ビリー・ジョエル 素顔の、ストレンジャー その2

前回の続き。

《ピアノ・マン》

[キャロル・キング《つづれおり》が大ヒットし、シンガー・ソングライターにチャンス到来]

ジェイムズ・テイラージョニ・ミッチェルポール・サイモン、ジュディ・コリンズ、ジャクソン・ブラウン。こういったシンガー・ソングライターたちが最前線にいたからね。『どうせ僕なんか』ってちょっとひがんでたよ」
 マリブに住んでいるあいだに(略)《ピアノ・マン》の収録曲をほとんど書きあげた(略)

タイトル曲〈ピアノ・マン〉(略)アメリカのどこかの町にもあるピアノ・バー。そこに集まってくる人々の姿を、ビリーは鮮やかに描きだす。(略)ビリーによると、この曲はパロディでも風刺でもなく、純粋にオマージュなのだという。
「あの仕事をもうやらなくてもいいっていう、感謝の気持ちを表した歌なんだ。ピアノ・バーで弾き語りをしてた時、多くの人はこれを何年も、あるいは一生、やり続けなきゃならないんだって気づいた。僕は弾き語りの仕事が好きじゃなかったけど、まさしくストリートを体験したわけで、それを自分の作品に活かそうと思ったんだ。あと、もうひとつ分かったのは、たとえばスタンダード曲をリクエストされて、その曲を知らなくても、適当にメジャー・セヴンスを入れて弾けば、みんなリクエストした曲だと思ってくれるってことさ」

〈ピアノ・マン〉にハーモニカを取りいれたのは、ディランを意識したからだとビリーは素直にみとめている。

「60年代の初め、ヴィレッジで演奏してるボブ・ディランを観たんだ。彼はハーモニカ・ホルダーをつけてた。最初は『あぁ、車の事故にでもあったのかな』って、てっきりネック・ブレースかなんかだと思ったよ。ディランがハープを吹くスタイルは大好きさ。吸ったり、吹いたりを繰りかえしてね。彼の唇が正しい音を探りあてさえすれば、もう最高だった」
 ゴスペル・コーラスをバックにした〈悪くはないさ〉でうたわれているテーマは、寛大さだ。歌詞に登場する女性は、孤独な夜、別の男に会いにいく。ジョン・スモールとビリーのあいだで揺れるエリザベスの心情が、この曲のインスピレーションとなっている。(略)この時期、ビリーが作ったラヴソングはすべて、エリザベスに捧げたものだといえた。(略)
〈僕の故郷〉で、ビリーは"オン・ザ・ロード"の人生を送る自分にとって、エリザベスがいない日々はとても寂しい、とうたう。
「〈僕の故郷〉は、彼女のために作った曲だ。プレゼントを買う金もなかったから『この曲をプレゼントするよ』って言うと、彼女は、『あたしに出版権をくれるってこと?』って言った。その時、僕は彼女にマネジメントを任せてもいいかなって思ったんだ」

(略)
〈キャプテン・ジャック〉。ビリーは、土曜の夜にマリファナでハイになって、自慰をするのがなによりも楽しみだという、情けない男についてうたう。歌詞に出てくる"キャプテン・ジャック"とは、郊外に住むドラッグ・ディーラーだった。
 「(略)その頃、郊外にある団地の向かい側のアパートに僕は住んでた。ガキどもがやってきては、団地に住んでる男からドラッグを買ってくんだ。そいつがキャプテン・ジャックさ。(略)

この曲は、僕が人生の敗北だと考える状況を歌にしたものなんだ。ドラッグとマスターベーションを奨励している曲だとか非難されたこともあるけど、とんでもない。よく聴いてほしい。この男は、完全に負け犬だからね。(略)僕はこの曲をドラッグ全盛時代に書いた。意味のない無駄な死が、あちこちでひんぱんに起こってた。僕の友だちも、何人も死んだ。ドラッグは楽しみにもなるけど、人を殺すことだってできる」

(略)
当初、〈ピアノ・マン〉は、ラジオのプレイリストでは低迷状態を続けヒットチャートからも見放されたかに思われた。

(略)

リリースから半年ほどたった74年4月、〈ピアノ・マン〉はついに(略)チャートに初登場。最高25位まで上がった。(略)
「たしかに、時間がかかった。〈ピアノ・マン〉はメロディ的にいって、それほどおもしろい曲じゃない。メロディよりも歌詞のほうが強く印象に残るしね。あの曲がヒットしたことに僕自身、驚いてるくらいさ。(略)」
(略)

〈ピアノ・マン〉の成功とFMラジオ・ヒットとなった〈キャプテン・ジャック〉によって、ビリーはやっと、自らのオーディエンスを見つけることができた。
「ゆっくりだけど、僕らはカルトになっていった。うーん、もっといい言葉はないかな。カルトっていうと、つい黒の外衣をまとって香をたきながら、赤ん坊を殺したりする連中を思い浮かべてしまう。つまり、僕たちは、国内で自分たちのオーディエンスをどんどん増やしてったんだ。人々は口コミで、僕らの演奏を聴きにきてくれた。(略)

ビーチ・ボーイズドゥービー・ブラザーズイーグルスリンダ・ロンシュタットほか、ありとあらゆる人たちの前座をやれるようになったよ。それでも、たいていの場合は、フライヤーに名前も載らなかった。ただの"スペシャル・ゲスト"さ。僕が〈ピアノ・マン〉をうたいだすと、客はみんな『ブー!早くビーチ・ボーイズを出せよ!』って感じだった」

《ストリートライフ・セレナーデ》

メイツァーはついにマネジャーの座を降ろされた。だが、アーティ・リップはその後、何年間にもわたって、ビリーに不気味につきまとうことになる。クライヴ・デイヴィスやコロムビア・レコードの重役たちは、ビリーとリップをなんとか引きはなそうとした。だが、ビリーがリップと交わした契約は、完全に合法的なものだった。リップは後にこう語っている。
コロムビアと交わした契約は、ビリー・ジョエルのオリジナル・アルバムが10枚、プラス"ベスト・アルバム"というものだ。収録された曲にはすべて印税が派生した。年間契約ではなく、オリジナルのスタジオ・アルバムが10枚という契約だったからね。俺が支払ったアーティスト契約金の50万ドルを返さないかぎり、俺の取り分である印税は従来どおり支払ってもらうという内容さ。破棄できない契約を結んだ俺は、すっかり悪者扱いされたよ。1枚のレコード売上げにつき、25セント。ただしビリーが払う必要はない。レコード会社が払うんだ」
 たしかに、ビリーが直接リップに支払うわけではなかったが、リップが分け前を手にする以上、ビリーはアルバム1枚につき25セントずつ損することになる。この後2年間にわたってアーティ・リップに支払いつづけることは、ビリーにとって、まさしく、しゃくの種だった。

 すでに、エリザベスは夫のマネジャーとなることに、はっきりと焦点を合わせはじめていた。彼女は実に賢い女性で、UCLAスクール・オブ・マネジメントで経営学を学んでいた。しかし彼女には、夫の財政的なリレー競争のバトンを受けとる心の準備が、まだ十分にできていなかった。
 ビリーには、優秀なマネジメント・チームが必要だった。そこで[シカゴ、エルトン・ジョンと契約していた]カリブという会社とマネジメント契約を交わした。

(略)

 ビリーによると、彼が音楽市場においてエルトン・ジョンと同じポジションに位置されるようになっていったのは、新しいマネジャーたちの手腕によるものだという。(略)

マネジメント・サイドが選んだプロデューサーはアルバム《ピアノ・マン》のマイケル・スチュアートだった。しかし、スタジオ入りしたビリーとマイケルは、意見の衝突を繰りかえすことになる。「(略)マイケルのプロデュースの基本はこうだった『ビリー・ジョエルはピアノ弾きだから、ピアノの音を前面に出そう。ロックンロールっぽい部分なんかどうでもいい。とにかく、ビリー・ジョエルをフィチャーしてればいいんだ』ってね」

(略)
「とにかくなんでも聴いてたよ。トラフィックがすごく好きでね。スティーヴ・ウィンウッドは僕のヒーローだった。ポール・マッカートニーもね(略)

エスがやってた音楽にも、好きな曲がいくつかあった。エマーソン・レイク&パーマーの音楽は、壮大な似非クラシカル・サウンドってとこかな。《ストリートライフ・セレナーデ》は、ムーグ・シンセサイザーを手に入れたばかりだったから、アルバム全体にシンセサイザー・オイルを吹きかけたような仕上がりになってる。ちょっとやりすぎだった。あのアルバムは、あれから1度も聴いてないんだ」

(略)

 サザン・カリフォルニアでの暮らしは、ビリーにとって、かなり魅惑的だったようだが、少しずつ不満も生じてきた。
 「ロスアンジェルスはすごく魅力的な街だよ。(略)しばらくすると『なにかおもしろいこと、ないかな?』みたいな気分になってしまう。ある朝、目がさめて僕は叫んだ『こんなとこで、いったいなにをしてるんだ!?僕はニューヨークからきたんだぞ!』ってね。僕には変化が必要だった。ロスアンジェルスには冬もなければ、コントラストもない。あまりにもまやかしすぎる。べつにカリフォルニアを悪く言うつもりはないよ。(略)カリフォルニアには3年間住んだ。今でもカリフォルニアは好きだよ」

(略)
いよいよハリウッドにグッドバイを告げ、ニューヨーク・シティにハローと大きな声で挨拶する時がきたのだ。

〈さよならハリウッド〉

故郷に戻ると決心した頃から、創作意欲がどんどん湧いてきた。そうしたなか〈さよならハリウッド〉が生まれる。

 「あれは、言わば祝いの歌なんだ。ちょうど、ニューヨークに戻るところで、ロスアンジェルスから出られて嬉しいという気持ちをうたったのさ。移住して最初の1年は、穏やかな気候やヤシの木やハリウッド・ヒルからの眺めやパシフィック・コースト・ハイウェイなんかに、すっかり心奪われてた。けど1年くらいすると、そんな気持ちも薄れ、そしたら周りには信用できない連中が多いってことに気がついたんだ。友だちもあんまりできなかったしね。みんな損得で他人を判断してるみたいに思えたし。なんだか無性にニューヨークが恋しくなってきた。だからって、ハリウッドを悪く言うつもりなんて毛頭ないよ。純粋に、〈さよならハリウッド〉は自分にとっての祝福の歌だからね。『OK、ありがとうハリウッド』みたいな感じ。サウンド的にはフィル・スペクター・スタイルでやってみたかった。ロニー・スペクター&ザ・ロネッツを意識しながら作ったんだ」

(略)

「エリザベスがハイランド・フォールズに住む家を見つけてくれた。僕はグレイハウンド・バスから降りると、新しい家に足を踏みいれ(略)ピアノの前に座って〈ニューヨークの想い〉を作ったんだ。その時の気持ちそのままでね。ニューヨークに戻ってきて、本当に嬉しかったよ。30分くらいで書きあげたんだ」

(略)
 ほどなく、ビリーはロングアイランド出身のミュージシャンたちを中心に、新しいバンドを結成。ベースにダグ・ステッグマイヤー、ドラムスにリバティ・ディヴィート、ギターにラッセル・ジェイヴァーズ、そしてサックス始めすべてのホーンとキーボードにリッチー・カナータという布陣だった。

(略)
「僕らはできあがった曲をひっさげて、ツアーに乗りだした。レコード会社からのサポートはほとんどなかった。たぶん、レーベルとしては、ビリーを切るつもりだったんだろうな。あまりいい関係ではなかったからね。《ニューヨーク物語》に関しては、彼らもどうしたものか分からなかったんだろう」

有利な条件で再契約

マイケル・スチュアートをプロデューサーの座から降ろしたビリーは、マネジャーたちへの不満も募らせていた。妻エリザベスも、夫のキャリアを操作するカリブ・マネジメント・チームのやり方に不満を抱いていた。(略)

ビリーとカリブ・マネジメントのあいだで火花が散ったのは、ナッソー・コロシアムでのコンサートでビーチ・ボーイズのオープニングのオファーがきた時だった。一晩のギグに払われるギャラはわずか2000ドル。我慢も限界だった。エリザベスはすぐさまマネジメントに電話した。
「電話で彼らに言ってやったわ『冗談じゃないわ!あんたたちはクビよ!』ってね」

(略)
「(略)エリザベスは賢かったから、彼女ならやってけると思った。レコード会社の人間は、彼女のことをただのロックンロール・ワイフだと思ってたみたいだけどね。(略)簡単にだませる女だと思わせておいて、彼女は実にいい仕事をしてくれたよ

(略)

コロムビアとの契約を再調整して、著作権やレコード印税も、より有利になるよう再交渉してくれた。当時は、僕のアルバムがたいして売れてなかったから、誰も僕の価値をみとめていなかった。けど、彼女は僕らがいいライヴをして5000人の会場をソールドアウトにできることを交渉材料にした。なにしろ、僕らはメイン・アクトをぶっ飛ばすことができたからね。(略)自分たちで"カミカゼ・ショー"って呼んでた。いちばんホットな曲をがんがんプレイして去っていった。みんな『あいつらはいったい何者だ?』ってことになる。(略)そうやって、僕らはついにヘッドライナーになれたんだ」

(略)
エリザベスは『ローリング・ストーン』誌が伝えたように、"音楽業界でもっとも有利な印税契約"を、夫のためにとりまとめた。後年、エリザベスはこう語った。

「ある意味、男と女としてよりもマネジャーとアーティストとしてのほうが、うまく行ってたわね」

《ニューヨーク物語》

バーブラ・ストライサンドの〈ニューヨークの想い〉やシナトラの〈素顔のままで〉も大好きだけど、なんといっても、いちばん興奮したのはロニー・スペクターが〈さよならハリウッド〉をカヴァーしたことさ。だって、あの歌詞を書いた時、ずっと頭のなかでロニーの声が聴こえてたくらいだからね。おまけにスティーヴン・ヴァン・ザントとEストリート・バンドがバックアップしてるしな。ほんとに嬉しくてたまらなかったよ」

(略) 

〈マイアミ2017〉は、愛するニューヨーク・シティが破産して、廃墟が炎につつまれる様子をうたったもの。ビリーはこう語る。
ロスアンジェルスからニューヨークに戻った時に、この曲を書いたんだ。ニューヨークが破綻の危機に瀕し、瀬戸際に立たされていた頃さ。ロスアンジェルスの人たちは、どこかそれを喜んでるようなところがあった。ハハハ〜、ニューヨークもついにおしまいかって感じで。だから僕は弁護したくなって、SFみたいな内容の歌詞を書いたんだ。2017年っていう未来を想定して、老人である僕が孫たちに話してきかせるという設定にしてね。ブロードウェイの灯がどのように消えたのか、超高層ビルはいかにして崩れおち、廃墟となって足元に広がったのか。それは、まさにこの世の終末といえるような光景だ」
 今となれば、2001年9月11日に起きた大惨事を思わせるような、暗示的な内容でもある。(略)
《ニューヨーク物語》は(略)セールス的には完敗だった。

(略)

「自分のサウンドに関して、僕はとくにコンセプトなんてなかったんだ。(略)《ニューヨーク物語》には、おそらく、ある一定のサウンドがあったんだろう。その前のアルバム《ストリートライフ・セレナーデ》と《ピアノ・マン》は、自分でも聴くにたえないね。声のトーンとか、プロデュースのやり方とか。《ストリートライフ・セレナーデ》では、ドビッシーみたいな曲を書こうとがんばりすぎた。やたら芸術家きどりで、無節操そのものだ」

フィル・ラモーン登場

[77年バーブラ・ストライサンドが〈ニューヨークの想い〉をカヴァー、収録アルバム《スーパーマン》は]プラチナ・ディスクを獲得。ビリーにも、作曲者印税が入ってくるようになる。

(略)

[ビリーは次作のプロデューサーにジョージ・マーティンを希望]
[リッチー談]
「僕らはジョージ・マーティンにオーディションしてもらおうと思って、コンサートに招待した。(略)ジョージは観にきてくれた。ところが、答えはノーだった。(略)「興味がない」の一言で断ってきたんだ」
 伝えられるところによると、ジョージ・マーティンはビリーに会って、個人的には好感を持ったようだ。彼は、ビリー・ジョエルの曲のアイディアも気にいった。しかし(略)マーティンは、ビリーの新生ニューヨーク・ツアー・バンドをレコーディング・スタジオで使うというアイディアに反対(略)かくして、交渉は決裂。だが、もうひとりのプロデューサーとの出会いが生まれる。
(略)

77年、カーネギー・ホールでビリーとバンドを観たフィル・ラモーンは、彼らのファンになったのだという。リッチーは語る。
「(略)すぐさまレコード・プラント(レコーディング・スタジオ)に電話して、こう告げたらしい『明日、トラックを1台よこしてほしい。彼らのレコーディングをしたいんだ』。後にアルバム《ストレンジャー》に入る曲を紹介がわりにやっていたんだけど、すごく気にいってくれたみたいでね。ぜひプロデュースしたいって言ってくれたんだ」
ビリーによるとこうだ。
「エリザベスが、僕とフィル・ラモーンを引きあわせてくれたんだ。僕のバンドを使おうとしないほかのプロデューサーとは、一緒に仕事したくなかった。(略)彼女が引きあわせてくれて、マジックが生まれたんだ」

(略)

「(略)フィルは新しい方向へと導いてくれた。こう言ってね『ライヴでプレイするとおりにやってくれ。15テイクも20テイクも録らずに、5テイクでオッケーだから』。僕らはアイディアを出しあい、曲をあれこれいじっては、いろんなやり方を試した。(略)フィルには、なにが正しいのかを嗅ぎわけるセンスがあった。〈若死にするのは善人だけ〉をレゲエ・ソングにするつもりだった僕に、フィルが言うんだ『シャッフルでやってみたらどうだい?』って。〈素顔のままで〉も、ゆったりしたサンバで試してみたらって言うし。彼のおかげで楽曲たちがどんどん発展していったんだ」

 ラモーンは、ビリーのドラマー、リバティ・ディヴィートがいかに貢献しているかを、すぐに見抜いたという。

「リバティを観て、私はすっかり興奮したんだ。なんてすごいやつなんだ、と思った。リバティのおかげでセッションはとてもエキサイティングなものになった。私は彼を"ソング・ドラマー"って呼んだよ。ハードでヘヴィなビートを刻みながら、歌詞のじゃまにならないような配慮もできたからね。(略)」

(略)
 リバティは、音楽に関する自分なりのコンセプトを、こう説明する。

「(略)ピザを一切れ食いながら、それが音楽だと思ってみてくれ。トマト・ソース、チーズ、クラスト、それにペパローニがのっかってる。おまけにソースには、パセリやバジルも入ってる。それとおんなじで、俺には音楽が層になって聴こえるんだ。ピザみたいにね。そして俺は音楽のなかに入りこめるんだ。でっかい音でプレイしてる時とかとくにそうなんだが、音楽のなかに入りこんじまって、体ごとつつまれたような気になる。なにかを生みだす時は、いつもそんな感じだね。その曲にすっぽりつつみ込まれてるみたいにね」
(略)

[リッチー・カナータ談]
「(略)彼にはすごいオーラがあって、僕らを次のレヴェルまで引きあげてくれた。フィルは、ものすごく頭の切れる男だった。(略)

午前中か午後早めにスタジオに行って、夜の7時か8時には終わっていた。しかも、とっても生産的な作業だった。アルバム《ストレンジャー》のレコーディングはほんのひと月くらいで、すべて終わったよ。フィルは文句なしだった。楽曲はどれも、すでにできあがっていたからね。みっちり練習もしていたし、さらにツアーで磨きをかけてもいた。だからベーシック・トラックは、僕らだけですべて録った。あとは、ギターのパートを入れるだけだった。(略)」

ストレンジャー

[リバティ談]
「ビリーはあの曲[〈ストレンジャー〉]を、カシオのちっちゃいエレクトリック・キーボードで作ったんだ。伴奏がつけられるように、リズム・トラックのボタンがいろいろくっついてるやつさ。ボサノヴァやらルンバやらロックンロールとかのボタンすべてをビリーは押して試してた。あの曲は、そうやって生まれたのさ」
(略)

〈素顔のままで〉は、妻エリザベスのために書かれた美しく情感溢れるラヴ・バラード(略)だが、あやうくアルバムから外されるところだった。当時、フィル・ラモーンは、フィービー・スノウのデビュー・アルバム制作に関わっていた。[さらにエリザベスがフィービーをマネジメント]

(略)

[ビリー談]
「あの曲はあんまり好きじゃなかった。スタジオで聴きなおして、アルバムには入れないことにしようと考えてた。そこに、リンダ・ロンシュタットとフィービー・スノウがやってきて、この曲を聴くと『こんないい曲、アルバムに入れなきゃだめよ!』って言ったんだ。彼女たちが、どうしても入れるべきだって強く勧めるんで(略)アルバムに収録することになったんだ」

 フィービーの主張は異なる。
「リンダはそこにいなかったのよ。彼はどうして、ちゃんと覚えていないのかしら?あそこにいたのはあたしだけ。(略)フィルとビリーはあの曲のラフ・ミックスを聴かせてくれたわ。聴かせる前、彼らはきまり悪そうに弁解していたわね。ビリーは照れくさそうに、『ちょっと安っぽいかも』って。あたしは『じゃ、客観的に聴いてみるわね』って言ったのよ(略)

思わず泣きだしちゃったのよ!」と、彼女は語る。
 ビリーは彼女の頬に流れる涙を見ると、驚いてこう尋ねたらしい。

「そんなに、ひどい?」
彼女はおもわず返した。
「これこそ、ヒット・シングル間違いないわ!」
フィービーの話だと、ビリーは、きみってクレイジーだな、という目で見ていたらしい。
(略)

 〈ウィーン〉は、アメリカを捨てオーストリアに単身移住した父親について書かれた曲。ビリーは、いまだ解決されていない父親との確執について触れながら、父親の情熱とプライドについても語っている。(略)歌詞のなかで、ビリーは父親に、なぜ、そんなに急いで逃げようとするのか、と問いかける。リバティはこう語る。
「俺たちの前のバンド、トッパーの曲に〈ギヴ・イット・オール・アウェイ〉とか〈ザ・トッパー・ソング〉って呼んでた曲があった。ある日、ビリーがスタジオに入ってきて、俺たちがその曲をやってるのを聴いたんだ。冒頭の部分が〈ウィーン〉にそっくりでね。やつはそれをうまいことあの曲に取りいれたのさ。最後のブルースっぽいフレーズは、俺のアイディアだよ」
 続く〈若死にするのは善人だけ〉だが、ビリーによるともともとレゲエ調の曲だったという。それを変更したのは、ディヴィートだった。
「リバティが『レゲエは嫌いだ。俺はプレイしたくない』って譲らないんで、結局、シャッフルでやることになった」

(略)

アルバム《ストレンジャー》は1000万枚以上を売りあげ、サイモン&ガーファンクルのアルバム《明日に架ける橋》を抜いてコロムビア・レコード史上もっとも売れたアルバムとなる。その記録は、ブルース・スプリングスティーンの84年のアルバム《ボーン・イン・ザ・USA》が発表されるまで破られることはなかった。

(略)
「ある日突然、僕は"ロック・スター"になってた!今でも不思議な気分さ。(略)最初はソングライターとしてスタートしたのに……(略)

やっとまともなブッキングができるようになったんだ。以前、オリビア・ニュートン・ジョンのツアーに同行したことがあった。僕らは"白雪姫とレニー・ブルース・ツアー"って呼んでた。まったくミスマッチだったよ。彼女のファン、日曜礼拝に行くような連中でいっぱいのコロシアムで、僕は〈キャプテン・ジャック〉をやるわけだ。"部屋でひとりマスをかいてる"って歌詞の部分は"部屋でひとり考えこんでる"に変えてうたってたよ」
 オリビア・ニュートン・ジョンのようなMORツアーとも、ついに縁を切ることができた。そして突然、彼らは2万人収容のアリーナへと格上げになったのだ。
「レコードが大ヒットしても、ツアーの経験がないグループが多かったからね。(略)僕らにはアルバム4枚分の楽曲と7年間のツアー経験があった。〈素顔のままで〉はもちろんだけど、〈キャプテン・ジャック〉〈ピアノ・マン〉〈さよなら、ハリウッド〉みたいな曲もやってみせた。みんな「あぁ、この曲って彼の曲だったんだ」って感じ。だから、オーディエンスはすごく満足してたよ。なんだかチケット代以上に得した気分になれるわけだから」
 この時期、ビリーは父親とも連絡を取りあっていた。(略)
「親父はあまりロックンロールを知らないみたいだった。〈素顔のままで〉は大ヒットしたけど、親父に言わせると『おまえは前にもっといい曲を書いていたじゃないか』だってさ」

金をめぐっての不協和音

大金が、突然、ビリーのもとに入ってくるようになった。しかし、バンド・メンバーにはレコーディング・セッションのギャラとコンサートの出演料が支払われるだけだ。リバティ・ディヴィートはこう語る。
「アルバム《ニューヨーク物語》のレコーディングは、たしかノー・ギャラだったよ。《ストレンジャー》で、ギャラはレコーディングとツアーのダブルになった。《ニューヨーク52番街》からは、アルバムがミリオンを出すとボーナスとして1万ドルが支払われるようになったんだ。それが励みになって、俺たちはステージでの演奏にも気合いが入ったよ。アルバムのプロモーションをがんばれば、それだけ利益をシェアできるわけだからね」しかし、こうしたボーナス報酬のような口約束だけの取り決めは、後にバンド内で問題を引きおこすことにな
 アルバム《ストレンジャー》によって、スタジオ・ワークのパターンが定着した。これらの楽曲はすべて、ビリー、リバティ、リッチー、そしてダグによって作りあげられたものだが、レコード・セールスや出版権のすべてを所有しているのは、ビリー・ジョエル本人だけだった。しかもバンド・メンバーたちはコロムビア・レコードと契約を交わしていなかった。リバティは語る。
「契約は交わしてたつもりだけど、ほとんどが口頭だったからね。いつもアルバムごととかツアーごとに支払われてた。(略)

残念なことに、俺にはビートしかない。メロディがないんだ。そして金になるのは、なんといってもメロディだからな。だから、俺がドラム・パートを作りあげて、みんなが『あのドラム・パートは最高だよな。あの曲にバッチリはまってる!』と言ってくれても、それだけさ。その日のスタジオ・セッションのギャラをもらって、それで終わり。スティーヴ・ガッドも、〈恋人と別れる50の方法〉のセッションで、組合の決めたギャラしかもらってないらしい。それでも、あの曲があんなふうに仕上がったのは、彼の手柄だからな」

(略)

《ニューヨーク物語》のレコーディングとそのプロモーション・ツアーに参加し、アルバム《ストレンジャー〉のレコーディング・セッションから外されたギター・プレイヤー、ラッセル・ジェイヴァーズは、こう証言する。

「(略)ビリーは僕のデモでもプレイしてるんだ。アルバム《ニューヨーク物語》をレコーディングしたのと同じウルトラソニック・スタジオでね」

 当初の計画は、ラッセル・ジェイヴァーズのバンド、トッパーとレコード契約を結ぶだけでなく、彼にソロとしてレコーディングするチャンスを与えようというものだった。つまり、ビリーとラッセルのあいだには、カナータ、ディヴィート、そしてステッグマイヤーがどちらのバンドに入れるのかという、ちょっとした主導権争いがあったわけだ。ラッセルはこう説明する。
「マイク・アペルが僕のマネジャーだった。スプリングスティーンも担当してた男だ。(略)マイクは僕が彼らとプレイすることに反対だった。『あいつら、おまえのことなんてなんとも思ってない』って言ってたよ。でも、僕が人生でいちばんやりたかったのは、バンドをやることだった。僕のバンドが最高だってことも分かってたし

(略)

おかしなもんだよね。僕のバンドは、気がついたらビリーのバンドとして売りだそうとしてた。それも、当然だけどね。ビリーは、ブレイク寸前だった。もし、それが僕のバンドだったら、きっとブレイクしてなかっただろうね。

(略)

フィル・ラモーンが僕を仲間に入れようとしていた。たぶん、フィルは僕のプロデュースをしたかったんだと思う。だけど、ビリーはそれをさせたがらなかったんだ」

(略)
[リバティ談]

「トッパーは[CBSと]契約を交わせるところまできてたんだ。(略)ところが、ビリーのやつが阻止したんだ。ビリーにしてやられたよ」
 その後、ラッセルはビリーのバンドに戻り、それからの10年間、ビリー・ジョエルのアルバムとコンサートに欠かせない存在となる。(略)

ニューヨーク52番街

「僕の左手は少し不自由だから、指だけでプレイせずに身体全体を使ってプレイする。ピアノが悲鳴を上げるのを聴きたいんだ。だから、いつもピアノの弦を切ってしまう。そんなピアノ・プレイヤーはほかにはいないんじゃないかな

(略)

作曲してる時は、自分でもなにをやってるか分からなくなる。ただ、ひたすら自然にまかせるだけでね。何週間も、からっぽの状態で[悪戦苦闘し絶望すると](略)閃くんだ。

(略)

メロディが歌詞ほど完璧じゃなくても許されるのは、ディランだけだね。多くの場合、ある特定のキーとか音符のパターンを補うものとして、その響きだけで歌詞を作るんだ。歌詞の重要性を軽くみてるわけじゃないけど、まずメロディを完成させるのが先決さ。メロディは、それだけで説得力を持ってなきゃいけないんだ。(略)」

(略)
アルバムのタイトルは、ジャズを暗示的に意味していた。(略)

リッチーはこう説明する。
「アルバム・カヴァーでビリーは片手にトランペットを持っているよね。52番街は"スウィング・ストリート"だった。ビリーがトランペットを持った写真を撮ったのは、レコーディングしていたA&Rスタジオに行く途中の、ゴミ溜めみたいなエリアだよ。典型的なニューヨークの光景さ。ゴミやらネズミやらをぬいながら汚い階段を上って、ようやくスタジオに着くんだ。ビリーは変化を求めていた。(略)ビリーはあのレコードをそれまでと違ったものにしたがっていたし、僕のパートもふんだんにあった。クラリネットも吹いたりして、ほんとうに楽しくレコーディングができたよ。(略)〈ザンジバル〉でフリューゲルホルンを吹いているのは、フレディー・ハバードだよ」
(略)

[ビリー談]
「(略)《ストレンジャー》の続編だけはやりたくなかった。いつもなにか新しいこと、なにか違うことをやってみたいんだ」

(略)

[〈オネスティ〉]

「リバティが、いっつも僕に早く歌詞を書くようにせっつくんだ。(略)あいつは歌詞がないとレコーディングしようとしない。いつも歌詞に合わせ、一緒に口ずさみながらプレイするんだ。(略)僕に早く歌詞を書かせようと、メチャクチャ卑猥な歌詞をつけたりするんだ。でもけっこうそれがイケてるんで、僕がちゃんとした歌詞を書かないかぎり、ずっとそれでレコーディングすることになってしまう。〈オネスティ〉を作った時、もともとは〈ホーム・アゲイン〉つていうタイトルだった。"また家に帰りたい、ここから出してくれ(Home again,Get me out of here)"っていう歌詞で。(略)

それから先の歌詞ができてなかったもんだから、リバティが自分なりに歌詞をつけたんだ。"ソドミー、なんて孤独な世界だろう(Sodomy,It's such a lonely world)"ってね。あの曲をプレイするたびに、みんなしてその歌詞でうたいはじめるんで、早くちゃんとした歌詞を書かなきゃって気になった。僕をその気にさせるには、すごくいいやり方だった。恥をかかされると、人はやる気を出すものさ」

(略)

[〈マイ・ライフ〉]
「ある夜、僕は考えた。両親に向かって、"あんたたちになんて言われようとかまわない、これは僕の人生なんだ"と言いのこして、家を出ようとする若者のことをね。(略)」
[スタジオにきた]父親にはクラシック・ピアニストよりもロック・スターになりたがる息子の気持ちがまるで理解できないことに、すぐに気づいたという。
「親父がレコーディング・セッションを見にきた時、〈マイ・ライフ〉をやってた。『ピアノの音が外れてるぞ』って言うから、『それがいいんだよ、パパ』って返した。親父にエルヴィス・プレスリーを説明しても、分かりっこないからね」

(略)

[アルバム、ツアーは大成功だったが]
リバティ、リッチー、そしてダグの3人は、ビリーとの仕事上の関係がわずかに歪んできていると感じていた。(略)レコーディング時期になると、バンドのミュージシャンたちには、"ダブル・スケール"の時間給でギャラが支払われたが、"ミュージシャンズ・ユニオン"が当時の最低賃金に指定していた額の倍のギャラにすぎなかった。(略)
バンドの全員が楽曲の構成やレコーディング自体に、技術的に貢献していたものの、ソングライティング・クレジットに記名されるのはただひとり。

(略)

リバティはこう語る。

「ミュージシャンズ・ユニオンの収支報告によると、78年度の俺の総収入は、5789ドル76セントだった。そのうちの3936ドルは、アルバム《ニューヨーク52番街》のレコーディングのギャラだ。CBSレコードに移った時に、さらに1万ドルと、100万枚売れるごとに、さらに1万ドルが支払われた。けど、シングルと海外でのセールスは含まれてない

(略)

ニューヨーク52番街》のリリース後に、ダグと俺は、あのアルバムの楽曲に貢献した正当な報酬が支払われてないって気づいたんだ。そこで、弁護士に会いにいった。彼は俺たちに尋ねた『きみたち、バンドを辞めるつもりかね?』。思わず、そいつの顔を見て『いいや』って言うと、『それなら、話はこれまでだ』ときた。それで、おしまいさ。ビリーと正式に契約していないかぎり、俺たちはただの雇われセッション・ミュージシャンってわけだった」(略)

《グラス・ハウス》

今や、もっとも新しい流れは、"ニューウェイヴ"と"パンク"だった。

(略)

[当初否定的だったビリーだが、エリザベスの息子、ショーンが]

聴かせてくれたニューウェイヴのいくつかの音楽に、かなり感動を覚えたという。ニュー・アルバム《グラス・ハウス》がリリースされた時、そのライナーノーツにはこう記されていた。
「インスピレーションをくれたショーンに感謝を」
(略)

契約更新、薬と女遊びによる夫婦不和

 81年、ビリーは、コロムビアと交わした7年間のレコード契約を更新する時期にきていた。(略)もっとも悩みの種だったのは、ビリーの印税の取り分から、アルバム1枚につき25パーセントが直接、アーティ・リップとマイケル・ラングに入ることだった。交渉が成立した時点で、コロムビア・レコード側(当時の社長は、ウォルター・イェトニコフ)は、会社が自腹を切って、リップとラングに今までどおり支払うということで合意した。この新契約のもとでリリースされた最初のアルバムが、《ソングズ・イン・ジ・アティック》だった。(略)

[リバティ談]
「ウォルター・イェトニコフは、ビリーの出版著作権を取りもどしてくれた。彼はアーティ・リップのところに行って『こんなばかげたことは、もう終わりにしろ。さもなければ裁判所で争うことになるぞ』って凄んだらしい。結局、彼らは金銭的に和解して、イェトニコフは、リップが持っていた初期の楽曲の出版権もすべてビリーのもとに取りもどしたってわけさ」
 辣腕をふるっていたエリザベスはビリーの業務全般を取りしきることに、いくらか負担を感じはじめていた。(略)マネジメント会社であるホームラン・システム・コーポレーション、音楽出版社であるインパルシヴ・ミュージック/ジョエル・ソングズ、コンサート・ステージ・ショーをプロデュースするビリー・ジョエル・ツアーズ、ツアーのブッキング窓口のホームラン・エージェンシー、コンサート・プログラムからTシャツまで、すべてのマーチャンダイジングを請けおうルーツ・ラグズまで一切をしきっていた。
 エリザベスは責任の大部分を、第三者に委ねようとしていた。まず彼女が選んだ人物は、実兄であるフランク・ウェーバーだ。

(略)

「エリザベスは、もう僕のマネジメントを降りたんだ。彼女が今かかわっているのは、基金調達と映画製作と映画編集くらい。それでも、彼女にはほかにも20種類くらいの役割がある。だから僕は彼女に言ったよ『ワイフ兼マネジャーとしての重圧は、もう必要ない。これからは、ただの男と女に戻ろう』ってね」
 この発言からも分かるように、彼らの仲が終わりに近づいていることは、すでに誰の目にも明らかだった。

 ある筋によると、ビリー陣営では薬物使用がますますエスカレートして、エリザベスはそれを快く思っていなかったという。また、ビリーはツアーなどでエリザベスが傍にいない時、女遊びもかなり盛んだったようだ。

(略)

リッチー・カナータはこう語る。
「フランク・ウェーバーの役割は、ビリーとエリザベスが別れたあとに、エリザベスの代わりを務めることだった。彼はエリザベスによって送りこまれて、ビリーもそれに賛成したんだ。(略)」

リッチー脱退

[リバティ談]
「正直言って、果たしてリッチーが辞めたかったのかどうか分からない。あいつはもっと稼ぎたいって言ってたからな。照明と音響のやつらが、かなりの権限を持ちはじめたことが問題だったかもしれない。現場にいるやつらには、客席で聴くサウンドがすべて聴こえるわけだ。俺たちが最高の演奏をしたって思っても、PAを通して聴いてるやつらには、「クソみたいにひでえ音」に聴こえたかもしれない。やつらにそう指摘されたら、ビリーだって、「クソみたいにひどいのか」って思うだろ?(略)そんなんで、ビリーはあいつらの意見に、すごく重きを置くようになったのさ」

(略)

 リバティがドラム・ソロを、リッチーがサックス・ソロを披露しはじめると、彼らにもスポットライトが当たるようになり、それは照明監督の役目だった。そしてソロに合わせて、音響係がドラムやサックスのヴォリュームを上げることになっている。裏を返せば、彼らはリッチーとリバティの照明や音量を下げることで、ドラムやサックス・ソロのパートを目立たなくさせることもできるわけだ。リバティは言う。

「必ず誰かひとり、そうした"いじめの標的"になるやつがいたのさ。ショックだったのは、みんなが突然、俺のことを攻撃しはじめたんだ。ふと気づくと、いつのまにか自分が標的になってた。最初の犠牲者が、リッチーだったんだ。誰かがリッチーに嫉妬してたのさ。リッチーがスター扱いされるのを、気にいらないやつがいたんだ。(略)

[ヒッチコックの]「救命艇」っていう映画、観たことあるかい?(略)映画も終わりに近づいて、いよいよ救出されるって場面で、さて、いったい誰が救命艇からふり落とされるのか?自分が助かりたいために誰が誰を裏切るのか?つまり極限状態じゃ、人間の本質が露わになるもんさ。ビリーがせっせと曲を書いて、やつの曲を完成型にするために俺たちがバックアップしてた。俺たちはひとつのユニットとして、どんどん進化してった。でも、ある時、誰かがやってきて、『ねぇ、ビリー。曲を書いてるのはきみなんだろ?きみあってのバンドなんだろ?』ってほざきやがったのさ。そして、『あいつらなんか辞めさせちまえ!』って入れ知恵した。最初のうちこそしぶってたビリーもいつしか『うん、そうだな、あいつをやめさせよう。あいつがいなくてもなんとかなる』って考えはじめる。最初に誰かを撃ったら、ふたり目は簡単に撃てるっていうだろ?最初の悲劇の犠牲者は、リッチーさ。(略)

やつはビリーに金の交渉をしたらしい。あいつはサックス以外にもオルガンとアコーディオンまで担当してたからね。実際、ビリーはリッチーをピックアップするために、彼んちまでリムジンを迎えにいかせた。予定されてたツアーにリッチーが姿を現さなかったとか、たしか、そんな話だったよ」

 リッチー・カナータはこう説明する。

「みんなは金の問題だと思っているようだけど、実際は違う。僕はビリーに、『これだけの額を出さなければ、ツアーには出ない』なんて言ったおぼえはないし、暗黙の了解って感じだったよ。ビリーと僕が話す機会はあった。どこかの楽屋で(略)ティモシー・ホワイト(ロック・ライター)が『ふたりは、またどこかで一緒にやるのかい?』って聞いた。ビリーはふり返ると、『あぁ、またいつか、一緒にやると思うよ』って答えた。だから、僕も『そうだね、いつかまた』って言った。でも当時、僕にはその気はなかったし、ビリーもそれは分かってたと思うよ」

 82年、リッチー・カナータは正式にビリー・ジョエル・バンドを脱退した。(略)

「(略)ビリーと別れたあとは、エルトン・ジョンとやったし、それから、リタ・クーリッジともやっていたよ」(略)
何年か、サックス・プレイヤーとしてビーチ・ボーイズのツアーに同行し、それぞれのソロ・プロジェクトにも参加。そして彼は資産をうまく運用し、自らレコーディング・スタジオを購入した。

離婚、バイク事故

[《ナイロン・カーテン》]制作中に、ビリーとエリザベスは正式に離婚を発表した。
「僕らの結婚はうまくいかなかった。彼女は僕以上に僕のキャリアに集中してたよ。マネジャーとしての彼女の役割は、僕をロック・スターにすることだった。ある意味、僕は彼女にとって商品だったのかもしれない。

(略)

子供がほしかった。(略)娘がほしいな。もし男の子なら、魚釣りに連れていったり、バイクの乗り方を教えたりしたい。(略)将来的には、もう少し家族のための時間を作りたい。僕は父親なしで育ったから、子供たちには同じ思いをさせたくない。(略)」
 エリザベスと別れた前後、ビリーのオートバイ熱は高まりをみせた。

(略)

 82年4月15日(略)春の午後を楽しもうと愛用の78年型ハーレーダビッドソンに乗ってでかけた。(略)
「赤信号なのに突っこんできたんだ。僕にはどうすることもできなかった。(略)

自分はこれで死ぬんだって思ったし、ブルックリン全体くらいにでっかく見える車に、やたらと腹を立ててた。(略)スローモーションで(略)ボン!って背中から着地し(略)「ふ~、やれやれ」って感じで、立ちあがったんだ」
(略)

恐る恐る左手を見ると、なんと手全体がグレープフルーツのように腫れあがっていた。

(略)
手術後、アンドリュース医師は、ビリーの両手は以前のような器用さを取りもどすだろうと保証した。(略)
「あの事故で学んだ最大の教訓は、世界をすべて支配してるように思えても、突然、誰かが危険信号を出すってことさ。(略)」

クリスティ・ブリンクリー

「82年から83年にかけて、僕は何年振りかで1週間の休暇をとった。それまで別居と離婚を経験してたし、ツアーを終えたばかりで疲れきってたんだ。ポール・サイモンがセント・バーツってとこに家を借りてた。カリブ諸島にある島さ。彼から一休みしにこないかって誘われたんで行くことにした。(略)小型機に乗りかけようとしてた時、クリスティ・ブリンクリーを見かけたんだ。(略)写真で見るより、ずっと美しかった。そしてセント・バーツに着いて、PLMホテルのバーに行ったんだ。そこにはピアノがあって、僕は少し酒を飲んでた。そしたら、そこにクリスティ・ブリンクリーがいたんだ!ホイットニー・ヒューストンともうひとり、エル(・マクファーソン)って子もいた。彼女も有名なモデルだよ」
 当時、ホイットニー・ヒューストンはまだアルバムをリリースしていなかった。彼女は10代のモデルとして、成功の波に乗ったばかりだった。クリスティ同様、エル・マクファーソンは当時、そして今なお世界に誇る超人気モデルのひとりだ。165センチのビリーは、自分より5~10cmは背が高い均整のとれた美女3人と知りあうことになった。18歳のホイットニー・ヒューストンはキュートではあったが、ビリーにとって触手は動かなかった。19歳のエル・マクファーソンには好感は持ったものの、恋の対象ではなかった。しかし、クリスティ・ブリンクリーには、一目で惹かれてしまった。(略)
「僕は『カサブランカ』のハンフリー・ボガードになったつもりで、〈時の流れるままに〉を弾きはじめた。彼女たちはピアノの周りに集まってきて、一緒にうたいだした。クリスティは僕の隣に座ってた。ホイットニーはピアノの前に立ってうたってた。僕らはそんなふうにして出会ったんだ。(略)彼女は付きあってた男と別れたばかりで、友だちが新しい男を見つけるように励ましてたらしい」(略)
79年、クリスティは年刊『スポーツ・イラストレイテッド』誌の水着特集号の表紙に登場した。(略)172.5cmという長身のクリスティは、まさに世界に誇る美女のひとりだった。(略)

 クリスティは73年から81年まで、ジャン・フランソワ・アローと結婚していた。やがて彼女はモエ・エ・シャンドンシャンパンで有名な資産家の跡継ぎ、オリヴァー・シャンドン・デ・ブレイルとデートを重ねるようになる。オリヴァーは情熱的なレース・カー・ドライヴァーでもあった。

(略)

「ふたりは数カ月前に別れたばかりで、ちょっと落ちこんでたんだと思う。(略)

僕らは『それじゃ、ニューヨークに戻ったら、またどこかで会えるかもね』と言って別れたんだ。最初、彼女は僕のこと『タイプじゃないわ』って言ってたらしい」

 こうして、休暇は終わり、それぞれが別々の道へと別れていった。

(略)

[2週間後オリヴァーがレース事故死。新聞でそれを知り]

すぐに彼女に電話した。『きみのつらい気持ちは分かるよ。もし、話し相手がほしい時は、僕がいつでもここにいるからね』って伝えたんだ」

《イノセント・マン》

 ビリーがアルバム《イノセント・マン》の作品を書きはじめたのは、ロドニー・デンジャーフィールド/ジョー・ペッシの88年映画『イージー・マネー』のテーマ曲を書いてほしいという依頼がきっかけだった。(略)
「依頼を受けて自動的に浮かんできたのはソウル・ミュージックだった。(略)次に書いたのが〈イノセント・マン〉で、そのまま〈ロンゲスト・タイム〉まで一気に書きあげたんだ。

(略)

〈イノセント・マン〉は、ベン・E・キングドリフターズを聴いた時の感覚を思いおこせるように作った。レコーディングでは、かなり高音でうたってる。こんなに高音でうたうのはたぶん最後だろうなって思って、メチャメチャ気合い入れてうたったよ

(略)

〈あの娘にアタック〉(略)で、僕は過去には生きていない、現在を楽しんでる、とうたってるのさ。悪ガキ仲間と付きあったり、昔の音楽を聴いてなかったら今の僕は存在してなかったかもね。ただ〈あの娘にアタック〉だけを聴くと、ひどいもんさ。まるでトニー・オーランド&ドーンみたいでね。それでも、アルバムの前後をとおして聴くと、なかなかいいなとも思える。あのアルバムは、いわばオールド・ロックンロールへのトリビュートみたいなものだからね。僕がもっとも影響を受けたモータウン・グループはシュープリームスだった。だから、シュープリームス気分でやってみたのさ。けど、それだけで聴くと、やっぱりトニー・オーランド&ドーンになってしまう。でもね、プラターズウィルソン・ピケットみたいな曲の次に聴くと、すごくしっくりくるよ

(略)

〈アップタウン・ガール〉はジョークみたいな歌だ。フランキー・ヴァリフォー・シーズンズに捧げるトリビュートさ。(略)あの張りつめたファルセット・ヴォイスでね。ほとんどジョークなんだけど、聴いていて『あぁ、フォー・シーズンズみたいで懐かしいなぁ』って気になる。ビートルズが登場するまで僕にとって、いちばん影響力があったグループだからね

(略)

[〈君はクリスティ〉]

僕がクリスティと一緒だった頃に書いた曲は、彼女がミューズとして影響を与えてくれてた。それは否定しないよ。彼女は僕が理想とする女性そのものだった。(略)

でも、だからって、僕がその頃書いた曲はすべて、彼女との生活に関係してたかっていうと、それは違うと思う。つまり、僕には僕なりの人生があった。その前にも家族がいたし、昔からの友人もいた。僕には僕なりの意見もあるんだ

(略)

「(略)[〈アップタウン・ガール〉のMV]には、それほど乗り気じゃなかったんだ。だって、この僕にダンスしろって言うんだからね。仕方なくやったって感じさ。(略)僕らはバウァリ街にいたんだけど、浮浪者が集まってきては、『お~い、クリスティ!』って彼女に群がって最悪だったよ。だいたい、彼女を出演させるのには最初から反対だった。あれは僕のアイディアじゃなくて、プロダクションの人間の考えだった。プライヴェートは持ちこみたくなかった。彼女はさすがプロだから、カメラ慣れしてるし、映りもいい。僕なんか身体がすくんじゃって、ついカメラから逃げてしまう。ヴィデオを観れば観るほど、なんだか気後れしちゃうんだ。できることなら、そんなことをやらずにすませたいよ。ヴィデオ出演は好きになれない。なんとかしてレコードを宣伝しなきゃならないから、仕方なくやってるだけさ。契約の一部でもあるし」

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ビリー・ジョエル 素顔の、ストレンジャー

ナチスに迫害された裕福な祖父母

 ビリーの父親、ヘルムート(のちにハワードと改名)・ジュリアス・ジョエルは1923年6月12日、カール・ジョエルと妻メタ・フライシュマンのひとり息子として、この世に生を受けた。(略)

諸外国において衣服会社がメール・オーダーで業績を伸ばしていることを知ったカールは(略)28年、ニュルンベルクにジョエル商会を創立。メール・オーダーのカタログを扱う会社で、既製服が専門だった。(略)

[ビジネスは成功したが、33年、ヒトラーが権力掌握]
狂信的な親ナチ派の新聞が、カール・ジョエル個人やその商売について中傷的な記事を掲載しはじめたことから、事態は深刻化していく。(略)

[記事は根拠なく]カールの詐欺的行為を告発し、"ドイツ国民にとって不倶戴天の敵"と決めつけた。(略)

たびかさなる逮捕に彼とその家族は神経をすり減らされ(略)店を閉めてニュルンベルグを去る以外に、道は残されていなかった。しかし、カールが選んだ移転先は国外ではなく、なんとナチの首都"ベルリン"だった。ヒトラーこそが天敵であり、けっしてドイツ政府ではない、と合理的に解釈していたようだ。(略)

ベルリンで商売を再開するにあたり、事業の経営陣にアーリア人の代表者を迎える必要があった。(略)手を結んだのは、ベルリンの財政顧問役であるフリッツ・ティルマンという人物。しかし、このティルマンこそが、後にドイツ中のユダヤ人を一掃する組織的作戦の中心人物であった。(略)
34年から37年にかけて(略)ビジネスを復興させようというカールの目論みは、財政的には成功した。
 一方で(略)政治的風潮は、ユダヤ市民にとって、ますます不気味な様相を呈しはじめていた。ジョエル家でも、すべての窓にシャッターが降ろされ、すべてのドアが施錠された。家族みんなが、自宅にいながら囚人のような気分で暮らさねばならなかった。35年当時、12歳だったヘルムートは、こう振りかえる。
ヒトラーユーゲントやSA師団やSS師団が、週末になると、うちのすぐ近くの森で訓練を受けていた。母はすごく怯えていた。体中がふるえるほどね」(略)

両親は息子の身の安全を考慮し、スイスの学校へ彼を転校させた。

 35年(略)ユダヤ人の権利をすべて剥奪する法律が定められた。悪名高き"ニュルンベルグ法"であった。(略)

[37年]ジョエル商会の商売は繁盛を極めていた。(略)
「父の商売は、ドイツで2番目に大手のテキスタイル・メール・オーダー店だった。(略)」
 だが、その良き時代も終焉へと向かいつつあった。

 38年、およそ28万人のユダヤ人が家を追われ、ベルリンからの退去を命じられた。(略)

 ユダヤ人の経営するすべての会社を"アーリア化"するようにと、政府の決議がなされたのだ。ユダヤ系の商人は、アーリア人に売りわたすのか、もしくは廃業するのか選択を迫られた。それでも、誇り高きドイツ系ユダヤ人の多くは、これは政府の一時的な見解にすぎないと信じていた。彼らは、勢力の均衡の振り子は、じきに反対の方向に振れるだろうと思っていた。しかし、事態は"最悪"へと向かっていた。

 この頃、ユダヤ市民が所持していたドイツ政府のパスポートには、ナチスかぎ十字がついているだけでなく、ユダヤ人を表す赤い"J"のスタンプが押されていた。38年、カール・ジョエルのメール・オーダー衣服工場から85万人の顧客へと出荷される荷物にも、同じ赤い"J"があった。
 いよいよカールの商売にも魔の手がかかった。突然、地元の新聞に商品や会社の広告を載せることを禁じられ、アーリア人の布供給元が工場へのテキスタイルの出荷を拒んできた。さらに雇っていたアーリア人の経営者が、内部から商売をボイコットするにいたり、カールはついに閉店を余儀なくされる。どんな価格であれ、すぐさま会社を売りに出すしかほかに術はなかった。

(略)

ジョエル商会は1200万ライヒスマルクと評価されていたにもかかわらず、ネッカーマンにわずか250万ライヒスマルクで譲りわたすしかなかった。

(略)

ゲシュタポは両親を捕らえて、モアブ刑務所に死ぬまでぶちこんでおくつもりだった」
 夫婦は偽のパスポートを使い(略)汽車は、スイスのチューリッヒに向かって、夜どおし走りつづけた。(略)
 「母が電話してきた『今、スイスにいるの。もうドイツへは戻らないわ』。私はまだ子供だったから、『はい』とだけしか言えなかった。すると、母は『言ってることが分かる?もう戻らないのよ。もう2度と戻ることはできないの』。それでも、私は『はい』と答えるしかできなかった」
 やがて、家族はチューリッヒの下宿屋で暮らしはじめた。

 そこに、ジョセフ・ネッカーマンから一通の手紙が届く。(略)
カールに支払う額に不明な点があるという内容で、事態を収拾するためベルリンに帰ってきてほしいと綴られていた。(略)[罠だろうが]全財産を無駄にすることはできるはずもなく、彼は妻と息子を残し、事態に決着をつけるべく、内密にドイツへ戻った。(略)
フリッツ・ティルマンはカールが受けとるべき金を取りもどす(略)報酬として、10万ライヒスマルクを求めてきた。カールはその場で、ティルマンに小切手をきった。すると、ティルマンはすべてのドイツ系ユダヤ人は、資金と銀行預金を法的に没収されることになった、と告げた。カールに嘘の情報を与えたティルマンは、カールの小切手を現金化し、10万ライヒスマルクを手に入れた。
 他方、ジョセフ・ネッカーマンはカールのメール・オーダー衣服会社のオーナーに収まり、彼とその家族はカールが購入した屋敷に移り住み、カールの所有していた家具もそっくりそのまま手に入れた。さらには、カールのお抱え運転手まで雇い入れた。ネッカーマンは、まるでカール・ジョエルの人生そのものを乗っとったようなものだった。
(略)

[ジョエル一家は、スイスからイングランドキューバへ]

米国への入国は、割り当て番号によって選ばれることになっていた。そして40年の初め、彼らはついにキューバから米国への入国を許可された。一家はニューヨーク・シティに移り、ブロンクスの小さなアパートで暮らしはじめた。
(略)

カールは、かつての商売(衣服と装身具)をふたたび始め(略)ヘッドバンドやアクセサリーを製造することで、市場における自らのアイデンティティを取りもどしていった。
 そうしたなか、ヘルムートはUS陸軍に徴兵される。(略)
ハワードと改名したヘルムート・ジョエルは、アメリカの兵士として故郷の土を踏んだ。
 「私はジープでニュルンベルグに入って、旧友たちを捜しだそうとした。しかし会えたのは、元運転手のシュローデルだけだった。父の昔の工場も見にいったが、建物はすでになく、辺りは瓦礫の山だった。そして、そのなかに、ジョエルとペンキで描かれた煙突が立っていたのを見つけた(略)

ミュンヘン近郊のダッハウ強制収容所を解放するために、陸軍部隊として、そこに赴いた。(略)死体の山の写真を撮った。ダッハウは……むごい光景だった。(略)」

(略)
「親父はイタリアで戦って、その後、パットン第3部隊に入り、自分の故郷が吹きとばされるのを目の当たりにしたんだ。親父のシニシズムと気難しさは、彼の戦争体験からきてるものなんだ」
 60年の初め、カールとメタ・ジョエルは(略)[ドイツに戻り]残された日々を、賃貸アパートで過ごした。

シニカルで暗鬱な父

[父ハワードは正式な音楽教育を受けたがクラシック音楽のピアニストにはならなかった]
「(略)父の望みどおり、エンジニアになった。あの時代は、誰もが父親の言いなりだった」(略)
[一方で]シティ・カレッジ・オブ・ニューヨーク(CCNY)の演劇集団に加わ[わり、未来の妻、ロザリンド・ハイマンと出会う](略)
「おふくろはうたってた。CCNYのギルバート&サリヴァン・カンパニーでね。(略)」

(略)
[46年戦争から帰還し結婚。47年長女ジュディス]

49年5月9日、長男ウィリアム・マーティン・ジョエルが誕生(略)

ハワード・ジョエルはゼネラル・エレトリック社で働いていた。(略)

「親父は、ある意味、風変わりに見えた。ドイツ人だったし、ヨーロッパ的なユーモアのセンスを持ってた。シニカルで、辛辣で、暗鬱だった。幼い僕に話しかける時でさえ、同年配の大人と話すような感じだったから、親父が話してる内容が分からないこともあった。ある時、親父が僕に『人生は汚水だめみたいなもんだ』って言った。幼い子供にはけっこうキツい言葉だよね

(略)
両親はふたりともユダヤ人の家系だった。けど、宗教にかんしていえば、僕はユダヤ人として育てられてない。割礼だけはユダヤ式だったけどね」(略)
少年期、彼の遊び仲間はみなイタリアン・カソリックだった。(略)

「友だちとカソリック教会によく行ったもんさ。11歳の時には、ヒックスヴィルのチャーチ・オブ・クライスト洗礼も受けた。僕は文化的なユダヤ人なんだ。(略)」

 ビリーは成長するにつれて、母方の祖父、フィリップ・ハイマンを深く崇拝するようになる。

「(略)おじいちゃんはメチャクチャ勉強家で、ありとあらゆる本を読んでた。代数学だとか、古生物学の本とかね。彼のおかげで僕も読書家になったんだ。フィッツジェラルドとかヘミングウェイとかトウェインの本を読んで、ロマンティックな妄想を膨らましたもんさ。(略)」
 母ロザリンド・ジョエルはこう回想する。
「7歳になった頃、ビリーはすっかり本の虫でした。図書館に行くと、いつも20冊くらい借りてくるんです。絵本やら、おとぎ話やら、歴史の本やら。とても独立心の強い子で、キッチンの椅子を与えておくと、それを汽車ポッポに見立てて何時間も遊んでいました。ちょっとしたことですぐにハッピーになれる、そんな子でしたね」

(略)

ジョエル家に(略)溢れていたのはクラシックやジャズだった。
 「親父はポップ・ミュージックを完全にバカにしてた。(略)彼にとってポピュラー音楽は、ビッグバンドの時代の到来とともに止まってしまったんだ。親父はエロール・ガーナーみたいなジャズ畑の人たちをみとめてた。それとナット・キング・コールのことは褒めてた。けど、それ以外はみとめてなかったね(略)

子供の頃の僕にとって、ピアニストとしての親父は尊敬の対象だった。クラシックの教育を受けてたし、楽譜も読めたからね。家にはおんぼろのアップライトピアノがあって(略)親父が弾くとすごくいい音がした。(略)ノクターンバルトークをよく弾いてたな。勤め先のゼネラル・エレクトリック社から帰ると、すぐにショパンバルトークの曲を懸命に練習してた。(略)素晴らしいピアニストだったよ」

(略)

ビリー少年にとって、クラシック音楽を学ぶこと自体はそれほど好きではなかったようだ。(略)

ベートーヴェンの曲を新しく覚えなきゃならない時に、譜面を読むのが面倒だったりすると、ベートーヴェンっぽいスタイルの曲を自分で作ったりしてた。けど、よっぽど納得させるものを作らないと、おふくろはすごく耳がいいからバレちゃうんだ。『新しい曲、ずいぶん早く覚えたわね』とか言ってね。翌日、自分で作った曲は忘れちゃってるんで、また違う曲を弾いたりすると、『え?その曲はなに?』って聞かれるから、『これは第2楽章だよ』とか言って、ごまかしたもんさ」

(略)

[ベートーヴェンを]ふざけてブギウギっぽく弾いてたんだ。そしたら親父が2階から降りてきて、おもいっきりぶっ飛ばされた。子供時代の記憶で、殴られたのはあの時だけだね」

(略)
クラシック音楽の演奏者になることは考えていなかったという。
「コンサート・ピアニストになってもあまり楽しい人生じゃなさそうだと思ってた。(略)でも習っててよかったよ。クラシック・ピアノを弾いて育ったおかげで、緊張と緩和の哲学が身についた。だからブギーのためのブギーっていうのは嫌いなんだ。緊張と緩和がないからね。ひとつのアイディアをずっと繰りかえすのは耐えられない」

(略)
「ふたりがよく喧嘩をしてたのを憶えてるよ。だから別れた時は正直ちょっとホッとした(略)

離婚がきつかったのか、親父はヨーロッパに帰っちゃったんだ。(略)
それから大人になるまで、親父には会えなかった。おふくろが、僕と姉さんを、女手ひとつで育ててくれたんだ

(略)

親父は僕たちを見捨てたわけじゃない。毎月、小切手を送ってきてたよ。それでも、僕らはいつも腹を空かしてた。(略)おふくろは知性もスキルもある女性だったけど、簿記とか書記のような仕事しかもらえなかった。だから収入が減って、テレビすら買えなかったんだ。僕らは赤貧とまではいえなかったけど、試合をリードしてるってわけでもなかった

(略)
成長するにつれて、父親を恐れる子供がすごく多いことに気づいた。父親が子供に暴力をふるうんだ。野蛮だよね、ぞっとするよ。(略)独裁的な父親に抑えつけられてる友だちにくらべて、僕はあまり怒りっぽくなかったような気がするね」

ビリーの母親は、息子と娘を社会的かつ文化的なイヴェントにも参加させた。

(略)

「家にテレビがなかったから(略)僕らはバレエやオペラから交響楽団まで、なんでも観たよ。クラシック音楽は退屈すぎるっていう人が多いけど、僕にはすごく刺激的だね。チャイコフスキーラフマニノフ、それにショパン。どれも、本当に情熱的な音楽なんだ。子供の時に〈ペーターと狼〉を聴いたけど、まさにゾクゾクしたよ。(略)」

エルヴィス、JB

「(略)決定的だったのは、姉貴の聴いてたロックンロールだった。エルヴィス・プレスリーとかスモーキー・ロビンソンとかね。そんなのが大好きだった

(略)

4年生の時に、エルヴィスの物真似をやったのを憶えてる。人前に出たのは、その時が初めてさ。たしか〈ハウンドドッグ〉をうたったんだ、エルヴィスみたいに腰を振ってね。5年生の女の子たちがキャーキャー騒ぎだした。(略)教師が僕たちをステージから引きずりおろした。僕が腰をくねらせてたのが気にいらなかったらしい

(略)

あれが、そもそもの始まりだったね。(略)システムをぶち壊す快感を覚えたような気がする。やつらに止められるまでは、してやったりって感じだったよ」

(略)
 ビリーが初めて観たロックンロール/R&Bショーは(略)アポロ・シアターでのジェイムズ・ブラウンだった。
「僕は完全にぶっ飛んだね。あのフットワーク、あのビート、あの歓声!あんなにエキサイティングなものは、それまで体験したことがなかったよ」
(略)

「(略)僕らはチンピラのなかでも"ディッティ・ボッパーズ(気どり屋)"って呼ばれてた。上級生の真似をしてチンピラみたいな格好してたけど、喧嘩はやらなかったんだ。仲間でつるんで行動してるだけの"ヒッター"っていうやつさ。昼間はずっとハンドボールをやって、ゴミ箱を蹴っとばしたり、シンナー遊びをしたり、偽物の徴兵カードでビールを買ったりしてた。毎晩、おふくろにおやすみを言って、2階の自分の部屋に上がると、こっそり屋根伝いに抜けだすんだ。(略)」

(略)
[ビル・ザンピーノ談]
「(略)10代の頃は、ブロードウェイまで一緒に出かけてミュージカルの『マイ・フェア・レディ』を観たり、映画館で『ウエスト・サイド物語』を2回も観たり、家で『オクラホマ』や『南太平洋』のサウンドトラックを聴いたり、アーロン・コープランドの音楽を聴いたりしたな。あいつはいつも、『あれくらいなら僕にもできる!』って言ってたよ」

(略)

[ビリー談]
「ライチャス・ブラザーズの〈ふられた気持〉が大好きだった。それからロネッツの曲はどれも全部ね。ラジオ以上にインパクトがあったよ。僕にとってフィル・スペクターは、作曲家のリヒャエル・ヴァーグナーみたいな存在だった。それから、オーティス・レディング、サム&デイヴ、それにウィルソン・ピケット、初期のモータウンサウンドが好きだったな」

ビートルズ

 「自分でレコードを買うようになったのは、64年にビートルズが登場してからなんだ。『エドサリヴァン・ショ―』で初めて彼らを観て、完全にノックアウトされた。とくにジョン・レノンの目の表情に、僕は何かを感じとった。そして顔に浮かべた作り笑いで分かったよ。彼らは、僕らとなんら変わらないじゃないかってね。ビートルズを聴いたとたん、『これだ!』って思った。『そうさ、僕にだってできる。とにかく、やってみよう』って!

(略)

僕は基本的にメロディ・フリークだし、それにかんして彼らは名人だったしね。ビートルズのアルバムを買いにいって、うちに帰って1曲目から最後まで聴いてみると、好きな曲ばっかりだった。それから彼らの真似をして、ビートルズっぽい曲を自分で作曲してみたよ。"Close to me ……you should be"みたいに、歌詞で韻を踏んだりしてね。『プロのミュージシャンになって、金を稼ごう(略)ありきたりな生き方なんて絶対しないぞ』ってね

(略)

学校じゃ、いつもコーラスの授業を選択してた。コーラスなんて軟弱だって思ったけど、わりと簡単な授業だったし、うたうのが好きだったからね」
 当時、コーラスの授業を選択するのは"お堅いやつ"と思われていたが、彼がこの時期に習得したヴォーカル・ハーモニーにかんする知識は、後におおいに役立つことになる。

(略)
ビートルズが登場してすぐに、2万組ものガレージ・バンドが生まれたんだ。そんなバンドのひとつに僕も入ったのさ。ピアノじゃなく、歌でね。学校なんか、まるで目じゃなかった。

(略)

いわゆるゴールデン・オールディーズをよくプレイしてた。〈ウーリー・ブーリー〉とか〈ワイプアウト〉とかね。しかも、ギャラももらえたんだ!わずか5ドルくらいのものだったけど、『へえ~、こんなんでギャラもらえるの?』みたいな感じで(略)あとは、もうまっしぐらさ」

(略)

[ボクシングジムに通う]
「(略)『俺をなめんなよ!』ってな感じ。たぶん、男らしさを追求したかったんだろうな(略)

僕は女手で育てられた。(略)愛情にかんしてはなにの問題もなかった。けどその反面、アイデンティティクライシスにはいつも脅かされてた。だから男らしさを確立するために、ボクシングで自分を試したかったんだ。(略)」

(略)

〈若死にするのは善人だけ〉に(略)登場するカソリックの娘とは、ヴァージニア・キャラハンという同じ学校に通う同級生だった。ビリーは彼女にかなりのぼせていたみたいだが、彼女のほうは彼の存在にすら気づいていなかったようだ。

初体験

 ビリーは、スタジオ・レコーディングを初めて体験する。プロデューサー、シャドー・モートン[が](略)シャングリラスの2大ビッグ・ヒット・ナンバー〈ウォーキング・イン・ザ・サンド〉と〈リーダー・オブ・ザ・パック〉をプロデュースしていた時、ピアノのパートを録音するため、ビリー少年が招聘されたのだ。しかしリリースされたシングルに、果たして自分のヴァージョンが使われたかどうか、ビリーには分からないという。だが、そんなことはたいして重要ではなかった。レコーディング・スタジオという世界がどんなものか、彼は生まれてはじめて体験したのだ。

(略)

エコーズというグループが50も60もあることを知ったビリーらは(略)ロスト・ソウルズと改名。(略)

ハイスクール・ダンスからホーム・パーティ、さらには教会が主催する行事まで、ありとあらゆるギグに出演した。(略)
ビリーは、一躍、オーディエンスの女の子たちの人気者になっていた。(略)

性的にも"初体験"を経験した。彼の場合は、年上の女性だった。
「ロマンスとはまるで関係なかった。僕は誘惑されたんだ。焦れば焦るほどうまくいかないってことが分かったね。(略)」
 さらに、この時期ビリーが"初体験"したことのひとつに、ジャズ・アルバムとの出会いがあった。彼が夢中になったのは、デイヴ・ブルーベックの名盤《タイム・アウト》だった。(略)

以来、ピアノの巨匠ブルーベックは、彼にとって真のアイドルとなった。

(略)
彼がロックやポップ・ミュージックで興味をそそられるのは、まず音楽であり、歌詞ではなかった。

(略)

「50年代後半とか60年代初頭の頃、ロックンロールには歌詞カードがついていなかった。(略)ストーンズなんか、なにをうたってるのか聴きとるのに苦労したよ。ミック・ジャガーはイギリス人のくせに、黒人みたいな歌い方をしてたからね。(略)

ロックンロールを聴いて分かったのは、歌詞はそんなに重要じゃないってこと。だから、僕はまず曲から先に作ることにしてる。実際、僕は小さい頃から曲を作ってたんだ。自分なりのオペラを、自分なりに作曲してた。言葉なんか必要なかった。そのうちバンドをやるようになって、曲を作るようになったら、歌詞まで担当するようになってね。『なんで、僕が歌詞を?』って聞くと、『おまえ、よく本を読んでるじゃないか』って。いつのまにか、曲に歌詞をつける役目が僕に回ってきたってわけさ」

(略)

新生ハッスルズ

[ロスト・ソウルズはハッスルズのマネージャー、アーウィン・メイツァーと知り合う。親族のダニー・メイツァーはマイ・ハウスというロック・クラブを経営]

ロスト・ソウルズのリードギター・プレイヤー、ジム・ボッセも回想する。
「(略)ダニー・メイツァーは、このふたつのバンドをひとつにまとめようと思いたった(略)67年に、ふたつのバンドから巧いほうのプレイヤーが選ばれて、新生ハッスルズとなった。(略)俺は結局、選ばれなかった。残ったのは、ビリーとハウイーだけだった。(略)」
ハッスルズにおける自分の座をビリーに奪われたハリー・ウェーバーは、そのショックと薬物依存による気分の落ち込みで鬱状態となり(略)[線路に]体を横たえ(略)列車に轢かれて死んだ。(略)
[ドラマーのジョン・スモール談]
「(略)[ビリーは]165センチのチビで、ルックスもロック・スターには似つかわしくなかったけど、そんなことどうでもよかった。あいつはうたえた、からね。(略)おまけにキーボードの腕も文句なかった!(略)ところが、やつは自分のバンドを抜けたがらなかったんだ。(略)[俺は]最後の手段に出た。やつにハモンドB-3を差しだしたんだ。5000ドルもするオルガンさ。ビリーにはとても手が出せない代物だった。(略)ビリーはついに、ハッスルズのメンバーになったのさ」(略)
[アーウィン・メイツァーは音楽業界にコネを持つため]

ルーレット・レコードの社長モリス・レヴィーのもとで、スタッフとして働きはじめた。(略)
トミー・ジェームズ&ザ・ションデルズで大儲けしたにもかかわらず、モリス・レヴィーがバンドにほとんどギャラをわたしていなかった事実は、今やロックンロール界の伝説にもなっている。(略)17歳のビリーが加入したハッスルズは、突然、こうした音楽業界のビジネス・パワーの渦に巻きこまれることになったのだ。

(略)
67年、ハッスルズはルーレット・レコードの親会社であるユナイテッド・アーティスト・レコードと契約を結ぶ。(略)

バンドは解散。ジョン・スモールはハッスルズの消滅について、こう語る。
「ユナイテッド・アーティストからアルバムを2枚出したあとで、ビリーと俺はもとからいるハッスルズのメンバーと険悪な仲になった。(略)」

サイケ・デュオ・アッティラ

ビリーは、ジミ・ヘンドリックス・フリークだった。
「ジミは本物の天才だよ。べつに"天才"を安売りするつもりはないけどね。僕が天才とみとめるのは(略)モーツァルトにジョージ・ガーシュインアーロン・コープランド、あとバッハ。彼らと同様、ジミ・ヘンドリックスは正真正銘の天才さ
(略)

ウッドストックには行ったけど、ひどいもんだった。雨と泥とアシッドの世界さ。(略)1日過ごしてみて分かったよ。ぶっ飛んでなきゃ、とてもやってられないなって。僕はドラッグはやらなかったからね。ヒッチハイクして、うちに帰ったよ

(略)

マリファナさえ吸ったことがなかった。(略)その後2年間くらい、なんとかヒッピーになろうとがんばってみた。けど、僕には向いてなかった。どうやってみても、いい気持ちになれなかったし、"フラワー・パワー"にも夢中になれなかった。カウンターカルチャーそのものが、システム化されてるような気がしてたし。(略)」

[それでも時流に乗ってビリーとジョン・スモールは]

サイケデリックなキーボード&ドラム・デュオ、アッティラを結成する。スモールが回想する。
「(略)俺がドラムで、ビリーがハモンドB-3の担当だった。10マーシャル・アンプを使ってね。まさにヘヴィ・メタルさ。エピック・レコードと契約し、5万ドルのアドヴァンスをもらってツアーに出たんだ。いやあ、痛快だったね。ロック・スターになるなんて、ちょろいもんさ。イギリス風のファッション、イースト・ヴィレッジのグラニー・テイクス・ア・トリップ(1969年代風のヒップなファッションの店)のブーツ、長髪にロックンロールっぽい態度。トラフィックジェスロ・タルレッド・ツェッペリンなど英国バンドが俺たちの目標だったのさ」

 ビリーはこう説明する。
「(略)レッド・ツェッペリンをもっとヘヴィにしたみたいな、ヘヴィ・メタル・バンドさ。僕はハモンドオルガンをアンプに繋いで、ギターみたいな音を出せるように工夫した。それからキーボードでベースも弾けるようにもした。(略)さらにはハーモニカを吹いたり、頭のてっぺんから声を出したりして叫んでた。その間、ジョンはドラムを叩いてたよ

(略)

アッティラは、アンプが命だった。なにしろ、でっかいアンプ10個もあったんだ。みんな、そのセットアップ目当てに、観にきたくらいさ。結局、僕らはアルバムを1枚出したあと、ギグを5、6回やったのかな

(略)

アンプリファイアー・ファイアー〉(略)はヘヴィ・メタルというよりは、もっとジャズっぽい雰囲気だよね。(略)僕は当時、ジャズ・オルガニストジミー・スミスにすごい影響を受けてたからね」

絶望、鬱、自殺未遂、精神科病棟

「いろんなタイプのにわかマネジャーにいいようにあしらわれながらも、少しずつシャングリラスとかチャビー・チェッカーといった著名なアーティストのバックで演奏するチャンスをもらえるようになった」
 その後、てっとりばやく金を得るため(略)地方向けの雑誌『ゴー』と『チェンジ』の2誌で、コンサート・レヴューを担当したのだ。
 「1回のレヴューで25ドル!悪くないだろ?」
 ところが敬愛するミュージシャンを悪く批評することに、自分は向いていないと、彼は改めて感じた(略)アル・クーパーのコンサートにお粗末なレヴューを書いて以来、彼は評論家という職業からきれいさっぱり手を引いた。
 「僕は今でも、クーパーには謝りたいって思ってるんだ」
(略)

 自信をなくし、金も底をついた彼は(略)カントリー・クラブの壁のペンキ塗りをしたり、しばらくのあいだ工場で働いたこともあった。
 「僕の人生は恐ろしいことになってたよ。ハイスクールの卒業証書もない。音楽的になにひとつうまくいってない。一世一代だと思ってたロマンスも破局を迎えた。金もなきゃ、住む家もない。家賃が払えないから、コインランドリーで寝てたことだってある。ニューヨークの冬は半端じゃないからね。(略)」
(略)

絶望のあまり(略)鬱状態のビリーは、プレッジ社の家具用光沢剤を選んだ。

(略)

「僕は21歳で、『ここから抜けだすには自殺しきゃない』って、マジに思ったね。クローゼットを覗くと、塩素系の漂白剤が入ってた。(略)家具用光沢剤も入ってた。あとは香りの問題だけだった。僕は家具用光沢剤のほうを飲んだ。忘れもしない。椅子に座って、死が訪れるのをじっと待ってた。すると突然、胃袋がこの異物を処理しようと活動しはじめた。結局、最後には家具用光沢剤を吐きだすしかなかったよ」

(略)
「僕はメドーブルック病院の監視病棟に自分から入院した(略)

3週間は出られないんだ。まず着てるものを全部脱がされた。それから、尻が丸見えのスモックを着せられて、ひっきりなしにソラジン(精神分裂病の鎮静剤)を投与。寝る時も、大部屋でほかの患者たちと一緒さ。つねに薬で症状をおさえながら、四六時中、監視されてるんだ。まるで映画『カッコーの巣の上で』みたいな世界さ。鉄格子の窓と電動式のスライディングドアがついてる病棟にいるのは、すごく奇妙な気分だった。(略)

僕はナースステーションに行っては、窓をノックして『カッコーの巣の上で』みたいに、こう訴えるんだ『ねぇ、僕はもうだいじょうぶだ。ここにいるのはクレイジーな連中ばっかりだけど、僕はもう正常さ。ここから出してくれよ』。けど、やつらときたら『分かりました、ミスター・ジョエル。さぁ、あなたの分のソラジンですよ』って。(略)飲まなかったけどね。舌の裏側に隠して、あとから吐きだしてた。2日ほどしてから、担当の精神科医と話をした。(略)『ここから出してくれ!自殺願望に取りつかれてたから入院したけど、もう自殺する気はなくなった』って言ったんだ。(略)

こうして、僕は表に出ることを許されたんだ。後ろでドアが閉められたとたん、振りむかず僕は全力疾走したよ。あれは、マジで恐ろしい体験だった

(略)

 人生でいちばん大切なものに気づくための、ショック療法みたいなものだった。僕は物事をすごく深く感じるようになった。(略)

監視病棟に入って、深刻な問題に悩んでる人たちを実際に見たことで、僕は30秒ほど自分を憐れんだら、すぐにスイッチを切りかえて、『さ、やるぞ!』って思えるようになったよ。『僕には音楽が作れるし、また恋だってできるんだ!』ってね。(略)」

不倫、不利な契約

 ビリーは、しばらくのあいだ、ジョン・スモールとその妻エリザベスの家で暮らすことになった。(略)

[二人]には幼い息子ショーンもいたが、ジョンはかなりの浮気者で、妻との仲はすでに冷えきっていたという。孤独で、魅力的な21歳の若者ビリーとエリザベスが(略)愛しあうようになるのに、それほど時間はかからなかった。

(略)

[70年、ビートルズ解散]

ビル・ザンビーノは語る。
「ビリーはビートルズが大好きだったから、解散したあとよくぼやいてたよ『これからはビートルズの曲がもう聴けないなんて!こうなったら自分で作るしかない!』。そして、あいつはほんとに作っちまうんだよな」

(略)
後年、ネイバーフッド・レコード会社のオーナーであるピーター・シェケリクは、こう語った。
「(略)アーウィン・メイツァーが私のところにきて、ビリーのソロ・シンガー・ソングライターとして初のデモテープに、金を出す気はないかと言った。ビリーの歌を聴いてみると、なかなか将来性があると思ったので、デモ・レコーディングの制作費を出すことにしたんだ。(略)ビリーがデモのレコーディングを終えた頃、ちょうど私のオフィスが(略)同じビルの12階に引っこした。アーウィンはできあがったデモテープを私に聴かせようと、ビルの11階に上がってきた。ロビーに寄って受付嬢に聞けば、オフィスが12階に引っこしたことが分かったはずだが、アーウィンは(略)パラマウント・レコードのドアをノックしたんだ。そこで彼は、アーティ・リップと出会った。当時、金に困っていたアーウィンは、アーティ・リップがビリーのために提示した契約金にすぐさま飛びついてしまった。(略)アーウィンがひとつ上の階まで来て、私に会ってさえいれば、真っ先にビリー・ジョエルをネイバーフッド・レコードのアーティストとして契約を結んだのに。アーティよりはるかにいい条件を提示できたはずだ。ビリーはかなりの契約金を手にするはずだった。アーウィンは、ジョエルとのレコード契約を結ぶきっかけとなったデモの制作費を払わないばかりか、彼の才能を見いだしたレコード会社の社長としての名声まで、私から奪ったのだ。(略)」

 図らずもビリーは(略)作曲家印税、出版権、そして著作権のすべてを譲りわたしてしまう結果になった。その後何年にもわたって、苦しめられることになったこの契約について、ビリーはこう語る。

(略)
「自分がなにに署名してるのかさえ知らなかった。けど、契約するためなら、きっとどんな書類にでもサインしてただろうな。なにしろ、もらった前払い金で、ピアノも買えたし、家賃も払えたからね」

(略)
《コールド・スプリング・ハーバー》ツアーで(略)プエルトリコで催された"マリソル"なる野外音楽フェスティヴァルに出演。(略)

観客のひとりに、コロムビア・レコードの社長がいた。この事実が、後にどれほど自分にとって重要になるか、当時のビリーは知る由もなかった。
 そんななか、フィラデルフィアのシグマ・スタジオで行われたコンテスト入賞者のための特別ライヴ・コンサートにビリーは出演。まだレコーディングしていない曲で、麻薬の売人をうたった〈キャプテン・ジャック〉を演奏した。この催しは録画され、スポンサーでもあったWMMR局が頻繁に流した。ニューヨークのラジオ局にも目を付けられ、ビリー・ジョエルの名は"カルト"アーティストとして知れわたるようになる。

(略)

「ツアーは6カ月にもおよんだ。誰ひとり、ギャラさえもらえなかった。いつもピーナッツバターサンドばっかり食べてたよ。どの店に行ってみても、僕らのレコードは棚に並んでなかったしね。うちに帰ったら、家賃分の小切手が送られてくることになってたけど、結局、それもこなかった」
その間、ビリーの私生活にも様々な問題が生じていた。(略)

LAへ逃避行、ラウンジ・シンガーに

[離婚したエリザベスと暮らすように]

「(略)僕らはオフシーズンになると、水辺に近いその小さな家で過ごした。彼女はツアーにも同行してくれて、それからはずっと一緒だった」
 そして不運な人生の軌道修正をするためには、カリフォルニアに移るのが最良策かもしれないと、ふたりは考えた。
 「持ち物を残らずエリザベスのステーションワゴンに積みこんで、アメリカ横断の旅に出たんだ。不当な音楽ビジネスとおさらばして、まともな弁護士と新しいマネジャーを見つけるつもりだった。僕を騙した張本人たちはロスアンジェルスにいた。まさかすぐ目の前に僕がいるとは思わないだろうしね」
リバティ・デヴィートはこう語る。
「(略)ショーンの親権はジョンが持っていた。ビリーとエリザベスはショーンを連れて、カリフォルニアに逃げたんだ。(略)」
(略)

ビリーは"ビル・マーティン"と改名する。
 「ビル・マーティンって、僕の本名だからね。(略)ピアノ・ラウンジ・シンガーとして、半年間、演奏した。なかなかいい仕事だったよ。飲み物はタダだったし、最低賃金も保証されたし。生まれてはじめて、ちゃんとした定収入を得ることができたんだ。僕はもうひとりの自分に完全になりきることにした。バディ・グレコばりに、シャツの襟を立ててボタンを半分ほど外してね」
 他方、ビリーは当時のカウンターカルチャーの営みを、すべて経験する。
「カリフォルニアにいた頃は、マリファナを吸ってた。あそこにいると、それが当たり前の日常だからね。彼らの言う"メローライフ"ってやつさ。あそこじゃ、すべてがレイドバックしてる。もちろん、口にするものはすべて自然食品だったしね。アシッドも経験したよ。岩が動くのをほんとに見たんだ」
 こうして、ビル・マーティンを演じているうちに(略)自らのアイデンティティが、はっきりと像を結んでくる。そして、ついに、彼の代表作となる〈ピアノ・マン〉が生まれた。歌詞に登場するピアノ・マンは、もちろん、ビリー本人だ。
「ジョンはバーテンダーだった。それから、デイヴィーっていう海兵隊のやつがいた。ポールは不動産ブローカーだったけど、ほんとは小説家をめざしてた。エリザベスは、あそこでカクテル・ウェイトレスとして働いてたんだ。すごいミニのカクテルドレスを着て、せっせとチップを稼いでたよ。ふたりが同棲してたことは、みんなに内緒にしてたけどね」
(略)

父と再会、コロムビアと契約

 カリフォルニア時代、ビリーは父親ハワード・ジョエルと再会を果たしている。父子は10年以上も会っていなかった。

(略)
ビリーの予想に反して、父親は(略)ウィーンで暮らしていた。だが、もっと驚いたことに、父ハワードはオードリーという女性と再婚し、息子までもうけていた。

(略)

「(略)とにかく、最初は互いにすごくぎこちなかった。(略)なにを話したらいいのか分からなくてね。(略)

親父も、僕と同じように眼が飛びでててね。すごく不思議な気分だった。親父は僕を見て、自分も昔はあんなふうだったのかって思ってるし、僕も彼を見て、将来、自分もあんなふうになるのかなって思ってる。親父はクラシック界では素晴らしいピアノ・プレイヤーだよ。厳格なプロイセン人に鍛えられたらしい」
 だが、父子のあいだに本当の意味での親密さが通うことはなかった。ビリーのなかでは、"捨てられた"という思いが、まだ消えていないことが原因なのかもしれなかった。
 そんななか、ビリーはついにパラマウント・レコードとの契約から解放されることになる。
「結局、僕と契約してた連中は、僕が姿をくらましたもんだから、ここは妥協して契約の再調整をしないかぎり、なんの進展もないと判断したらしい。72年のことさ」
 いくつかのレコード会社からのオファーを受け、ビリーは最終的にコロムビア・レコードと新たに契約を交わすことにした。(略)

『ニューヨーク・デイリー・ニュース』には、後にこんな記事が掲載された。
プエルトリコのフェスティヴァルでジョエルのステージを観たコロムビア・レコードの社長クライヴ・デイヴィスは、エクゼクティヴ・ラウンジに足を運び、好条件での契約を申しでた」

(略)

「(略)ロスで演奏してるビル・マーティンが、実はビリー・ジョエルだっていう噂を聞きつけた社長のクライヴ・デイヴィスが、わざわざ会いにきて、僕にオファーを出してくれたんだ」

次回に続く。

じゃじゃ馬娘、ジョニ・ミッチェル伝  その3

前回の続き。

 

 

『逃避行』

コカインできめたジョニは(略)ロベン・フォードに電話をかけた。「ねえ、ロベン。近々ボルダーに行くんだけど」と彼女。「いいね、うちに寄ってけよ」(略)

彼の手元には彼女が喜びそうなものがあった。(略)[ジャコパスの]デビュー・アルバムのアドバンスコピーだ。

(略)

[ロベンはジョニに〈ポートレート・オブ・トレイシー〉を聴かせた]

 ジョニは、彼が出す音はまるで自分が夢で築きあげた音だった、と語っている。自分のソプラノ音域まで出せるアプローチを持つベース奏者を、彼女はずっと探していたのだ。(略)

パストリアスの音からは自分と同じ魂を聞きとった。

(略)

その男がマイアミでボブ・ホープやフィリス・ディラーの仕事をしていると知ったジョニは思った。次にスタジオに入る時は、彼をそこから連れ出さなければ。

(略)

それからの数ヶ月(略)

ツアーを逃げ出しておきながら、彼女はさらに逃げ続けた。コカインがエネルギーと自信の源になり、曲の推進力になることもあった。中でも顕著だったのはヴァースが繰り返され、増殖するだけの〈シャロンへの歌〉だ。サビもブリッジもなく、あるのは10のヴァースのみ。(略)彼女のウキウキとした話し言葉の歌詞はコカインの産物だ。次々と連想が膨らむ〈ドンファンのじゃじゃ馬娘〉もそうだし、お喋りな〈トーク・トゥ・ミー〉もそう。(略)

その後、ジョニは何度か、自分の心を壊したコカインこそが、ポップミュージック最大の悪の要因だと発言している。このコカインの時代が、この時期の彼女の作品の本質の一つだったことは間違いない。

(略)

ディープサウスをめぐり、砂漠を旅した。そして家に戻る頃、『逃避行』はあとはレコーディングされるだけになっていた。

(略)

[ツアーでジョニと衝突したゲイル・フォードが「あなた、調子が良くないわね」と連れて行ったのが、中国のチベット侵略を逃れ亡命していた教祖]

トゥルンパは、トゥルンパ系譜第11代目の化身ラマ"トゥルク"(略)

カリスマ性は尋常ではなかった。(略)

[酒豪で酔って講演、女性の弟子に手を出す]

「最初は彼を見下していたわ。そもそも私を引っ張って行ったのは(ゲイル・フォードという)最低の女だった。でも何かあるのかもと思い、少しだけ彼を見上げ、お世辞を言った。そして彼にお世辞を言うことに翻弄されてしまったの」。(略)

 それはわずか15分の出来事だった。二人は会い、壁は消えた。コカインよりももっとパワフルな何かを前に、ジョニは突然、うやうやしくひざまずいていた。トゥルンパは彼女に呼吸法を教える。発せられる恵みの波。ジョニは"私"を失った。名声とコカインと、彼女の愛情を競い合う、彼女の信奉者であるハンサムな男たちによって培われ、膨れに膨れ上がったエゴが消えていく。

(略)

トゥルンパに助けられ、ジョニにははっきりと物事が見えるようになった。そしてジャコに助けられ、新たなハーモニーの世界を見つけた。このニ人の、目覚めた世捨て人がいたからこそ、『逃避行』と言うエキセントリックかつ刺激的な傑作は生まれたといえる。

(略)

シャロンへの歌〉は幼なじみに捧げられた曲だ。

[その中で1ヴァース割かれたのが、76年に自殺したフィリス・メジャー、ジャクソン・ブラウンの妻。]

「(略)フィリスは繊細で、アーティステックで、美しい女性だった。でも男から男へと回されたのよ。(略)美人というのは、王子様が自分を選んでくれると思うので、返って騙されやすいのよ。(略)

[そして]最悪の一人がやって来た。最低最悪のやつ。それまで彼女が経験してきたクソみたいなことはすべて、彼の毒牙にかかるためだったのよ」。のちにジョニは〈ノット・トゥ・ブレイム〉で再びジャクソン・ブラウンを厳しく告発し、フィリスの死を弔っている。

『ラスト・ワルツ』

レヴォン・ヘルム(略)以外のメンバーはカナダ出身だ。(略)ガース・ハドソンは彼女のアルバムを称賛し続けた。「僕らは全員ジョニに恋したよ。彼女の曲には、国境をこっそりと越えてきたカナダ特有の何かがあって、実に注意深く作られていた。あれほど分析的でクリエイティヴなメロディがどうしたら考えつくのだろう?と思ったものさ」(略)

ラスト・ワルツの前、ジョニは初のポリフォニック・シンセサイザーであるヤマハCS80を見せてもらうため、ガースに会いに行っている。(略)

ロバートソンは言う。旅にあるのは、ドラッグと悔やまれるセックスと疲労と疎外感と絶望だけ。(略)「ツアーは多くの偉大な命を奪った。(略)あり得ない生き方だ」(それに対し、解散に反対だったレヴォン・ヘルムの答えは「俺は健康のためにやってるんじゃねえよ!」だった)。

(略)

「ラスト・ワルツでニールとロビーに歌ってくれと言われた時、彼らはハイで音も外れっぱなし。"これでどうやって歌えっていうの?"と思ったわ」(略)

ジョニが〈ヘルプレス〉をカーテン越しに歌ったのは、そのあとの自分の出番で大々的に登場したかったからだとされている。でもジョニの記憶はそれとはちょっと違う。「ステージの裏でやりたいと言ったのは、集中力が必要だったからよ(略)3部ハーモニーで僕らとハモってくれ」と言われたが「そんなの無理だった」と彼女は言う。「だって彼らは音程を外しまくっていたんだもの。ニールは私ができないと言っても、なぜできないのかに気づかず、なんとか歌ってくれと言うばかり。まったく自覚してなかったのよ。CSNもいつも音程が外れてたわ。自分達がどれくらい音を外してるか、ドラッグのせいもあって、気づいてなかったの。ニールは〈ファリー・シングス・ザ・ブルース〉では4本のハーモニカを吹いていた。なんだかすごい冒険的で、とても変わったハーモニカだったわね」

〈パプリカ・プレインズ〉

[77年自宅でピアノに向かうと新鮮な感覚]

これをできる限り早くレコードにしなくては。まずはヘンリー・レヴィーに電話だ。

(略)

「今、病気なんだ」(略)

「私は卵巣膿瘍を克服したばかり。足を引き摺りながら、また生き返ろうとしてるところよ。スタジオに入りましょう」

(略)

2時間に及んだ即興演奏は(略)テープの切り貼りで編集された。

(略)

感性あふれる野性の少女が捉えた原始的で、部族的で、即興的な何かは、バークリー音楽院の教授であり編曲家のマイケル・ギブスによってオーケストラ用にアレンジされ、ジョニは完璧ではなかったが、それをソウルフルな組曲へと作り変えた。

 ギブスを彼女に薦めたのはジャコ・パストリアスだ。

 (略)

レコーディングはかつてのギリシャ正教会で、世界で最も優れたスタジオとして知られるコロムビア・レコードの30thストリート・スタジオで行なわれた。

(略)

 ギブスは曲に魅了されたという。「彼女の荒削りな演奏も魅力の一つだ。目的はピアノのパートに横たわる場所を作ることだった。そのままではあまりにむきだしで、構造的に支えるものがなかったから、ローブを着せるように包み込みたかった。

(略)

[数年前ウィングスのパーティ会場にいたジョニとディラン]

二人は絵画の話をした。[ディランはノーマン・レーベンに絵を習い始めたばかり]

(略)

「週に5日はあそこへ行き、残りの2日はただ絵のことを考えた。8時から4時までいたよ。他のことは何もせず、2ヶ月間そうやって過ごし、自分が大きく変わった。しばらくして家に帰ったが、その日以来、妻は僕が理解できなくなってしまった。その時から僕らの結婚生活は壊れ始めた。僕の話してることも考えていることも彼女は理解できず、僕も言葉ではとても説明できなかったんだ」(略)

[ジョニがこの部屋にあるもので絵にするならどれ?]と尋ねた。

「コーヒーの入ったこのカップを描くよ」。彼が言う。天井を見上げ、ジョニは答えた。「私はあのミラーボールにするわ」たわいないお喋りはやがて歌になる。(略)ディランは〈コーヒーもう一杯〉を書き、ジョニは〈パプリカ・プレインズ〉の最後のパートのこんな歌詞を書いた。

 光を放ちならが回り始めるミラーボール

(略)

 

マイルス

[シーンから姿を消したマイルスは薬でキメてグループセックス。嫉妬深い新恋人ドン・アライアス]だったが、マイルスは神のような存在だ。(略)自分の女を彼の元に届けた。(略)

[テレビ特番出演を願うジョニ]

誰かが100万ドル払うまで姿は現さないと彼は言った。(略)

「私は彼を責められなかったわ。気持ちは完全に理解できたから。彼はコカイン漬けで、自らを死に追いやっていた。(私を部屋まで送ってきた)ドンをマイルスは追い出すと、すぐさま迫ってきた。信じられなかったわ。ドンは嫉妬してたくせに、部屋に残って私を守ってくれなかったのよ。それで私は自分を守るしかなかった。(略)

飛びかかってこられ(略)ソファから思わず飛び上がった。そのままマイルスもソファから転げ落ち、気を失っちゃったのよ。私は足首を掴まれたまま、意識のないマイルスとそこにいた。(略)手をこじ開けて、私の足首から引き剥がしたわ。自動制御でブレーキがかかったみたいに外れなかった。あれには笑えたわ」(略)

マイルスは復帰するも、やはりかつてのようではなかった。偉大な男がそれほど偉大ではなくなっていたことを、ジョニは知る。(略)

「晩年のマイルスは3音吹いたら、うろうろと歩き回っていたわ。というのもバンドが酷くて、なんのひらめきも感じられなかったからよ」(略)

しかし、もう一人のジャズ界の巨人によって、思いもかけない学びの機会が彼女に訪れることになる。

 

ミンガス

ミンガス

Amazon

『ミンガス』

 7つの曲に加え、ミンガスは(略)『ミンガス・アー・アム』の2曲に歌詞を書くよう、ジョニに指令を出した。1曲は(略)〈三色の自画像〉(略)

 もう1曲は(略)〈グッドバイ・ポーク・パイ・ハット〉だ。ミンガスは偉大なるテナーサックス奏者レスター・ヤングへの挽歌としてこの曲を書き、そのレスターのクールなスタイルは、ミンガスが嫌ったクールジャズと呼ばれる一派によって模倣された。(略)

最初、ジョニは二の足を踏んだ。

 「ジョン・ヘンドリックスに頼めば?(略)ビバップの作詞家だったら、彼が一番よ」

 「もう頼んだよ(略)聴きたいか?」

 ミンガスはジョニに聴かせ、尋ねた。「どう思う?」「なんてお涙頂戴なのかしら」とジョニは答えた。

「だろ?哀れな黒人の男がどうしたこうした、とそれだけだ」

 こうしてジョニは、10代の頃に憧れた、数少ないヒーローの一人だったヘンドリックスを越える歌詞を書かねばならなくなった。(略)マンハッタン中を歩き回り、インスピレーションを探した。(略)

ミンガスから(略)レスター・ヤングの話は聞いていた。「誰よりもスウィートな男だった」。(略)

最初のヴァースは簡単だったが、あとが続かない。(略)

地下鉄を降りた。「通りに出ると、マンホールから蒸気が上がっていて、2ブロックほど先に黒人の男たちが集まっていた。かぶっている帽子の感じからポン引きだとわかったわ。(略)小さなバーの前で(略)彼らの中心にいたのは9歳とかもっと下だったか、男の子が二人。口ボットみたいな動きの若者のダンスをしてたのよ。円を作っていた男の一人がポンと膝を叩き、言ったの。"間違いなく、これでタップダンスの時代は終わったな!"。その時、顔を上げたら、隣のバーの赤いネオンの"チャーリーズ"という文字が目に入った。突然、すべてがつながったわ。赤い文字、二人の男の子、二つの世代。こうして才能ある子供たちがストリートから生まれ、彼らにとって初めての観客を集めている。それが私にはチャーリー・(ミンガス)とレスターのように思えた。それだけでも十分だったのに(略)その店の看板には大きな大文字で PORK PIE HAT BAR と書かれている。あとは韻を踏めばいい。そうやって最後のヴァースは書けたのよ」

 

 

『シャドウズ・アンド・ライト』

[『ミンガス』プロモのため]

取材を受けるだけでなく、『夏草の誘い』ツアーのドタキャンから3年以上ぶりに、初となる本格的なツアーにも出るつもりだった。(略)ウェザー・リポートオープニングアクト兼バックバンドに起用すること。それが実現しなかった理由は(略)ジョー・ザヴィヌルの言葉がすべてを物語っている。

「俺たちはクソL・A・エクスプレスじゃねえんだよ」(略)

[音楽監督のジャコが穴をあけ、パット・メセニーが引き継ぐことに]

ジョニがウェイン・ショーターにと熱望した座にはマイケル・ブレッカーが座った(「私は天才がほしかったけれど、そこそこの才能で手を打った」)。ブレッカーは超一流のミュージシャンだったが、ジョニにはジョン・コルトレーンの影響を受け過ぎているように思えたのだ。(略)

リハーサルに復帰したパストリアスはブレッカーを解雇しようとしたが、ジョニが説得し、それを止めた。

(略)

人の陰で働くことに慣れていないミュージシャンたちのフラストレーションは容易に感じ取れた。(略)メセニーは後日、あれほどのミュージシャンを集めておきながら、限られた演奏の機会しか与えないのは、せっかく買ったフェラーリで近所の道しか走らないのと同じだと述べている。

(略)

「私は言葉の人だから、何よりも自分の言葉に責任があるのよ(略)だからバンドとやる時、私はリーダーでなければならない。というか、言葉がリーダーでなければならないの。(略)」

 つまり、バンドはあくまでも彼女のギターであり、声であり、歌の延長だということだ。

(略)

[ジャコ]の問題児っぷりはエスカレートし、手に負えなくなっていた。ジョニも含め、最終的には周囲のほぼ誰もが、彼を見放すことになる。日本滞在中、噴水を真っ裸で駆け抜けたとか、住んでいたアパートの部屋に水を張って人を呼んで泳いだために大家から追い出され、ワシントン・スクエア公園で寝泊まりしていたとか、逸話には事欠かない。

 押しては、突き進み、リスクを負い続けたジョニの10年間が終わりに近づいていた。そして判明したのは、ゲフィンとロバーツが正しかったことだ。アルバム『ミンガス』は売れなかった。70年代以降、彼女のアルバムとしては初めてゴールドに達成しなかった。

(略)

アサイラムエレクトラに売却し(略)ゲフィンが新レーベルで最初に獲得したのが、ジョニとエルトン・ジョン、そしてジョン・レノンだ。

(略)

「もうあそこには行きたくないわ。どうせ飽きられ、そのあとどうなるか、私にはわかっているから」とジョニは嫌がった。「ジョーン、何言ってるの、僕だよ、デヴィッドだよ。昔みたいにやろうよ」。ゲフィンは言ったという。(略)

「前払金としては大金ではなかったけど、悪い額でもなかった。ところが、私をエレクトラの契約から買い取るために必要な金だからと、約束の額から4分の1を差し引いたのよ。"ジョーン、君だって僕に金を稼がせたいだろ?"とか言ってね。むかついたけど、黙って従ったわ。彼が何をしていたか、よく知らなかったから。実際にはその22万5000ドルを返済するまで、私に入ってくる収入は差し押さえられていたのよ」

「この20年間、印税の小切手を見たことがないわ」とジョニは1996年(略)語っている。「ある時点で、ゲフィンは私の唯一の収入だった音楽出版会社からの作曲家印税の支払いを止めたのよ。つまり私には一銭の収入もなし。デヴィッド・ゲフィンのところに行って、"私を自由にして"と言ったけど、"ジョーン、どこに行ったところで今以上の契約はないよ。僕だったら君をいつまでも置いておく。君を切ることは絶対にしないから"と言われたわ。だから私は"死ぬまで奴隷だなんてまっぴら"と言ったのよ」(略)

つまりはジョニを買い取るため、彼女を利用したのだ。これは業界内ではよくある習慣(略)

出版側の収入の中には、ラジオなどでの公開パフォーマンスから発生する権利が含まれていた。

 (略)

ジョニとドン・アライアスの複雑な4年間の関係にも終わりが訪れた。(略)

「ドン・アライアスは見境なく嫉妬深かった。私も何度か殴られたわ」とジョニは2015年に語っている。「初めて殴られたあと、長いこと会うのをやめていた。すると彼は私の友人たちを使ってアピールしたのよ。それで私は戻ったのだけど、またしてもなんの見境もなく殴られた。私が浮気をしていると勝手に思い込み、話を作り上げた。被害妄想よ。おそらく彼自身がいつもツアー先で浮気をしてたから、自分の非を私に転嫁したんだわ。とてもやさしい人だったけど、コンガ奏者に殴られるのは、しかもそれが顔だったら、誰だって嫌でしょ。彼はとてもたくましい人だったから、あんな手で叩かれたらひとたまりもない。まるで武器。私もかなりひどい目に遭ったわ」(略)

[夫の許可を得て、元カレのジョン・ゲリンと食事に出かけ]

午前4時に帰宅したジョニは張り飛ばされた。

プリンス

プリンスはジョニへの忠誠を誓った一人だ。『夏草の誘い』は単に彼のお気に入りのアルバムだっただけでなく、「1枚通してすべてが好きだった最後のアルバム」だった。この賞賛をジョニは大いに喜んだものの、音楽を聴いても、自分が与えた影響を聴きとるのはむずかしかった。(略)

自分が見た中で最も優れたパフォーマー(略)スライ・ストーンと、もしかすると彼女自身のハイブリッドがプリンスなのかもしれない(略)

プリンスはジョニに歌ってほしいと〈エモーショナル・パンプ〉という曲を書いた。"あなたは気持ちを上げるポンプ/私の体をジャンプさせる"と歌うサビは、どこからどう聴いてもプリンスだ。これをジョニが歌えるわけがない。エリオット・ロバーツに代わってジョニのマネージャーとなり、新たなクライアントに金を稼がせたい一心だったピーター・アッシャーは、プリンスがジョニに助言するのを聞いたという。「どうすればヒットを出せるか、プリンスがジョニに話してたんだ(略)

なぜあなたのシングルがヒットしないのか、僕には理解できないという会話をしていた。何をすべきか、どうすれば曲が売れるか、彼は教えていたんだよ。でも彼女は彼の言ってることにまったく興味を示さず、耳を貸さなかった。

 それでも、二人の友情は続いた。(略)

[ウェンディ・メルヴォイン談]

「私の20歳の誕生日(略)プリンスがジョニ・ミッチェルと一緒に戻ってきて、隣に座らせたのよ。彼女が描いたリトグラフを3枚プレゼントされたわ。それは私にとって最も感慨深い瞬間の一つ。プリンスがジョニのファンだったように、リサと私も大ファンだったから、彼女に会えたのは本当にうれしかった。(略)

"今からマリブのジョニの家に行って夕飯にしよう"と言われたこともあった。(略)『ブルー』を聴きながら彼女の家に向かったの。到着してドアを開けると、ジョニがあの美しい声で、猫の名前を呼んでたわ、プスプスって。(略)

[プリンスがピアノで〈ア・ケイス・オブ・ユー〉を弾くと]

ジョニが"まあ、素敵な曲ね。それはなんていう曲なの?"と聞いたのよ。全員で叫んだわ。"あなたの曲よ!"

ラリー・クライン

[ジャコに代わり起用されたラリー・クライン。82年、ジョニは13歳下の彼と仏式結婚。スタジオワークもできると主張した夫を、次作で共同プロデューサーに]

[ラリー・クライン談]

「(略)24歳の僕には、それまで会ったことのないタイプの女性だった。というか彼女みたいな女性は地球上にいない。(略)仕事でも私生活でも、彼女を通して僕は多くのことを学んだ。(略)

彼女の性格の一部である怒りとかナルシスティックな要素、その種子は常にそこにあったのだろうけど、彼女のそういった側面が大きくなり、かわりに好奇心や喜びという一面が後退していったのは、どちらも徐々にだったんだと思う(略)

初めて会った頃の彼女はものすごく刺激的で賢くて、言うまでもなく才能があって、愉快で、素晴らしい女性だった。ぞっこんになったよ。人生で、彼女ほど直感的な知性を持つ女性を知らなかったんだ。

(略)

一緒に仕事をし始めた頃から、彼女は1日4箱の煙草を吸っていた。(略)ジョニの言葉通りなら、彼女は9歳の頃から煙草を吸っていた。そこまで喉を酷使したら、やがて声質にも、ヴィブラートの幅にも、音域にも、イントネーションにも悪影響が出ないわけがない。(略)

彼女は何度も禁煙しようとしたよ。でも結局うまくいかなかったんだ。一度は真剣にやめようと、ニコチンの離脱症状を起こさせる注射を打った。当然ながら、最初の数日は最も強い禁断症状に襲われる。(略)周りの誰にでも当たり散らし、敵意剥き出しになるとわかったんだ。しまいには"ほら、もう頼むから吸ってくれ!"と言うしかなかった。(略)

最終的に僕はわかったんだ。すごく深いレベルで、彼女は煙草を吸わないで生きるよりは死んだ方がいいんだろうってね」

『ワイルド・シングス・ラン・ファスト』

〈チャイニーズ・カフェ〉(略)ジョニは長いこと帰っていないサスカトゥーンに戻る道を思い浮かべながら、その頃には18歳になっていた娘ケリー・デールに手を差し出す。(略)

"あなたの子供たちはまっすぐに育っているけれど/私の子供は赤の他人/私は彼女を産んだ/でも育てることができなかった"。こうして、事実は世間に晒された。

(略)

ジョニの秘密、ジョニの痛み(略)あきらめたものすべてに一歩僕らが踏み込むにつれ、曲は"チャイニーズ・カフェで10セント硬貨に夢を託した"、青春の思い出へと移り変わっていく。

(略)

 ジョニは『ワイルド・シングス・ラン・ファスト』のため、1982年2月28日の東京から7月30日のコロラド州レッドロックスまで続く、ソロアーティストとして最後の長期ツアーに臨む。(略)

新たに加わったギタリスト、マイケル・ランドウがかき鳴らすのは、ラリー・カールトン、ロベン・フォード、パット・メセニーの繊細な音色とは対照的な、いかにもアリーナ会場に映えそうなロックンロールギター。

(略)

3日歌って、休めるのはたった1日。昼と夜が逆転する生活の中、移動のフライトやサウンドチェックのために早起きをすることもざらで、睡眠不足は続いた。

(略)

そんな苦労をしても、残るお金はほとんどゼロ。バンドとスタッフの給料を差し引くと、手元には何も残らなかった。

(略)

[クライン談]

「当時のジョニのお金に対する考え方は実に甘かった。それは僕も同罪だった。彼女がエリオット・ロバーツに"このツアーで私はいくら儲かるの?"と聞いたことは一度もない。当然、エリオットは総収入から、自分の分け前を取るから、いくら儲けようと赤字を出そうとあまり気にしてない。マネージャーは皆そういうもんだ。

(略)」

 ジョニには自分の生活水準を下げることはできず、羽振りのいい暮らしを続けていたが、お金の心配は付いて回った。ツアーが終わった後はなおさらだ。この Refuge of the Roads ツアーが利益を生めなかったことで負った経済的な大損失は、彼女を傷つけ、徐々に苦々しい思いが募るようになり、ますます怒りっぽくなった。怒りが毒となり、挫折を経験したことで犯人探しをするようになってしまったんだ

(略)

彼女は不動産に投資していたが、その頃、不動産で大損をする人間が続出したんだ。それでも彼女は、自分にはまだ金があると楽観的に考えようとした。(略)」

 カリフォルニア州平準化委員会から遡及課税の対象とされたのは、ジョニの全盛期である1971年から1977年まで。レコーディングのほとんどがプロデューサーなしで行われたため、逃げも隠れもできなかった。彼女は事実上、独立した個人事業主であり、独立はそれなりの代償を伴うのだ。さらにジョニは、エリオット・ロバーツ事務所の誰かが自分の金をくすねているのではと疑った。そしてエリオットが友人であることには変わりないけれど、彼にこそマネージャーが必要ねと言い残して、事務所を去る。代わりに契約したのがピーター・アッシャーだった。すると今度は、とクラインは言う。家政婦のドーラがジョニに殴られたと訴えたのだ。

(略)

「(略)ビジネスマネージャーが自分の金を盗んだ、もしくは見知らぬ誰かの何気ないコメントが本当は自分への侮辱なのだと、なんの根拠もない仮説に怒りを膨らませ、一晩中、部屋を歩き回わった。そうする間も一日4箱の煙草を吸い続け、睡眠不足が解消されることはなかったから、彼女の心はすり減って行ってしまったんだ」

85年の夏(略)飲酒運転のティーンエイジャーの車に危うく殺されそうになり、車も全損した。数週間後に現場に戻ると、今度は別の車が彼女を轢きそうになった。悪いことは続く。(略)次のジョニのアルバムが怒りにまみれたアルバムになることは、誰よりも本人がわかっていた。

トーマス・ドルビー

メインストリームに戻る努力をして作ったにもかかわらず、『ワイルド・シングス・ラン・ファスト』は最高で25位と、『ミンガス』の17位よりもさらに順位を下回ったのだ。(略)ポストポリオ症候群の始まりという不運が彼女を襲った。(略)

クビにされる前、エリオット・ロバーツは『ワイルド・シングス・ラン・ファスト』の売れ行きの悪さを受け、ジョニが80年代半ばのサウンドに順応できるようにプロデューサーを雇うべきだと主張した。

(略)

[トーマス・ドルビーのエレクトロニック・ヴァージョンの〈ジャングル・ライン〉をラリー・クラインが耳にし]

 ドルビーをジョニはシンセサイザーコンサルタントとして考えていたが、契約により、彼には(略)共同プロデューサーのクレジットが与えられた。クラインはその少し前にフェアライトCMIの最新モデルを(略)買ったばかりで、この高価なおもちゃの遊び方を教わりたかったのだ。

(略)

 トーマス・ドルビーにとってジョニはヒーローだ。『ブルー』は彼が自分のお金で買った初めてのアルバムであり、彼女のようにトム・スコットやジャコ・パストリアスと仕事をすることが彼の夢だった。しかし、今ここにいるジョニは、70年代のジョニではない。時代は変わり、彼女も変わった。

(略)

リンダ・ロンシュタットは、ニューウェイヴに移行しようとして失敗したが、ネルソン・リドルと組んだ『グレート・アメリカン・ソングブック』で、お金が転がり込んでくるようになる。ポール・サイモンは『ハーツ・アンド・ボーンズ』でコケたが、直感に反し、『グレイスランド』で成功した。ジェイムス・テイラージャクソン・ブラウンは何曲かヒットを出したが、それ以外は全滅だった。

(略)

「僕を起用したのは彼女の選択だった」とドルビーは言う。「レコード会社から押し付けられたわけじゃない。2+2=5で新しい何かをが作れるはずだと信じて、僕らは取りかかったんだ。(略)問題だったのは、アレンジをする際、僕が音楽的用語で言うところの構成的アプローチをとっていたことだ。まずはベースラインをプログラムする。コードを演奏するためのパッチをプログラムすることもある。その次に各種サウンドをプログラムするんだが、それらは一緒に機能するように構想されていて、中には一つの旋律だけだったり、あちこちに散らばった音だったり、それらをパッチワークのように構築する。(略)

彼女がやって来て「まぁ素敵な音ね、私にやらせて」と言って、僕が作った3音のためのサウンドを使って、ピアノのパートにした。"それは合わないんじゃないかな。数日かけて作ったサウンドを濁らせてしまう"と僕が言っても、彼女は"だったらそれを消せばいい。消して!"と言うんだ。彼女にはそういう衝動的なところがあった。当時はつらかったよ。今思えば、なんとも滑稽な話だが」

ドッグ・イート・ドッグ

 30年後、ジョニは『ドッグ・イート・ドッグ』は特にフラストレーションを感じるアルバムだったと振り返る。「何が起きたかというと、突然、私のベーシストで夫のクラインが、僕が君のプロデューサーだと言い出したの(略)それだけでなく、エンジニア[マイク・シプリー]までプロデューサーに格上げしてしまった。小者は権力を与えられると、信じられないくらいにうぬぼれてしまう。つまり、私は三人[クライン、シプリー、ドルビー]のうぬぼれた小者に囲まれたというわけ。クラインは、大きな問題は小さく分割して解決するというタイプの人で、おのれの不安のために、私の人間関係のすべて粉々に壊した。若くて専制的で不安定な夫に対して、良い妻になろうとした私は、これでいいのだろうか?と自問したのよ」

 「クラインは従来の8トラックマシンを離れ、エンジニアとしての自覚を持つエンジニア[シプリー]と理想的な仕事をすべきだと主張したわ。でも彼[ヘンリー]は素晴らしいエンジニアだったのよ。出世の階段を登ろうなどという妄想を抱いてなかった。(略)

私とヘンリーは(略)手作業でテープを切ってはつなぎ合わせた。私は彼に金メッキのカミソリの刃をプレゼントしたわ。そうやって何年も一緒にやって来ていたから、互いの気持ちが読めるようになっていたの。(略)

クラインは私にとって近いものをすべて切った。で、スタジオに入ると、トーマス(ドルビー)が私の横に立っていたわ。80年代になり、新しいサウンドが生まれていた。嫌いだったわ、私は。ヘンリーも嫌っていた。二人してあんなのは"高電圧で処刑する音"だと呼んでたわ。だからそんなものを乗り越えて、時代遅れにならないクラシックなサウンドを作ろうとしてたのよ。私たちが好むのは、いいマイクと優れたミュージシャンでありトリッキーなことじゃない。でもクラインは若かった。(略)

ドッグ・イート・ドッグ』の中において1曲だけ、プロダクションに埋もれることなく、サウンドの選択があらゆる意味を成した曲があった。それが〈エチオピア〉だ。ある時、ニーナ・シモンビバリーセンターのショッピングモールでジョニを見かけた。二人に面識はなかったが、ジョニはシモンを、そして彼女の作品を慕っていた。シモンのドラマーだったドン・アライアスから、彼女の話を聞いていたのだ。(略)

シモンがジョニを見かけたのは『ドッグ・イート・ドッグ』の発売後、プレスの酷評に遭っていた時だ。(略)

彼女は両手を大きくYの字に広げながらジョニに近づき叫んだ。「ジョニ・ミッチェルジョニ・ミッチェル!〈エチオピア〉!」。そう言い、彼女は去っていった。

(略)

トーマス・ドルビーは(略)彼女から青の68年型メルセデスを貸してもらったり、ギリシャの洞窟での話やマイルス・デイヴィスが彼女の足首にしがみついて眠ってしまった話を聞かされたり、彼女とピアノを買いに行き、彼女の古い曲を一緒に弾こうと誘い、失敗に終わったことを覚えている。しかし、アルバムのプロモーションでインタビューに答える彼女の言葉から、自分は彼女のお気に召す人間ではなかったようだと、彼は結論づける。40年後、ジョニがドルビーを「ケチなゲス野郎」と呼んだことを考えれば、それですら控えめな表現だ。

 ジョニが言うには、ある時、ドルビーにマーヴィン・ゲイの〈トラブル・マン〉のクリックトラック、すなわち同期トラックを作ってくれるように頼んだ。アルバムの最後の曲〈ラッキー・ガール〉の基本リズムに利用するためにだ。(略)

「〈トラブル・マン〉の歌詞は正直で、構造はエキセントリックだけれども、実はとても美しいの(略)音楽の構造設計が不規則なのよ。それで〈トラブル・マン〉のグルーヴと同じフォームのクリックトラックを作って、と彼に頼んだの」

 「僕は好きじゃないな」。嘲笑うような答えが返ってきた。

 「あなたが好きかどうかなんてどうでもいい(略)とにかくあのテンポで、あのグルーヴで、クリックトラックを作って」

 ドルビーはムッとした様子でスタジオを出て行き、2週間後、戻ってきた。

 「トラックを作ったよ」。だが、彼が彼女に聴かせたのは、彼女が「安っぽいホーンやらなんやらが入ったダサい音楽」と呼んだものだった。

 「これはあなたの曲」とジョニは言った。「私が頼んだのはそうじゃない。クリックトラックを頼んだの。それに合わせて演奏できるグルーヴを作ってくれたら、後で違うドラムを入れるから」(略)

腹を立てたジョニはドルビーにポケベルを渡すと言い渡した。「必要な時は連絡するから」

(略)

 「あの嫌な男に協力してもらおうとずっと私は苦労してきた。でも彼はそれを拒否し、なんの魂もこもっていないつまらない音楽を作り出したのよ(略)

それでも私はなんとかそれに合わせて演奏しようとした。(略)リズムトラックだけを引っこ抜き、新しく再構築し始めたの。でもあまりに抽象的すぎて、どこがダウンビートなのかがわからない。(略)」

[スタジオにやって来たウェイン・ショーターが]

ホーンを4拍に打ち込んだ。「ウェインは天才よ。彼は直ちに問題点を見つけ、回り道することなく、即座にやるべきことをやった。それまで試したドラムは全部うまく行かなかったのに、ウェインが4拍で吹いた1音でうまく行ったの。それから彼はソプラノに持ち替え、天才的な演奏をした。なのに気づいたら、トーマス・ドルビーがこの曲を書いたのは自分だと主張していたの。完全にイカれてるわ。あそこに彼のプログラミングの音は一音もなかった。あったのは私が求めたテンポだけ。クレイジーサウンドにひどい目に遭わされたのよ。(略)あの曲を自分が作ったんだと言えるあの男の厚かましさ。つまり、ケチなゲス野郎だってことよ。彼が唯一、貢献したのは〈シャイニー・トイズ〉の"ああ、僕はすごく興奮してる"と言うところ。それ以外は、彼のパレットを使っただけ。それもあっという間に時代遅れになってしまった。そうなるだろうと思っていたけれど」

 「こんな不愉快なレコーディングは初めて。なんで私ったら、3人ものプロデューサーとやるはめになってしまったの?」とジョニは思った。突然、夫を含む3人の男たちが「僕は今のは嫌いだな」とか言ってくるのだ。あれほど独立心が強かったジョニが、今は男だらけの委員会相手に議論している。そもそもこの男たちを共同プロデューサーとして雇ったのはエリオット・ロバーツだ。20年近く彼女の隣にいたそのロバーツが今度は首を切られることになる。「エリオットもいなくなり、ヘンリーもいなくなった。クラインは残された家の掃除をしてるだけだったわ」

(略)

流産

 『ドッグ・イート・ドッグ』は大失敗に終わり、経済的な負担を負ったが、ジョニとラリー・クラインの関係は安定しているように見えた。(略)

[だが85年暮れ、42歳のジョニが妊娠、喫煙飲酒を控えず流産]

結婚生活には完全に修復することのない亀裂ができる。

(略)

「流産した時、彼は(略)私を慰めるどころか、置いてったのよ。彼に初めて正規のプロデューサーとしての仕事が入り、家を空ける5日前の話。冷蔵庫に食料品を詰め込むと、車に乗って空港へ向かった。でもそれまでの5日間があったのに、慰めの一言もなかった(略)10日経っても出血が止まらなくて、女友達(略)が車で病院に連れて行ってくれて、子宮内容除去術を施された(略)」

(略)

「あの時、僕がどういう立場だったかというと、ベンジャミン・オールのレコーディングがあって、僕以外はもうイギリスのスタジオにいて、準備も整い、あとは僕が行くだけだった。(略)

本当にむずかしい状況なんだ」と彼は回復途中の妻に尋ねた。「どうすればいい?すべてが僕のせいで止まっている。断るべきなんだろうか?」「いいえ、行って」。ジョニが言った。その言葉を額面通りに受け止めた自分をクラインは後悔することになる。

 「もちろん、後になって彼女に言われたよ。"どうして私の言うことを聞いたの?"とね(略)今にして思えば、彼女の言うことを聞くんじゃなかった。行くべきじゃなかった。正直なところ、この件に関して、僕はあまりわかっていなかった。何度話し合ったかわからないし、解決したと思っていた。ところが彼女の中で僕は、裏切り者も同然だったんだ。(略)

流産を経験をした女性の気持ちと心がどんなものなのか、僕はまるで知らなかった。(略)」

[ベンジャミン・オールの仕事がきっかけでピーター・ガブリエルの]『So』のレコーディングにノーギャラで参加。(略)

ガブリエルはジョニが次のアルバムを自分のスタジオでレコーディングできるように計らい、クラインの好意を返した。

(略)

『レインストームとチョークの痕』、ピーター・ガブリエル

[ピーター・ガブリエルのスタジオで『レインストームとチョークの痕』を録音]

ソロになったガブリエルは〈ショック・ザ・モンキー〉という、らしからぬヒット曲で、メインストリームへの道を独自に切り開いた。MTVは奇妙なまでに、彼におあつらえ向きだったのだ。ジョニが43歳でカムバックしようとしていた時、35歳のガブリエルは絶頂期を迎えていた。

(略)

アムネスティ・インターナショナル・コンサートで演奏することが決まっていたガブリエルはジョニに助言を求めた。(略)

よりによって彼女に相談するとは!ジョニは、ワイト島で60万人のヒッピーの餌食になったことをまだ引きずっていた。そしてジェネシスのドラマーだったフィル・コリンズが、恥知らずの商業ポップスターになってしまったことも知っていた。昔の仲間との競争が勃発する可能性をジョニはすぐさま感じ取った。

 「まず」とジョニは切り出した。「こういう複数のグループが出るコンサートは私に言わせれば、エゴマニアのオンパレードよ(略)主催者はおそらくアコースティックな曲をやってくれと言ってくるわ」

「言われたよ」

「やらないことね(略)アコースティックでやったら命はないわ。そういったコンサートを私は経験済み。客席から浴びせられる大声を覆い隠せるほどの音量は出せないの。彼らは音楽を聴きに来ているんじゃなくて、イベントに来ている。だからバンドが仲間意識を持つことが必要だし、とにかく大きな音が必要。それと邪魔されないよう、自分のチームを連れていくことね。(略)競争心を持つ人間っていうのは、相手が単独だとわかると、妨害してくる。(略)ギターを壊すのよ。あなたを敵と見なし、仕留めにやってくるわ」

 ピーター・ガブリエルはジョニの目を覗き込んだ。二人はたった今、ジョニの曲〈マイ・シークレット・プレイス〉を掛け合いで歌い、レコーディングしたばかりだ。ユニゾンで重なり合う、彼女のハスキーなアルトと彼の声。二人はほぼ一人の人間のようだった。お互い既婚者だったが、思わせぶりな音楽ビデオも撮影していた。心を許し合えるようになってきたと思っていた矢先だった。この人はいったい何者なんだ?そして、音楽フェスに対するこの偏執狂っぷりはいったい何なんだ?彼女は〈ウッドストック〉を書いた人ではなかったのか?

「あなたの光は、あなたの闇を隠すための操り人形だ」。ショックを隠せず、ガブリエルは言い、それがジョを激怒させた。

 「なんてことよ(略)あなたはなんてうぶなの!私の光は私の光であって、私の闇も私の闇よ。(略)あなたにどんな感じなのかと聞かれたから、こうだと言っただけ。あなただって人前に出て行ってやるからには、フィル・コリンズだけが注目されるのは嫌なはずでしょ。(略)あなたが間違いを犯すのは見たくないわ。(略)そこらじゅうがそんな空気だってことも知ってるの」

 ジョニとガブリエル夫婦の友情は長くは続かなかった。気づくと、彼はジョニいわく「くだらなくてケチなこと」を言い出すようになっていた。それだけでなく、レストランで彼の妻に鼻であしらわれたように感じたのだ。とんだ期待はずれだわ!しかし、ラリー・クラインによれば「ジョニがスタジオのキッチンで、説教じみた虚無的世界観を彼に向かって吐き出す夜があまりにも長かったせい」だというのが真相だったようだ。

(略)

プロデューサーが(略)ジョニの大ファンであるダニエル・ラノワではなかったことがじつに悔やまれる。「彼女はなぜかラノワの才能をあまり買ってなかったんだ」とクラインは言う。「僕からすると、彼女はプロデュースするのがむずかしいアーティストなのではなく、アルバムを作るのに他人が必要だということを認められないアーティストなんだ。実際は必要だったのだとしてもさ。(略)」

 クラインはイギリスでベン・オールのアルバム制作の仕上げにかかっていた。(略)

『So』での貸しがあったガブリエルに、クラインはジョニのレコーディングを彼のスタジオで行なわせてくれるよう頼む。「快く使わせてくれたよ。(略)僕は夕方、ウール・ホールでの作業を終えてから合流した。結局は、ピーターのスタジオに朝方までこもって仕事をした。(略)

その頃、僕とマイク[シプリー]はロバート・プラントに会ったんだ。(略)スケッチ段階の曲を何曲か聴かせたところ、その中の1曲を彼がとても気に入り、自分のアルバム用に歌詞を書きたいと言ってきた。10代前半からレッド・ツェッペリンの大ファンだった僕にしてみりゃ、大喜びさ。その後、ジョーンがフルームにやって来て、彼女にも曲を聴かせた。そのうちの3曲を彼女は気に入ったんだが、1曲はロバートがほしいと言った例の曲だったんだ。僕はもう彼にいいと言ってしまっていて、今さら撤回することなんてできないと抗議したよ。でもジョニは、それが"妻の特権"なんだから、全曲渡しなさいと言って聞かない。しかたなくロバートに電話したところ、彼は寛大にも事情をわかってくれた。"でもそれは相手がジョニ・ミッチェルだからだぞ"と言われたよ。その3曲が〈ラコータ〉と〈スネイクス・アンド・ラダース〉と〈ティー・リーフの予言〉だったんだ」(略)

『風のインディゴ』

〈ノット・トゥ・ブレイム〉は(略)復讐的な悪意を感じる歌詞を持つ曲だ。1992年9月、ジョニの元恋人ジャクソン・ブラウンタブロイド紙を賑わせた。告訴にはならなかったが、女優のダリル・ハンナがブラウンからひどく殴られ、病院送りになったと主張。(略)

彼女がその恨みを20年後まで持ち続けていたことをこの曲は証明していた。

 

あなたの慈善的な行為は

場違いに思えたわ

美しさとも

あなたの拳の痕が残る彼女の顔とも

 

ここで言う"慈善的な行為"とは、ジャクソン・ブラウンがノー・ニュークス、ファーム・エイド、アムネスティ・インターナショナルといったベネフィット・コンサートに出演したことと一致する(ジョニもその三つすべてに出演)。

(略)

3ヴァース目でジョニはブラウンの妻フィリス・メジャーの自殺を再び持ち出す。

(略)

ジョニはこの曲がブラウンのことを歌っているのかと何度も尋ねられた。彼女は認めこそしなかったが、正確に否定もせず、DV全般について歌った曲だと答えることもあれば(略)モデルは一人ではなく「何人か」だと答えることもあった。

娘と孫

 1995年、タブロイド紙に娘を探していることを暴露されたジョニは、言い逃れをすることなく事実だと認めた。(略)

 ちょうどその頃、トロントに住む31歳のシングルマザーで、ファッションモデルのキローレン・ギブは人から若き日のジョニ・ミッチェルに似ていると言われていた。(略)

彼女とジョニを結びつけたのは、ジョニが関わることを極力避けていたウェブサイトjonimitchell.comの創設者であるウォリー・ブリースだ。

(略)

ジョニに突然、娘と孫までができたのだ。(略)1965年に子供を産んだ直後から曲作りを始めたが、どの曲もどこか娘への、あるいは娘が育っていく世界へのメッセージだった。その娘が帰ってきた今、音楽から離れる究極の口実ができたのだ。

(略)

「今はもうまったく書いていないわ(略)娘が戻ってきた96年にすべてを辞めた。音楽は、彼女を失ったことで大きく動揺した自分の心にどう折り合いをつけるか、そのためにやったことだった。彼女がいなくなった時から始め、彼女が戻ってきた時に終わった。私は子供を育てられなかった33年間、何食わぬ顔をしていたけれど、精神的にはすごく動揺していたのだと思う。そのかわりに私は世界の母となり、我が子がさまよう世界を、社会学者としての視点から見つめた。その頃、私が危惧していたことは、すべて本当になってしまったわ」

(略)

『シャイン』でジョニが再び曲を書くようになった(略)頃には、娘と再会を果たせた喜びの熱は萎んでしばらく経っていた。最初の衝突はなんとか収めたが、ジョニが子育てのアドバイスをしようとすると、娘は怒りをあらわにした。ジョニは頼まれない限り、アドバイスは2度としないと心に誓う。それでも関係は悪くなる一方だ。ジョニは理解した。娘は母である自分に捨てられたことを決して許さない「心に損傷を負った」人間なのだ。

(略)

 ジョニは、娘に何も問題がないことを期待していたのだろうか?見た目だけでなく、中身も似ていると思ったのだろうか?

(略)

ジョニと再会した時、33歳になっていたキローレンは、ハーバード大学トロント大学で科目等履修生を含め、さまざまな学校を中退していた。学生ローンで生活しながら、トロントのジョージ・ブラウン・カレッジでDTPを勉強中だった。社会経験は、エリート・エージェンシーで10年間モデルの仕事をしたことだけ。それぞれ別の父親を持つ子供を二人抱え、ジョニの人生に多くの感情的な問題を持ち込んできた。

 中でも二人の間に立ちはだかった大きな問題は、彼女が抱いていた、自分を手放した生みの親に対する恨みだ。無一文のジョニがキローレンにいい暮らしをさせるために彼女を手放したという言い分に、キローレンは納得がいかなかったのだ。確かに、養女に迎えてくれた善意あふれる中流階級の家庭の方が、いろいろな意味でいい暮らしをさせてもらったのだろう。

(略)

年月を重ねるにつれ、ジョニはキローレンとの、付かず離れずの関係に慣れていく。2013年のルミナート・フェスティバルでは、出演者全員が〈ウッドストック〉を歌う中、彼女は娘をステージに上げた。「キローレンと過ごした最初の2週間はとても楽しかったけど、それ以降、彼女は敵意を見せてきたわ」とジョニは2015年に語っている。失望と苦々しさは、2015年になっても続いていた。同郷の友人、トニー・サイモンによれば、ジョニに医療代理人が必要となった時、キローレンは正式な最近親者に認定されていなかった。ベル・エアの自宅に設置された病院の貸ベッドに横たわる母の元に呼び出されたキローレンは、トロントからの航空券を買うお金さえなかったと訴えたという。

 それでもジョニは娘との関係を通じて、彼女が長い間失っていたもの、すなわち娘の子供たちの中に自分の両親の面影を見るという経験をした。

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「孫息子のマーリンは自分で考えることができる子よ。彼は考える人なの。5歳にしていろいろなことに耳を澄まし、私が何を考えているのかを知ろうとし、自分なりの結論を出す。とても優しくて、想像以上に賢いわ。大人になってからはおとなしくなって、人の話をちゃんと聞ける子になった。こちらの話をきちんと聞いて、笑ってくれる。そういうところは私の父に似ているわ。父もそんなだった。かなり変わったところがあるのは、私も同じ。東洋の心に似ているのよ」

 ジョニには孫娘も自慢で仕方がない。「デイジーは成績優秀なのよ(略)優等生よ。ウクレレを習ってて、私が何か弾けるのかと尋ねたら、"無理。まだ習い始めて2年だもの"と言うの。2年目?私は半年でマスターしたのに。マーリンの考え方は違う。おそらくそれはサーミ[スカンジナビア半島北部の先住民族]の血のせいね。基本、ノルウェー人は頰骨が極端に高くはない。でも私の出身地はサーミ人が暮らす国境に近くで、サーミ人には頬骨がある。父は嫌がるでしょうけど、私たちがサーミの血を引いていることは間違いないのよ」

 孫のためであれば、娘とのことも我慢できる。ただ曲を書きたい思いが、キローレンが帰ってきた今、戻るかどうかはわからなかった。ジョニは他人の書いた曲を歌い、彼女自身の過去の作品をリメイクすることで、レコーディング契約を満了させた。それが編曲者のヴィンス・メンドーサが指揮と譜面作成した『ある愛の考察~青春の光と影』と『トラヴェローグ』だ。声以外の楽器は持たず、新曲も1曲もない。ジョニは抵抗することなく、作曲とオーケストレーションを放棄し、他人に委ねることにした。

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 良い知らせは、ヴィンス・メンドーサが〈ウッドストック〉の編曲でグラミー賞を受賞したことだ。悪い知らせは、レコーディングに30万ドル近くかけたこのアルバムの売り上げが、およそ7万2000枚という、彼女のセールスとしては最低の数字だったことだ。ジョニはその責任を、ワーナー・ブラザースのブティック・レーベルであるノンサッチに格下げされたせいにした。(略)

[クロノス・カルテット、ブラック・キーズ等]を抱えていたノンサッチだが、ジョニは感心していなかった。彼女にはランクを下げられたようにしか思えなかったのだ。(略)

「これで辞めるわ。この業界は、私にとってすごく嫌なものになってしまった」

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 ジョニはレコード契約上、出すべきアルバムはすべて出した。もう彼女の中に曲はなく、ツアーに出るエネルギーも当然なかった。