- 《ピアノ・マン》
- 《ストリートライフ・セレナーデ》
- 〈さよならハリウッド〉
- 有利な条件で再契約
- 《ニューヨーク物語》
- フィル・ラモーン登場
- 《ストレンジャー》
- 金をめぐっての不協和音
- 《ニューヨーク52番街》
- 《グラス・ハウス》
- 契約更新、薬と女遊びによる夫婦不和
- リッチー脱退
- 離婚、バイク事故
- クリスティ・ブリンクリー
- 《イノセント・マン》
前回の続き。
《ピアノ・マン》
[キャロル・キング《つづれおり》が大ヒットし、シンガー・ソングライターにチャンス到来]
「ジェイムズ・テイラー、ジョニ・ミッチェル、ポール・サイモン、ジュディ・コリンズ、ジャクソン・ブラウン。こういったシンガー・ソングライターたちが最前線にいたからね。『どうせ僕なんか』ってちょっとひがんでたよ」
マリブに住んでいるあいだに(略)《ピアノ・マン》の収録曲をほとんど書きあげた(略)タイトル曲〈ピアノ・マン〉(略)アメリカのどこかの町にもあるピアノ・バー。そこに集まってくる人々の姿を、ビリーは鮮やかに描きだす。(略)ビリーによると、この曲はパロディでも風刺でもなく、純粋にオマージュなのだという。
「あの仕事をもうやらなくてもいいっていう、感謝の気持ちを表した歌なんだ。ピアノ・バーで弾き語りをしてた時、多くの人はこれを何年も、あるいは一生、やり続けなきゃならないんだって気づいた。僕は弾き語りの仕事が好きじゃなかったけど、まさしくストリートを体験したわけで、それを自分の作品に活かそうと思ったんだ。あと、もうひとつ分かったのは、たとえばスタンダード曲をリクエストされて、その曲を知らなくても、適当にメジャー・セヴンスを入れて弾けば、みんなリクエストした曲だと思ってくれるってことさ」〈ピアノ・マン〉にハーモニカを取りいれたのは、ディランを意識したからだとビリーは素直にみとめている。
「60年代の初め、ヴィレッジで演奏してるボブ・ディランを観たんだ。彼はハーモニカ・ホルダーをつけてた。最初は『あぁ、車の事故にでもあったのかな』って、てっきりネック・ブレースかなんかだと思ったよ。ディランがハープを吹くスタイルは大好きさ。吸ったり、吹いたりを繰りかえしてね。彼の唇が正しい音を探りあてさえすれば、もう最高だった」
ゴスペル・コーラスをバックにした〈悪くはないさ〉でうたわれているテーマは、寛大さだ。歌詞に登場する女性は、孤独な夜、別の男に会いにいく。ジョン・スモールとビリーのあいだで揺れるエリザベスの心情が、この曲のインスピレーションとなっている。(略)この時期、ビリーが作ったラヴソングはすべて、エリザベスに捧げたものだといえた。(略)
〈僕の故郷〉で、ビリーは"オン・ザ・ロード"の人生を送る自分にとって、エリザベスがいない日々はとても寂しい、とうたう。
「〈僕の故郷〉は、彼女のために作った曲だ。プレゼントを買う金もなかったから『この曲をプレゼントするよ』って言うと、彼女は、『あたしに出版権をくれるってこと?』って言った。その時、僕は彼女にマネジメントを任せてもいいかなって思ったんだ」(略)
〈キャプテン・ジャック〉。ビリーは、土曜の夜にマリファナでハイになって、自慰をするのがなによりも楽しみだという、情けない男についてうたう。歌詞に出てくる"キャプテン・ジャック"とは、郊外に住むドラッグ・ディーラーだった。
「(略)その頃、郊外にある団地の向かい側のアパートに僕は住んでた。ガキどもがやってきては、団地に住んでる男からドラッグを買ってくんだ。そいつがキャプテン・ジャックさ。(略)この曲は、僕が人生の敗北だと考える状況を歌にしたものなんだ。ドラッグとマスターベーションを奨励している曲だとか非難されたこともあるけど、とんでもない。よく聴いてほしい。この男は、完全に負け犬だからね。(略)僕はこの曲をドラッグ全盛時代に書いた。意味のない無駄な死が、あちこちでひんぱんに起こってた。僕の友だちも、何人も死んだ。ドラッグは楽しみにもなるけど、人を殺すことだってできる」
(略)
当初、〈ピアノ・マン〉は、ラジオのプレイリストでは低迷状態を続けヒットチャートからも見放されたかに思われた。(略)
リリースから半年ほどたった74年4月、〈ピアノ・マン〉はついに(略)チャートに初登場。最高25位まで上がった。(略)
「たしかに、時間がかかった。〈ピアノ・マン〉はメロディ的にいって、それほどおもしろい曲じゃない。メロディよりも歌詞のほうが強く印象に残るしね。あの曲がヒットしたことに僕自身、驚いてるくらいさ。(略)」
(略)〈ピアノ・マン〉の成功とFMラジオ・ヒットとなった〈キャプテン・ジャック〉によって、ビリーはやっと、自らのオーディエンスを見つけることができた。
「ゆっくりだけど、僕らはカルトになっていった。うーん、もっといい言葉はないかな。カルトっていうと、つい黒の外衣をまとって香をたきながら、赤ん坊を殺したりする連中を思い浮かべてしまう。つまり、僕たちは、国内で自分たちのオーディエンスをどんどん増やしてったんだ。人々は口コミで、僕らの演奏を聴きにきてくれた。(略)ビーチ・ボーイズ、ドゥービー・ブラザーズ、イーグルス、リンダ・ロンシュタットほか、ありとあらゆる人たちの前座をやれるようになったよ。それでも、たいていの場合は、フライヤーに名前も載らなかった。ただの"スペシャル・ゲスト"さ。僕が〈ピアノ・マン〉をうたいだすと、客はみんな『ブー!早くビーチ・ボーイズを出せよ!』って感じだった」
《ストリートライフ・セレナーデ》
メイツァーはついにマネジャーの座を降ろされた。だが、アーティ・リップはその後、何年間にもわたって、ビリーに不気味につきまとうことになる。クライヴ・デイヴィスやコロムビア・レコードの重役たちは、ビリーとリップをなんとか引きはなそうとした。だが、ビリーがリップと交わした契約は、完全に合法的なものだった。リップは後にこう語っている。
「コロムビアと交わした契約は、ビリー・ジョエルのオリジナル・アルバムが10枚、プラス"ベスト・アルバム"というものだ。収録された曲にはすべて印税が派生した。年間契約ではなく、オリジナルのスタジオ・アルバムが10枚という契約だったからね。俺が支払ったアーティスト契約金の50万ドルを返さないかぎり、俺の取り分である印税は従来どおり支払ってもらうという内容さ。破棄できない契約を結んだ俺は、すっかり悪者扱いされたよ。1枚のレコード売上げにつき、25セント。ただしビリーが払う必要はない。レコード会社が払うんだ」
たしかに、ビリーが直接リップに支払うわけではなかったが、リップが分け前を手にする以上、ビリーはアルバム1枚につき25セントずつ損することになる。この後2年間にわたってアーティ・リップに支払いつづけることは、ビリーにとって、まさしく、しゃくの種だった。すでに、エリザベスは夫のマネジャーとなることに、はっきりと焦点を合わせはじめていた。彼女は実に賢い女性で、UCLAスクール・オブ・マネジメントで経営学を学んでいた。しかし彼女には、夫の財政的なリレー競争のバトンを受けとる心の準備が、まだ十分にできていなかった。
ビリーには、優秀なマネジメント・チームが必要だった。そこで[シカゴ、エルトン・ジョンと契約していた]カリブという会社とマネジメント契約を交わした。(略)
ビリーによると、彼が音楽市場においてエルトン・ジョンと同じポジションに位置されるようになっていったのは、新しいマネジャーたちの手腕によるものだという。(略)
マネジメント・サイドが選んだプロデューサーはアルバム《ピアノ・マン》のマイケル・スチュアートだった。しかし、スタジオ入りしたビリーとマイケルは、意見の衝突を繰りかえすことになる。「(略)マイケルのプロデュースの基本はこうだった『ビリー・ジョエルはピアノ弾きだから、ピアノの音を前面に出そう。ロックンロールっぽい部分なんかどうでもいい。とにかく、ビリー・ジョエルをフィチャーしてればいいんだ』ってね」
(略)
「とにかくなんでも聴いてたよ。トラフィックがすごく好きでね。スティーヴ・ウィンウッドは僕のヒーローだった。ポール・マッカートニーもね(略)イエスがやってた音楽にも、好きな曲がいくつかあった。エマーソン・レイク&パーマーの音楽は、壮大な似非クラシカル・サウンドってとこかな。《ストリートライフ・セレナーデ》は、ムーグ・シンセサイザーを手に入れたばかりだったから、アルバム全体にシンセサイザー・オイルを吹きかけたような仕上がりになってる。ちょっとやりすぎだった。あのアルバムは、あれから1度も聴いてないんだ」
(略)
サザン・カリフォルニアでの暮らしは、ビリーにとって、かなり魅惑的だったようだが、少しずつ不満も生じてきた。
「ロスアンジェルスはすごく魅力的な街だよ。(略)しばらくすると『なにかおもしろいこと、ないかな?』みたいな気分になってしまう。ある朝、目がさめて僕は叫んだ『こんなとこで、いったいなにをしてるんだ!?僕はニューヨークからきたんだぞ!』ってね。僕には変化が必要だった。ロスアンジェルスには冬もなければ、コントラストもない。あまりにもまやかしすぎる。べつにカリフォルニアを悪く言うつもりはないよ。(略)カリフォルニアには3年間住んだ。今でもカリフォルニアは好きだよ」(略)
いよいよハリウッドにグッドバイを告げ、ニューヨーク・シティにハローと大きな声で挨拶する時がきたのだ。
〈さよならハリウッド〉
故郷に戻ると決心した頃から、創作意欲がどんどん湧いてきた。そうしたなか〈さよならハリウッド〉が生まれる。
「あれは、言わば祝いの歌なんだ。ちょうど、ニューヨークに戻るところで、ロスアンジェルスから出られて嬉しいという気持ちをうたったのさ。移住して最初の1年は、穏やかな気候やヤシの木やハリウッド・ヒルからの眺めやパシフィック・コースト・ハイウェイなんかに、すっかり心奪われてた。けど1年くらいすると、そんな気持ちも薄れ、そしたら周りには信用できない連中が多いってことに気がついたんだ。友だちもあんまりできなかったしね。みんな損得で他人を判断してるみたいに思えたし。なんだか無性にニューヨークが恋しくなってきた。だからって、ハリウッドを悪く言うつもりなんて毛頭ないよ。純粋に、〈さよならハリウッド〉は自分にとっての祝福の歌だからね。『OK、ありがとうハリウッド』みたいな感じ。サウンド的にはフィル・スペクター・スタイルでやってみたかった。ロニー・スペクター&ザ・ロネッツを意識しながら作ったんだ」
(略)
「エリザベスがハイランド・フォールズに住む家を見つけてくれた。僕はグレイハウンド・バスから降りると、新しい家に足を踏みいれ(略)ピアノの前に座って〈ニューヨークの想い〉を作ったんだ。その時の気持ちそのままでね。ニューヨークに戻ってきて、本当に嬉しかったよ。30分くらいで書きあげたんだ」
(略)
ほどなく、ビリーはロングアイランド出身のミュージシャンたちを中心に、新しいバンドを結成。ベースにダグ・ステッグマイヤー、ドラムスにリバティ・ディヴィート、ギターにラッセル・ジェイヴァーズ、そしてサックス始めすべてのホーンとキーボードにリッチー・カナータという布陣だった。(略)
「僕らはできあがった曲をひっさげて、ツアーに乗りだした。レコード会社からのサポートはほとんどなかった。たぶん、レーベルとしては、ビリーを切るつもりだったんだろうな。あまりいい関係ではなかったからね。《ニューヨーク物語》に関しては、彼らもどうしたものか分からなかったんだろう」
有利な条件で再契約
マイケル・スチュアートをプロデューサーの座から降ろしたビリーは、マネジャーたちへの不満も募らせていた。妻エリザベスも、夫のキャリアを操作するカリブ・マネジメント・チームのやり方に不満を抱いていた。(略)
ビリーとカリブ・マネジメントのあいだで火花が散ったのは、ナッソー・コロシアムでのコンサートでビーチ・ボーイズのオープニングのオファーがきた時だった。一晩のギグに払われるギャラはわずか2000ドル。我慢も限界だった。エリザベスはすぐさまマネジメントに電話した。
「電話で彼らに言ってやったわ『冗談じゃないわ!あんたたちはクビよ!』ってね」(略)
「(略)エリザベスは賢かったから、彼女ならやってけると思った。レコード会社の人間は、彼女のことをただのロックンロール・ワイフだと思ってたみたいだけどね。(略)簡単にだませる女だと思わせておいて、彼女は実にいい仕事をしてくれたよ(略)
コロムビアとの契約を再調整して、著作権やレコード印税も、より有利になるよう再交渉してくれた。当時は、僕のアルバムがたいして売れてなかったから、誰も僕の価値をみとめていなかった。けど、彼女は僕らがいいライヴをして5000人の会場をソールドアウトにできることを交渉材料にした。なにしろ、僕らはメイン・アクトをぶっ飛ばすことができたからね。(略)自分たちで"カミカゼ・ショー"って呼んでた。いちばんホットな曲をがんがんプレイして去っていった。みんな『あいつらはいったい何者だ?』ってことになる。(略)そうやって、僕らはついにヘッドライナーになれたんだ」
(略)
エリザベスは『ローリング・ストーン』誌が伝えたように、"音楽業界でもっとも有利な印税契約"を、夫のためにとりまとめた。後年、エリザベスはこう語った。「ある意味、男と女としてよりもマネジャーとアーティストとしてのほうが、うまく行ってたわね」
《ニューヨーク物語》
「バーブラ・ストライサンドの〈ニューヨークの想い〉やシナトラの〈素顔のままで〉も大好きだけど、なんといっても、いちばん興奮したのはロニー・スペクターが〈さよならハリウッド〉をカヴァーしたことさ。だって、あの歌詞を書いた時、ずっと頭のなかでロニーの声が聴こえてたくらいだからね。おまけにスティーヴン・ヴァン・ザントとEストリート・バンドがバックアップしてるしな。ほんとに嬉しくてたまらなかったよ」
(略)
〈マイアミ2017〉は、愛するニューヨーク・シティが破産して、廃墟が炎につつまれる様子をうたったもの。ビリーはこう語る。
「ロスアンジェルスからニューヨークに戻った時に、この曲を書いたんだ。ニューヨークが破綻の危機に瀕し、瀬戸際に立たされていた頃さ。ロスアンジェルスの人たちは、どこかそれを喜んでるようなところがあった。ハハハ〜、ニューヨークもついにおしまいかって感じで。だから僕は弁護したくなって、SFみたいな内容の歌詞を書いたんだ。2017年っていう未来を想定して、老人である僕が孫たちに話してきかせるという設定にしてね。ブロードウェイの灯がどのように消えたのか、超高層ビルはいかにして崩れおち、廃墟となって足元に広がったのか。それは、まさにこの世の終末といえるような光景だ」
今となれば、2001年9月11日に起きた大惨事を思わせるような、暗示的な内容でもある。(略)
《ニューヨーク物語》は(略)セールス的には完敗だった。(略)
「自分のサウンドに関して、僕はとくにコンセプトなんてなかったんだ。(略)《ニューヨーク物語》には、おそらく、ある一定のサウンドがあったんだろう。その前のアルバム《ストリートライフ・セレナーデ》と《ピアノ・マン》は、自分でも聴くにたえないね。声のトーンとか、プロデュースのやり方とか。《ストリートライフ・セレナーデ》では、ドビッシーみたいな曲を書こうとがんばりすぎた。やたら芸術家きどりで、無節操そのものだ」
フィル・ラモーン登場
[77年バーブラ・ストライサンドが〈ニューヨークの想い〉をカヴァー、収録アルバム《スーパーマン》は]プラチナ・ディスクを獲得。ビリーにも、作曲者印税が入ってくるようになる。
(略)
[ビリーは次作のプロデューサーにジョージ・マーティンを希望]
[リッチー談]
「僕らはジョージ・マーティンにオーディションしてもらおうと思って、コンサートに招待した。(略)ジョージは観にきてくれた。ところが、答えはノーだった。(略)「興味がない」の一言で断ってきたんだ」
伝えられるところによると、ジョージ・マーティンはビリーに会って、個人的には好感を持ったようだ。彼は、ビリー・ジョエルの曲のアイディアも気にいった。しかし(略)マーティンは、ビリーの新生ニューヨーク・ツアー・バンドをレコーディング・スタジオで使うというアイディアに反対(略)かくして、交渉は決裂。だが、もうひとりのプロデューサーとの出会いが生まれる。
(略)77年、カーネギー・ホールでビリーとバンドを観たフィル・ラモーンは、彼らのファンになったのだという。リッチーは語る。
「(略)すぐさまレコード・プラント(レコーディング・スタジオ)に電話して、こう告げたらしい『明日、トラックを1台よこしてほしい。彼らのレコーディングをしたいんだ』。後にアルバム《ストレンジャー》に入る曲を紹介がわりにやっていたんだけど、すごく気にいってくれたみたいでね。ぜひプロデュースしたいって言ってくれたんだ」
ビリーによるとこうだ。
「エリザベスが、僕とフィル・ラモーンを引きあわせてくれたんだ。僕のバンドを使おうとしないほかのプロデューサーとは、一緒に仕事したくなかった。(略)彼女が引きあわせてくれて、マジックが生まれたんだ」(略)
「(略)フィルは新しい方向へと導いてくれた。こう言ってね『ライヴでプレイするとおりにやってくれ。15テイクも20テイクも録らずに、5テイクでオッケーだから』。僕らはアイディアを出しあい、曲をあれこれいじっては、いろんなやり方を試した。(略)フィルには、なにが正しいのかを嗅ぎわけるセンスがあった。〈若死にするのは善人だけ〉をレゲエ・ソングにするつもりだった僕に、フィルが言うんだ『シャッフルでやってみたらどうだい?』って。〈素顔のままで〉も、ゆったりしたサンバで試してみたらって言うし。彼のおかげで楽曲たちがどんどん発展していったんだ」
ラモーンは、ビリーのドラマー、リバティ・ディヴィートがいかに貢献しているかを、すぐに見抜いたという。
「リバティを観て、私はすっかり興奮したんだ。なんてすごいやつなんだ、と思った。リバティのおかげでセッションはとてもエキサイティングなものになった。私は彼を"ソング・ドラマー"って呼んだよ。ハードでヘヴィなビートを刻みながら、歌詞のじゃまにならないような配慮もできたからね。(略)」
(略)
リバティは、音楽に関する自分なりのコンセプトを、こう説明する。「(略)ピザを一切れ食いながら、それが音楽だと思ってみてくれ。トマト・ソース、チーズ、クラスト、それにペパローニがのっかってる。おまけにソースには、パセリやバジルも入ってる。それとおんなじで、俺には音楽が層になって聴こえるんだ。ピザみたいにね。そして俺は音楽のなかに入りこめるんだ。でっかい音でプレイしてる時とかとくにそうなんだが、音楽のなかに入りこんじまって、体ごとつつまれたような気になる。なにかを生みだす時は、いつもそんな感じだね。その曲にすっぽりつつみ込まれてるみたいにね」
(略)[リッチー・カナータ談]
「(略)彼にはすごいオーラがあって、僕らを次のレヴェルまで引きあげてくれた。フィルは、ものすごく頭の切れる男だった。(略)午前中か午後早めにスタジオに行って、夜の7時か8時には終わっていた。しかも、とっても生産的な作業だった。アルバム《ストレンジャー》のレコーディングはほんのひと月くらいで、すべて終わったよ。フィルは文句なしだった。楽曲はどれも、すでにできあがっていたからね。みっちり練習もしていたし、さらにツアーで磨きをかけてもいた。だからベーシック・トラックは、僕らだけですべて録った。あとは、ギターのパートを入れるだけだった。(略)」
《ストレンジャー》
[リバティ談]
「ビリーはあの曲[〈ストレンジャー〉]を、カシオのちっちゃいエレクトリック・キーボードで作ったんだ。伴奏がつけられるように、リズム・トラックのボタンがいろいろくっついてるやつさ。ボサノヴァやらルンバやらロックンロールとかのボタンすべてをビリーは押して試してた。あの曲は、そうやって生まれたのさ」
(略)〈素顔のままで〉は、妻エリザベスのために書かれた美しく情感溢れるラヴ・バラード(略)だが、あやうくアルバムから外されるところだった。当時、フィル・ラモーンは、フィービー・スノウのデビュー・アルバム制作に関わっていた。[さらにエリザベスがフィービーをマネジメント]
(略)
[ビリー談]
「あの曲はあんまり好きじゃなかった。スタジオで聴きなおして、アルバムには入れないことにしようと考えてた。そこに、リンダ・ロンシュタットとフィービー・スノウがやってきて、この曲を聴くと『こんないい曲、アルバムに入れなきゃだめよ!』って言ったんだ。彼女たちが、どうしても入れるべきだって強く勧めるんで(略)アルバムに収録することになったんだ」フィービーの主張は異なる。
「リンダはそこにいなかったのよ。彼はどうして、ちゃんと覚えていないのかしら?あそこにいたのはあたしだけ。(略)フィルとビリーはあの曲のラフ・ミックスを聴かせてくれたわ。聴かせる前、彼らはきまり悪そうに弁解していたわね。ビリーは照れくさそうに、『ちょっと安っぽいかも』って。あたしは『じゃ、客観的に聴いてみるわね』って言ったのよ(略)思わず泣きだしちゃったのよ!」と、彼女は語る。
ビリーは彼女の頬に流れる涙を見ると、驚いてこう尋ねたらしい。「そんなに、ひどい?」
彼女はおもわず返した。
「これこそ、ヒット・シングル間違いないわ!」
フィービーの話だと、ビリーは、きみってクレイジーだな、という目で見ていたらしい。
(略)〈ウィーン〉は、アメリカを捨てオーストリアに単身移住した父親について書かれた曲。ビリーは、いまだ解決されていない父親との確執について触れながら、父親の情熱とプライドについても語っている。(略)歌詞のなかで、ビリーは父親に、なぜ、そんなに急いで逃げようとするのか、と問いかける。リバティはこう語る。
「俺たちの前のバンド、トッパーの曲に〈ギヴ・イット・オール・アウェイ〉とか〈ザ・トッパー・ソング〉って呼んでた曲があった。ある日、ビリーがスタジオに入ってきて、俺たちがその曲をやってるのを聴いたんだ。冒頭の部分が〈ウィーン〉にそっくりでね。やつはそれをうまいことあの曲に取りいれたのさ。最後のブルースっぽいフレーズは、俺のアイディアだよ」
続く〈若死にするのは善人だけ〉だが、ビリーによるともともとレゲエ調の曲だったという。それを変更したのは、ディヴィートだった。
「リバティが『レゲエは嫌いだ。俺はプレイしたくない』って譲らないんで、結局、シャッフルでやることになった」(略)
アルバム《ストレンジャー》は1000万枚以上を売りあげ、サイモン&ガーファンクルのアルバム《明日に架ける橋》を抜いてコロムビア・レコード史上もっとも売れたアルバムとなる。その記録は、ブルース・スプリングスティーンの84年のアルバム《ボーン・イン・ザ・USA》が発表されるまで破られることはなかった。
(略)
「ある日突然、僕は"ロック・スター"になってた!今でも不思議な気分さ。(略)最初はソングライターとしてスタートしたのに……(略)やっとまともなブッキングができるようになったんだ。以前、オリビア・ニュートン・ジョンのツアーに同行したことがあった。僕らは"白雪姫とレニー・ブルース・ツアー"って呼んでた。まったくミスマッチだったよ。彼女のファン、日曜礼拝に行くような連中でいっぱいのコロシアムで、僕は〈キャプテン・ジャック〉をやるわけだ。"部屋でひとりマスをかいてる"って歌詞の部分は"部屋でひとり考えこんでる"に変えてうたってたよ」
オリビア・ニュートン・ジョンのようなMORツアーとも、ついに縁を切ることができた。そして突然、彼らは2万人収容のアリーナへと格上げになったのだ。
「レコードが大ヒットしても、ツアーの経験がないグループが多かったからね。(略)僕らにはアルバム4枚分の楽曲と7年間のツアー経験があった。〈素顔のままで〉はもちろんだけど、〈キャプテン・ジャック〉〈ピアノ・マン〉〈さよなら、ハリウッド〉みたいな曲もやってみせた。みんな「あぁ、この曲って彼の曲だったんだ」って感じ。だから、オーディエンスはすごく満足してたよ。なんだかチケット代以上に得した気分になれるわけだから」
この時期、ビリーは父親とも連絡を取りあっていた。(略)
「親父はあまりロックンロールを知らないみたいだった。〈素顔のままで〉は大ヒットしたけど、親父に言わせると『おまえは前にもっといい曲を書いていたじゃないか』だってさ」
金をめぐっての不協和音
大金が、突然、ビリーのもとに入ってくるようになった。しかし、バンド・メンバーにはレコーディング・セッションのギャラとコンサートの出演料が支払われるだけだ。リバティ・ディヴィートはこう語る。
「アルバム《ニューヨーク物語》のレコーディングは、たしかノー・ギャラだったよ。《ストレンジャー》で、ギャラはレコーディングとツアーのダブルになった。《ニューヨーク52番街》からは、アルバムがミリオンを出すとボーナスとして1万ドルが支払われるようになったんだ。それが励みになって、俺たちはステージでの演奏にも気合いが入ったよ。アルバムのプロモーションをがんばれば、それだけ利益をシェアできるわけだからね」しかし、こうしたボーナス報酬のような口約束だけの取り決めは、後にバンド内で問題を引きおこすことにな
アルバム《ストレンジャー》によって、スタジオ・ワークのパターンが定着した。これらの楽曲はすべて、ビリー、リバティ、リッチー、そしてダグによって作りあげられたものだが、レコード・セールスや出版権のすべてを所有しているのは、ビリー・ジョエル本人だけだった。しかもバンド・メンバーたちはコロムビア・レコードと契約を交わしていなかった。リバティは語る。
「契約は交わしてたつもりだけど、ほとんどが口頭だったからね。いつもアルバムごととかツアーごとに支払われてた。(略)残念なことに、俺にはビートしかない。メロディがないんだ。そして金になるのは、なんといってもメロディだからな。だから、俺がドラム・パートを作りあげて、みんなが『あのドラム・パートは最高だよな。あの曲にバッチリはまってる!』と言ってくれても、それだけさ。その日のスタジオ・セッションのギャラをもらって、それで終わり。スティーヴ・ガッドも、〈恋人と別れる50の方法〉のセッションで、組合の決めたギャラしかもらってないらしい。それでも、あの曲があんなふうに仕上がったのは、彼の手柄だからな」
(略)
《ニューヨーク物語》のレコーディングとそのプロモーション・ツアーに参加し、アルバム《ストレンジャー〉のレコーディング・セッションから外されたギター・プレイヤー、ラッセル・ジェイヴァーズは、こう証言する。
「(略)ビリーは僕のデモでもプレイしてるんだ。アルバム《ニューヨーク物語》をレコーディングしたのと同じウルトラソニック・スタジオでね」
当初の計画は、ラッセル・ジェイヴァーズのバンド、トッパーとレコード契約を結ぶだけでなく、彼にソロとしてレコーディングするチャンスを与えようというものだった。つまり、ビリーとラッセルのあいだには、カナータ、ディヴィート、そしてステッグマイヤーがどちらのバンドに入れるのかという、ちょっとした主導権争いがあったわけだ。ラッセルはこう説明する。
「マイク・アペルが僕のマネジャーだった。スプリングスティーンも担当してた男だ。(略)マイクは僕が彼らとプレイすることに反対だった。『あいつら、おまえのことなんてなんとも思ってない』って言ってたよ。でも、僕が人生でいちばんやりたかったのは、バンドをやることだった。僕のバンドが最高だってことも分かってたし(略)
おかしなもんだよね。僕のバンドは、気がついたらビリーのバンドとして売りだそうとしてた。それも、当然だけどね。ビリーは、ブレイク寸前だった。もし、それが僕のバンドだったら、きっとブレイクしてなかっただろうね。
(略)
フィル・ラモーンが僕を仲間に入れようとしていた。たぶん、フィルは僕のプロデュースをしたかったんだと思う。だけど、ビリーはそれをさせたがらなかったんだ」
(略)
[リバティ談]「トッパーは[CBSと]契約を交わせるところまできてたんだ。(略)ところが、ビリーのやつが阻止したんだ。ビリーにしてやられたよ」
その後、ラッセルはビリーのバンドに戻り、それからの10年間、ビリー・ジョエルのアルバムとコンサートに欠かせない存在となる。(略)
《ニューヨーク52番街》
「僕の左手は少し不自由だから、指だけでプレイせずに身体全体を使ってプレイする。ピアノが悲鳴を上げるのを聴きたいんだ。だから、いつもピアノの弦を切ってしまう。そんなピアノ・プレイヤーはほかにはいないんじゃないかな
(略)
作曲してる時は、自分でもなにをやってるか分からなくなる。ただ、ひたすら自然にまかせるだけでね。何週間も、からっぽの状態で[悪戦苦闘し絶望すると](略)閃くんだ。
(略)
メロディが歌詞ほど完璧じゃなくても許されるのは、ディランだけだね。多くの場合、ある特定のキーとか音符のパターンを補うものとして、その響きだけで歌詞を作るんだ。歌詞の重要性を軽くみてるわけじゃないけど、まずメロディを完成させるのが先決さ。メロディは、それだけで説得力を持ってなきゃいけないんだ。(略)」
(略)
アルバムのタイトルは、ジャズを暗示的に意味していた。(略)リッチーはこう説明する。
「アルバム・カヴァーでビリーは片手にトランペットを持っているよね。52番街は"スウィング・ストリート"だった。ビリーがトランペットを持った写真を撮ったのは、レコーディングしていたA&Rスタジオに行く途中の、ゴミ溜めみたいなエリアだよ。典型的なニューヨークの光景さ。ゴミやらネズミやらをぬいながら汚い階段を上って、ようやくスタジオに着くんだ。ビリーは変化を求めていた。(略)ビリーはあのレコードをそれまでと違ったものにしたがっていたし、僕のパートもふんだんにあった。クラリネットも吹いたりして、ほんとうに楽しくレコーディングができたよ。(略)〈ザンジバル〉でフリューゲルホルンを吹いているのは、フレディー・ハバードだよ」
(略)[ビリー談]
「(略)《ストレンジャー》の続編だけはやりたくなかった。いつもなにか新しいこと、なにか違うことをやってみたいんだ」(略)
[〈オネスティ〉]
「リバティが、いっつも僕に早く歌詞を書くようにせっつくんだ。(略)あいつは歌詞がないとレコーディングしようとしない。いつも歌詞に合わせ、一緒に口ずさみながらプレイするんだ。(略)僕に早く歌詞を書かせようと、メチャクチャ卑猥な歌詞をつけたりするんだ。でもけっこうそれがイケてるんで、僕がちゃんとした歌詞を書かないかぎり、ずっとそれでレコーディングすることになってしまう。〈オネスティ〉を作った時、もともとは〈ホーム・アゲイン〉つていうタイトルだった。"また家に帰りたい、ここから出してくれ(Home again,Get me out of here)"っていう歌詞で。(略)
それから先の歌詞ができてなかったもんだから、リバティが自分なりに歌詞をつけたんだ。"ソドミー、なんて孤独な世界だろう(Sodomy,It's such a lonely world)"ってね。あの曲をプレイするたびに、みんなしてその歌詞でうたいはじめるんで、早くちゃんとした歌詞を書かなきゃって気になった。僕をその気にさせるには、すごくいいやり方だった。恥をかかされると、人はやる気を出すものさ」
(略)
[〈マイ・ライフ〉]
「ある夜、僕は考えた。両親に向かって、"あんたたちになんて言われようとかまわない、これは僕の人生なんだ"と言いのこして、家を出ようとする若者のことをね。(略)」
[スタジオにきた]父親にはクラシック・ピアニストよりもロック・スターになりたがる息子の気持ちがまるで理解できないことに、すぐに気づいたという。
「親父がレコーディング・セッションを見にきた時、〈マイ・ライフ〉をやってた。『ピアノの音が外れてるぞ』って言うから、『それがいいんだよ、パパ』って返した。親父にエルヴィス・プレスリーを説明しても、分かりっこないからね」(略)
[アルバム、ツアーは大成功だったが]
リバティ、リッチー、そしてダグの3人は、ビリーとの仕事上の関係がわずかに歪んできていると感じていた。(略)レコーディング時期になると、バンドのミュージシャンたちには、"ダブル・スケール"の時間給でギャラが支払われたが、"ミュージシャンズ・ユニオン"が当時の最低賃金に指定していた額の倍のギャラにすぎなかった。(略)
バンドの全員が楽曲の構成やレコーディング自体に、技術的に貢献していたものの、ソングライティング・クレジットに記名されるのはただひとり。(略)
リバティはこう語る。
「ミュージシャンズ・ユニオンの収支報告によると、78年度の俺の総収入は、5789ドル76セントだった。そのうちの3936ドルは、アルバム《ニューヨーク52番街》のレコーディングのギャラだ。CBSレコードに移った時に、さらに1万ドルと、100万枚売れるごとに、さらに1万ドルが支払われた。けど、シングルと海外でのセールスは含まれてない
(略)
《ニューヨーク52番街》のリリース後に、ダグと俺は、あのアルバムの楽曲に貢献した正当な報酬が支払われてないって気づいたんだ。そこで、弁護士に会いにいった。彼は俺たちに尋ねた『きみたち、バンドを辞めるつもりかね?』。思わず、そいつの顔を見て『いいや』って言うと、『それなら、話はこれまでだ』ときた。それで、おしまいさ。ビリーと正式に契約していないかぎり、俺たちはただの雇われセッション・ミュージシャンってわけだった」(略)
《グラス・ハウス》
今や、もっとも新しい流れは、"ニューウェイヴ"と"パンク"だった。
(略)
[当初否定的だったビリーだが、エリザベスの息子、ショーンが]
聴かせてくれたニューウェイヴのいくつかの音楽に、かなり感動を覚えたという。ニュー・アルバム《グラス・ハウス》がリリースされた時、そのライナーノーツにはこう記されていた。
「インスピレーションをくれたショーンに感謝を」
(略)
契約更新、薬と女遊びによる夫婦不和
81年、ビリーは、コロムビアと交わした7年間のレコード契約を更新する時期にきていた。(略)もっとも悩みの種だったのは、ビリーの印税の取り分から、アルバム1枚につき25パーセントが直接、アーティ・リップとマイケル・ラングに入ることだった。交渉が成立した時点で、コロムビア・レコード側(当時の社長は、ウォルター・イェトニコフ)は、会社が自腹を切って、リップとラングに今までどおり支払うということで合意した。この新契約のもとでリリースされた最初のアルバムが、《ソングズ・イン・ジ・アティック》だった。(略)
[リバティ談]
「ウォルター・イェトニコフは、ビリーの出版著作権を取りもどしてくれた。彼はアーティ・リップのところに行って『こんなばかげたことは、もう終わりにしろ。さもなければ裁判所で争うことになるぞ』って凄んだらしい。結局、彼らは金銭的に和解して、イェトニコフは、リップが持っていた初期の楽曲の出版権もすべてビリーのもとに取りもどしたってわけさ」
辣腕をふるっていたエリザベスはビリーの業務全般を取りしきることに、いくらか負担を感じはじめていた。(略)マネジメント会社であるホームラン・システム・コーポレーション、音楽出版社であるインパルシヴ・ミュージック/ジョエル・ソングズ、コンサート・ステージ・ショーをプロデュースするビリー・ジョエル・ツアーズ、ツアーのブッキング窓口のホームラン・エージェンシー、コンサート・プログラムからTシャツまで、すべてのマーチャンダイジングを請けおうルーツ・ラグズまで一切をしきっていた。
エリザベスは責任の大部分を、第三者に委ねようとしていた。まず彼女が選んだ人物は、実兄であるフランク・ウェーバーだ。(略)
「エリザベスは、もう僕のマネジメントを降りたんだ。彼女が今かかわっているのは、基金調達と映画製作と映画編集くらい。それでも、彼女にはほかにも20種類くらいの役割がある。だから僕は彼女に言ったよ『ワイフ兼マネジャーとしての重圧は、もう必要ない。これからは、ただの男と女に戻ろう』ってね」
この発言からも分かるように、彼らの仲が終わりに近づいていることは、すでに誰の目にも明らかだった。ある筋によると、ビリー陣営では薬物使用がますますエスカレートして、エリザベスはそれを快く思っていなかったという。また、ビリーはツアーなどでエリザベスが傍にいない時、女遊びもかなり盛んだったようだ。
(略)
リッチー・カナータはこう語る。
「フランク・ウェーバーの役割は、ビリーとエリザベスが別れたあとに、エリザベスの代わりを務めることだった。彼はエリザベスによって送りこまれて、ビリーもそれに賛成したんだ。(略)」
リッチー脱退
[リバティ談]
「正直言って、果たしてリッチーが辞めたかったのかどうか分からない。あいつはもっと稼ぎたいって言ってたからな。照明と音響のやつらが、かなりの権限を持ちはじめたことが問題だったかもしれない。現場にいるやつらには、客席で聴くサウンドがすべて聴こえるわけだ。俺たちが最高の演奏をしたって思っても、PAを通して聴いてるやつらには、「クソみたいにひでえ音」に聴こえたかもしれない。やつらにそう指摘されたら、ビリーだって、「クソみたいにひどいのか」って思うだろ?(略)そんなんで、ビリーはあいつらの意見に、すごく重きを置くようになったのさ」(略)
リバティがドラム・ソロを、リッチーがサックス・ソロを披露しはじめると、彼らにもスポットライトが当たるようになり、それは照明監督の役目だった。そしてソロに合わせて、音響係がドラムやサックスのヴォリュームを上げることになっている。裏を返せば、彼らはリッチーとリバティの照明や音量を下げることで、ドラムやサックス・ソロのパートを目立たなくさせることもできるわけだ。リバティは言う。
「必ず誰かひとり、そうした"いじめの標的"になるやつがいたのさ。ショックだったのは、みんなが突然、俺のことを攻撃しはじめたんだ。ふと気づくと、いつのまにか自分が標的になってた。最初の犠牲者が、リッチーだったんだ。誰かがリッチーに嫉妬してたのさ。リッチーがスター扱いされるのを、気にいらないやつがいたんだ。(略)
[ヒッチコックの]「救命艇」っていう映画、観たことあるかい?(略)映画も終わりに近づいて、いよいよ救出されるって場面で、さて、いったい誰が救命艇からふり落とされるのか?自分が助かりたいために誰が誰を裏切るのか?つまり極限状態じゃ、人間の本質が露わになるもんさ。ビリーがせっせと曲を書いて、やつの曲を完成型にするために俺たちがバックアップしてた。俺たちはひとつのユニットとして、どんどん進化してった。でも、ある時、誰かがやってきて、『ねぇ、ビリー。曲を書いてるのはきみなんだろ?きみあってのバンドなんだろ?』ってほざきやがったのさ。そして、『あいつらなんか辞めさせちまえ!』って入れ知恵した。最初のうちこそしぶってたビリーもいつしか『うん、そうだな、あいつをやめさせよう。あいつがいなくてもなんとかなる』って考えはじめる。最初に誰かを撃ったら、ふたり目は簡単に撃てるっていうだろ?最初の悲劇の犠牲者は、リッチーさ。(略)
やつはビリーに金の交渉をしたらしい。あいつはサックス以外にもオルガンとアコーディオンまで担当してたからね。実際、ビリーはリッチーをピックアップするために、彼んちまでリムジンを迎えにいかせた。予定されてたツアーにリッチーが姿を現さなかったとか、たしか、そんな話だったよ」
リッチー・カナータはこう説明する。
「みんなは金の問題だと思っているようだけど、実際は違う。僕はビリーに、『これだけの額を出さなければ、ツアーには出ない』なんて言ったおぼえはないし、暗黙の了解って感じだったよ。ビリーと僕が話す機会はあった。どこかの楽屋で(略)ティモシー・ホワイト(ロック・ライター)が『ふたりは、またどこかで一緒にやるのかい?』って聞いた。ビリーはふり返ると、『あぁ、またいつか、一緒にやると思うよ』って答えた。だから、僕も『そうだね、いつかまた』って言った。でも当時、僕にはその気はなかったし、ビリーもそれは分かってたと思うよ」
82年、リッチー・カナータは正式にビリー・ジョエル・バンドを脱退した。(略)
「(略)ビリーと別れたあとは、エルトン・ジョンとやったし、それから、リタ・クーリッジともやっていたよ」(略)
何年か、サックス・プレイヤーとしてビーチ・ボーイズのツアーに同行し、それぞれのソロ・プロジェクトにも参加。そして彼は資産をうまく運用し、自らレコーディング・スタジオを購入した。
離婚、バイク事故
[《ナイロン・カーテン》]制作中に、ビリーとエリザベスは正式に離婚を発表した。
「僕らの結婚はうまくいかなかった。彼女は僕以上に僕のキャリアに集中してたよ。マネジャーとしての彼女の役割は、僕をロック・スターにすることだった。ある意味、僕は彼女にとって商品だったのかもしれない。(略)
子供がほしかった。(略)娘がほしいな。もし男の子なら、魚釣りに連れていったり、バイクの乗り方を教えたりしたい。(略)将来的には、もう少し家族のための時間を作りたい。僕は父親なしで育ったから、子供たちには同じ思いをさせたくない。(略)」
エリザベスと別れた前後、ビリーのオートバイ熱は高まりをみせた。(略)
82年4月15日(略)春の午後を楽しもうと愛用の78年型ハーレーダビッドソンに乗ってでかけた。(略)
「赤信号なのに突っこんできたんだ。僕にはどうすることもできなかった。(略)自分はこれで死ぬんだって思ったし、ブルックリン全体くらいにでっかく見える車に、やたらと腹を立ててた。(略)スローモーションで(略)ボン!って背中から着地し(略)「ふ~、やれやれ」って感じで、立ちあがったんだ」
(略)恐る恐る左手を見ると、なんと手全体がグレープフルーツのように腫れあがっていた。
(略)
手術後、アンドリュース医師は、ビリーの両手は以前のような器用さを取りもどすだろうと保証した。(略)
「あの事故で学んだ最大の教訓は、世界をすべて支配してるように思えても、突然、誰かが危険信号を出すってことさ。(略)」
クリスティ・ブリンクリー
「82年から83年にかけて、僕は何年振りかで1週間の休暇をとった。それまで別居と離婚を経験してたし、ツアーを終えたばかりで疲れきってたんだ。ポール・サイモンがセント・バーツってとこに家を借りてた。カリブ諸島にある島さ。彼から一休みしにこないかって誘われたんで行くことにした。(略)小型機に乗りかけようとしてた時、クリスティ・ブリンクリーを見かけたんだ。(略)写真で見るより、ずっと美しかった。そしてセント・バーツに着いて、PLMホテルのバーに行ったんだ。そこにはピアノがあって、僕は少し酒を飲んでた。そしたら、そこにクリスティ・ブリンクリーがいたんだ!ホイットニー・ヒューストンともうひとり、エル(・マクファーソン)って子もいた。彼女も有名なモデルだよ」
当時、ホイットニー・ヒューストンはまだアルバムをリリースしていなかった。彼女は10代のモデルとして、成功の波に乗ったばかりだった。クリスティ同様、エル・マクファーソンは当時、そして今なお世界に誇る超人気モデルのひとりだ。165センチのビリーは、自分より5~10cmは背が高い均整のとれた美女3人と知りあうことになった。18歳のホイットニー・ヒューストンはキュートではあったが、ビリーにとって触手は動かなかった。19歳のエル・マクファーソンには好感は持ったものの、恋の対象ではなかった。しかし、クリスティ・ブリンクリーには、一目で惹かれてしまった。(略)
「僕は『カサブランカ』のハンフリー・ボガードになったつもりで、〈時の流れるままに〉を弾きはじめた。彼女たちはピアノの周りに集まってきて、一緒にうたいだした。クリスティは僕の隣に座ってた。ホイットニーはピアノの前に立ってうたってた。僕らはそんなふうにして出会ったんだ。(略)彼女は付きあってた男と別れたばかりで、友だちが新しい男を見つけるように励ましてたらしい」(略)
79年、クリスティは年刊『スポーツ・イラストレイテッド』誌の水着特集号の表紙に登場した。(略)172.5cmという長身のクリスティは、まさに世界に誇る美女のひとりだった。(略)クリスティは73年から81年まで、ジャン・フランソワ・アローと結婚していた。やがて彼女はモエ・エ・シャンドン・シャンパンで有名な資産家の跡継ぎ、オリヴァー・シャンドン・デ・ブレイルとデートを重ねるようになる。オリヴァーは情熱的なレース・カー・ドライヴァーでもあった。
(略)
「ふたりは数カ月前に別れたばかりで、ちょっと落ちこんでたんだと思う。(略)
僕らは『それじゃ、ニューヨークに戻ったら、またどこかで会えるかもね』と言って別れたんだ。最初、彼女は僕のこと『タイプじゃないわ』って言ってたらしい」
こうして、休暇は終わり、それぞれが別々の道へと別れていった。
(略)
[2週間後オリヴァーがレース事故死。新聞でそれを知り]
すぐに彼女に電話した。『きみのつらい気持ちは分かるよ。もし、話し相手がほしい時は、僕がいつでもここにいるからね』って伝えたんだ」
《イノセント・マン》
ビリーがアルバム《イノセント・マン》の作品を書きはじめたのは、ロドニー・デンジャーフィールド/ジョー・ペッシの88年映画『イージー・マネー』のテーマ曲を書いてほしいという依頼がきっかけだった。(略)
「依頼を受けて自動的に浮かんできたのはソウル・ミュージックだった。(略)次に書いたのが〈イノセント・マン〉で、そのまま〈ロンゲスト・タイム〉まで一気に書きあげたんだ。(略)
〈イノセント・マン〉は、ベン・E・キングやドリフターズを聴いた時の感覚を思いおこせるように作った。レコーディングでは、かなり高音でうたってる。こんなに高音でうたうのはたぶん最後だろうなって思って、メチャメチャ気合い入れてうたったよ
(略)
〈あの娘にアタック〉(略)で、僕は過去には生きていない、現在を楽しんでる、とうたってるのさ。悪ガキ仲間と付きあったり、昔の音楽を聴いてなかったら今の僕は存在してなかったかもね。ただ〈あの娘にアタック〉だけを聴くと、ひどいもんさ。まるでトニー・オーランド&ドーンみたいでね。それでも、アルバムの前後をとおして聴くと、なかなかいいなとも思える。あのアルバムは、いわばオールド・ロックンロールへのトリビュートみたいなものだからね。僕がもっとも影響を受けたモータウン・グループはシュープリームスだった。だから、シュープリームス気分でやってみたのさ。けど、それだけで聴くと、やっぱりトニー・オーランド&ドーンになってしまう。でもね、プラターズやウィルソン・ピケットみたいな曲の次に聴くと、すごくしっくりくるよ
(略)
〈アップタウン・ガール〉はジョークみたいな歌だ。フランキー・ヴァリとフォー・シーズンズに捧げるトリビュートさ。(略)あの張りつめたファルセット・ヴォイスでね。ほとんどジョークなんだけど、聴いていて『あぁ、フォー・シーズンズみたいで懐かしいなぁ』って気になる。ビートルズが登場するまで僕にとって、いちばん影響力があったグループだからね
(略)
[〈君はクリスティ〉]
僕がクリスティと一緒だった頃に書いた曲は、彼女がミューズとして影響を与えてくれてた。それは否定しないよ。彼女は僕が理想とする女性そのものだった。(略)
でも、だからって、僕がその頃書いた曲はすべて、彼女との生活に関係してたかっていうと、それは違うと思う。つまり、僕には僕なりの人生があった。その前にも家族がいたし、昔からの友人もいた。僕には僕なりの意見もあるんだ
(略)
「(略)[〈アップタウン・ガール〉のMV]には、それほど乗り気じゃなかったんだ。だって、この僕にダンスしろって言うんだからね。仕方なくやったって感じさ。(略)僕らはバウァリ街にいたんだけど、浮浪者が集まってきては、『お~い、クリスティ!』って彼女に群がって最悪だったよ。だいたい、彼女を出演させるのには最初から反対だった。あれは僕のアイディアじゃなくて、プロダクションの人間の考えだった。プライヴェートは持ちこみたくなかった。彼女はさすがプロだから、カメラ慣れしてるし、映りもいい。僕なんか身体がすくんじゃって、ついカメラから逃げてしまう。ヴィデオを観れば観るほど、なんだか気後れしちゃうんだ。できることなら、そんなことをやらずにすませたいよ。ヴィデオ出演は好きになれない。なんとかしてレコードを宣伝しなきゃならないから、仕方なくやってるだけさ。契約の一部でもあるし」
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