宝塚歌劇雪組公演『星影の人』『ファンシー・ガイ』
本日11時の回を観劇しました。
<星影の人>
1976年、ポスト・ベルばら、ファンからのタカラヅカで沖田総司を、という気運の中、汀夏子さん主演で上演された作品である。私は初演を映像で拝見した程度だが、汀夏子さんの沖田総司の爽やかさと儚さ、そして高宮沙千さんの芸妓・玉勇の情感に満ちた演技が心に残る作品だ。今回博多座のみの上演で雪組新トップスター、早霧さんの沖田総司を観ることが出来た。
パンフレットには作者の柴田先生と演出の中村先生の言葉がそれぞれ書かれている。
柴田「沖田の行動範囲の中で触れ合ってもおかしくない女性で、環境の異なる三人の女性を配してみた。沖田総司はこのような想像上の恋物語の面に標準を合わせて描くに当たっては、彼が所属拠り所とした新撰組を描くことになるし、新撰組を描くとすれば幕末の動乱や世相とは無縁ではありえない。このドラマは様々なフィクションを交えて、沖田総司の短い青春を哀しく謳おうするものである。」
中村「『星影の人』での総司と芸妓玉勇の恋は、総司に生きていることの喜びと切なさを与えます。『星影の人』では、そんな総司の爽やかな青春の姿を描いていきます。早霧せいなの、沖田総司の剣士ぶりをお楽しみください。」
作者は沖田の青春を短く哀しいと書き、演出家は爽やかと書いた。作者は剣士ぶりを描こうとは書いていない。動乱期の一人の青年を描こうとしているだけなのだ。
つまり、作者の意図が演出家に届いていない。
主演二人の演技は想像を遥かに超え、とても上手だった。特に咲妃さんの芸妓・玉勇は宣伝ポスターの幼さの残る印象とは反して芸妓の落ち着いた感じも出ていたし、沖田への想いを歌うところは、情感が込められていて良かった。また、早霧さんの沖田は、初演の汀さんは幼さの残る、恋に初心な少年に対し、もう少し大人の沖田だった。主演コンビはそれぞれの解釈で人物を掘り下げていたように思う。
総じて悪くない作品だったのだが、どうも今ひとつしっくりこないと感じた。再演物は初演と比べてしまうから感情移入しにくい、ということが一つ。今一つには、芝居のテンポが早過ぎたところか。場面場面がぶつ切りの如く変わるのと、音楽が生演奏ではないから、芝居が淡々と進んで余韻が感じられなかったところが気になった。これは生徒さんたちが悪いのではなく、演出が悪く、またテープ演奏の悲哀である。
芝居は間、呼吸であると柴田先生を仰っていたけど、成る程そういうことなのね、と今回感じた次第。
早霧さんと咲妃さんのコンビは芝居心もあり、素敵だった。賢明な二人はこの作品を作り上げるのは大変な労を要したと思う。だからこそ再演物ではなく、オリジナルで実力を発揮してもらいたいと強く思った。
蛇足であるが、気になったのは娘役陣。どうも役の割に印象が残らない。作者の意図が理解されていないらしく、沖田の周りに配した女性たちも他の女性たちも物語の上できちんと精査されていない。そして日舞が 揃ってない。これは新選組の群舞にも言えることで、息が合ってないし、オープニングは「ちょっと長いな」とまで思った。そこで時間を取るよりは、別の場面で時間をかけて演技して欲しいところは何ヶ所もあった。
結論:作者と演出家の意図が違うなら上演するな。(生徒さんたちは決して悪くない)
<ファンシー・ガイ>
パンフレットにおける演出家の言葉、「『ファンシー』と名乗るショーも35年前の星組でのデビュー作ファンシー・ゲーム以来4作目になりました。」にちょっと驚く。三木先生もそんなお歳か。
ショーは楽しむものだから、手拍子をよくやっていた。少し疲れたが、少ない人数ながら客席降りもしてくれた。私の友人は通路側だったから男役さんにハイタッチしてもらえた。知ってる歌が次々と出てきたので、年配の方も楽しまれていたようだが、この曲にシンセでアレンジしちゃうの?なんてものは何曲かあった。まあ、ショーだからね〜とは思う。で、知ってる曲があり過ぎて、結局主題歌が耳に残らないという事態に陥った。やっぱり何回も歌ってくれないと覚えられない。
展開も飛躍するものが特になく、淡々と過ぎた感じを受けた。あと、一人で舞台をもたせるって難しいものだと痛感。
以上、自分のメモも込めた感想でした。
追記:人材の育成は急務だね、これは。(いろんな分野で)
小倉の旅
今日は一日小倉城とその周辺を旅しました。
メモ程度に行ったところと感想をば。
①小倉城
決して城めぐりが趣味ではないのだけど、目的地に城があれば私は城を目指している。
小倉城は小振りの城で、こう書いては何だが、安心する大きさだ。
大きな城は観て回ると時間がかかって、終いにはめんどくさくなってしまう。
その点、小倉城は短時間で観ることができた。
中は工夫を凝らしていて、先ずは小倉の下町の一日をジオラマと光、ナレーションで再現。
小倉城の成り立ちも教えてくれた。
その他にも各階に体験ゾーンが。
ボタンをひとつ押したら前後に揺れる大名かご、飛脚と足の速さを競うゲームなどなど。
家族連れの方が楽しそうにやっていた。
まあ、私もいい年してやってみたのだけど(笑)
②小倉城庭園
私の主目的。
ここの企画展で『大正・昭和のオシャレ女子』をやっていたので、それを観に行った。
庭園自体も素敵でしたが、展示物が面白かった。
常設展では日本の作法や儀式について。
小倉の伝統行事や贈答についても展示されていて、興味深かった。
で、企画展はというと、小振りながら観たことがない抒情画がたくさんあった。
あと、驚いたことが全ての展示物が『個人蔵』。
マジか、と一人で驚きの声を上げてました。
個人的には、
高畠華宵の『あじさい少女』『七転八起海運出世双六』
小林かいちの『彼女の青春』
志村立美の『舞い』
が素敵でした。
図録があれば即買いだったのだが、小さな企画展の為作成されていないとのこと。
③松本清張記念館
御一人で推理小説、歴史小説、果ては古代・現代史の研究までされた知の巨人のような松本清張の生涯を学んできた。
松本清張の作品はそんなに読んではいないが、展示物は丁寧に各ジャンルの作品や松本清張の考え方がわかるつくりになっていて、十分理解できた。
松本清張の生涯を22mの年表で当時の世相も交えて展示されていたので、そちらもわかりやすい。
順路を進むと、『思索と創作の城』と題して、東京で執筆活動をしていた家を再現・展示されているコーナーへ。
書斎は特にリアリティーがあり、松本清張の執筆姿を想像しつつ、同時に凄さを感じた。
以上。
ひとつの場所にこれだけの施設があると本当に便利だ。
宝塚歌劇ファンの品とは
先ず、ファンの意味を調べてみた。
『特定の対象に対する応援者、愛好者』のこと。『狂信者』を意味するファナティックという英語から由来しているとのこと。
東京宝塚劇場では星組トップスター柚希礼音のさよなら公演中だ。
その中のショーにおいて柚希さんが客席降りをする場面があるらしいのだが、その際の客席のマナー悪さが波紋を呼んでいる。
曰く、柚希の袖を引っ張る、自分の席に来ないからといって席を立って柚希の近くに来る……。
このような情報が耳に入り、残念を通り越して呆れてしまった。
スターとハイタッチしたいという気持ちからなのか、ただのやじうま根性なのか。
いずれにせよ、やっていいことと悪い事の区別がつかない人が多いのだなと改めて感じた。
まあ、何もそんな人がいることは今に始まったことではない。
宝塚歌劇において、ベルばらブームが起こった際のスターさんたちへのファンの追っかけはひどかったと聞く。
雑誌『歌劇』の読者投稿欄“高声低声”において、このような苦言がある。
ベルばらはスター育成の役目を果たし、世間の目を宝塚に向けることができた。数々の成果を上げ、話題も呼んだ。しかし良いことずくめばかりではなかった気がする。「ベルばら公害」というべき現象を見るにつけ、ファンの質の低下を誰もが感じているのではないか。(中略)爆竹的拍手、写真のフラッシュ、これも全く同じこと。他人の迷惑を考えない行動は、生徒も自分のファンには望んでいないはずだ。それと楽屋口でのスターへの猛獣的アタック。押されて転ぶ人もいるし、こんな姿、ファンとして情けない光景である。宝塚ファンは上品に振舞わなくては見苦しいですよ。“花のみち”は何故あるかご存知?桜の木陰からスターの素顔を垣間見て、幸せな気持ちで歩くプロムナードなのだと私は考えていたい。それが花のみちから手当たり次第に突進していくサマは、得物を見つけた猛獣に見えて仕方ない。
この、『猛獣的突進』と云う言葉が、今回の事態と似たものであると私は感じた。
当時は客席ではなく、楽屋口の現象であったが、それが時代を経て客席にまで侵食していていることには驚きあきれるばかりだ。
もしや、当時猛獣的突進を企てた人たちが今度は客席で突進しているのではあるまいな、などと余計な勘繰りをしてしまう。
ちなみに、ベルばら初演当時のスターさんたちは楽屋口に出たらファンにもみくちゃにされ、触るを通り越して叩かれるほどの痛みを感じたそうだ。
『歌劇』で生徒がエッセイを書いているが、その文章の中にはそれについて言及し、「痛いから止めてくださいね」と仲の良い同期が読者へ呼びかけているものもある。
それほど当時のスターさんたちは舞台以外で大変な思いをしていたのだ。
時を経て、現代。
情報化社会と云われ、ツイッターなどのSNSが盛んになっている今、私が問題として挙げたいものがある。
それは、『楽屋口での生徒さんたちの写真の氾濫』である。
肖像権、プライバシーを一切無視した行動。
極端なことを云えば、ストーカーと一緒、相手のことを慮ることのない行動だ。
生徒さんが「どうぞ、やってください。それが私の宣伝になるのならば」と云ってるのであれば話は別だ。(まあ、そんな生徒は宝塚歌劇団失格である)
やっている本人は、「生徒さんを応援するため」と思っての行動だろうが、それは上記の猛獣的突進と同じで生徒の痛みを理解しない人間の行動だ。
それを楽しんで見ている人もまた、猛獣であると私は思う。
情報は湯水のように落ちてくる。
しかし、それを選ぶのは個人個人だ。
宝塚のファンは『狂信者』であってはならない。
夢の国に魅せられたのなら、夢の国に相応しい品を持たねばならない。
皆様は、いかがお思いでしょうか。
春・雑感
気付けば、新年度。
気持ちが改まる間もなく年度末、新年度を迎えるのは勤め人のサガなのか。
しかし春がきて、気温も上がってきたので少しずつ防寒着を脱ぎ捨て、春らしい色とりどりの服を着られるようになった。
私は寒がりなので冬はコートにイヤーマフ、マフラー、手袋と完全防備だから、からだも軽くなった気がする。
春は出逢いと別れと云うけれど、別ればかりで出逢いがない。
同じことの繰り返しで、新しいことに取り組めていない自分が歯痒い。
とりあえず、今月くらいからレッスンに通おうと申し込みをしてみた。
応募多数の場合は抽選だから、果たしてレッスンに通えるかわからないけど。
まあ、一歩を踏み出してみたという感じである。
潤いが足りない。
からだも勿論だが、心の潤いが一番足りない。
平日は仕事中心であくせくするから、休日になって遊び回る気力がない。
仕事で心を砕くのはもう嫌だ。
せめてGWはどこか旅行へ行こう。
『めんたいぴりり 博多座版』
舞台の『めんたいぴりり』を観た。
この作品、2013年の夏にテレビ西日本が開局55周年を記念して製作された作品のドラマ版である。辛子明太子を普及させた「ふくや」の創業者をモデルに、福岡が生んだ漫才師、博多華丸大吉の華丸さんが主演を務めたこのドラマは、華丸さん曰く「東のあまちゃん、西のめんたいぴりり」ぐらいの高視聴率を“(放送された)福岡県だけ”マークした。
私も当時はリアルタイムで観られないので、録画して観ていた。更には総集編やら再放送やらも観たからもう何度となく観て、その度に笑い、泣いた作品である。
舞台版があると聞いて、これは是が非でも行きたいと思い、母と二人で観劇してきました。
一部Wキャストになっていて(岡村吾郎役)、ドラマ版でも同役をされた西村さんが出演された回である。
では、以下は感想です。
めんたいぴりりを知らない人には説明不足な点も多々あるとは思いますが、ご容赦を。
舞台版を観るにあたっての注目ポイントは3つあった。
①ドラマ版を舞台版でどうやって凝縮するのか。
②ドラマ版で「ふくのや」を支えた肝っ玉お母さん、千代子さんのキャストが富田靖子さんから酒井美紀さんに代わるに当たり、どう変化するのか。
③私の愛する“スケトウダラ”役の大吉先生は映像出演と書かれているが、あの軽妙なやり取りを映像でしのげるのか?
この3点を軸に感想を書く。
①ドラマ版を舞台版でどうやって凝縮するのか。
前半と後半でいうと、断然後半がうまくまとめられていた。前半はとにかく話の筋を入れ込もうという感が出て、なんていうか展開に無理なところが見受けられた。そもそもあの話を2幕14場で収めるのは難しい。そりゃとっかえひっかえいろんな登場人物のエピソードを入れないと終わらないわな〜、と思いつつ前半を観ていた。が、後半になったらドタバタした前半とはちょっと趣が変わり、辛子明太子を作ることを通して戦争で亡くなった仲間、今の従業員への愛と絆をしっかり描いていた。ふくのやの発展の為にと奔走する従業員が自転車で舞台狭しと賭ける姿は迫力があったし、ふくのやの主人、俊之と千代子の思い出の山笠も、本物の山笠が登場したときはなんだかもう涙が出た。喜劇ってこうだよね、と本気で思った。吉本新喜劇みたいなずっと面白いものが喜劇ではなく、藤山寛美さん……今は藤山直美さんがされているような喜劇(笑いもあり、人情もあるもの)が観たかったので、図らずともこの舞台版めんたいぴりりはその意味では笑えるし泣ける、素敵な喜劇になっていたと思います。
②ドラマ版で「ふくのや」を支えた肝っ玉お母さん、千代子さんのキャストが富田靖子さんから酒井美紀さんに代わるに当たり、どう変化するのか。
これはね、かなりうがった考え方だとは思うのだけど、やっぱりドラマで富田靖子さんがあまりにも的確な演技をされていたから、酒井美紀さんは本当にどうなさるんだろうと思ってたんです。でも、富田さんの描いた人物像を踏襲しつつ、富田さんにはない、やわらかな部分も併せ持った千代子さんになっていたと思う。でも、何度も俊之さんに怒鳴るの大変だったと思うわ・・・。
③私の愛する“スケトウダラ”役の大吉先生は映像出演と書かれているが、あの軽妙なやり取りを映像でしのげるのか?
ドラマ版では良い味を出していたスケトウダラさん。忙しい大吉先生は映像でどんな風に華丸さん演じる俊之さんに絡むのかと思ったら……いや、工夫されてましたよ。2画面使いましたか。詳しくはね、これがある意味唯一のネタバレになるから書かないけどね。でも、やっぱり映像だと間が良くないね。漫才師の博多華丸大吉には辛い選択だったろうと思います。勿論面白かったけど、ごめん、若干ダレていたのもわかっちゃった。
以上。長々と書きました。
博多座は本当に良い劇場です。
しかし演目が限られている。
今のところは次回は宝塚歌劇の雪組公演をおっかなびっくり観劇かな?と思っています。
ある、言葉の話。
またもブログが滞っております。
我ながら情けない。
どうも仕事中パソコンを使用しているので、家に帰ってまでパソコンを開く気にもなれず、またパソコンの部屋が寒くて近付きたくもなく……そんなこんなで滞っている次第です。
面目次第もございません。
さて、言葉の話。
職場が自分を含めてネガティブな言葉であふれていて空気が良くないこともあり、言葉探しを再開しました。
ポジティブな言葉、というよりは力のある言葉を。
努力している人の言葉には力があります。
そんな言葉に触れると、己の心の弱さなり愚かさなりを反省します。
生き方が言葉につながるのだと、改めて思うのです。
私は言葉を発信できる生き方が出来ていないと、つくづく思います。
今日は録画していたNHKの戦後証言・三島由紀夫の回を観ました。
市ヶ谷駐屯地で自決されたことは有名ですが、それに至るまでの心の動きを肉声や他の人の証言によって紐解いていた番組でした。
一人の作家の、日本という国への危機感。
そして自分の生き方への決着を観た思いです。
“一生懸命”と云う言葉があります。
この番組を観て、ふと悟りました。
「懸命って、命を懸けるって書くな。。。」
と。
三島由紀夫の演説の風景を観て、「あ、この人は命を懸けて生きて、そして死んだのだ」と至りました。
途端に今まで軽々しく「一生懸命頑張ります」などと使っていたことを恥ずかしくなりました。
己の一生とはなんぞや、と。
三島由紀夫は問うてみせ、死んだのですね。
現代を生きる私たちは経済大国日本が当たり前になり、ほぼ総中流社会となり、それなりに贅沢をして生きています。
しかし、心の豊かさはどこまであるのでしょう?
主義主張を言葉に出来ず、否、深く考えることもしなくなり、ネット社会の網目の中で顔を埋めて生きている。
私たちが今必要なことは、己の存在を深く考え、その土壌にある日本という国の文化や歴史、そばにいる家族、まわりの人、そして社会を考えることなのではないでしょうか?
安易に世論や出回る情報に踊らされ、同調し、批判していていいのでしょうか?
三島由紀夫と云う男の人生を垣間見て、深く考えた次第です。
明けましておめでとうございます!in2015
明けましておめでとうございます。
2015年の幕が開きました。
本年も皆様にとりまして、幸多き年でありますよう祈念申し上げます。
さて、今年は曜日の都合が悪く、もう明日から仕事です。
母が足を怪我したので引き籠りになってしまったので、つられて私も引き篭りお正月となりました。
本とテレビばっかり。
怠惰なお正月でした。
と、云うことで今年の目標を掲げてやる気を出そうと思います。
①月に一度は舞台を観る!
福岡だし、毎月毎月良い舞台があるかわからないけれど、そこはアンテナを広げて観ていこうかなって決めました。
落語しかり、宝塚歌劇しかり、ミュージカルや歌舞伎……とにかくたくさん観たい。
とりあえずは今月何を観ようか考え中。
②部屋の大改造
部屋が本や服であふれかえっているので、さすがに断捨離してきれいにしようと思います。
部屋がすっきりしたら心も多少は美しくなるだろう。。。
③旅行に行く。
去年も書きましたが、書いておかないと行かないので今年も書きます。
目下は大学の友人たちとの二十代卒業旅行。
金沢リベンジです。
あとは神戸。神戸に行って、宝塚へ行って歌劇を観ようと思います。
④美脚になる。
下半身デブですから、下半身の……特に太ももと足首を細くして見目を良くしようと思います。
だんだん代謝が悪くなっていくから、代謝が良くなるように食生活も改善して運動もして健康的な美脚になります!
⑤年内に仕事辞める。
最後がちょっとアレですが……文句を云ってても始まらないし、もはや文句しか云えずに仕事してるんだったら辞めた方がマシ、と最近思うようになりました。
辞める為にはお金も必要なので、そこはしっかり貯めて、転職出来るように力をつけて辞めようと思います。
決断するのは私しかいないのだから、よく考えて、時機を逃さず辞めようと考えています。
今回は具体的に決めてみました。
目標掲げておいてやらなかったら恥ずかしいので(笑)
さ、今年も頑張って生きていこう!!