図書館

続日本紀』が到着したのを判って、授業結束後図書館へ行っていました。
実は最初が『続日本紀』を見つからない為、余計な時間が掛かったのです。
なんか、指定の処と一棚違って、最後はやっと見つけた。
そして、面白いものが発見!


『万葉短歌の漢訳と研究』
作者は、ウチの学校の日本語先生だったらしい。今は離職しましたけど。
ところで、万葉集にある短歌を漢訳するもので、十三年間掛かったという。
以下は、その一部を転載して置きます。

001.狩獵(1:4)
宇智坡前聖主騎 精英侍駕踏晨曦
風光浩瀚青紗帳 萬馬奔騰逐鹿麋
 玉きはる宇智の大野に馬並めて朝踏ますらむその草深野


002啟航令(1:8)
熟田夜幕罩航津 浩浩艨艟泊海濱
玉兔東升潮水漲 一聲號角奮軍心
 熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎてな



003落照(1:15)
海神振筆寫蒼天 遍灑霞光照萬川
粲麗彩雲如夢境 與誰今夜共嬋娟
 綿津見の豊旗雲に入日さし今宵の月夜きよく照りこそ


004紫野行(1:20)
今隨紫野禁園巡 又見多情夢裡人
戍衛森森看守眾 小心揮手眼傳神
 茜さす紫野ゆき標野ゆき野守は見ずや君が袖ふる


005悲情(1:21)
嫣紅紫草散天香 徹骨相思尚未忘
嫁作人妻何怨恨 深情似海我心藏
 紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に吾恋ひめやも


006水中岩(1:22)
枕流石磊面如晶 不讓萍苔短暫停
公主冰心潔玉體 願能蘭螵永芳馨
 河の上のゆつ磐群に草むさず常にもがもな常処女にて


007春去也(1:28)
喣喣和風拂柳腰 香山遠處素衣飄
䖝肥紅痩春歸去 乍見新荷出水嬌
 春過ぎて夏来るらし白布の衣乾したり天の香具山


008志賀湖(1:31)
志賀湖濱草木青 大灣淀滯水含情
繁華景色遷他邑 難覓宮人結伴行
 楽浪の志賀の大曲淀むとも昔の人にまたも逢はめやも


009黎明(1:48)
東方破曉現光華 冉冉晨曦織彩霞
回首欲尋千里月 悠悠不迫漸西遐
 東の野に炎の立つ見えて反り見すれば月かたぶきぬ


010懷古都(1:51)
采女穿梭過畫堂 輕飄衣袖散芳香
皇都遠徙佳人香 明日香風照舊忙
 媛女の袖吹き反す明日香風都を遠みいたづらに吹く



011孤舟(1:58)
安禮揚帆闖逆流 茫茫滄海有孤舟
島灣水路多艱險 夜半更深何處留
 いづくにか船泊てすらむ安禮の崎榜ぎ廻たみ行きし棚無小舟


012遙念(1:64)
荻蘆吐絮朔風寒 鴨鳥披霜感羽單
待駕難波思故苑 大和萬里欲歸難
 葦辺ゆく鴨の羽交に霜降りて寒き夕へは大和し思ほゆ


013落寞(1:82)
荒山曠野雨瀟瀟 颯颯秋風壯志遙
欲抑憂愁籌更切 任由斜落水珠飄
 うらさぶる心さまねし久かたの天のしぐれの流らふ見れば


014相思(2:88)
風吹稻浪似金黄 霧漫禾田情意長
往日綺情難再見 無邊愛戀幾時忘
 秋の田の穂の上に霧らふ朝霞いづへの方に我が恋やまむ


015訣別(2:105)
弟赴大和潛送行 三更細語瞬黎明
清涼曉露和酸涙 湿透青杉盡是情
 我が背子を大和へ遣るとさ夜更けて暁露に吾が立ち濡れし


016佇候(2:107)
午夜深山候妹臨 水滴湿透我衣襟
秋神有意傳衷曲 怎奈人兒無處尋
 足引の山のしづくに妹待つと吾が立ち濡れぬ山のしづくに


017離情(2:133)
篁葉菁菁布滿山 微風颯颯串其間
彎彎曲徑通幽境 萬里迢迢念佼顏
 小竹が葉はみ山もさやに乱れども吾は妹思ふ別れ来ぬれば


018松枝願(2:141)
途經岩代海灘邊 手繋松枝許願籤
鴉鵲啼聲何切切 安還與否靠蒼天
 磐代の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまた還り見む


019壽比南山(2:147)
仰望無垠碧海天 昇平寰宇慶豐年
神大蒼穹佑 壽比南山永世延
 天の原振り放け見れば大王の御寿は長く天足らしたり


020黄泉路(2:158)
路旁怒放棣堂花 暗澹幽園屬汝家
欲飲黃泉知命水 陰思路陌憾無涯
 山吹の立ち茂みたる山清水汲みに行かめど道の知らなく

呉素珠『万葉短歌の漢訳と研究』


ところで、「我が背子」を「弟」として解釈するのは特例だと思います。
古来、日本には「いもせ」という話があります。その意味は「兄妹」。
「いも」は「妹」だと言うまでもないが、「せ」は「背」の意味があって引申して「兄」の意味になる。
そして、「妹背」こと「兄妹」の意味以外、「夫婦」とか「恋人同士」の意味として良く用いられます。
古事記』『日本書紀』『万葉集』からみると、神代から日本の古代史世界には、
妻が夫のことを「兄」と、夫が妻のことを「妹」と呼ぶのはごく普通なことでした。


そのため、『日本書紀仁賢天皇紀には、「於母亦兄,於吾亦兄!弱草吾夫可怜矣!*1」という可哀想な話もあります。


でも、この「我が背子」は間違いなく「弟」の意味です。
それは、大伯皇女が大津皇子と別れ事を偲ぶ時が作った歌なのです。


話が遠くなるですが、持統天皇の頃、この大津皇子は謀反し、賜死されたのです。
日本書紀』では、以下の哀しくて切ない話があった。

 冬十月、戊辰朔己巳、皇子-大津謀反發覺。
 逮捕皇子-大津、并捕為皇子-大津所詿誤直廣肆-八口朝臣-香橿・小山下-壹伎連-博紱、與大舍人-中臣朝臣-臣麻呂・巨勢朝臣-多益須・新羅沙門-行心及帳内-礪杵道作等、三十餘人。
 庚午、賜死皇子-大津於譯語田舍。時年二十四。
 妃皇女-山邊被髮徒跣、奔赴殉焉。見者皆歔欷。*2

日本書紀持統天皇紀


また、『懐風藻』でも、大津皇子の小伝がある。

 皇子者、淨御原帝之長子也。状貌魁梧、器宇峻遠。幼年好學、博覽而能屬文。及壯愛武、多力而能撃劍。
 性頗放蕩、不拘法度。降節禮士、由是人多附託。
 時有新羅僧-行心、解天文卜筮。詔皇子曰:「太子骨法、不是人臣之相。以此久在下位、恐不全身!」因進逆謀迷此詿誤、遂圖不軌。*3
 鳴呼惜哉!蘊彼良才、不以忠孝保身、近此奸豎、卒以戮辱自終。古人慎交遊之意、因以深哉。時年二十四。

『懐風藻』

どうか、亡くなったは非常惜しいだと思われる有能、しかも皆に愛された方でした。


また、大津皇子が死を被はりし時、和歌・漢詩を各一首作って逝った。

大津皇子の被死はえたまへる時、磐余の池の陂にて流涕みよみませる御歌一首


ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ

『万葉集』3-416

五言「臨終一絶」


 金烏臨西舍 鼓聲催短命 泉路無賓主 此夕誰家向

『懐風藻』

少なくとも、間もなく臨終の状態で、普通人ならパニックに成ったに違いない、漢詩まで作られるとは、
まさに曹植ほどの大物、中国人顔負けの方で亡くなったのは本当に残念だと思います。




以下、余談。
あと、この本は短歌だけあるから首卷の雄略天皇の御製歌*4が收録していない。
また、図書館は新大系の外殻が要らないからお土産として持ち帰りました。



*1:おもにもせあれにもせ、あがつまはや。=母にも兄、吾にも兄、弱草(夫婦)あがつまはや=私の母にとって兄(せ)であり、私にとっても夫(せ)である、優しい我が夫は、ああ遠くへ行ってしまった。ひとりこと倶楽部私本日本書紀参照。

*2:大津皇子妃・山邊皇女、髮を被り徒跣して奔り、從つて殉死し、それを見る人には歔欷しない者がおらん。

*3:皇子容止墻岸、音辞俊明、長ずるに及びて才学あり。尤も文筆を好み、詩賦の盛なること皇子より興つたと言ふ。また幼年学を好み、文を能くし、壮に及んで武を愛し、能く剣を撃つた。時に新羅僧行心、天文卜筮を解し、皇子に語つて曰く、太子の骨法人臣の相にあらず、然るに久しく下位にあり。恐らくは身を全うせじと。因りて逆謀を進めたと言ふ。

*4:それをナンパ歌といふ人も居た。