現行憲法の基本原理
- 現行憲法の特質
基本原理については、憲法前文から抽出するか、憲法典全体から抽出するかという考え方がある。さらに、後者には、明治憲法との比較(「国民主権−天皇主権」、「人権尊重−人権概念の不十分」、「平和主義−なし」)によるものと、外国憲法との比較によるものがある。このうち、日本国憲法の比較憲法史的位置付けを考えると、アメリカ型「法の支配」と第1次世界大戦後ヨーロッパ新憲法「議会制民主主義」の混成型ということができるだろう。
国民と議会の関係からいうと、「半直接民主制」と称せられ、代表民主制というヨーロッパ新憲法の系譜に属するとみられる。レファレンダムも憲法96条1項*1にみられるように制度として存在するが、実際の運用は、その細則であるはずの国民投票法がなく、現実として行うことができないようになっているという問題がある。
また、議会と政府との関係でいうと、第1次世界大戦後の「合理化」構想からくる議会支配型の「議院内閣制」がとられている。
そして、政治と司法との関係は、アメリカ型の「法の支配」ということができる。つまり「法の支配」の技術的構成になっており、基本的人権の列挙や司法裁判権の一元化、違憲立法審査制がとられているのである。
“癒し”のナショナリズム/小熊英二、上野陽子
“癒し”のナショナリズム―草の根保守運動の実証研究/小熊英二、上野陽子
ちょっと気になって再読。
(前略)彼らは「普通」を自称する。だがその「普通」がどんな内容のものであるのかは、彼ら自身も明確に規定することができないのだ。
そうした彼らが行うのは、自分たちが忌み嫌う「サヨク」や「官僚」や「アサヒ」を、非難することだけである。あたかも、否定的な他者を<普通でないもの>として排除するという消去法以外に、自分たちが「普通」であることを立証し、アイデンティティを保つ方法がないかのように。(後略) <p.197>
本書における(特に)この指摘は、個人的には充分な説得力を持つ。そして、それだけでなく、〝では、そのような「普通」を自称し、否定的な他者を排除する人びとが、私自身の目の前に現れたときにどうするだろう?〟という問題も提起してくれるのだ。
私自身は、本書でとりあげられている草の根保守運動を担う人びとが指摘されるところに、同義とされるものではないと思っている。少なくとも、排除の論理を拒否したいと考えている。言うならば、そういう人びとを私にとっては理解不能と排除するとか、寄らず触らずの態度をとることはしたくはないのである。しかし、逆に私自身が排除されてしまうというオチになるかもしれない。
では、この「排除すること」も「排除されること」も避けるためにはどうすればいいのだろうか。これに対する私なりの考えは、『イマジネーションの力』と『コミュニケーションの力』を十二分に発揮することによるということである。立場の異なる人びとの考えを相互理解しようとするには、一個人の視野の限定をとり払った『想像力』が大事だし、多人数の差異を乗り越える『意思・感情・思考の相互伝達能力』が大切なのではないか。。。(以上、あくまで未定稿です。)