体感的渥美清論

おかしな男 渥美清

渥美清を「寅さん」でしか知らない世代は損である。「男はつらいよ」映画版は1969年から製作が始まった。わたしの生まれはその少し前だけれど、物心ついた頃にはすでに渥美清と寅さんが同化していた。
だから、「八つ墓村」の映画を観て、友人たちと「渥美清金田一、似合わねえ」などと生意気な評価を下していたのである。「八つ墓村」の封切は1977年であって、わたしは10歳だから、「たたりじゃー」という宣伝は記憶に残っているとしても、観たのは数年後(?)テレビ放映されたときだろう。小学校高学年の頃か、中学生の頃か。いずれにせよ、「男はつらいよ」そのものをさほど観ていない子供ですら「寅さんが金田一?」と訝るほど、寅さん像は渥美清に定着していたのだった。逆に言えば、「犬神家の一族」などの角川映画によって、石坂浩二金田一像がぴたりはまっていたからこそ、渥美清金田一役に違和感をおぼえるということにもなったわけだが。
今年は渥美清が亡くなってから10年目だという。フランキー堺も没後10年で、CSチャンネル衛星劇場)で特集が組まれているが、同じく渥美清特集も始まった。嬉しいのは、「もう一人の渥美清」ということで、「男はつらいよ」以外の主演作品が流されていることだ。どうでもいいことだが、「もう一人の〜」というタイトルからして、いまなお渥美清=車寅次郎という固着した像があることを証明している。
今回のラインナップに、「おかしな奴」という渥美が三遊亭歌笑に扮した映画が含まれている。ここから連想したのは、小林信彦さんによる渥美清『おかしな男 渥美清*1新潮文庫)だった。書名と映画とは直接関係ないらしいが*2、めくってみると当然「おかしな奴」にも言及されていた。予習を兼ねて読むのも悪くない。さっそく読み始めることにした。
「正確な伝記を書く気は」ない(40頁)とあらかじめ断っているように、本書は渥美清の伝記ではなく、小林さんが当時付けていた備忘録にもとづく「正確なメモワール」(同前)であり、ポルトレエ(肖像、風貌描写、性格描写)とでも称すべきもの」(「あとがき」)、渥美清に関する「ぼくの記憶の集大成」(同前)と位置づけられている。小林信彦から見た渥美清像ということだろう。むろんそこに批評眼がないわけではないし、質から言っても限りなく評伝に近いポルトレと言っていいものだ。
だから本書は渥美清の一生を知るという目的には向いていない。小林信彦の眼で捉えられた芸人・役者渥美清の像の見え方を愉しむものであり、渥美清との交遊を通して語られる小林信彦の個人史や、渥美・小林の交遊の背後に広がる昭和30〜40年代の社会風俗を知る意味で、とても面白い本となっている。
だからわたしは、渥美清と知り合った小林さんが、渥美から表参道にある自宅アパートに招かれ、自分の住まいと近いことに驚いたという挿話中のこんな記事が面白く感ぜられる。

表参道はあくまで〈明治神宮にお参りするための参道〉であり、代々木公園はワシントン・ハイツだった。米軍の兵士が家族と一緒に住み、休日にはキディランドやオリエンタルバザーを家族づれで覗く。キディランドは倉庫のように暗い一階建てであった。
 その他の店はまったくない。並木道の両側は普通の住宅街で、ひとけも少く、犬を散歩させる老人が目についた。
 とはいえ、微妙な差異はあるもので、青山通りに向って左側は中の中クラスの住宅街、右側は中の下ぐらいの家々であった。
以前若尾文子主演の映画「実は熟したり」を観たとき、ラストシーン、未舗装で現在とまったくおもむきの異なる表参道らしい風景を見て、本当にそこが表参道なのか不審に思ったのだが(→6/16条)、ここを読むとやはりあれは表参道なのだという意を強くした。
小林さんが会社を辞め雑文書きで生計を立てていたとき、京橋に「連絡事務所」を借りたという一節も興味深い。
今でもそういう商売があるのかどうか知らないが、ビルの一室、中くらいの広さの部屋に、びっしり机がならんでいる。電話が二、三本あって、外からの電話は女性二人が受ける。電話を受けるだけではなく、郵便物や現金封筒も受けとってくれる(原稿料が銀行振り込みになっていない時代である)。(121頁)
また、1964年、『週刊文春』の仕事で芸人ベストテンを決める座談会に小林さんが出席したとき、座談会の内容に不満を抱いた編集者と小林さんが会のあと近くの「おにぎり屋」に寄って話し合いをもったという挿話。
当時、文藝春秋の社屋は新橋駅の近くにあった。おにぎり屋という職業が今でもあるかどうか知らないが、とにかく、社の近くの店に入り、ビールで乾杯して、ベストテンを作り直した。(192頁)
ここで思い出したのは、またしても若尾文子主演の映画「東京おにぎり娘」(1961年)だった(→2005/12/29条)。若尾が開店した「おにぎり屋」は新橋烏森にあった。そこはおにぎりをテイクアウトで売る店ではなく、居酒屋か定食屋風の店内で、来た客がおにぎりを注文しそこで食べるという店だった。小林さんたちのように「ビールで乾杯」もありえたのだろう。
著者自身の60年代メモワールとして、また芸人との接し方について興味深いのは、次の文章だ。
〈芸の筋がよ〉いタレントを、うまくエスカレーターに乗せる――それがぼくの趣味であった。タレントだけではない。〈不遇な〉作家、外国映画、テレビ番組も同じである。エスカレーターに乗ったタレントが上の階に行ってしまえば、ぼくとしては満足なのだ。(349頁)
その意味で渥美清も小林さんの趣味と合致した人物だったといえよう。肝心の渥美清論としては、やはり「記憶の集大成」だけに、直接の付き合いが頻繁にあった「男はつらいよ」以前の部分(前半)がたいへん面白い。あまり会う機会がなくなった後半は、「男はつらいよ」シリーズの批評が中心になってしまい、体感的なリアリティが薄れてしまう。
とはいえ、「男はつらいよ」論はそれ自体傾聴に値する内容であり、これまで観る気も起こらなかった「男はつらいよ」を観てみようという気にさせられたし、その他の出演映画(「八つ墓村」でさえも)への関心も高まってきた。結局、渥美映画を観るたび、何度もめくり返す本となるのだろう。

*1:ISBN:4101158398

*2:書名は、小林さんと渥美さんが親しくなったきっかけの輸入ドラマの原題(The Funny Men)に由来するらしい。

寅さん以前の渥美清

「おかしな奴」(1963年、東映
監督沢島忠/脚本鈴木尚之渥美清南田洋子三田佳子/石山健二郎/佐藤慶清川虹子春風亭柳朝田中邦衛/坂本武/十朱久雄/渡辺篤

渥美清が敗戦直後爆発的人気を誇った噺家三遊亭歌笑に扮した伝記映画。映画「男はつらいよ」が封切られるのが1969年だから、この作品は“寅さん以前”の渥美清主演作品ということになる。
珍顔と新作落語「純情詩集」で大衆の人気をさらい、絶頂にあった昭和25年に銀座で進駐軍ジープにはねられ即死したという歌笑のことは、活字でしか知らない。小林信彦『おかしな男 渥美清』(新潮文庫)によれば、渥美清の声がときどき歌笑そっくりになる」とあるので(147頁)、おおよその雰囲気を想像することはできる。七五調でいかにも日本人好きのするリズムに、内容は敗戦直後の世相を反映したもので、芸の点ではどうかわからないが、風俗資料として聞くに堪えられるものだ*1
先の『おかしな男 渥美清』において、この映画に触れた章のタイトルは「「おかしな奴」の失敗」というもので、ここから小林さんの評価を判断することができる。その失敗の原因として、映画が歌笑「〈落語改革の信念に燃えた反逆者、天才〉として描」いたことをあげる。別の箇所では「〈落語という古い伝統芸への反逆者〉」とある。この二つの表現は同じなようで、けっこう開きがある。
わたしが感じたのはせいぜい後者の表現であり、前者にある「落語改革の信念に燃えた」とまでは言えないような気がする。歌笑の人気を妬み、彼を高座から締め出そうとする老噺家を十朱久雄が演じる(これがまたいい)。また、歌笑と同門のライバルで、正統的な落語で笑わせる人物を、春風亭柳朝が演じる。調べてみると柳朝はこの名跡を継いで真打になってまだ数年しか経っておらず、勢いがあった時期だったことがわかる。その頃の柳朝の芸を観られるのも貴重だろう。
珍顔という身体的コンプレックスに加え、柳朝のような伝統的落語の話芸もない歌笑が「古い伝統芸への反逆者」ではあっても、自ら改革を目指したのだろうか。小林さんはこの点に「左翼映画」的な臭味を指摘する。伝統を蹴散らして自らを貫くことで大衆の支持を獲得し、英雄となってゆくあたりは爽快で、ああこれを「左翼映画」的と言うのかと意表をつかれた。左翼的思想は好きでないけれど、心情としてそんな好みはあるかもしれない。
小林さんは、歌笑の兄弟子を演じた佐藤慶「実にうまい!」と絶賛するが、そのとおりだった。召集令状が来たことを隠して、南田洋子歌笑を頼むと言い置き、暗く寄席に入ってきたかと思いきや、歌笑に出囃子の太鼓を叩くようお願いして、出た高座では客を笑わせ、楽屋にいる同輩連中を惚れ惚れさせる至芸を見せる。演じ終わると今日は用事があるのでとすぐ帰途についたと思いきや、外で首を吊って死んでしまうのである。このあたりの佐藤慶はすごい。
木にぶら下がる佐藤慶の遺体を前に、応召拒否で自殺するなどもってのほか、非国民と罵声を浴びせる同輩連中の言い草も、死人に鞭打つようで鬼気迫る思いだった。

*1:色川武大さんに「歌笑ノート」(新潮文庫『なつかしい芸人たち』所収)、矢野誠一さんに「三遊亭歌笑の散り方」(文春文庫『落語家の居場所』所収)という歌笑論がある。色川さんは「あの朗々とした声が効果になっている」「まぎれもなく当時の誰よりもモダンであり、前衛であった」とし、矢野さんは「明るいはなやかさのなかに一抹のペーソスがあって、それがひとのこころをとらえていた」と論じる。