デモンストレーションと表現の自由


(順次加筆します)


 6月5日、神奈川県川崎市で行われるはずだった、民族派団体(?)によるデモ行進が抗議によって中止となる、という異例の事態が発生した。参加者は既に集合し、許可されたルートを出発しかけたのにもかかわらず、である。

 このデモ行進は、もともと川崎市の別の場所で行われる予定であったが、今国会で新たに成立した、いわゆるヘイトスピーチ対策法成立後の横浜地方裁判所の仮処分決定及び川崎市の公園使用の不許可処分によって、実施場所を変更した経緯がある。

 これを機に、最近の表現の自由をめぐる広汎な問題について考えてみたい。
 (いわゆるヘイトスピーチ、TVキャスターの交代劇、国会前デモ、検定教科書、国境なき記者団のランキング、メディアの姿勢など)


川崎市のデモから。

 まず、当然のことながら、筆者は憎悪表現(いわゆるヘイトスピーチ)に反対であり、これを連呼する者は恥晒しだと思う。
 また、表現の自由は最大限認められるべきと考える。

目次
・デモ行進は表現の自由そのもの
・これまでほとんどのデモ行進が許可されてきた〜反天連のデモから
・デモの警備とは、デモ隊を守ること〜法の下の平等と法執行機関
・リベラル系メディアの倒錯

・デモ行進は表現の自由そのもの
 我が国において、デモ行進は警察・都道府県公安委員会の許可の下で許されている。本来なら、いつでも、どこでも治安当局の監視なしにデモンストレーションを行えるのが望ましいが、交通上・安全上の理由から、道路使用許可が必要とされている(例えば、平日朝夕ラッシュ時のデモ行進などは許可されないだろう)。ただし、憲法表現の自由を最大限尊重する観点から、警察・治安当局の恣意的な判断で特定の政治的立場のデモンストレーションを不許可とするような取扱いはされず、書類の形式さえ整っていれば許可されてきた。公共の福祉とのバランスをとった適切な運用といえる。

 デモが出来ない社会、すなわち表現の自由のない社会の手本はお隣にある。中国の憲法にも表現の自由や人権が盛り込まれているが、当然のようにあてにならない。「国家の上に共産党が乗っかっている」という民主主義国には理解しにくい構造だが、メディアは党の喉と舌といってはばからず、彼らが習近平主席を個人攻撃した日にはたちまち潰されてしまうだろう。天安門事件に関するデモ行進をやろうとすれば拘束されるだろう。ノーベル平和賞受賞者を軟禁し、あらゆるメディア・インターネットを監視・検閲している。
 あるいは、新聞記者が執筆記事をもとに検察当局から起訴されることもない。また、親子三代を推戴しているかの国も民主主義を国名に掲げているが、実態は悲惨だ。

 幸いなことに日本では、表現の自由が適切に運用されてきた。他の人権とぶつかる場合、公共の福祉という概念があり、私人への侮辱、プライバシーの侵害、強迫、等は表現の自由があっても許されない(判例等)。また、デモの自由はあるものの、早朝深夜の大音量でのデモ行進なども警察の道路使用許可が下りない可能性が高い。しかし逆に言えば、これら以外はあらゆる表現の自由が認められてきたといっていいだろう。表現の自由基本的人権であり、民主主義の根幹だからだ。

 英米法と大陸法という考え方がある。日本国憲法英米法系であり、判例を重視する。日本では、ドイツのように「ナチスを称賛することを禁止」というような法律は、おそらく憲法違反になる。実際に他人に危害を加えない限り、精神の自由は最大限尊重される。極端に言えば、巨人を応援する自由、阪神を応援する自由があるように、麻原彰晃を崇拝する自由も保障されている。


・これまでほとんどのデモ行進が許可されてきた〜反天連のデモから
 新聞紙上に載っているデモンストレーションの多くは、憲法改正賛成/反対、原発維持/廃止、安保法制賛成/反対、といった国論から、性的少数者、さまざまな判決への賛否、地域の問題まで、一般にも馴染みの深い問題だろう。しかし、表現の自由の範囲を見るには、数万人であれ十数人であれ、それがいかに突拍子もない主張であってもデモが認められてきたという事実を見る必要がある。例えば、数万人が東京の真ん中で真昼間にデモ行進をすることは出来るだろうか。また、突拍子もない主張のデモ行進は認められるだろうか。表現の自由の範囲を計るためメディアに取り上げられないものも含めて極端な2例を紹介する。

 5年前、日比谷から有楽町、内幸町、霞が関、永田町へと至るルートの数万人規模のデモ行進が行われた。永田町や霞が関で度々行われるデモンストレーションの全てが道路使用許可を得ているわけではないと思うが、このデモ行進は道路使用許可を得ているようだ。原発廃止を掲げたこのデモ行進は日比谷公園から有楽町駅前、東電本店、経済産業省、国会前へと至るなかなか刺激的なルートだったが、警備当局の交通規制の下、道路1車線を占拠して許可通りに行われた。また、この手の行動は、主催者発表による参加者数がお手盛りされるのが常だが、警察発表や報道機関等の検証によると、実際に2万数千人程が集まったと推測される。

 さて、反天連という団体がある。反天皇制運動連絡会と称するこの団体は、名称からしてストレートであるが、天皇すなわち日本国及び日本国民統合の象徴(憲法1条)を破壊しようと試みている団体である。皇室への侮辱は日本に対するヘイトスピーチそのもののように思われるが、この団体のデモ行進も毎年公安委員会が許可を出し、警察の警備・車線規制の下、東京の真ん中で行われている。

 このように、デモ行進は幅広く認められてきた。繰り返しになるが、表現の自由、集会の自由などが基本的人権であり、民主主義の根幹だからだ。


・デモの警備とは、デモ隊を守ること〜法の下の平等と法執行機関
 最近流行りの「立憲主義」という古い言葉がある。憲法は国家権力を縛るものである、法律は憲法の許す範囲内で制定されなければならない、という考え方で筆者も同意する。警察は権力そのものであり、法執行機関である。

 今回のデモ参加者は十数人、デモ反対派は数百人という。表現の自由、デモ行進の自由を守るべき警察は、たとえ法を犯すものが多数派であっても、法の下の平等によれば、取り締まらなければならない。今回、治安機関たる警察は、デモを止めるよう説得したという。倒錯している。今回制定されたいわゆるヘイトスピーチ対策法には、禁止規定や罰則はない。デモンストレーションそのものの是非について治安機関の出る幕はないはずだ。

 民族派団体によるデモンストレーションは、これまでに中止等を求めて訴訟を起こされることがあった。しかし、それはデモ実施後であり、民事訴訟だった。しかし、実施前に、治安当局が中止を勧告するというのは聞いたことがない。戦前の官憲か、はたまた独裁国家と見まがう。

 今回、デモの中止という異常事態になったことは何を意味するだろうか。日本は、表現の自由が貫徹されない社会に一歩近づいた。小さな一歩であるが、末恐ろしい。将来、息苦しい社会になる可能性を考えざるを得ない。少数派が官憲や多数派に押しつぶされるという・・・。
 

警察官「これは危ないから。混乱してるの」

デモ参加者「(反対する市民を)排除すればいいんだよ」

警察官「できない。これはできない。これが国民世論の力なの」

デモ参加者「これ(デモ)が国民世論だよ。何が世論で警察が警備するんだよ」

警察官「止めよう」

TBSより
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2791314.html

 警察官失格である。法執行機関であるはずの警察が、デモンストレーションをやめるよう説得し、あまつさえ違法にデモを妨害しようとしている反対派の排除を、世論を理由に拒否している。法執行機関としての役割放棄だ。「危ないから」「混乱しているから」警備するのではないのか。安全にデモ行進の権利が行使できるよう国民を守るのが役割ではないのか。道路への座り込みなど、デモ妨害側の違法行為をやめさせるのが警備ではないのか。筆者は差別的表現を繰り返すデモは恥晒しだと思う。主催者団体を非難する。しかし、この場面においてはデモ参加者の側が全く正しい。治安機関(の怠慢)によって表現の自由が侵害された。

 (正確には、警察はデモを強制的に止めさせることはできない。しかし、反対派の違法行為を意図的に黙認するという、実に卑怯な方法で「自発的に止める」という形を作り上げた。官僚的な芸術と言えるが、いみじくもTBSの映像に残ってしまったこの場面が、そのほころびを表している。)

 ちなみに、神奈川県警は、昨年夏の安保法制の参議院委員会審議の過程で行われた、地方公聴会(横浜)で警備を担当している。このとき、多数の市民が公聴会会場周辺に集まり、議員らが乗った車が国会に戻るのを阻止しようと、道路上に座り込みを始めた。警察は歩道に上がるよう指示、次いで従わなかった市民を排除した。当時世論は安保法制反対派が優勢であった。


・リベラル系メディアの倒錯
 今、リベラル系メディアの多くは、デモ行進の中止を好意的に捉えているようだ。今回のいわゆるヘイトスピーチ対策法制定でも、法成立を歓迎しつつ、禁止規定や罰則が盛り込まれなかったことを惜しむ論調が目立つ。しかし、仮に左翼系のデモが、反対派の妨害や警察の判断する「世論」によって中止に追い込まれたら、マスコミはどのように報道するのだろうか。皇室に対する侮蔑をヘイトスピーチとして禁止し、罰則ある法律が出来たら、どうだろうか。

 世論で警察が動く恐ろしさ、市民や行政の力でデモが出来なくなったときの恐ろしさは、実際にそうなってみないとわからない。警察が世論を判断するなら、反天連のデモなどたちまち潰されてしまうだろう。しかし、 「君の意見には反対だ。だが君がそれを主張する権利は命をかけて守る。」という言葉があるように、少数派も意見を述べる場所があってこその民主主義である。この根幹をリベラル系メディアは忘れてしまったのだろうか。許可されたはずのデモの中止を警察が説得する、という忌むべき状況に何の異論もないのだろうか。

 彼らはこれまで、権力は抑制的に使うべきで、表現の自由を最大限尊重すべきだと強く主張してきた。オウム真理教に対する破壊活動防止法(破防法)適用に反対し、特定秘密保護法に反対し、報道の自由ランキングの下落を安倍政権の責任と糾弾し、高市早苗総務大臣の発言を権力による圧力と非難してきた。しかし、今回はどうだろう。警察権力や多数の市民によって間接的にデモが中止に追い込まれたことを、歓迎こそすれ憂慮しているようには見受けられない。いわゆるヘイトスピーチ対策法の拡大解釈を懸念する声も大きくないようだ。

 今回のようなことが今後も起きるのであれば、やはり表現の自由を侵害しかねないヘイトスピーチ対策法には反対せざるを得ない。もともと拡大解釈の余地のある危険な法案だったのだ。禁止規定や罰則がないのは唯一の救いだ。一度成立してしまった以上、これを廃案にするのは難しいと思うが、このまま行くと人種差別でないものも「人種差別だ」として糾弾されかねない。「難民を受け入れたくない」とか「移民には反対だ」というデモも、社会的にヘイトスピーチと認定されてしまう恐れがある。今後も、デモ行進のルート周辺に多くの反対派が集まると、警察当局のさじ加減で警備が甘くなり、結果的に少数派がつぶされるかもしれない。


ヘイトデモが中止=反対派集まり騒然−川崎

 川崎市中原区で5日、ヘイトスピーチ(憎悪表現)を繰り返していた男性が計画していたデモが中止された。開始直前に男性が神奈川県警に中止を申し入れた。

 県警によると、集合場所となっていた中原区内の公園周辺では、午前11時半の開始予定時間前からデモに反対する多数の人が集まり、騒然となっていたという。デモの許可申請では参加人数は10〜50人、目的は「日本浄化」とされていた。

 男性は当初、川崎市川崎区の在日韓国人が多く居住する地域近くの公園でデモを計画していたが、同市がヘイトスピーチ対策法の成立を踏まえ、5月30日付で公園使用を不許可としたため、場所を中原区に変更した。

 一方、横浜地裁川崎支部は2日付で男性に対し、在日韓国人の支援団体である川崎区の社会福祉法人から半径500メートル以内のデモを禁止する仮処分決定を出していた。(2016/06/05-19:50)

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016060500293&g=soc

川崎のヘイトデモ、出発直後に中止 反対の数百人が囲む

編集委員・北野隆一 2016年6月5日12時44分

 川崎市中原区で5日午前に排外主義的な団体が計画していたヘイトスピーチのデモが、出発直後に中止された。この日は十数人が日の丸やプラカードを持って集まったが、ヘイトスピーチに反対する市民らが数百人で取り囲んだ。神奈川県警も中止を説得した。

 この日は午前10時ごろからデモに反対する市民が中原平和公園に集まった。反対する市民が取り囲んで「ヘイトデモ中止」「帰れ」と叫び、路上に座り込んだ。デモ隊は午前11時ごろ集まり、プラカードを掲げて10メートルほど進んだが、反対する市民に阻止されてそれ以上進めないまま、警察の説得に応じて11時40分ごろ、中止を決めたとみられる。

 川崎市川崎区の桜本地区で在日コリアンが理事長を務める社会福祉法人が、同地区周辺でのヘイトスピーチデモ禁止を申し立てたのに対し、横浜地裁川崎支部は2日、デモ禁止の仮処分決定を出していた。また川崎市も、周辺の公園使用を不許可処分としていた。これに対し、主催団体の男性は場所を変更し、川崎市中原区中原平和公園からのデモ実施をネット上で予告。神奈川県警は、デモのための道路使用を許可していた。

編集委員・北野隆一)

http://www.asahi.com/articles/ASJ65439SJ65UTIL00Q.html

(社説)ヘイト禁止 「点」を「面」に広げよう
2016年6月4日05時00分

 あす川崎市内で予定されていたヘイトデモに、行政と司法の双方から待ったがかかった。

 「不当な差別的言動は許されない」と明記したヘイトスピーチ対策法が成立して1週間余。ヘイト行為の根絶にむけて、意義ある一歩が刻まれた。

http://www.asahi.com/articles/DA3S12392122.html?ref=editorial_backnumber