Profanierungen

月曜社uragさんによると、ジョルジュ・アガンベンの『涜聖』の仏訳が出版されとのこと。原著のイタリア語より早く発刊されたのです。詳細はウラゲツ・ブログで御覧下さい。表紙画像が大きくアップされています。僕は当然読めませんので、読める人に情報提供です。
追伸:shohojiさんがヌーヴェル・オブゼルヴァトゥールの創刊40周年記念別冊に紹介された「世界の現代思想家25人」を教えてくれましたが、殆ど知りませんね(汗)。

Stanley Canvell(米国)日常の哲学者、Souleymane Diagne(セネガル)伝統の哲学者、Nestor Garcia Canclini(メキシコ)グローバリゼーションの解釈学者、Sudhir Kakar(インド)文明の精神分析家、Vladimir Kantor(ロシア)野蛮への批判者, Jose Gil(ポルトガル)肉体の哲学者, Ian Hacking(米国)変化の哲学者, Candido Mendes(ブラジル)バロック貴族, Slavoj Zizek(スロヴェニ)分類不可能な哲学者, Jon Elster(ノルウェー)破壊的合理論者, Kwame Appiah(ガーナ)世界大使, Giorgio Agamben(イタリア)将来の思想家, Axel Honneth(ドイツ)新ハバーマス, Martha Nussbaum(米国)人類の弁護士, Carlos Maria Villas(アルゼンチン)大衆の見神者, Simon Blackburn(イギリス)ほとんどリアリスト, Toni Negri(イタリア)新マルクス, Charles Taylor(カナダ)近代の考古学者, Peter Sloterdijk(ドイツ)哲学者・芸術家, Richard Rorty(米国)リベラルな皮肉家, Philip Petitt(アイルランド)全体個人主義者, Daniel Innerarity(スペイン)不可視の哲学者, Jaakko Hintikka(フィンランド)北のライブニッツ, Amartya Sen(インド)貧困の理論家, Michael Walzer(米国)第三の道の叙情詩人

どうぞ、参考にして下さい。

生きがい論を超えて、『いのちの初夜 (角川文庫)』『定本北条民雄全集 上巻』

ぼくの読書傾向の流れは自分なりの定点がある。ぴぴさんが一人読書会でフーコーバタイユレヴィナスアガンベンを取り上げるといった壮大なチャレンジを敢行していますが、僕は体系だって読みなすエネルギーに欠けるので、僕の定点からこれらの著作集を摘み食いする振る舞いにどうしてもなってしまう。酒井健内田樹大澤真幸を通してこれらの思想家を知り、読むことをもっぱらにする迂回路になっていますが、僕の定点はある意味で明快です。武田徹が『「隔離」という病い』、『偽満州国論』、『「核」論』の三部作で追跡しているモチーフも、そういうことなんだと思う。それは大文字としての国家、民族に回収されないで、ユートピア論の排除の暴力性を暴き、“ただ生きるだけが生の目的”と“今”この刻の驚きを発見し、驚き(感動)が美しさを呼び込み、そのことで世界の秩序(合理性)を知る。胡散臭い「生きがい論」に足を引っ張られてはならない。そんな、「生きがい論を超えて」の定点から「民主主義」も考えるということです。そんな関心で『「隔離」という病い』の重要なテキストとして北條民雄の『いのちの初夜』(角川文庫)を今日、購入しました。

光田と神谷に通底する構図、それはユートピアを夢見て、それを志向する動きが排除に繫がってしまうというものだ。ユートピアの実現に貢献することにこそ人生の意味があると信じ、積極的かつ献身的活動する人の活躍によって、その排除は時に暴力的なまでの激しさを持つようになる。それは戦前日本の隔離政策の激化が例証している。/なぜ献身的な活動をするのか。それはユートピアの実現こそが、今の自分の人生の意味を成就させる審判の時になると考える、終末論的思考をそこで行っているからだ。ユートピアの実現に向けて歴史を転がすことこそ自分の使命と考え、その作業に生きがいを感じる。生きがいを感じているからこそ、そこでさらに献身的な没頭がありえる。この場合、生きがいは社会を一つの方向に進める動きを促進させる一種の触媒、牧人が活動するための糧、そして牧人の熱意を合理的に説明する装置となっているのだ。こうした構図は神谷により見取りやすい。/個人が個人の範囲内で理想の未来社会=ユートピアを想定し、その実現を人生の目的として活動すること自体に罪はない。しかし、忘れてはならないのは設定された目的は、所詮、主観的なものに過ぎないということだ。ある程度多くの人が同じ方向を向き、足並みを揃えることで同じ思想を想定することはありえる。しかし、それは偶然、ひとつの理想像を多くの人が共有しているというだけであって、「主観的な夢」としての脆さから逃れられるものではない。仮構された終末にむけて目的論的に生きる人生がいかに脆いかを、僕たちはすでにK・Nの症例を見ることで明らかにしてきた。/しかし、そうした脆い理想像を信奉する人が、仮構性を忘れてその唯一絶対的な正しさを主張し、自分たちとはちがう立場の人々=他者を排除してゆくことがありえる。そして時として酷薄なまでの暴力を用い、その絶滅を望むようにすらなる―。そんな轍を踏まないためには、ボタンの掛けちがいをする前の段階にさかのぼって、軌道修正をする必要がある。人生に意味を仮構する前の、そう、北條民雄が示したようにただ生きることだけが生の目的なのだと考える位相にまで降りて行くこと。そこから人の生の在りようをとらえ返すことが必要なのだ。/生は多様である。病に落ちる生もあれば、天寿をまっとうできる生もある。生の置かれる環境もさまざまだし、複数の生の出会いがあらたに多様性を育む。そのような生の多様性の上に人生の理想像が多彩に描かれるべきなのであって、その順序が逆であってはならないのだ。(後略)−『「隔離」という病い』(188頁〜)−

武田さんは難しいことを言っていない。すごく当然のことです。でも、“ただ生きることだけ”の生の目的は?となると、レヴィナスの「他者」とか、ぴぴさんの一人読書会でネット参加しているおしょうさんの言う「他力」になるのか、そこまで降り立つと底が抜ける、「穴」が驚きを生み、世界が出現し、すべてを肯定していいんだと、吼えることが出来るのか?橋本治は『人はなぜ「美しい」がわかるのか』(ちくま新書)で「“美しい”とは他者のありようを理解することだ」と述べる。“他者の発見”の感性を持てば人間は充分に生きられる。それ以上、望むことがあろうか?

『旗本退屈男まかり通る』

「退屈男の本と街」の退屈男さんは、本にまつわる、興味のない人にはゴミとしか思えない話でも紹介してくれます。最新のエントリーでも『本の人生 本との人生−末端古本屋雑記帳−』というオモロイブログをアップしてくれました。僕もさっそくアンテナ登録しました。ぼくも含め、退屈男さん、みなさんにとって、“本の人生さん”が前振りに書いたブログに関するコメントは、それぞれに気になることだと思います。

ネットで、こうしてブログとか、他人の日記を読んで思うのだけれど、今日どこへ行ったとか、何を食べたとか、どんなテレビを見たとか、ここには「自分のこと」が溢れている。芸能人やスポーツ選手の日記なら、それなりに関心を持たれ読む人も多いと思うが、どこの誰かもわからぬ市井の人の「日常」など継続的に読んでくれる人などいるはずがない。

退屈男さんは、みなさんどう思いますか?と疑問を投げかけ、自分なりに答えているのですが、僕も退屈男さんの《「こう考えた」だけより、「こういう日常のなかで、こう考えた」の方がおもしろい。「こう考えた」とあえて書かなくても、その考えが潜んでいる「日常」であれば、「日常」自体がおもしろい。》コメントは至言だと思う。僕もコメント欄にカキコしましたが、発展途上のブログにとって、「日常」だけは譲ることの出来ない定点だと思う。
◆追伸:退屈男さんがブログでハンドルネームの由来を書いて下さいました。

いぜんにも書いたが、“退屈男”というのは大滝さんの「ROCK’N’ROLL 退屈男」からとったのでした。ついでに、右上にある「読書好き、趣味趣味生活。」というキャッチフレーズ(?)は、「趣味趣味音楽」という曲から。

市川歌右衛門(片岡知恵蔵)でなく大滝詠一でした。

僕は知らないのです

ブルーハーツ」を聴いた世代に保坂和志さんも入るんだと、今日のエントリーを覗いて思ってしまった。どうやら、カラオケで「ブルーハーツ」を歌ったらしい。僕はブルーハーツを聴いていないんです。でも参照の通り、ブログでブルーハーツ武田徹さんの言葉として語っています。ブルーハーツって徹底して「日常」を「私」を肯定したのであろうか?
参照:http://d.hatena.ne.jp/kuriyamakouji/20050109

伊藤若冲

国立京都近代美術館で伊藤若冲展が3/27まで開催されているのですね、忘れないようにメモ。錦小路の青物問屋の旦那は家業より画業で、四十歳の時、弟に家督を譲って画事に専念、四十数年、絵の中で遊んだのです。生涯独身で、今風に言えば、「オスの負け犬」の典型であるが、作品という名の交換可能性のないものを産みだしたのです。「勝ち軍鶏」です。
ハマリごと--伊藤若冲
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