ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

イスラエルの話を少し…

昨晩、いつものように10時過ぎに帰宅した主人と、遅い夕食をとった後、最終メールチェックをしてみたところ、イスラエル人の先生からメールが届いていました。同志社大学神学部のアダ・タガール・コヘン先生です。

なんと、ご主人が私の「英語版はてなブロッグ日記」(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2)を見つけられたとのこと。ハンドルを使っていますが、わかる人にはわかる内容になっているので、アダ先生ご自身も「あなただとわかったわよ」と、お忙しいのにわざわざ、それだけの用事のためにメールをくださったのです。とてもうれしい反面、何だか恐縮です。というのは、初期設定ミスもあって、レイアウトやスペルがどうしてもうまくいかず、一見して読みにくいからです。直したくとも時間がとれず、先送り状態なのです。ごめんなさい!

コヘン先生ご夫妻は、日本での暮らしに何かと不自由もあるのではないかと思うのですが、お二人で力を合わせて、ヘブライ語ユダヤ教ヘブライ語聖書学を教えながら、イスラエルと日本の相互理解のために橋渡しのお仕事をなさっています。

数年前、東京でのある会合で、初めてアダ先生にお目にかかった時、「何の研究をしているの?」と聞かれて、「マレーシアです」と答えた瞬間、さっと話題を変えて「これから食事よ!」と言われたのを、今でもハッキリと覚えています。その時の先生のお気持ちは、何となくわかります。イスラエルと国交のないムスリム国のマレーシアである以上、イスラエルに関して曲解した情報を流しているに違いない、この人もそういう影響を受けた研究をしているかもしれない、ならば、そういう話題は避けておいた方が無難だ…。

近いうちに、このブログ日記でも、マレーシアでのイスラエル報道について、そして、マレーシア国民間でも、ムスリムとクリスチャンとではイスラエルパレスチナ観が異なることなどについて、調べたことや考えるところを綴っていければと思っています。いずれは、きちんとした小稿にまとめたいのですが…。

今日のところは、一つのエピソードをご紹介するに留めておきます。

2007年3月上旬、イスラエルを初訪問する機会に恵まれました。この旅行は、アダ先生も大喜びしてくださり、事前に2時間ほど、先生の研究室でお話をうかがう時間までとってくださいました。(イスラエルに行く日本人は、ジャーナリスト、大学関係者、キリスト教会関係者あるいは宗教関係者、クラシック演奏家、武道の先生など、他国に比べて極度に限られていますので、せっかく行くならばよりよい理解を、とお考えになってのことだろうと思います。中には、妙な意図でイスラエルに入国し、中途半端ないい加減な話を本に書いたり、講演でしゃべったりする人もいなくはないので…)

北部イスラエルガリラヤ地方を回っていた時、イエスがパンと魚を増やした奇跡に由来する教会のある「タプハ」という所で、見学を終えて外に出ようとしたところ、突然、インド系女性から「どこから来られたんですか」と話しかけられました。「日本からです。お宅はどちらから?」と言うと、「マレーシアからです」とのことでびっくり。「マレーシアのどこですか」「ペナンです。ペナンを知っているんですか?私達、ペナンのカトリック大司教と一緒に今回ここへ来ました」「まぁ、それは何たる幸偶!実は私、マレーシアのキリスト教の研究をしているんですよ。クアラルンプールでカトリック大司教にも面会しました。二代目のAnthony Soter Fernandez大司教と三代目のMurphy Pakiam大司教とに…。ええ、数年前のことですが」などとつい夢中になって話し込んでいると、同行のメンバーが「知り合いなの?」と気をきかせて、さり気なくガイドさんに連絡してくださっていました。ふと我に返って、話もそこそこに、慌ててバスに乗り込もうとすると、さすがはベテランガイドのバラ先生、「多少バスの出発が遅れても構わないから、ちゃんとその人達との写真を撮ってきなさい。あのね、そういう機会というのは、一生に一度しかないんだよ。このチャンスを逃したら、もうないんだよ」と背中を押してくださったのです。「カメラが電池切れで...」と遠慮しようとしたら、元カメラ会社勤務だった同行の男性メンバーが「ユーリさん、写真撮ってあげましょう」とついてきてくださいました。

マレーシアの新聞メディア、特にマレー語新聞では、パレスチナとの関係でイスラエルを非難する論調の記事がしばしば掲載されるのですが、それはムスリムウンマの連帯感情のためであって、事実がそのまま報道されているとは限りません。第一、国交がなく、人々の往来が制限されているならば、イスラエルという国がどういう国なのかも知りようがないのです。
一方、マレーシアのクリスチャン達は、カトリックの新聞や月刊誌やプロテスタントのエキュメニカルなニュースなどを見ていてもわかりますが、現地の事情を比較的よく把握していて、「パレスチナの困窮に対しては、できる限りの援助をする。しかし暴力だけは反対だ。イスラエルは我々の巡礼地だ」という明確なスタンスを持っています。ですから、いくら政府がコントロールするメディアに触れていても、教会や巡礼を通して、別の情報を入手しているわけです。これが、「イスラームとマレーの価値観を基軸にした国民統合」に‘失敗’しているマレーシアの現状であり、マレー当局が神経を尖らせて繰り返しキリスト教出版物に抑圧をかけてくる原因であります。

ところで、こういう話になると私は、大好きなショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番イ短調作品99から、特にスケルツォパッサカリアの楽章を何度も聴くことにしているのですが、旋律を歌いながら、キリスト教で呼称するところの旧約聖書の物語を重ね合わせ、ユダヤの民の運命を想い起こしています。
デイヴィッド・グレイソンによれば、「芸術抑圧運動の犠牲者の1人として」「ソ連邦で迫害されているユダヤ人に容易に感情移入することができた」ショスタコーヴィチは、次のように語ったそうです。

ユダヤ人は私にとって象徴となった」「人間のあらゆる無防備さがユダヤ人の中に集約されている」「(ユダヤの民俗音楽は)陽気に見えることもあるが実は悲劇的である。ほとんど常に泣き笑いである。ユダヤの民俗音楽のこの特質は私が理想とする音楽に近い。音楽には常に2つの層がなくてはならない」(渡辺正・訳)と。(ソニー・クラシカル版のCDで、五嶋みどり& クラウディア・アバド指揮・ベルリンフィルハーモニー管弦楽団による「チャイコフスキーショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲集」のライナーノートp.6より。)

ヘブライ大学博士課程で学ばれたK先生のお話では、イスラエル女性は概してとても強いのだそうです。出産間際まで講義に出て、産んだかと思うと授乳しながらキャンパスに平気で来るという活力に加え、とにかく何事にもあきらめない粘りがあるとお聞きしました。

聖書の民であるという矜持の故なのか、長年、世界のあちらこちらで嫌がらせを受け、ついにはナチスによる民族大虐殺(ホロコースト)を経験しながらも、各地においてたくましく生き抜いてきた叡智の積み重ねが、人々をこのように形成してきたのでしょう。前世紀には、自分達の国が欲しいという悲願を実現すべく、世界中からパレスチナの地に戻って来た人々が、現在もなお、国防を最優先しなければ生きていけないというパラドックスほど、人間存在に対する深い思索へと誘(いざな)う課題はないと思います。