氷が溶けていく

julien2004-03-06

ハートが破れそうだったのに、結構、冷静になれるもんなんだな、と自分を意外に思った。あまり引きずりたくないけれど、いざ、そういう気持ちになってしまうと、嫌でもあの時の記憶が甦ってくる。自分があまり誰かを好きにならないっていうのは、防衛本能が関係あったのかもしれない。
好きな人の前にいると、自分がうまく出せないっていうのは、シャイな人には当たり前なのかもしれないけど、私のようなものにとっては結構驚きだった。嫌われるにしろ、好かれるにしろ、凄く辛いものだ。自分を全然見てもらえないか、素を出したら嫌われるか、いっつもそんな気持ちでいなきゃいけない。

私は好かれているより、誰かを想っているほうがずっと好きだ。去年の5月から永久に凍土のままかと不安だったけど、そんなことはなかったことが素直に嬉しい。
恋愛とは無関係にいろいろ思うところが多かったことも影響あるのかもしれない。相手に入っておいで、っていうより、もっとドアを広く開けてあげるほうが先なんだよって。親父の言ってたことが分かったよ。なんだか、最近の自分が素直に自然に好きかもしれない。

The Cardigans / Emmerdale (1994)


スウェディッシュポップって言えば「カーディガンズ!」って答えが返ってきそうなくらい人気ものの彼ら。
゛Carnival゛収録の2nd「Life」を聞いたのがきっかけで、ワナダイズ同様に「ロミオとジュリエット」にも使われた゛Lovefool゛収録の3rdも好きだったけど、どこか憂鬱な雰囲気のただよう1stが個人的にはいちばん聞き込んだ。
爽やかでキュートなイメージのあるカーディガンズだけど、この1stにはデリケートでメランコリーなものが表現されている。それは、ニーナの透明な声や、繊細なアコースティックギターだったり、オルガンやヴァイオリンが生み出すジャジーな雰囲気だったりするけど、やっぱり独特のメロディなのかな。M1゛Sick & Tired゛やM3゛In The Afternoon゛が伝えてくる感覚ってすごく分かるんですよね。
10代のある時期って、こういう憂鬱な感じを誰でも持つものだろうけど、それは悲観的でも悲劇的でもなくて、どっちかって言えば喜劇に近いものなのかもしれない。どこか滑稽で、でも、けして汚れてはいない気がする。なんとなく涙が出てきたり、意味もなく悲しかったりするようなものも、世界を受け入れていくなかでだんだん無くなっていってしまう。だけど、失いたくないものは、たいして悲しくないようなことにも涙を流せるような、そういうデリケートな感覚だと思う。バンジャマン・ビオレーが「生きている限り私はネガティブである」って言うのは、けして悲観的なわけじゃなくて、そういう感覚を守るためのような気がする。なぜなら、そう口に出すことには、結構な強さが求められるから。その強さは、人を傷つけたり、自分が欲しいものを手に入れようとすることには使われないようなもので、でも、大切なものを守るためには必要なものなんじゃないかって思えてきます。
この1stは、ネオアコに分類されたりもしますが、ネオアコの持ってるしなやかな葦のような強さが、そんなふうにちゃんと入ってるんです。
ASIN:B00005R0TS

ある女の子が見てるもの

こんなものが割と話題になっているって聞いたので、読んでみました。
タイトルは、もちろんNHKの『中学生日記』のパロディでしょうが、たとえば『高校生日記』や『大学生日記』なんてものを考えても全然興味が沸かない。『幼稚園日記』じゃ、あまりにリアリティないし、これは思いついたもん勝ちですね。
この子、hanaeはモデルをやってるそうで、どんなファッション誌に出てるかは全然知らないけど、雑誌の表紙やCMなんかでは見たことある気がする。TOKIOの長瀬が「うる星やつら」を歌ってるCMで、彼に投げキッスをしてる女の子ってこの子じゃないのかな。全然、小学生に見えないけど。
実際に読んでみると、そこらへんのコラムや日記より面白くてびっくりします。どうやら彼女のお母さんは大学研究員みたいで、彼女は微妙にACっぽい感じもする。「あそこ(ニューヨークの学校)は、わたしにとって天国だった」なんて、小6の女の子が書くこととは思えないよ。でも、文章自体は小学生らしいし、全体的に感じるこの繊細さはただ事じゃないですね。というか、本読んでることが多いって言ってるけど、重松清なんて小学生読まないよ、ふつう。なんか、すごい。少し可哀想な気がするくらいに。
でも、今年から中学生になるんだから、たぶんこの連載はもうすぐ終わり。「馴染めるのかな?」なんて他人事ながら不安になる。「せっかくやってきたのに、倒れこむようにゴールして終わりになりたくない。」なんで、こんなに先が見えるんだろう。すごいよ、本当に。自分が恥ずかしくなる。
小学校の時の記憶は、私もたくさん残っているけれど、彼女ほど密度は高くない。私のは不気味なほど「コドモ」のイメージでコーティングされてる記憶だ。

どうやらspoonで連載されてるみたいですね。今売りのではHiromixと対談だって。結構、興味あるかも。うーん、彼女の世界に引き込まれてなきゃいいけれど。私はヒロミックスのイノセント感覚は好きになれない。彼女の写真は繊細で綺麗だけど、小学生が見るものじゃない気がどこかするんだ。ヒロミックスも見えすぎる人だから。
きっと、この子はまだ見なくていいものまで見えちゃうんだろうな。見えすぎるってことは、どこか悲しい。アルチュール・ランボーみたいに。

ランボー再読

出かける前にはたいてい読みかけの本を持っていくけれど、今日はなんともなしにランボーの『地獄の季節』を指が選んでいた。
高校の頃はいつもカバンの中に入っていたけれど、最近は読めなかった。気分が乗らない。きっと、あの頃の自分がナルシスティックにランボーの足にすがり付いていたのを、いまでは意識して覚えているんだろう。
けれど、伸ばした指を引っ込めるほどには、自分に不信感があるわけじゃなくなったからなのか、結局、指先が勝った。電車に乗って、今読んだらどんな感じになってるんだろう、って何気なく思いながら読み始めた・・・・。
すると、無意識に目付きがどんどん鋭くなっていくような気がする。
完璧な配列で並んでいる言葉が、或る一つの美しいフレーズを生んでいく。けれど次の節でそれは完全に否定される。そうやって、永遠に続く地獄での往訪。
これほどとは思わなかった。読んでいくと自分が突き落とされるようで、本当に恐ろしい。けれど、そこから脱げ出すことが不可能なほどの、言葉の配列、リズムの調和。あまりにも真実であることしか書かれていないから、本を閉じることが逃避以外のなんとも思えなくなる。抜け出せず、私もまた地獄を往訪するしかなくなる。
気分転換や本を投げ出す以外の方法で、この地獄から抜け出る方法は一つしかないと思う。それは、多くの人が思いながらできなかったこと、挫折したことに、自分もまた巻き込まれてるってことなんだけど、それは、ランボーを超越すること。この人だけは、絶対に乗り越えなきゃダメなんだろう。
どんな手段を選んでもいい。彼の前では、幾百の理論が光を失うことは分かりきっている。彼を「読解」する程度じゃ、なんの意味もないから。けれど、彼の存在を受け入れつつ、それを乗り越えるための過程には、どれだけ多くの魔物や難関が待ち受けているんだろう・・・。その道には、多くの旅人の屍骸が横たわる。それを踏み越えて先に進むなんてことができるんだろうか。けれど、彼に「降伏」することはできない。彼の腕に抱きしめられるのは、きっとつらいことなんだろうな。自分さえも拒否する人だから。
ランボーを愛し、殺そうとまでしたヴェルレーヌの気持ちが分かるような気がする。ランボーを前にしては、感情はアンビヴァレンツにならざるをえない。

Book@LIBRO池袋


こういう本に手が伸びるのも、思想系の人間にとって「おたく」の存在が気になってしょうがないっていうのが理由なんでしょうね。東浩紀の同じく現代新書から出てる『動物化するポストモダン』を読んでしまうのも、別におたくの人みたいにアニメに固執してるわけでもないけど、当たり前のようにそれを消費してしまってる自分の問題でもあるし、なにより読んでないと置いていかれる錯覚に陥るという理論の抱える永久機関的原理も働いてる気がする・・・。きりがないってことですけど。
まだほとんど読んでないんでなんですけど、これは日本の裏現代史というか、バブル期の日本史とでも位置づけられると思う。大塚としては「若造」の東浩紀に対して「先行者」としてのプライドを見せ付けたって部分もあると思いますよ。『多重人格探偵サイコ』の原作者ってだけじゃなく、理論家でもある大塚の面目躍如ですね。パラパラ眺めても、これだけのサブカルチャー=「おたく」文化の歴史本もないはずで、しばらくは様々な分野で引用されること必須。あえて、エヴァンゲリオンで著述が止まってるのは、まだ様子を見るということなのかな。まあ、80年代論って書いてあるので、問題はないんですが。
そういえば、友達に買ったってメールをしたら、彼も今日買ったらしくて笑った。シンクロニシティですか?ところで、彼の話だと、週間ブックランキング1位なんだとか・・・。



追記:
大塚の言う「「差異化のゲーム」という記号論的なふるまい」があまりに日常的になってしまってて恐ろしい。「新人類」って私のことなんじゃないだろうかという気になってくる。
世代は違うけれど、大塚が言うように80年代に「おたく」と「新人類」という二つの種が生まれたとしたのなら、バブル期以降の私たちは自分で名乗る肩書きさえない「新人類」なんじゃないだろうか。差異化の戯れから、あの当時の新人類より自由になっているとは思えない。


泡のなかから生まれたヴィーナスという言い方は、詩的には悪くない表現だと思うけれど、実は何も生み出せないでいるだけなのかもしれない。差異化から逃れて、美そのものであることなどありえないから。「ありのまま」という言葉ほど危険なものはない。
ただ、カルチュラル・スタディーズの人達がやるように、表現のなかに権力の介入を見ていくことが、どれだけ意味があるかどうかは微妙だ。すべてが戯れならば、ランボーのように超越的な視点から言葉で打ち抜くほうが遥かに有効なのではないだろうか。


戯れから分析だけで自由になれるわけがない。インテリの困ったところは、分析的なテクストが、インテリではない人達、(あえてカルスタの用語を借りれば)「カノン」(古典)を読んだことのない人達にとって、まったくの無用な(というより、調和のためだけにレストランの片隅に置かれているような造花のプラント)ものになっていることを、彼らが「無学」だからだということで片付けて、そういう人達を眼中に置かないような、そういう感性にあるんじゃないのか?そのわりには、平気で「大衆文化」について論じていたりする。「お前らが喜んでるものは、こういうものなんだぞ。分かったか」と言わんばかりだ。でも、よく考えてみれば笑っちゃうよね、これは。浅田彰の名前を知らない大学生が、今どれくらいいるか知ってるの?でも、知らないことが悪いことだと思わない。少なくとも、「恥」には絶対にならない。それが現実でしょう。


私が持つ分析的なテクストに対しての決定的な不信感は、感じるということをあまりに無視しているところにあるのだけど、そもそも感じるべきものを言葉で解釈していく(名目は「権力の介入から表現の力を取り戻す」というものであっても)という行為が、自己満足なものに終わってるのに、それに対する自己言及はまったくもって欠けている。これはとっても惨めだ。ソクラテスが言う学問の原点に立ち返ったら?と言いたい。なんのために考えているのかを問えないインテリ共にはほんとうに困ったもんだ。


分析から創造が生まれるわけがない。批評は立派な創造ではあるけれど、背伸びをするべきじゃないだろう。小林秀雄に対して、恥ずかしくないですか?

*ちなみに、この追記は大塚さんに対するものではないです。思索に対しての自意識なしに、こんな本を書けるわけがないので当然ですけど。