歌舞伎座12月 昼の部初日

kenboutei2007-12-02

久しぶりに初日の歌舞伎座へ赴く。
『鎌倉三代記』平成15年正月の雀右衛門・菊五郎で、初めてこの芝居を面白く感じたのだが、今日はそれを上回る、特筆すべき面白さであった。久しぶりに、歌舞伎の型の面白さ、古典芸術の奥深さを感じ、今もまだ興奮醒めやらぬ。
もっとも、前半は全くつまらない。福助の時姫と橋之助の三浦之助のやりとりは、ただ芝居をなぞっているようで、中味が薄い。
例えば、福助の時姫が、戸口で倒れている三浦之助の為に薬を飲ませようと、盆を持って二重から降りて、途中でつまずくところなどは、雀右衛門だとそこだけで何ともいえない雰囲気を醸し出すのだが、福助の場合は、ただ「おっとっと」といった感じで、さらさらと通り過ぎてしまう、単なる動作なのである。
橋之助の三浦之助も、花道七三でパッと顔を出した時は、実に大きく美しく、これは良い三浦之助になるかと期待したのだが、芝居が進むにつれて、手負いのはずなのに、意味なく力強く、鬘の出来のまずさもあってか、まるで『金閣寺』の大膳に見えてしまうのは、どうにもまずいだろう。三浦之助は国崩しではないのである。
そもそもこの二人、現実の兄弟(姉弟?)のイメージの方が強く、恋人同士には見えなかった。
ところが、二人が引っ込み、舞台が半廻しになってから、今日の芝居は俄然面白くなる。
自分は何の前知識もなく観ていたので、今日の舞台が芝翫型によるものであったことは、この後の休憩時にロビーで偶然会った某氏に教えられて初めて知ったのだが、いつもと違って、下手にあった井戸が上手に来るまで舞台の盆が廻り、そこに歌江と鐵之助の局が登場し、さらに亀蔵の富田六郎、右之助のおくるも出てくる展開に、かなり戸惑った。
盆が戻って、いよいよ三津五郎の高綱が藤三郎に扮して登場。この場の三津五郎が、実に生き生きとしており、相手をする福助も、それに呼応して良くなってきた。一旦三津五郎が下がってから、福助一人で刀を持ってのクドキになるのだが、ここも前半の退屈さに比べると、まだ見ていて飽きはこなかった。(もっとも、福助は赤姫でありながら立ち身の時は腰高で、最後までこの役に今ひとつ気が入っていないような感じではあった。)
後半の福助が良かったのは、三浦之助から父親を討つかと問いつめられ、刀を受け取って、「討ってみしょう」と決断するその時。ここで福助は、一瞬三浦之助を見つめるのだが、その表情に、愛する夫のためなら、という気持ちが入っていた。
橋之助の三浦之助も、後半はまずまず。特に、井戸に片足をかけて覗き込む姿は、鎧姿の背中の曲線が実に美しく、この役者の大きさも表れ、目に残る、良い形であった。
そして、目を見張ったのは、三津五郎の高綱が井戸から再登場する場面。いつもの、濡れた髪を肩までたらした姿ではなく、襷がけの、『鳥居前』の忠信のような格好なのである。これが、芝翫型の高綱なのだろう。
三津五郎は、実にこの扮装が似合っており、いつもの高綱の格好でないことに最初は戸惑いがあったのだが、最後は、この姿でなければならない、とさえ思ったほど。(ぶっかえりもなかったのだが、物足りないとは全く思わなかった。) 上手で見せる様々な型も、一つ一つきっぱりとしていて、大きく、古めかしく、本当に歌舞伎の型の面白さを感じさせる場面となっていた。
また、三津五郎で素晴らしかったのは、朗々とした口跡によって、この芝居の筋立て、からくりが、観る者にきちんと伝わってきたことである。自分は三津五郎の述懐を聴いて、今回初めて、この場と『盛綱陣屋』のつながりが理解できた。(それまでの『鎌倉』は、ほとんど寝ていたんだけどね。)
秀調の母親は、全く台詞が入っておらず、プロンプ任せであったが、初日の不出来はそれくらいのものだった。(ちょうど秀調が出ている場で、舞台裏がゴタゴタしているような感じであったが。)
まあとにかく、今日の舞台は、ひとえに三津五郎芝翫型の佐々木高綱によって、記憶に残るものとなった。
先月の藤十郎の『合邦』もそうだったが、毎回毎回同じ型の芝居を通り一辺に見せるのではなく、過去の芝居を研究して、違う型を試みるような、意欲的な芝居作りをこそ、評価されて然るべきである。徒に新作や新演出に走ったりしなくても、面白い型を発掘していく方が、よっぽど歌舞伎の奥深さ、面白さがわかるというものだ。
そういう意味でも、今日は久しぶりに、目を洗われるような、歌舞伎の芸の面白さに触れた思いである。(観る前は全く期待していなかっただけに、感慨も一入であった。)
信濃路紅葉鬼揃』玉三郎の、お能趣味シリーズ。今回は、『紅葉狩』を題材にしたが、正直、退屈な一時間だった。
そもそも、歌舞伎の舞台で、能を再現させようとするその発想が、よくわからない。庶民が能を簡単には観ることができなかった頃だからこそ、七代目團十郎の作った『勧進帳』は意義があったのであって、今は、能を観たければ誰でも行けるわけである。別に能を有り難がって観ているわけでもない。
また、例えば今日の『紅葉狩』にしても、能舞台で行われるから、小書の特殊演出も含めて面白いのであって、九代目團十郎とて、歌舞伎としてかけるから、あのような演出に変えたのであろう。(その歌舞伎演出が果たして面白かったかどうかは別問題。あくまでも、能そのままでなく、歌舞伎として出すために工夫することが大事なのである。)
歌舞伎座の広い舞台で、能の装束を身につけた役者がただ動き回っている様子を見せられても、面白いはずはない。
玉三郎の趣味に付き合わされて、海老蔵の維茂はただ寝ているだけ、右近、猿弥ら従者は花道から出てすぐ脇に引っ込んでしまう。門之助らの鬼女は、出演場面はまだ長いけれど、意味なく毛振りを見せているだけでは、玉三郎以外の贔屓は喜べたのであろうか。
そしてシテの玉三郎にしても、あまりしどころがない。唯一、面白いと思ったのは、寝ている維茂の前で、本性を垣間見せるところ。維茂に近寄って、一瞬、顔の表情が変わり、囃子のテンポが早間になる。ただここも、玉三郎の表情が良いのであって、その動きではない。能面をつけた能役者では根本的に表現できない、顔の表情が魅力的だったまでのことなのだ。(もちろん、能面もその使い方によって様々な表情になるのではあるが。)
他に良かったのは、鬼女に変わった後の玉三郎海老蔵の絡みで、花道での二人立ちは、非常に絵になっていた。
さすがに玉三郎だけあって、唐織の壺折はまことに立派で、松葉目の舞台も見事。破風まで飾っていたのには、畏れ入る。
が、全体には能のファッションショーに過ぎなかった。
勘太郎の山神だけが、いつもの歌舞伎で、彼だけが小気味良い動作で、維茂だけでなく、観客の眠気も覚ましてくれた。
それにしても、九代目の活歴に付き合わされた当時の観客の気持ちが、何となく理解できたような気がした。
『水天宮利生深川』勘三郎初役の「筆幸」。
正直、この芝居はこれまであまり好きになれなかったのだが、今日は色々と考えさせられた。
明治維新後、没落した武士が、貧苦にあえぎ、一家心中を図ろうとして、気が狂い、川に飛び込むが助けられ、最後は大団円のハッピーエンドで終わるという、典型的なご都合主義で、黙阿弥狂言の限界とさえ思っていたのだが、勘三郎他の役者の、うまい芝居運びを観ているうちに、現代にも通じる、優れた社会批判劇であることに気がついた。
多分、こんなことはとうの昔に指摘されているのだろうが、貧乏長屋の隣は、立派な黒塀に囲まれた家で、子供の誕生日に高輪から清元連中を呼んで祝い事をするというシチュエーションとなっており、同じ町内でのこの貧富の格差を、黙阿弥は冷徹に描いているのである。隣の家は、ただ余所事浄瑠璃のためだけではないのである。
そして、幸兵衛家を取り巻く悲劇(妻の死、盲目の娘、借金取りの取り立て等々)は、この時代にごく普通にあったことなのであろう。一家心中に追いつめられるまでの黙阿弥の筆捌きが、まことに見事で感心させられた。と同時に、長屋の住人の人情が特にうまく描かれており、黙阿弥的リアリズムの面白さを、こういうところに感じる。
「人が発狂するのは、こういう時である」というのを、多分黙阿弥は経験していたのではないか、そう感じさせる程、黙阿弥の筆致は冷静であると思った。
こうして明らかにされた貧富の差(今ならさしずめ格差社会というところだが)を現前にして、幸兵衛はもはや死を選ぶしかなかった。
しかし、そんな悲劇で芝居を終わらせることができるだろうか。たとえ嘘であっても、最後はハッピーエンドにしなければ、この話はまるで救われない。それは、当時のお上の政策上の要請もあるだろうが、むしろこうした明らかな嘘、ご都合主義を取り入れることで、実は現実の悲劇は一層強調されることを、黙阿弥は知っていたのだと思う。
昔観た映画に、ムルナウの『最後の人』というのがあった。これも救われない悲劇なのだが、最後は無理矢理ハッピーエンドにしてしまう映画で、当時は観ていてのけぞったものだが、今になって、そういう演出が理解できるようになった。
ムルナウの映画は1920年代だが、黙阿弥のこの狂言はまだ19世紀の作なのだ。
さて、勘三郎初役の幸兵衛だが、まだぎこちなさはあったものの、幸四郎初役時よりも、良かった。(と書いて、幸四郎の時の感想を確かめると、案外褒めていたなあ。上に書いたようなことも、その時に触れているではないか。まだ2年も経っていないぞ。)
赤子を短刀で殺そうとして、ついその刀を使ってアヤしてしまうところなど、今日は少しあっさりめであったが、多分日が経つにつれ、良くなってくると思う。
全体的には幸兵衛の置かれた境遇をうまく表現していた。最初の花道からの出、七三での独り語りや、「食して」と武士言葉を言いかけて、言い直すところなど、さりげないうまさがあった。狂ってからの演技は、何だかビートたけしのモノマネを見ているようなところもあったが。
しかし何より今日の舞台で感心したのは、脇の役者たちである。彼らのうまさが、この黙阿弥の芝居の意味合いを、ここまで考えさせることにしたのだと思う。
特に芝喜松、歌女之丞の長屋住人の味わいは非常に良かった。市蔵の大家もうまく、鶴松の長女も達者で泣かせる。
福助の後ろに小さくついてくる小山三も、もちろん、出ているだけで嬉しくなる。