唐沢俊一検証blog

唐沢俊一氏の検証をしてきたブログ(更新は終了しました)

今あらためてオタクらに告ぐ(後編)

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karasawagasepakuri@yahoo.co.jp


 東京MXテレビでは現在『ファイヤーマン』が再放送中なのだが、こないだのハーモニカ怪獣の回は評判通り凄かったなあ。


唐沢俊一、さらに「追討」しています。池部良も来たか…。

アレックス・アンダーソン
ボブ・グッチョーネ
サイモン・マッコーキンデール
ロイ・ウォード・ベイカー
池部良


 では本題。今回も唐沢俊一が過去に行ったオタクバッシングに関する発言を取り上げる。今回紹介するのは『社会派くんがゆく! 維新編』アスペクト)P.46〜52に収録された『オタクらに告ぐ』というコラムである。このコラムで唐沢は、奈良女児殺害事件に関連したいわゆる「フィギュア萌え族」に関する騒動に触れ、「フィギュア萌え族」という言葉を作った大谷昭宏を叩くべきではない、と説いている。唐沢の主張を簡単にまとめると、「マスコミは常にバッシングの対象を求めているものである」「大谷昭宏がダメなのは誰の目にも明らかなのだから叩く必要はない」というわけで、スルーしておけばよかったのだ、ということらしいが、にもかかわらず一部のオタクが噛み付いたおかげで大谷が態度を硬化させてしまった、と大谷に抗議した者たちを批判している。…しかし、「フィギュア萌え族」の件がそんなにこじれていた記憶が自分にはないのだが…。

オタクの正義を看板に大谷昭宏糾弾にかかるのも、それは自由だ。しかし、彼ら糾弾者たちは、こういう巨大メディアをバックにしている人物に対して、どういう戦略で、誰に向かって、自分たちの立場を説明するつもりなのか。そこがわかって声をあげているのか。大谷昭宏の後ろにある“世間”という得体のしれないものが、その糾弾を道理のあるものとして受け取ると、本当に思っているのか。

 言っちゃ悪いが、ものすごいビビリ。大谷昭宏ってそんなものすごい権力者なのか。『SPA!』2005年2月1日号で「誤解と偏見の『オタク迫害』に異議アリ!」という記事が組まれていて、その中で「フィギュア萌え族」に対する批判があったのだから、「巨大メディア」がみな大谷に同調していたわけでもないのだけれど。

 案の定、大谷は叩かれて逆にキレた。すでに彼は自分の大ハズレ予想であった犯人像である“フィギュア萌え族”を“正しかった”とし、「私はフィギュアオタクの仕業だと言っていましたが、それが裏付けられました」と言い切ってしまっている。これに乗っかるマスコミも多いだろう。強硬に間違いを認めろゴルァと迫ったが故に、窮鼠ナントカで、開き直ったのである。理論派オタクの一番まずい面が出た。しかもタイミングの悪いことに、あの小林薫(引用者註 奈良女児殺害事件の犯人)、スクール水着になにやら少女の服だの下着だのを詰め込んでダッチワイフを作っていたという報道が出てきた。オタクにとってみれば“そんなものはフィギュアじゃない!”になるのだろうが、世間から見れば、同類項の範疇にククられるレベルであること、これは非・オタクにとってみれば『ときめきメモリアル』のキャラクターの区別がつかないのと同じで、わからん奴にはいくら言っても理解されない。逆に言えば、細かいことにいちいち区別をつけて分類するのがオタクというものの特性であり、そのこと自体が一般社会人から見れば理解しがたい気味の悪さの源泉になっていることに、もう少し気がついてもらいたいのである。

 フィギュアとダッチワイフの違いくらいはしっかり指摘しておいた方がいいんじゃないかなあ。あと、「細かいことにいちいち区別をつけて分類する」からオタクは気味悪がられている、というと少し違うような気がする。オタクじゃなくても細かい人っていくらでもいるんだから。

 こういう客観的な世間のオタク観は、ある程度年齢のいったオタクたちならイヤでも理解している(させられている)だろうが、オタクバブル以降に人となった若い世代は、そこがつかめていないのかもしれない。まあ、若い世代にはよくあることだ。もし、そういった世代の人たちが、大谷昭宏の間違いを正すことで世間が納得し、バッシングをやめさせられる、と本気でそう信じているのであれば、私は全若者に嫌われることを覚悟の上で、究極の親父説教ワードを用いなければならぬ。
「世間というものはそんなもんじゃない。世の中のことをよく知りもしないで、わかったようなリクツをこねるな」
と。この言葉をはるか昔、自分が言われたときには、全身全霊をもって反発したものである。“リクツが通らぬ世の中なら、それは世の中の方が間違っている。リクツで世の中をねじ伏せてみせる”と。今にして思えば、かつて私にこのようなことを説教した親父たちも、好きこのんでこのセリフを口にしたわけではないだろう。それは上の世代から下の世代に、このことだけは順送りで伝えなければいけないという義務感からだったのだ。私も爺の義務を以て若いモンに言う。
「世間を甘くみるな」
と。相手は理で動いてはいないのだ。感情でオタクたちを嫌っているのだ。自分たちにはよくわからない、なにやら難しい言葉でこっちをまるめこもうとしているオタクたちの姿を見て、本能的に防御のバリアをはりめぐらせるのだ。こういう連中に、何を言っても通じない。かえって反発を受けるだけだ。そして、力は向こうの方がはるかにデカいのである。

 「オタクバブル」とは一体何なのか。唐沢俊一みたいなウスい人が第一人者として通用した時代のことか? あと、若いオタクもバッシングを受けたことはなくても、趣味のせいで不愉快な思いをしたことは当然あるはず(自分もその手の経験はある)で、唐沢の言い分は「お前らは恵まれているよなあ、俺たちの頃はそれはそれは苦労したもんだよ」という先輩or上司のグチと何も変わらない。若い世代にもそれなりの苦労があることを理解しないと、年下をバカにして済ますだけになってしまうのだろう。
 それにしても、「もし、そういった世代の人たちが…」以下の仮定は無意味極まりない。大谷昭宏の誤解を正そうとしているだけのことが、どうしてそこまで膨らんでしまうのか。あなたが説教をしたいだけではないのか。
 で、その説教の内容なのだが…。この中身からすると、東京都の青少年健全育成条例の問題に関しても反論してはいけないことになってしまいそうだ。しかし、たとえ相手が「何を言っても通じない」のだとしても、対話を続ける意味はある。こちらの言い分に理があるのであれば、支持してくれる人間は増えるはずだし、「何を言っても通じない」相手の態度に非があることを認める人も出てくるはずなのだ。少なくとも最初から諦めてしまうよりはずっといい。というか、青少年健全育成条例については唐沢と同世代および年長の人間も反対しているわけで、単に年齢の問題でもないと思う。ちなみにこのコラムを書いたとき、唐沢俊一46歳である。…「爺」でもないじゃん。
 このお説教が滑稽なのは、唐沢俊一が若い世代に説教できるほど人間や世間に通じているとは思えないからで、何度でも言うが「人間通」「世間通」が「『新・UFO入門』盗用事件」をこじれさせるわけがない。世間を甘く見ていたのははたして誰なのでしょうか。 

 若い世代に抵抗無く受け入れられる文化人像というのは、そういう世間を「怖い」と言い、「間違っている」と言い、世間に対して異を唱えることの正しさと大切さを説くタイプだろう。そんな文化人に私もなりたいものだと思う。しかし、今、問題になっているコトは、その無駄な正しさをつらぬくことで個々人のプライドを満足させて済むような問題ではない。これだけ苦労して、やっと世間に認知されかけてきた、フィギュアをはじめとするオタク文化というものに対する、無用な誤解やバッシングを、出来るだけ事を荒立てずに回避するということだろう。それにより、発言の場も能力もなく、ただ、自分の好きなフィギュアを集め、萌えることでしか自分のアイデンティティを確保できない、弱いオタクたち(この“弱い”はオタク全般にかかる形容ではない。念のため)を守ることが、何よりの急務だろう。その目的のためには、強いオタクたちに最も求められるのは、いたずらに事を荒立てるのではなく、一過性のオタクバッシングに対して、
「今は耐えろ、大丈夫、世間というものの最大の弱点は飽きっぽさと記憶力の無さだ。嵐はそういつまでも続かない」
と励ますことなのではないか。

  予想大はずれ。
 …それにしても、「強いオタク」「弱いオタク」ってなんなんだろうなあ。守るべき存在を勝手に設定して話を進めるのは詭弁なのではないだろうか。ちょうど「子供のために」と称して条例を変えるのと同じように。しかし、そこまで言うのなら、「強いオタク」である唐沢俊一に事態を見事に解決してほしいものだが。

 まがりなりにもオタクという言葉の認知をめぐって長い世間との戦いを経験してきた身として言う。われわれオタクは、その存在の基礎に、非・社会常識性を持っている。社会性より自分の趣味嗜好を優先させるのがオタクという存在の定義の一つだからだ。それはあくまで非・社会的なのだが、世の中の、特に大谷昭宏のような人物は、それを反・社会的なものとして勘違いしてとりがちである。

 唐沢俊一がいつオタクのために世間と戦ったんだ? 児童ポルノ法案のときも今回の都条例の件でも反対派を揶揄していたのに。そして、オタクでも社会性を有している人はたくさんいるわけで、オタクを「非社会的」な存在として捉えるのは疑問である。岡田斗司夫の「オタク=エリート説」はいずれ取り上げるつもりだが、唐沢の主張はさしずめ「オタク=アウトロー説」とでもいったところか。…しかし、この記事の前編でも書いたが、妙にノスタルジックな見方だ。

あの、エロコミック擁護の立場をこれまでとってきた福島章犯罪心理学者)ですら、
「性を性交そのものより、写真や映像など情報の探求に重きを置く男性が増えている。こうした環境の中で、小児性愛者の猟奇性が肥大した」
と、オタク的性癖が犯罪に結びつくことを認めてしまっている。

 どうして福島の見解を鵜呑みにしているのかわからない。「性を性交そのものより、写真や映像など情報の探求に重きを置く男性」が本当に増加しているのか、「小児性愛者の猟奇性」は本当に肥大しているのか、確認してみる必要はあるだろうに。猟奇性の肥大、というのがそもそもよくわからないけれど。なお、この件に関しては「新・後藤和智事務所〜若者報道から見た日本〜」を参照していただきたい。

 こういう性格をオタクという人々が有する以上、正攻法の戦いはこちらに利がない。有効な戦法はただ一つ、ゲリラしかない。地下にもぐれ。こっそり隠れて、地道に密かに、自分たちの萌えを満足させろ。表ではそしらぬフリをしろ。そして、風を読め。吹きすさぶ向かい風のときは腰をかがめろ。追い風になってはじめて、帆を広げろ。現実はドラマではない。見栄えのする表沙汰の戦いばかりが戦いではない。一歩一歩、地道に自分たちの足場を広げろ。そして未来を信じろ。

 また「地下」か。本当に好きだなあ(4月19日の記事を参照)。しかし、唐沢に言われるまでも無く、多くの人がオタクへの偏見を無くそうと地道に努力しているのであって、都条例に反対していた人たちの多くもまた今でも地道に活動し続けている。唐沢が言うように己のプライドを満たしたいからやっているわけでもないだろう。

 オタクたちの最大の武器は、その数の多さ、増殖力の高さなのだ。大谷に代表される世間がオタクをいたずらに恐怖するのは、その旺盛な繁殖力が因をなしている。時は確実に君たちオタクの味方をしているのだ。やがて風は止む。それを待て。あせるな。

 予想大はず(以下略)。
 オタクはネズミなのか?と思ってしまうが、オタクの数が多いのなら、都議会議員はオタクの票目当てで条例案に反対しただろうし、条例の改廃請求も都知事のリコールだってできるだろう。まあ、数が多いのに「非社会的」というのもヘンな話だが。


 結局のところ、唐沢俊一は「運動」が嫌いなだけなのではないか。だからこそ、あれこれ難癖をつけているのだろう。前にも書いたことがあるが、唐沢には思想的な立場というのはなくて、左翼のノスタルジーを批判する一方で、『ゴーマニズム宣言』を揶揄していて、そういうことから「世の中を変えようとする動き」自体を嫌っているのではないかと推測してしまうわけである。唐沢は「自分の思い通りになる小さな集団の中で安穏としている」のが好きな人だから、それを乱す動きはたとえ自分と直接関わりが無くても許せないのではないだろうか。何もしないことは必ずしも罪ではない。だが、何もしないことを正当化して他人をバカにすることは罪なのかもしれない。
 とはいえ、ここまで立派なことを言っている唐沢のことだから、オタクが本当に危なくなったらきっと立ち上がってくれるものと自分は信じる。真の危機の時にまで「あせるな」「風が止むのを待て」と言ったりはしないだろう。それじゃあ「狼少年」の逆になってしまうもんね。

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