではない私にとっても、かつては大学でよく聞いていた懐かしい泰講義にその後の経過展開を易しく言い換えたような、楽しいものだった。だが、旧知の事柄が多かったこともあり、後半は眠くて、ついコックリ、コックリと櫓を漕いでしまった。
それに、何としたことか、開始前に待っている間、パイプ椅子から転げ落ちてしまったのだ!メモ取り用のペンを床に落としたので、座ったまま拾おうとしたら、どういうわけか、脳震盪を起こしたかのようにバランスを崩して、椅子はひっくり返り、私も一緒にひっくり返ってしまった。妃殿下のお父上がいらっしゃる場だからと、一応はスーツを着ていたのに、どうしてあのような事態が発生したのだろうか。今でも不思議である。だが、ここはありがたくも温かい日泰混合文化の漂う場、すぐに、後ろにいた日本人男性が助けてくださった。
本当に、みっともない失態を演じてしまった。
ところが、その直後に、私にとってはさらに驚くべき光景が目に入ったのだ。つまり、壇上に上がられた秋篠宮妃殿下のお父上である。一瞬、どなたかわからない風貌で、びっくり仰天した。皇室ニュースを追っかけている者ではないが、一国民として、必要最低限のことは知るのが義務であり権利だと思って普段は過ごしているつもりではある。25,6年前のご婚約フィーバーの時の映像が目に焼き付いていただけに、長寿社会の今の日本で、(え!)と、あまりの変貌が信じられなかった。70代半ばならば、この頃では、もっと背筋も伸びてピンピンした人が多いのに...。お声や言葉遣いは以前のように丁重で、特におかしなことはなかったものの、腰が90度ぐらいに曲がり、白い顎鬚が仙人のように長く、腰回りがたっぷりとした丸さで、一人では真っ直ぐに歩けない状態。別人かと思った。
あの頃、「精神の自由を大切にし、主体性と創造性を追い求める姿に重きを置くよう、娘に接し、誘導して参ったかと存じます」というような言葉をテレビで聞いた時には、さすが首都圏の著名大学の教授のおっしゃることは違う、と素直に感銘を受けたものである。そのような余裕たっぷりの高い自由主義精神の追求の結果、二十数年後に「主体性と創造性を追い求め」た具現が、このようなお姿で私の現前にいらっしゃるということは、ある意味で非常なショックであった。
本倶楽部の会長なので、無理を押してのご出席だったのかもしれない。もしかしたら長患いでいらっしゃるのかもしれない。それにしても....。元来、経済学の学者だと理解していたのだが、今では「ヴォランタリズム論」ということらしい。泰国の山村で優雅に奉仕活動ということのようである。
勝手な憶測でしかないが、ここから想像してみるに、秋篠宮家と泰王族との親密な私的関係という時折流れてくる噂は、「火のない所に煙が立った」のではなく、何らかの根拠あってのことだったのだろうか。現に、2007年3月に初めてイスラエルを旅行した時(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070725)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070919)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120309)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120321)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130403)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150514)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150810)、旅団メンバーの一人が泰人と結婚した娘さんのいる女性だったが、娘さんはバンコク日本大使館に勤務されており(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100630)、宮家の数少なからぬ泰王国訪問に際して、いろいろと要求が多くて大変だという表向きの話と、その内実を少し耳にしたのを思い出す。
皇族および係累の方々の公的な活動は、我々の税金で賄われているのだから、日本国の公のお立場として、遺憾な気がする。
最後に抽選会があり、最近人気だという泰カレーや泰航空のチケットなどが、当選した人達に振る舞われた。これもゆったりしたやり方で、途中で帰ろうかと何度も思ったが、私と1番違いの当選番号が前後してあり、結局は終わりまで居残った。その時には、お父上は控えの場に下がっていらしたようだ。
帰りがけには、泰カレー各種のみならず、どういうわけか中国製を含む、消臭剤や口臭防止剤や防虫剤が入った大きな袋を、手土産にと渡された。有志は残り、別会場で楽しくお酒の懇親会だという。
一般国民には知らされていない、知ることの許されない、知らない方がいいのかもしれない、さまざまな背景事情があるのだろうと思わされた半日だった。