市來健吾の日記

プログラマ、(元)物理屋(ナノテク、流体)

夜、何かやる気もせず

イラク日本人 3 人拘束

「2004年4月10日(土) いらく」 @kazano


  • 引用
    それに、なんだか、もとから自衛隊の派遣に反対していたような人たちが、 今回の事件で尻馬に乗ったかのように声高に撤退を訴えるという構図は、 どうも見苦しく感じられてしまうので。

  • 何か頭を抱えた―― そうか、尻馬に乗ってるように見えるし、見苦しく見えるのか

    • 「中央線の某駅前」の人達の雰囲気がどういうものだったのか分からないけど

      • そもそも、最近のフツーの日本の雰囲気が分からないので、 すごく恐くなって、気になって、あれこれ考えている

    • 見苦しいのは分かるが、 尻馬に乗ってるというのは、受け入れがたいな

      • 個人的には、逆に現状が、アメリカの尻馬に乗ってるだけに見えるんだが

      • 「ように」見えるだけなのかもしれないが

    • 長い時間スケールで見ること (時としてドロドロになってしまう) と、 短い時間スケールで見ること (条件反射だけのロボットになってしまう) と、 止揚せよってことかな

      • 最近特に、近視眼的な、条件反射だけのリアクションに頭に来てるというバイアスはある

      • しかし、各事象を淡々と冷静に見る立場の意義も、 同時に念頭に置いた方が良いんだろうな

  • こちらの意図がたとえ「人道支援」だと言っても (それ自身、かなり詭弁だと思うんだが) 向こう側の人がそう思わない (思えない) 場合、 それでもこちらの大儀を押しつけるだけでいいのかな

    • その、いわゆる「人道支援」も、戦闘行為をしている人達のサポートも含まれてんだろうし…

    • ジャイアンにいじめられてる子がスネ夫を捕まえて、 スネ夫が「僕はいじめてないから許して」と言ってるように感じるんだけど

      • そして、それで「分かった、許してやる」とはならないと思うんだが

  • 4/16/2004 付記 : 上の風野さんの日記を読んだ時の違和感の元が分かった気がした

    • その原因は「見苦しく感じられてしまう」でも 「自己責任」でもなく、 以下のパラグラフにあったようだ :
      彼ら3人は、いってみれば「特殊」な日本人である。 「プロ市民」という2ちゃんねる用語があるけれど、 実際「市民運動」をしている人たちは、 「市民」と名乗ってるわりにはふつうの市民とはメンタリティが違っていることが多い (だいたい「市民」という単語を「ふつうの市民」は使わない)。 でも、そういう人を揶揄したり排除したりするというのは、ちょっと違うと思うのだ。

    • 奴らは違う (「ふつう」じゃない) とラベルを貼った上で、 でも差別はしないって、ちょっと大変だと思います

    • 今日、家で話をしていて、 「プロ市民」というラベリングによる差別は、 赤狩りの「赤」であり、ナチの「ユダヤ人」であり、 茶色の朝の「茶色でないもの」 (2/13/2004) と同じなんだ、と

      • そういう過去の教訓から、 では今どうすれば良いのだろうか、と思ったり

      • でも、もうそうなって (既にこうなって) しまったら、 ダメなのかなもと思ったり (cf. 2/19/2004)

      • 例えば、その the pianist3/24/2004De Tweeling を見たら、 今どきのふつうの日本人は、どういう感想を持つんだろう

    • 4/15/2004