さあ。あと7ヶ月。

◆まだまだ残暑が続くのだろうか。秋雨前線も貼り出しており、雨も降るであろうし、残暑もなくなって欲しいものである。「暑さ寒さも彼岸まで。」と言うことばがあるが、猛暑もそこまでであって欲しくないのが本音。
 昨日は庭先で軽いめまいを感じた。二日間にわたる炎天下の作業で。軽い熱中症になったのであろうか。あまり食欲もなく、逆に吐き気もあった(吐きはしないが)。なんとなく、熱中症の初期だったのかもしれない。自分は大丈夫だと安心できないものである。
 先月分の業務報告等をまとめる。昨日の疲れを引き摺っている一日であった。

◆(2013年9月2日放送 23:00 - 23:58 テレビ東京ワールドビジネスサテライト」より)
①『広がる地図ビジネス』
 住宅地図を手掛ける「ゼンリン」では、全国で毎日、約1000人の調査員が事細かく調べている。ゼンリンは全国の市区町村別に2000冊以上ある住宅地図をスマートフォンで閲覧できるというサービスを始めた。入居する企業や住人の名前など、通常の地図より詳しく調べることができるのが特徴。ゼンリンはヤフーやグーグルにも地図情報を提供している。経済産業省の推計によると、このような地図・位置情報関連サービス市場は約10兆円(5年前の2.5倍)に達する見込み。
 SNSで投稿した写真やつぶやきを位置情報付きで抽出できるというサービス『トレクサ』がある。開発したのはベンチャー企業の「ナイトレイ」(東京・目黒区)。つぶやいた場所や写真の位置情報などを独自のプログラムでデータを抽出できる。抽出できるのは「すべてのユーザーに公開」と設定しているものだけだが、1日10万件のデータが集まる。実際にどのようにこの位置情報データは活用できるのか横浜市役所(横浜市中区)と協力して横浜開港祭を調査した。つぶやきと写真を分析した結果、夜の花火目当ての客が多く、昼と夜で客数が倍近く異なることがわかった。このサービスの費用は数万円〜数十万円。
 位置情報を活用した消費者向けのサービスもある。「テイクストック」は本の在庫を無料で探せるアプリで、本のタイトルを入力すると自分がいる位置を中心とした地図上に、周辺にある複数の書店や図書館を表示してくれ、その本の在庫の状況もわかる。試しに進藤アナウンサーがアプリを使用したところ、「TSUTAYA大崎駅前店」が検索に引っかかった。ツタヤのアプリでも在庫状況は提供しているが、「テイクストック」は複数の書店・図書館から検索可能。アプリを運営しているSpinning Worksの社長は「DVD 電気製品 アパレルの検索ができるようにサービスを展開したい」と話した。
 (意見)ネット系のビジネスというと新しいテクノロジーとか 比較的派手な方に目を持っていきがちだが、実はそれを支えているインフラ系のところが長期的に考えると勝ち組なのかもしれない。まさに目先の利益だけではない、まさに基盤が力をネット社会では持つものであろう。
②『河川敷地に商機』
 埼玉・ときがわ町にある「川の広場バーベキュー場」は、関東で初めて河川敷地に作られた民間企業が運営するバーベキュー場で、家族で賑わっている。国や自治体が管理する河川敷地は治水上の理由から運動場などに限られた。商業利用は京都の鴨川など一部を除いてできなかったが、2011年の規制緩和で民間企業が河川敷地を利用できるようになった。「川の広場バーベキュー場」が町に支払う土地使用料は約7万円。
 千葉・香取市にある特産品直売所「水の郷 さわら」では、その日にとれた野菜や果物が販売している。「水の郷 さわら」は土手の上に作られている。規制緩和前では建物を作ることはできなかった場所。立地の珍しさもあり、年間100万人が訪れている。船着場も作り、観光船も始めた。こうした取り組みで年商は約10億円。運営会社「PFI佐原リバー」の取締役は「今までできなかったことが緩和され 新たなビジネスチャンスが生まれる」と話した。
 タリーズコーヒージャパンは、東京・台東区にある隅田川沿いの公園にオープンカフェの出店を計画している。規制緩和で出店可能になった。場所を貸し出すのは公園を管理している台東区役所。対岸には東京スカイツリーがあり、多くの観光客が訪れる場所。台東区は土地使用料として約200万円を得ることができる。また、区は収入面だけでなく、街の活性化も期待している。
(意見)注意しなければならないのは 河川の規制がなぜ設けられてきたというのは 治水の問題や災害の問題がある。最近の災害等をみても河川は大きな被害がある。利用者側も細心の注意を払っていくべきである。

(今日の出来事)
・埼玉 千葉 竜巻。埼玉 越谷で“竜巻”で63人ケガ 「スーパーセル」発生か 

(9月2日生まれの偉人)
◆川上 貞奴(かわかみ さだやっこ、本名 川上 貞(旧姓:小山)、明治4年7月18日(グレゴリオ暦1871年9月2日) - 昭和21年(1946年)12月7日)は、戦前の日本の女優。
 生家の没落により、7歳の時に芳町の芸妓置屋「浜田屋」の女将、浜田屋亀吉の養女となる[1]。伝統ある「奴」名をもらい「貞奴」を襲名。芸妓としてお座敷にあがる。日舞の技芸に秀で、才色兼備の誉れが高かった貞奴は、時の総理伊藤博文西園寺公望など名立たる元勲から贔屓にされ、名実共に日本一の芸妓となった。1894年、自由民権運動の活動家で書生芝居をしていた川上音二郎http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130208)と結婚した。
 1899年、川上音二郎一座のアメリカ興行に同行したが、サンフランシスコ公演で女形が死亡したため(興行主から「女の役は女性がするべきで女形は認められない」と拒否されたためとも)急遽代役を務め、日本初の女優となった。ところが、公演資金を興行師に全額持ち逃げされるという事件が発生し、一座は異国の地で無一文の状態を余儀無くされた。一行は餓死寸前で次の公演先シカゴに必死で到着し、極限の疲労と空腹での鬼気迫る演技が(空腹で倒れたのを、何も知らない観客が演技だと勘違いしたのもあって)観客に大受けした。エキゾチックな日本舞踊と貞奴の美貌が評判を呼び、瞬く間に欧米中で空前の人気を得た。1900年、音二郎一座はロンドンで興行を行った後、その同年にパリで行われていた万国博覧会を訪れ、会場の一角にあったロイ・フラー劇場において公演を行った(日本の事務局には許可願いを出していなかったという)。7月4日の初日の公演には、彫刻家ロダンも招待されていた。ロダン貞奴に魅了され、彼女の彫刻を作りたいと申し出たが、彼女はロダンの名声を知らず、時間がないとの理由で断ったという逸話がある。8月には、当時の大統領エミール・ルーベが官邸で開いた園遊会に招かれ、そこで「道成寺」を踊った。踊り終えた貞奴に大統領夫人が握手を求め、官邸の庭を連れ立って散歩したという。こうして彼女は「マダム貞奴」の通称で一躍有名になった。パリの社交界にデビューした貞奴の影響で、キモノ風の「ヤッコドレス」が流行。ドビュッシーやジッド、ピカソは彼女の演技を絶賛し、フランス政府はオフィシェ・ダ・アカデミー勲章を授与した。1911年に音二郎が病で死去。遺志を継ぎ公演活動を続けるも、ほどなく貞奴は大々的な引退興行を行い、『日本の近代女優第一号』として舞台から退いた。
 福澤諭吉の娘婿で「電力王」の異名をとった実業家・福澤桃介(旧姓 岩崎)(http://d.hatena.ne.jp/ks9215/20130625)との関係も話題を呼んだ。桃介との馴れ初めは1885年頃にさかのぼる。馬術をしていた貞が野犬に襲われるのを、学生だった桃介が制したことで2人は恋に落ちる。1年後、桃介は諭吉の二女・房と政略結婚。この後、貞奴と桃介は長い別離を挟む。しかし、女優を引退した後の貞奴は、再び悲恋の相手だった桃介と結ばれる。事業面でも実生活でも桃介を支え、仲睦まじく一生を添い遂げた。2人並んで公の場に姿を現し、桃介が手掛けた大井ダム工事の際も貞奴は赤いバイクを乗り回し、現場を訪れ、他の社員が尻込みする中を1人桃介について谷底まで向かったという。

<昨年の今日>も空白である。