平成19年10月3日(水曜)、曇り



 昨日のY.N.さんからの手紙、そして私のこのブロッグへの登載について、同級生に連絡し、見て読んで考えてくれるように依頼した。

 それにしても、Y.N.さんの手紙の各ページの最後に面白いことが書いてある。我が家の老妻や娘にも手紙を見せてこれなんだろうとワシが訊ねてみた。

つまり、こういう文言である。1頁下『俺はこんな所に居る人間じゃない』、2頁下『他の奴らより俺はましだ!』、3ページ下『こんな奴らと同じにしてくれるな』、4頁下『病気にならなかったらこんな俺ではないはず』これらが、緑、橙、草色、黄色でアンダーラインがしてあってどうも、独立文らしい。



 『お父さんが、不養生で脳梗塞でも起こしたら、こんなこと言っても後の祭りという戒めの言葉よ。』と誰かが言ってケリ。??。>

 Yahoo オークション関係、全部すんでこの方のことの今回のことは終了。



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 卒業生のY.N.夫人から次のような便りを頂いた。そして私は介護をされる老人の無念さと同時に悲哀を、また老人介護の負担の増大、問題点をいろいろと感じ、自分の健康管理をいまより更に徹底すべきだと思った。

 介護を必要としている老人とはどんな状況か?

 老人介護とは何か?を次の手紙は語っていると思うので以下に紹介したい。



卒業したY.N.夫人から私宛の手紙(部分的補正、補遺がある) 

 (前文省略)先日介護の実習で特老の施設に行ってきました。女性人数も多く大半が70代後半の方ばかりでした(最高98歳)。60代で車椅子の生活、24時間おしめを使用しなければならない方もありました。

 これらの人達は刺激の少ないコンクリートの四角い部屋の中での生活で、認知症状は更に進んだとしても、陰部を丸出しにして若い女性や自分のこどものような若者に体を任せなくてはならない(事に対する)悔しさがそのお顔ににじみ出ていました。(私とても患者の気持ちを察し)とても辛い2日間(の実習)でした。



  きれい事ではなく、本当に汚い仕事です。心はきれく(きれいで)やさしいひとばかり、でも実質やらなくてはならないことは「食べる」、「排泄」のくりかえし。それがすべて他人の手で生命を維持しなくてはならないのです。

 自分も60歳を前にして良い勉強のチャンスを頂きました。



 そして、そこで働いてくれている若い人達に参りました。申し送りに出席させて頂いた時は、取り立てて特別な事をやれそうに見える人は居ませんでした。 

 むしろ、申し訳ないけど、頼り無さそうな、能力の無さそうな弱弱しさえかんじる人もいらっしゃたのです。 

 ところが、仕事にいるやいなや、顔つきは変わり、自分の立ち位置から360°目と耳、便の臭いを嗅ぐ鼻までがすばらしく働くのです。



 私の家の娘に比べて、この人達の生き方のちがいに、体を四つ五つに折ってお礼を言いたい気持ちでした。



 私はと言いますと、情けないことに3回ほどトイレで吐いてしまいました。体力も気持ちもまだまだ修行が足りません。2日間働いて(実質1日7時間労働)2日間休養しました。 

 彼らのお給料は安いそうです。パートの40代位のおばさんが入浴補助を腰にベルトをしてやっていましたが、とてもテキパキと1人で20人位任されていましたが、やはり安い賃金でした。誰でも出来る仕事ではありません。よだれまみれの頬にだれがやさしく頬ずりできますか?家族でないのにフケだらけの髪をなでてあげれれますか?しっこのしみこんだ靴を履かせてあげられますか?=まいりました。= 



 そんな訳で、先生が元気に81歳でいてくれているのに嬉しい気持ちでいっぱいでーす。アンタハエライ。 

 主人の父も83歳です。この夏は世界陸上を観るため我が家に10日程九州からやってきましたが、元気そのものです。自分もマスターズで円盤、砲丸のレコードを持っているので熱心に競技場に通っていました。

 今も独りで毎朝トレーニングしています。=来年も元気な顔で会えるといいですね、=ちょっとお便りしたかったのよ。

 また、気分を変えて絵を描きました。メールで送ります。京都の寺の階段の下から桜の木を見上げた絵です。先生に(も出品を)すすめていた展覧会に出品します。F25号です。



 35回も同窓会が続いているのは、先生がげんきでいてくれるからです。遠い所から来て下さる人もいるのですから。先生が出席して下さらないと楽しみが半減します。
来年も再来年もお元気でいていて下さいね。



 走り書きのミスだらけのお便りに成りました。

 仕事行ってきます!!10月6日は保育所の運動会です。私はウサギI組係です。

          Y.N.



「俺はこんな所にいる人間じゃない」 

 など、など私が言いそうな、無念な言葉が便せんの端に書いてあるけど、多分『注意しないとこんな事になるよ、親爺(オヤジ!)と言う戒めと理解したが、省略』。

 尤も、老人介護については、彼女の爪の垢ほどもワシ自身は持ってはいない。そんな己の無知を知らしめてくれた彼女の手紙、そしてワシ自身の健康を気遣い、年に1度のクラス会に出席するワシを心待ちにしてくれる彼女達に感謝し、彼女達の身の上に幸せあれと念ぜずにはおられない。

 『負(お)うた子に浅瀬を教えられ』、彼女らに手を引かれて80の坂を越した感じのする昨今、彼女らへの感謝と共に同窓会に来年も元気に出席できるように更に健康に留意したいと思っている。有り難う皆さん。


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音楽の紹介(New)

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池田重利公

 池田 重利(いけだ しげとし、1586−1631)、重利については新宮町史第6巻,
P7以降に詳しいが、その要点を以下に述べたい。


池田重利は下間頼龍(しもつまらいりゅう)、(本願寺執事職)家の長男として生まれます。幼名を下間源十郎ともうしましたがこれが後の下間頼広(しもつまらいこう)、池田重利であります。



 当時、本願寺一向一揆の主戦派と講和派に分かれ内部対立をしておりまして、顕如と言う人と教如と言う人が対立しておりました。下間頼広教如側についておりましたが、権力闘争の常として顕如側が勢いが盛んなときは教如側は多くの者が謹慎を命じられるなど冷遇をされていたわけです。


 徳川家康教如に同情し、慶長7年別の本願寺を京都堀川に建ててやりました。つまりいまの東本願寺であります。かくして浄土宗の東本願寺西本願寺の対立は諸国の末寺にいたるまで、どちらかに所属するかということでも対立を余儀なくされた訳であります。


 父の下間頼龍は教如を助け東本願寺の設立に功績があったので、教如は頼龍に頼広を次の東本願寺執事職を約束しておりました。

 ですが、この教如と言う人、癇癖の強い人だったのか、慶長14年6月頼龍の死後、周辺の者共に蟄居を命じております。そとき頼広も蟄居を命じられました。


 そこで下間家では、頼龍の未亡人七条(池田輝政の異父の姉)が池田輝政教如への取りなしを依頼するが、教如は応じません。ですから、池田輝政教如東本願寺)との新たな対立も生じました。(家康からの信任の厚い池田輝政{夫人は家康の娘、督姫}、家康の庇護の厚い教如、その関連に輝政は期待したのかも分かりませんが、教如は聞き入れません。この教如の態度に憤慨した輝政は、自分の領内の真宗寺院に東本
願寺をはなれて西本願寺の方に転派させてしまいました。)


 こうしたことから輝政は、姉とその子女達を本願寺から引き取って養うことになったと言われています。頼広そのとき24歳。


下間越前守重利(しもつまえちぜんのかみしげとし)

 輝政は、頼広を見て、その剛毅な天分をみてとり、三千石の知行を与えて、武将に取り立て、長子の武蔵守利隆に属させ、利隆の一字をとって、名も下間越前守重利と改めさせました。輝政の死後、利隆は先妻の子であり二男の忠継ぐが督姫の子である等のことで池田家に多少のゴタゴタがありますが、これは省略して、利隆は播磨で四二万石領したことのみ記しておきます。


池田重利となり池田家より同族扱いとなる

 その後、利隆は慶長18年6月姫路城に入り、下間重利も利隆に従って姫路城に入りました。11月利隆は重利の知行地を変え、揖西郡加古郡、明石郡を合わせて三千石とし同時に下間氏を改めて池田姓を称させ、同族として待遇する事となった。翌年には池田氏重臣として徳川家康に拝謁している。



池田重利新宮藩の創設

 大坂夏の陣(1615)では尼崎城を守って戦功があり、戦後に家康から1万石を与えられて大名となった。寛永3年(1626年)には播磨国揖東郡に移封、新宮(現在の兵庫県たつの市新宮町)に陣屋を設置し、新宮藩を創設した。



池田重利公の肖像




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 この絵は、重利の女婿、榎本新右衛門が描いたと言われている。”藩祖の像”として新宮町梅岳寺に保存されていると言う。(新宮町史第6巻、P17 より転写)



池田重利公の御歌

八十一 問人のあらはとまちし山さとは

     なを世をすてぬこころなりけり

     訳=訪れてくれる人でもあればよいがと心待ちにしている山里の生活は、そう思う心だけで世を捨てきっていない私の心の表れです。


八十二 山にすむ人もやものをおもふらん

     宮こばかりのうき世ならねは

     訳=山里にすむ隠遁生活者も何かと世間一般のことをなにかと思いますよ。都だけが憂き世(浮き世)ではありませんから。