神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

広隆寺弥勒菩薩半跏思惟像を観た京都帝国大学生の絵葉書:オールドブックス ダ・ヴィンチから


 碧海寿広『仏像と日本人:宗教と美の近現代』(中央公論新社、平成30年7月)105頁に、町田甲一が戦時下に京都の寺を巡ったとある。

 戦後日本を代表する美術史家の一人である町田甲一(一九一六~九三)も、東京帝国大学の学生時代に、友人と奈良に近い京都の寺(略)を巡っている 【町田一九八九】。それは、一九四三年の三月下旬のことであった。「戦争はいよいよ絶望的な段階に深入りして行く時期で、若いものは、少しでも心の糧になるものを、むさぼり求めている時代だった。古寺をたずね、古い仏像に心の安らぎを求める人が少なくなかった」。

 上記は町田の後年の回想だが、手元に京都帝国大学の学生が広隆寺弥勒菩薩半跏思惟像を観た感想を友人?に送った絵葉書がある。数年前さんちか古書大即売会で、オールドブックス ダ・ヴィンチから入手、100円。最近さんちかとは相性が悪く、初日に行っても拾えないので最終日に行く時もある。この時は初日に行ったのに買えず、最後にダ・ヴィンチの100円の絵葉書箱を漁っていて、見つけた気がする。
 この際言っておくと、ダ・ヴィンチの値札は大きな短冊でビニール袋の中に絵葉書の表面(宛名面)の方へ入れてある。絵葉書を漁る人はもっぱら裏面(絵柄が印刷)を見るのでそれでいいのだが、私みたいにもっぱら表面の宛名人や発信者、下部にある通信欄の記述に注目して買う人には値札が邪魔でしょうがない。一々開封する訳にもいかないので、何とかならないですかね。
 さて、この絵葉書はかろうじて「大阪の中学時代の友達」とか広隆寺の仏像を観たらしいと読めたこと、発信者が京都市上京区出雲路に下宿していることに注目した。もしや、第三高等学校京都帝国大学の生徒・学生ではないかと買ってみた。消印と発信者が重なって読みにくいが、消印は昭和15(又は16)年11月20日で、発信者は藤江金一郎のようだ。国会デジコレで調べると、藤江は、静岡県出身で昭和15年3月第四高等学校(金沢市)文科甲類を卒業後、京都帝国大学経済学部に進み、昭和17年9月に卒業している。本来修業年限は3年だが、戦時下のため臨時短縮されている。京大生かもと思った読みは、当たっていた。宛先は、大阪府島本村の森田茂である。
 葉書の文面は、9日に大阪の中学時代の友達と太秦広隆寺に行って、「宝冠弥勒」を観たことが書かれていた。感想として、

元来、神経が太くて何うしても、明瞭に美の本体をつかむ事は出来ないが、久し振りに、傑作に出会ふと、何だか、嬉しくなる。正面から眺め、横から□□□して居る内に、ふーんと感心して了ふ。何故、何所を感心するのかと言つても別[ママ]らない。全体からうける一つの電子見たいなものが、ぴん/\飛んで来て、□□□と言つた方が良い。まあそんな喜び方だ。
併し、最も、美しいと小生なりに感じた所は、頬に当てた指、五指の柔軟さである。此れは特に目立つ。

 藤江は、戦時短縮で京大を卒業して出征したのかもしれない。戦地で半跏思惟像を見たときの感動を思い出すことはあっただろうか。
参考:兵庫古書会館でオールドブックス ダ・ヴィンチから早稲田大学教授武田豊四郎の絵葉書を見つけたことは、「兵庫古書会館で武田豊四郎発の絵葉書を拾う - 神保町系オタオタ日記

古書あじあ號で買い逃した宗教雑誌?『復興』と買ってしまった婦人雑誌『日本婦人』ー日本婦人新聞社の衣川延治とはー


 四天王寺春の大古本祭りが終了しました。今回古書あじあ號が目録参加のみ*1で、会場は不参加でした。体調がお悪いようです。御回復され、次回を期待しています。あじあ號というと、均一台で買い逃した本を思い出す。「買った本より買い逃した本の方がいつまでも記憶に残る」というのは、古本者の皆様には共感していただけるだろう。
 あれは、5年前の四天王寺だった。あじあ號の500円均一台に背表紙に『復興』と書かれた雑誌の合冊版らしきものがあった。タイトルから関東大震災からの復興に関する雑誌かなと思っただけで、目次を見ることもしなかった。ところが、翌日吉永さんが入手され、民間精神療法に関する珍しい記事が載っていたという。悔しいので詳しい話を聞かなかった。そのためどういう雑誌とか記事の詳細も分からない。大谷大学図書館が創刊号を有する『復興』(大谷大学内復興社、大正13年1月)と同じものかどうか。
 私はその時のあじあ號からは、「心斎橋のヨネツ子供服装店と三条寺町のコドモヤ洋装店 - 神保町系オタオタ日記」で言及した『日本婦人』(日本婦人新聞社)5冊(大正12年4月~8月)を入手している。値段が付いていないので、店主に聞くと1冊1,000円だという。どうしても欲しい雑誌ではなく5冊5,000円ではなあと思ったが、今更返すのも恥ずかしいのでお買い上げ。まあ、京都発行の婦人雑誌で珍しそうだという意識もあった。

 30号(大正12年5月)の目次を挙げておく。目次に記載はないが、「宇宙の大愛に触れよ」の執筆者は帆足理一郎である。残りの無署名の記事は、編輯発行兼印刷人の衣川延治の執筆なのだろう。目次と共に挙げた「『日本婦人』の使命」にあるように格調の高い雑誌で、実用的な婦人雑誌というより修養雑誌、更には宗教雑誌の感がある。それもそのはずで、この時点では特定の宗教性をうかがうものはないが、国会図書館デジタルコレクションで見られる『報告書8(司法研究;第21輯)』(司法省調査課、昭和12年3月)に、「京都市左京区西福の川天理教信者衣川延治著「吾れ天地を語る」と題する著書は、宇宙間の現象を天理教独特の教義に依り説明するもの」とある。この衣川の住所は、『日本婦人』奥付記載の日本婦人新聞社の所在地と一致する。また、天理大学附属天理図書館が衣川著の『神言註解やしきの言葉』(天光社、昭和10年)を所蔵している。大正12年当時から天理教の信者だったかは不明だが、後に天理教の信者となっていたことになる。
 衣川の詳しい経歴は不明である。『新聞総覧大正11年版』(日本電報通信社、大正11年)によれば、『日本婦人新聞』(月2回)を大正10年5月12日に創刊している。中嶌邦監修『「日本の婦人雑誌」解説編』(大空社、平成6年1月)の「近代婦人雑誌関係年表」(三鬼浩子)によれば『日本婦人』は大正10年6月25日創刊*2なので、同時期に婦人新聞と婦人雑誌を発行していたことになる。京都で手広くやっていたようだ。入手した『日本婦人』の裏表紙には、髙島屋呉服店や大丸呉服店の広告が載っていて、宣伝効果があると評価されていたのだろう。なお、令和4年阪神百貨店古書ノ市でモズブックスから同誌68・69号合本(日本婦人会、大正15年8月・9月)も入手しているので、発行所名の改称はあったものの5年間は続いたことが確認できる。

追記:むしろ古書あじあ號が「日本の古本屋」に大正13年6月号を出品して売り切れた大阪の復興社が発行していた『復興』の方かもしれない。

*1:古書あじあ號が目録に出品した薄田泣菫『暮笛集』(金尾文淵堂、明治32年11月)30万円や『泣菫詩集』(大阪毎日新聞社東京日日新聞社大正14年2月)8万円は、売れただろうか。

*2:「近代婦人雑誌関係年表」大正10年の条の末尾に「〈この年〉」として記載され、凡例に「刊行が認められながら、実際に確認出来なかった場合〈この年〉として当該年の末尾に収録した」とある。やはり珍しい雑誌のようだ。

武井武雄刊本作品友の会本会員を目指す我慢会の好古家や宝塚の女優達


 先日1時間遅らせて行った京都古書会館の古本まつりで見つけたもう1枚*1の葉書。武井武雄から北海道弟子屈の木下某宛で、昭和41年6月7日付けである。文面は、
・色々と委しい報告を拝見したこと
・近く(多分8月下旬)我慢会への特頒があり、今度のは一寸豪華版であること
・11番までくれば、いずれ入会の可能性があること
などが書かれている。シルヴァン書房出品で、500円。
 武井については、平成26年5月京都髙島屋の「生誕120年武井武雄の世界展」や昨年7月神奈川近代文学館の「本の芸術家武井武雄展」を観ている。しかし、前者の図録や後者のリーフレットを見ても、葉書中の「特頒」が特定できなかった。
 ところが、ゴールデンウィーク中に書物蔵氏らと行った阪急古書のまち内のリーチアートで武井に関する資料が詰まった袋を発見。『武井武雄刊本作品と周辺事項年譜』(刊本作品友の会、昭和51年7月)、『武井武雄刊本作品目録』(刊本作品友の会、昭和58年11月)や『武井武雄刊本作品友の会規約』などが入って、2,750円。大喜びして、購入した。
 規約によれば、
・会員は親類という愛称が付けられ、300名の本番からなる。武井の刊本作品を版元から毎回頒本が受けられる。
・本番を待つ人を我慢会員とし、特別頒布の機会に限り200番まで頒本される。
 規約の末尾には昭和47年4月から実施とあるが、葉書の出された昭和41年当時も大筋では変わらないだろう。また、目録を見ると63番『祈祷の書』が、470部で昭和41年6月25日刊・10月15日開頒である。8月下旬予定の特頒が遅れたのであろう。値段も2,750円*2で、それまでの刊本の中では3番目に高い値段だ。確かに「一寸豪華版」であった。
 更に奈良に行ったら古書柘榴ノ國で、数冊の『刊本作品親類通信』*3を発見。「古本が古本を呼ぶ」(by高橋輝次氏)ですね。1冊400円。そのうちの14号(刊本作品友の会、昭和39年4月)に、『我慢会順位(昭和39年5月現在)』が挟まっていた。これによると、木下は24番であった。ここから、昭和41年6月には11番にまで繰り上がったことになる。木下は、その後めでたく本会員になれただろうか。
 この順位表には、他に後に西宮で辰馬考古資料館を創設する辰馬悦蔵や造本小僧こと内藤政勝の名前がある。また、宝塚歌劇天津乙女、黒木ひかる、歌川波瑠美ら8名ほどの女優も見える。歌劇団で武井が人気だったのだろうか。

*1:京都古書会館で入手した別の葉書については、「京都古書会館の古本まつりで河合卯之助の葉書を - 神保町系オタオタ日記」参照

*2:偶然だが、私がリーチアートで武井の資料を買ったのと同じ値段だ。

*3:武井武雄刊本作品と周辺事項年譜』によれば、昭和32年10月『豆本親類通信』として創刊され、11号から『刊本作品親類通信』と改称された。

『古本イエーZINE』8号に「京都市立絵画専門学校の関係者が結成した美術劇場とカフェーカナリヤ」寄稿


 みやこめっせの古本まつりをウロウロしてたら、狂言屋こと齊藤さんの奥さんと遭遇。『古本イエーZINE』8号(狂言屋、令和6年4月)をいただいた。ありがとうございます。拙稿「京都市立絵画専門学校の関係者が結成した美術劇場とカフェーカナリヤ」が載ってます。例によって、タイトルが長いですね。昭和2年京都市立絵画専門学校(京都市立芸術大学の前身の一つ)の生徒やOBを中心に結成された劇団美術劇場と、同時期に河原町蛸薬師にあったカフェーカナリヤについて話題にしたものです。同誌の目次もあげておきます。

 美術劇場には、粥川伸二、高谷伸、永野芳光、伴登代彦、福田豊四郎、山川幸世、吉川観方らが参加した。1冊200円かと思います。「狂言屋」でググるとヒットする二条駅前のお宅で買えます。拙稿で言及した市道和豊氏と斎藤光氏には送付する予定です。
 なお、京都市立芸術大学芸術資料館では移転記念特別展「京都芸大〈はじめて〉物語」の「第1期カイセン始動ス!」が6月2日まで開催中。

京都新聞THE KYOTO「京都・左京区研究」で「からふね屋印刷所」の回を希望


 先日の「たにまち月いち古書即売会」(大阪古書会館)では、久しぶりに古本横丁の和本均一400円台から購入。そのうちの1冊が、杉浦三郎兵衛編『雲泉荘山誌:家蔵松会板之書目』別冊第4(雲泉荘、昭和9年7月)である。「はしがき」によれば、5月に知友に乞われて家蔵の松会板書籍を閲覧に供したところ、目録の作成を要請され刊行したものである。松会板とは、徳川家の御用書肆だった松会市郎兵衛が承応頃から元禄頃までの50年程の間に200種も発行した典籍らしい。
 目録そのものにはまったく興味がないが、趣味人丘園*1の蔵書目録であることと、印刷人がからふね屋印刷所の堀尾幸太郎だったからである。同印刷所は、現在も株式会社からふね屋として左京区東山仁王門にある。
 私が入手した印刷物の発行順にブログのエントリーを一覧にしておく。

大正14年9月『書物礼讃』 『書物礼讃』を印刷した唐舟屋印刷所の堀尾幸太郎・緋紗子兄妹ーー高橋輝次『古本こぼれ話〈巻外追記集〉』への更なる追記ーー - 神保町系オタオタ日記
大正15年11月 『アートクラブ第十二回例会松本幸四郎公演会』大正末期に松本幸四郞や宝塚少女歌劇の公演を主催した都ホテル内のアートクラブとからふね屋印刷所 - 神保町系オタオタ日記
昭和9年1月『瓶史』 古書からたちで『美楚羅』『加羅不禰』(からふね屋印刷所)の載った古書目録に出会う - 神保町系オタオタ日記
昭和14年4月『洛味』 京都スターブックス出品の戦前版『洛味』で美術記者黒田天外の没年を特定 - 神保町系オタオタ日記
昭和25年6月『書之燈』 京都における戦前の合同古書目録『書燈』と戦後の合同古書目録『書之燈』 - 神保町系オタオタ日記
昭和28年4月『京都』 からふね屋印刷所の堀尾幸太郎と白川書院の臼井喜之介 - 神保町系オタオタ日記

 国会デジコレで創業時の社名「唐船屋印刷所」を検索すると、先月閉店した大学堂書店が発行していた書物雑誌『書物礼讃』第1号(杉田大学堂書店、大正14年6月)が最も古い印刷物であった。ただし、あくまで国会図書館所蔵分の中での話で、また、創業は大正10年とされるのでもっと古い本が存在するはずである。
 いずれにしても、色々エピソードの多い印刷所なので、「江口榛一から臼井喜之介宛献呈『故山雪:歌集』ーTHE KYOTOで「京都・左京区研究」始まるー - 神保町系オタオタ日記」でも言及したが京都新聞THE KYOTOの「京都・左京区研究」で取り上げてほしいものである。

*1:トム・リバーフィールド編、書物蔵監修・解説『昭和前期蒐書家リスト:趣味人・在野研究者・学者4500人』(トム・リバーフィールド、令和元年11月)によれば、本名三郎兵衛。集古会の一員で、蒐集分野は「伝記、人類、民族」

眞山青果日記の翻刻が進む


 『大佛次郎随筆全集第3巻』(朝日新聞社、昭和49年2月)中「未刊随筆」として、「美人の町」が収録されている。ここに、真山美保が出てくる。

(略)真山美保は、真山青果の遺児で、日本全国のいなかを回って理想のある芝居を見せて歩いている特志の女性である。その仕事に生涯をかけているのだ。父の死後、妹さんと私の家に訪ねて来たこともあって、若い日から知っている。(略)

 この美保が妹と大佛を訪ねたことは、昨年8月に刊行された大佛次郎記念館編『南方ノート・戦後日記』(未知谷)で確認できた。

(昭和二十二年)
四月四日
(略)真山青果の娘たち二人来訪。姉は民衆座とかで芝居をしてゐるさうである。現在は東京に小屋なく電燈のない農村へ行くこともあるさうである。

 『近代文学研究叢書第64巻』(昭和女子大学近代文化研究所、平成3年4月)によると、青果の長女美保は、昭和22年入団した新協劇団を25年に中堅俳優8人と共に離脱してヴェリテ・せるくるを結成している。大佛の日記中に「民衆座」とあるのは、「新協劇団」の間違いなのだろう。青果と大佛の関係は、不明である。星槎グループ監修、飯倉洋一・日置貴之・真山蘭里編『真山青果とは何者か?』(文学通信、令和元年7月)の「交友録1」に挙がる青果の住所録(昭和19年)に載る人名の例示には含まれていない。なお、南木芳太郎の名が見える。
 青果の日記の翻刻が続けられていて、国文学研究資料館調査研究報告44号に青木稔弥・内田宗一・高野純子・寺田詩麻「[翻刻]青果日記(昭和三年・昭和五年)ー眞山青果文庫調査余録(四)ー」が掲載された。→「国文学研究資料館学術情報リポジトリ
 早速読むと「孚水画房」が出てきた。

(昭和三年五月)
二日 (略)
(略)湯に行きたる留守に、孚水画房(本郷区湯島同朋町一五)元禄版画集第二を置いてゆく。永見君の紹介なるよし。
(略)
二十九日 (略)
(略)
浮世絵商孚水画房なる者来る。春画巻物を出す、叱る。
永見徳太郎君より五島スルメ(略)

 孚水画房が春画を見せて叱られてますね。紹介した「永見君」は永見徳太郎と思われる。「書肆夏汀堂永見徳太郎の葉書ー長崎県美術館で「浪漫の光芒 永見徳太郎と長崎の近代」展開催中ー - 神保町系オタオタ日記」で紹介した人物である。孚水画房の店主金子孚水についても、「島田筑波と春峰庵事件の金子孚水による『孚水ぶんこ』ーー若井兼三郎の蔵書印「わか井をやぢ」についてーー - 神保町系オタオタ日記」で紹介したところである。問題多き人物だが、『真山青果とは、何者か?』の「『真山青果全集』をめぐる人々」によると『真山青果全集第15巻』(昭和16年12月)に収録された『随筆滝沢馬琴』の図版提供者の一人として名が見える。金子が昭和7年5月に創刊する『孚水ぶんこ』の編輯人島田筑波については、「『調査研究報告』41号(国文学研究資料館)の「眞山青果文庫調査余録」に神保町系オタオタ日記 - 神保町系オタオタ日記」で言及したところである。今のところ翻刻された日記には登場していないが、いずれ登場するだろう。
 青果に関する資料を送っていただいた青田寿美先生の追悼として、『近代出版研究』3号(皓星社発売)に「明治期における裏表紙のパブリッシャーズ・マークに関する一考察」を書きました。生前全然お返しができませんでしたが、ささやかなお返しとして天国に届きますように。 

須田国太郎が表紙絵を描いた京都三中の同人誌『時計台』:橋秀文論文への補足


 京都大学広報誌『紅萠』42号(京都大学総務部広報課、令和4年9月)が出てきた。表紙は京大のシンボルである時計台(大正14年竣工)とクスノキ。そう言えば、表紙に時計台が描かれた『時計台』という同人誌を持っていたことを思いだして、積ん読本から掘り出してきた。昭和21年11月、時計台同人が発行、72頁。旧Twitterの記録によると、令和元年8月の下鴨納涼古本まつりでシルヴァン書房から30%引きの700円で購入。目次を挙げておく。

 知っている執筆者は1人もいない。京都発行の雑誌の創刊号で、戦後間もない発行であることや、表紙絵が須田国太郎の描く時計台で京大と関係があるのかなと思って買ったのだろう。
 『時計台』第1輯の同人は、安藤一郎、一海知義、植田新也、高宮守、辻宏、新田博衛、松居豊、水越春雄、御牧啓、森克巳、横田二郎で、編輯者は森、発行者は横田である。同人の肩書きは、不明である。しかし、巻頭言に「中等学生の文藝雑誌」とあることや、同人以外の寄稿者の肩書きの多くが「京三中生徒」なので、同人も京都三中の生徒なのだろう。
 京都三中の無名の生徒達が、須田に表紙絵を依頼できたとは大したものである。須田は、京都一中卒で京都三中のOBではない。次号予告には吉井勇の短歌が挙がっていて、色々著名人とコネがあったようだ*1
 今月21日で終了した西宮市大谷記念美術館「須田国太郎の芸術ー三つのまなざし」の図録(きょうと視覚文化振興財団、令和5年10月)中の略年譜によれば、須田は大正5年京都帝国大学文科大学哲学科(美学美術史専攻)で、戦前は同大学文学部の講師(昭和7年~9年、11年~?)を務めたことがあった。『時計台』が発行された昭和21年の3月からは同大学工学部講師となっていた。表紙絵は京大時計台とは似てないが、須田は馴染みの京大時計台のことを考えながら、描いたのかもしれない。
 ところで、図録には目黒区美術館館長橋秀文氏の「須田国太郎と雑誌『人間』創刊号の表紙絵のことなど」が載っている。須田について「実は若い頃から書籍の装幀や挿画も手掛けていた」とし、戦後昭和21年1月に川端康成らの鎌倉文庫が創刊した『人間』の表紙絵や昭和23年発行の鈴木信太郎ステファヌ・マラルメ詩集考』の装幀を紹介している。橋氏は昭和21年11月発行の『時計台』に気付いているだろうか。
 なお、ググッたら既に林哲夫氏が令和3年11月にブログで本誌を話題にしているのを発見。一部の同人の経歴も紹介されている。私の方が先に入手していたと思われるが、うかうかしてたら先を越されてしまった(^_^;)→「時計台 第一輯 : daily-sumus2
参考:「図書研究会々員だった?須田国太郎 - 神保町系オタオタ日記
 

*1:須田については、岡部三郎『須田国太郎:資料研究』(京都市美術館、昭和54年3月)に日記に基づき作成された詳細な年譜があるが、本誌への言及は無かった。