『大谷能生のフランス革命』その読と解(その2)








タイトル:大谷能生フランス革命』その読と解




その1:僕とチャーリー・パーカー


その2:再び《いま、ここ》で
    (4/30 UP)


その3:オープン・エンド《金言集》
    (5/10 UP)


大谷能生のフランス革命

大谷能生のフランス革命





その2: 再び《いま、ここ》で





序.

かりに複製技術が芸術作品のありかたに他の点でなんらの影響を与えないものであるとしても、「いま」「ここに」しかないという性格だけは、ここで完全に骨ぬきにされてしまうのである。(中略)ここで失われてゆくものをアウラという概念でとらえ、複製技術のすすんだ時代のなかでほろびてゆくものは作品のもつアウラである、といいかえてもよい。

ヴァルター・ベンヤミン『複製技術の時代における芸術作品』)※1


アウラは本当に滅びてしまったのだろうか。



1.『雪沼とその周辺』


雪沼とその周辺

雪沼とその周辺


大谷 この『雪沼とその周辺』という小説には様々な人々が出てきます。各章毎に主人公というか、主要人物が異なっていて、彼らの日常についてどの作品も詳しく描かれているのですが、その登場人物に共通している点として、手や、体を使って仕事を行う、実際に自身の手でモノに触れる事によって彼らは生活を成り立たせている・・・こういった点がこの連作短編の登場人物に共通しているところなのではないか、と僕は思っています。


例えば『イラクサの庭』という話では、イラサクを摘む手のイメージや料理をする手のイメージが非常に印象深く出てくる。『レンガを積む』っていう短編では、主人公はレコード屋さんなんですけど、レコードに針を乗せる手のしぐさが細かく描写されています。『河岸段丘』というお話だと、裁断を仕事にしている人の、古くなった裁断機に対する感覚の説明だったりとか、このように、自分の仕事に結びついているちょっとした繊細な感覚のあり方、というものがこの作品群の至る所にあらわれているように思います。そういった、手や指先の使い方などに具体的にあらわれているように思います。そういった、手や指先の使い方などに具体的に表れる繊細なしぐさっていうものは、仕事とは直接関係のないところでも、『送り火』っていう短編だと、ランプが沢山出てくるんですが、そのランプに火を灯す指のあり方とか、あとは、「陽平さん」という書道の先生がいるんですが、習字を習う際の墨を掏ったりとか、筆を持ったりするっていう手のあり方とか、とくに指先に関わるしぐさが非常に印象深いかたちで描かれている。そして、そういった手や指に表れている、日々の反復されるしぐさによって彼らの生活は成り立っており、その描写の中に彼らが暮らしている「雪沼」の時間と生活が畳み込まれている、そういった構造になっているように僕には思えます。えーと、『ピラニア』っていう話は主題がちょっと裏返しになっていて、主人公の中華料理屋さんは、あんまり料理が上手くない。手を使った作業があんまり上手くないまま、だけど料理を作る仕事についていて、時々料理を喜ばれたり、それを不思議に思ったりしながら、そうした中でも料理を作り続ける。自分では凄く料理が苦手だと思っているんだけど、それでもそうして手を使って仕事を続けているっていうその反復が生活の時間として表れてくるという感じです。


そして、そういった繊細な身体感覚の積み重ねが生活の時間を作ってゆく、こういった時間の流れとはまた別に、そういった反復の時間を切り裂くようにしてまた違う時間が、何かの事件というか、ある種の時間の揺れとして、回想、記憶の不意の甦りといったかたちで現れる。ここにドラマが生まれるわけですが、『イラクサの庭』という小説ですと、主人公の先生が・・・「おるち」先生でしたっけ?


堀江 「小留知(おるち)先生」。


大谷 小留知先生ですね。ある料理の先生が、死ぬ時にひと言ダイイングメッセージみたいなものを残すんです。その言葉が何だったのか? 聴き取れたのか、聴き取れなかったのかもわからないんですが、その、ほとんど音になった言葉みたいなものに導かれて、生の時間に切れ目が生まれる。諸々の反復の時間の中で暮らしている人が、ある時出会った音や声なんかに導かれて、で、その聴覚映像を思い出したり、再び聴いたりしている時間っていうものの中に、様々な回想というか、ある種、質の異なった記憶の時間が入ってくる。こういった緊張を通して『雪沼とその周辺』という連作小説はできているんじゃないか、と思っています。


堀江 その話は、書かれるわけですよね、これから。


大谷 いや、依頼がなければ書きませんけれども(笑)。それで、あとは『スタンス・ドット』っていう、冒頭に入っているボーリング場の話なんですが、古い、もう今日で閉館してしまうボーリング場の主人が、昔聴いた「ハイオクさん」という常連のプレイを思い出して、彼のボールがピンを倒す時の音が素晴らしく良かった、と思う場面があります。ボーリング場の主人はしばらく前から難聴気味になっていて、普段の物音も最近は聴き取りにくい。目の前でボーリングのプレイが行われていても、もうボールがピンに当たる音も聴こえないくらいなんですが、そういった無音の中で、過去聴いたストライクの瞬間の音を思い出している。音から切断されてしまった人間が、サウンドを思い出す事で過去から現在まで辿り直し、「音」を巡る想像によって生活の中に突然、緊張感が生まれてくる、という事件がこの小説では起こっています。生活におけるある印象的なしぐさっていうのは、その人が死んでしまったり、そのしぐさが仕事自体に必要がなくなってしまうと、すぐに失われてしまうものですよね。


堀江 ええ。


大谷 そういった個人に結びついたある繊細なしぐさと、ある種、不意打ちのように現れる印象的な音の一撃、というものの緊張関係の中に、記憶の層というか、持続と回想っていうようなかたちで寒村の時間が描かれていて、非常に感銘を受け、楽しく読ませて頂いた次第です。ご静聴ありがとうございました(笑)。※2




[第11回 ゲスト:堀江敏幸(作家)]より


『雪沼とその周辺』、雪沼とそこに集う人々。この構図は、どこか「歴史画」のようである。しかし、例えば、レンブラント(fig.1)の場合は、中心にイエス(神)が描かれているし、ダヴィット(fig.2)の場合は、中心にナポレオン(皇帝)が描かれている。一方、『雪沼とその周辺』の場合、雪沼自体は描かれていない。東京からさほど離れていないのか、ずっと遠くなのか、どこにあるのかよく分からない。書かれているのはその周辺の人々だけである。そういう意味では、これは「近代絵画」、クールベ(fig.3)に近いかもしれない。



2.歴史画 と 近代絵画


[歴史画]


fig.1 レンブラント《羊飼いの礼拝》1646年



fig.2 ダヴィット《皇帝ナポレオンの聖別式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠》1807年



[近代絵画] 



fig.3 クールベ《オルナンの埋葬》1850年

3.近代的レアリスム


一八五一年にクールベという画家が、『オルナンの埋葬』という絵を発表します。クールベは歴史画、『ナポレオンの戴冠式』とか、そういったものに代表される自分たちの歴史を保証する絵画と同じくらいの大きさで、田舎のブルジョワがごしゃっといる情景をキャンバスに描いて、歴史画として官展に出してしまった。それを見た人は、これはとんでもない、と思ったわけですよ。どこにでもいるような市民を「我々の真実の姿です」みたいな感じで描いて、そういったメディアに載せてしまった。これは確実に反体制だろ! っていうのが、絵の主題によっても、その大きさによっても、描き方によっても、はっきりわかるようなかたちでクールベは描いたわけです。担わせる役目と描き方はそれまでの歴史画と一緒なんだけど、主題が正反対なわけで、主題、つまり描かれる人、歴史的な主体として出てくるのは、王様とかキリストではなくて、こいつらだ! と、今生きている普通の民衆を描いてしまった。


(中略)この思想って結局、「今ここにあるものが大事なんだ。ここにあるものをきちんと描く事でも、作品は作れるよ」っていう主張なんですね。これは最初はアカデミー側からは総スカンを食らうんですけども、理解者もいっぱいいて、一八五五年ぐらいにはレアリスムっていう表現が定着して、どっか昔に価値があるのではない、歴史は我々が今作っているし、我々が主人公ですよっていう事を主張するような動きが、ここから現れてきます。
大谷能生※3




[第1回 ゲスト:冨永昌敬(映画監督)]より


歴史画とクールベとの比較に『雪沼とその周辺』を補足すれば、クールベ以降の近代絵画の展開が導けるであろう。



4.ゴッホ


fig.4 ミレー《落穂拾い》1859年


fig.5 ミレー《種播く人》1850年



fig.6 ゴッホ《一足の靴》1886年


fig.7 ゴッホ《開かれた聖書のある静物》1885年


・[fig.6] 農民の苦労の裏には大地の跡が刻み込まれている。(ハイデガー)※4

・[fig.7] 聖書とゾラ。ロウソクと外光。理想主義と自然主義
      自然主義とは:人々の生活や世界を理想化せずにリアルに書き出す。※5


・[ゴッホ遍歴](1885年まで)※6

・上から説教をしない。理想の側から現実を見ない。現実の中に理想を見つけだす。


1853年 オランダ南部、ブラバント地方 ズンデルトに牧師の息子として生まれる。

1857年 テオドル誕生 テオドルに支えられていた。水車小屋での誓い。生涯、善のためにだけにつくしていこう。

1869年 グービル商会画廊の仕事 16歳

1876年 客との議論 辞職

1877年 神学教師に「私の望みは、哀れな人々に彼らのこの世の運命の侭に平和を与えることだ。」

1878年 ボリナージュ鉱山での布教 ドロを塗って、財産をあげてしまう。

1880年 画家になることを決意 「私の悩みは結局次の問題だ、私は何かの役に立つことができるか、私は何らかの方法で有用な人間になれるだろうか」。私は決心した。私はもう一度絵筆をとり、絵を描こう、そしてそのときからわたしにはすべてが変わって見えた。

1881年 モーヴ批判

1885年 父死去

5.『雪沼とその周辺』=《馬鈴薯を食べる人々》


[※7]


[歴史画]


fig.1 レンブラント《羊飼いの礼拝》1646年



[近代絵画] 


fig.8 ゴッホ馬鈴薯を食べる人々》1885年 (前期ゴッホの最高傑作)

・運命の侭に平和を与えること


僕がこの仕事で強く意図したのは、ランプのもとでこの人たちが皿のなかの馬鈴薯を突きさして食べているその手で、彼ら自身が大地を掘り起こしたのだということ、だからこの絵は手の労働を語っているし、また彼らは自分たちの食べものを真っ当な報酬として手に入れている、こうしたことが人にわかってもうらえるように描くことだった。僕はこの絵がわれわれ文明化した人間たちの生き方とはまるで違う生き方を考えさせることを意図した。だから僕だってこの絵を誰もがすんなりとすてきだとか、りっぱだとか思ってくれるなどとはまるで期待していない。


僕はこの冬の間ずっとこの織物の糸を手に決定的な模様を探し求めてきた    今この織物はざらざらした粗い様相を呈してはいるが、それでも糸は一定の法則に従って注意深く選ばれているのだ。これが正真正銘の農民画であることはいずれきっとはっきりするだろう。これがそうした絵だと自分では心得ている。だが、甘ったるい気の抜けた農民を眺める方がいいという者は好きなようにさせたらいい。僕個人としては、農民を粗野のままに描く方が彼らの紋切り型の甘美さを持ち込むより長い目で見ていい結果を得られるものと信じている。


埃だらけの、継ぎはぎの当たった青い仕事着のスカートや胴衣    それが天候や風や日光で実に微妙なニュアンスを帯びる    をつけた農民の娘の方が僕の見るところでは淑女より美しい。しかし、この娘が淑女の衣装を身に着けたら本来の彼女らしさは消えてしまう。農民の日曜日に紳士用コートの類いを着て教会に行くときより野良で綾織綿の服でいる方がりっぱだ。


同様に、農民画にある種の紋切り型のなめらかな仕上げをするのは誤りだろうと思う。もし、農民画にベーコンや煙や馬鈴薯の湯気などの匂いがしたら、しめたものだ    そいつは不健全じゃない    家畜小屋に厩肥のにおいがしたら    けっこう、それこそ家畜小屋や厩肥につきものだから    もし、畑が実った麦とか馬鈴薯とか鳥糞石や厩肥のにおいを発散しているとすれば    それはことに都会人にとっては、まさしく健康的だ。彼らもこうした絵に接すれば何かしら得るところがあるだろう。だが、農民画は香水を振りかけられるべきものではない。この絵に君の気に入る何かがあるかどうかぜひ知りたい    気に入るといいのだが。


(中略)「なんて下手くそな絵だ」と言われるかもしれない。その心構えはしておいてくれ。僕だってそれはできている。それでも僕らは本物の仕事、正直な仕事を提供しつづけなくてはいけない。 農民の生活を絵に描くのはまじめな仕事だ。芸術について、人生についてまじめに考えている人にまじめに考える内容を与えられるような絵を作る努力をしなかったら、僕としては自分を非難することになろう。 ミレー、ドゥ・グルー、その他多くの人が心根の鑑、つまり、「汚い、粗野だ、泥だらけだ、くさい」等々の非難は気にしない、もしかしてふらふらしたりすれば、それこそ恥になる、という心根の鑑を示してくれている。


いや、農民たちを描くには自分が彼らの一人であるかのごとく、彼ら自身と同じように感じ、考えながら描かないといけない。 人が現にあるあり様はそうでしかありえない、そのように描くこと。僕は何度となくしきりに考えるのだが、農民たちはある独自の世界であり、それは多くの視点から見て文明化された世界よりずっとずっとすぐれている。


テオ宛ての書簡〔1885年4月30日ごろ〕※8

・『雪沼とその周辺』は《羊飼いの礼拝》ではなく、《馬鈴薯を食べる人々》である。




6.《異化》(ゴッホのひまわり)


fig.9 ゴッホ《ひまわり》1888年


ゴッホのひまわり」が「ゴッホのひまわり」と言われる所以について考えてみる。これは、実物かどうかが決定的な問題なのだろうか。確かに実物はすごい。噂には聞いていたが、本当に塗られた絵具が分厚い。圧巻である。でもそれが「ゴッホのひまわり」と呼ばれる決定的な要因ではない。写真で見てもやはり「ゴッホのひまわり」は「ゴッホのひまわり」である。もちろん、写真は情報が捨象されているし、視点が一つに固定されているので見間違えることが多々ある。そういったことの弊害は大きい。しかし、それが「ゴッホのひまわり」が「ゴッホのひまわり」ではなくなる決定的な要因にはならない。あるいは「ゴッホのひまわり」が「本物のひまわり」に極めて似ているから認められている訳でもない。全然違う。「ゴッホのひまわり」が「ゴッホのひまわり」と言われる所以は、「ゴッホのひまわり」が《異化》されているからである。

よくサント・ヴィクトワール山はセザンヌの影響を受けている、という。それ以上に、全世界のヒマワリが、ゴッホの影響を受けているというようなこともいわれる。実際、あの岩山の肌やそのまわりの樹木の茂りを見る時、さきにセザンヌを見たことによって洗われた眼・感受性によってその対象のかたち・色あいをはっきりとらえることができるようになっていること、その新しい見方で対象を見ていることに気がつくことである。ゴッホを見たことで活気づけられ、勢いをあたえられた眼で、花や木のかたち・色あいを受けとめているのに気がつくことがある。


それは秀でた画家たちの「異化」する力、ものを「異化」してとらえるスタイルが、僕らに乗りうつるようにして、影響をおよぼしているのである。いうまでもないことだが、サント・ヴィクトワール山やヒマワリが影響を受けている、というのは冗談で、それらの絵の前に立つ僕らがセザンヌゴッホの影響を受けているわけだ。作家も画家も、その「異化」する力、ものを「異化」してとらえる表現する文体・スタイルによって、人を影響づけるのである。

大江健三郎)※9

《異 化》

そこで生活の感覚を取りもどし、ものを感じるために、石を石らしくするために、芸術と呼ばれるものが存在しているのである。芸術の目的は認知、すなわち、それと認め知ることとしてではなく、明視することとしてものを感じさせることである。また芸術の手法は、ものを自動化の状態から引き出す異化の手法であり、知覚をむずかしくし、長びかせる難渋な形式の手法である。これは、芸術においては知覚の過程そのものが目的であり、したがってこの過程を長びかす必要があるためである。芸術は、ものが作られる過程を体験する方法であって、作られてしまったものは芸術では重要な意義をもたないのである。※10

言葉が知覚に意味を伝達するものとして、日常的に使われてきた、その過程でからみついたほこり・汚れを洗い流す、ということでなされる、幼ない子供が使う言葉の新鮮さ、汚れのなさ、ということを思うのも、「異化」を考える手がかりになるだろう。※11

このように実感したこともない。それは見なれない、不思議な書き方であって、しかも確かにこれは真実だと実感される・・・ これが「異化」ということを見る、ひとつの指標である。※12

「異化」された言葉は、ものの手ごたえをそなえている。※13

このように《異化》について確認しておけば、次のような過ちはしないであろう。




7.「アングルが○、高野文子が×」ではない。


fig.10 アングル《ルブラン婦人の肖像》1823年


fig.11 高野文子《奥村さんのお茄子》2002年(再録版)


・どれだけ手を加えたかという画力が問題ではない。


・一応断っておくが、アングルが複製技術を活用していたということは大した問題でも、スキャンダルでもない。

アングルがなにかしらの光学機器を用いたのはまちがいないと思う。素描にはカメラ・ルシーダ、そして油彩画の精緻なディテールにはおそらくある種のカメラ・オブスクーラを利用したのだろう。それ以外に説明のつけようがあるとは思えない。(D.ホックニー『秘密の知識』)※14

・どちらも《異化》に成功しているという点が重要である。




8.「プッサンが○、西島大介が×」でもない。


fig.12 プッサンサビニの女たちの掠奪》1637年



fig.13 西島大介《アトモスフィア2 pp.100-101.》2006年


fig.14 西島大介《アトモスフィア2 pp.134-135.》2006年


・もう一度断っておくが、どれだけ手を加えたかという画力が問題ではない。


・[比較のポイント]

  ・歴史画というシステムを最も洗練させたプッサン

  ・マンガというシステムを最も洗練させた西島大介

西島 例えば普通のマンガを描く時には、連載の一回分をどう終えるかっていう事を考えると思うんですけど、僕の場合は一冊をどう終えるかっていう風に考えてしまうので、それは月刊連載とかやるようになったら別ですけど、やりたいとも思ってはいますけど。だから、月刊でこれだったらたぶん怒られると思うんですよ。まあ、魚喃キリコ氏の最近の作品とかはかなりこういう境地に行っていて、僕、これを描く前に魚喃氏の作品を色々読んだんですけど。安心しました。ああ、ここまでは安全圏だって。


大谷 ここまでは大丈夫だって(笑)。


西島 だから、魚喃キリコ氏は凄いなと。こんな褒め方はあんまり誰もしないけど。(中略)僕はデッサン力はあんまりないんですけど、ジブリ的な、フレーム中のレイアウトに関してはこだわりすごくあるので。一応。


大谷 西島さんはキャラクター作るの好きですよね。でも、それと同時にコマによる動きの処理っていうものを、非常に現在的な感覚でやってらっしゃる。


西島 そうですね。そういう意味では、『アトモスフィア』は僕の中のそういう欲望を一番抑制させている作品ではあります。気持ち良く空飛んだり、ミサイルが大爆発するようなシーン入れてませんから。僕の好きな宮崎駿的な動きを排して、あと、さらにマンガである事のギリギリ限界までマンガ的要素を排除して、それでもマンガだっていうところを狙ってたんですけど。※15




[第8回 ゲスト:西島大介(マンガ家)]より

・どちらも《異化》に成功しているという点が重要である。



アトモスフィア〈1〉 (ハヤカワSFシリーズ・Jコレクション)

アトモスフィア〈1〉 (ハヤカワSFシリーズ・Jコレクション)


アトモスフィア (2) (ハヤカワSFシリーズJコレクション)

アトモスフィア (2) (ハヤカワSFシリーズJコレクション)




9.アウラは本当に滅びてしまったのだろうか。



高野氏と西島氏を引合いに出したのは、言うまでもなく複製技術時代の芸術作品の代表的存在である「マンガ」だからである。

大谷 マンガっていうのは印刷されてナンボのものだ、その内側に印刷されて広まるための力が畳み込まれていなくてはならない、という事なんじゃないか、という話になるわけです。マンガっていうものは、とにかく沢山刷られて、流通するっていう事をまず前提として作られるし、むしろマンガは、多くの人に読まれる事によって初めて作品となるんじゃないか。で、そういったメディアっていうものはその制作の素材として、当然、印刷されて、コピーをくり返してもその価値が減らないものを使って作られる事になる。※16


大谷 マンガを作っている素材っていうのは、紙の上に集められるものの中でも、一〇〇万枚刷っても劣化しないものによってのみ作られている。濃淡や質感ではなく、輪郭や記号といった印刷に堪えられるものでもって、例えば「ドラえもん」っていうキャラクターは作られていて、そういった増殖する事を前提とした(記号ともまたちょっと違った)存在でもってドラマが作られている。こういう事って実は、二〇世紀以前にはあんまりなかった事だと思うんですよ。※17




[第8回 ゲスト:西島大介(マンガ家)]より

確かに絵画とマンガとは違う。しかしその違いは、あくまで各々を成立させているインフラの違いだけであって、芸術作品としての本質的な部分は何ら変わらない。


アウラ=礼拝」とすれば、アウラは失われたかもしれない。しかし「アウラ=異化」とするならば、《アウラ》は複製技術時代の今日においても滅びていないというべきであろうし、「いま」「ここに」しかないという芸術作品特有の一回性も同じく失われてはいない。




10.再び《いま、ここ》で


新宿のタワーレコードで、group_inouのDVDを買った。先日モグった佐々木敦さんのムサビの講義で流れていて、これはすごい! と思わされた。それにしても、自分以外の誰かがある作品を紹介して、その話を聞いて同じ物を見つけてそれを体験できるということは、ものすごいことではないか。


ビル・エヴァンスの、亡くなる一年半前のライブDVDも見つけた。ここには遥か以前にテレビで一瞬だけ見かけて、それ以来ずっと印象に残っていた『Nardis』という曲が収められている。僕の胸には、そのかつて一瞬だけ見た映像がどういうわけかある種の感情とともに焼きついている。どんな演奏だったのか、音だったのかは忘れている。でも、その世界で髭をたくわえた太身のビル・エヴァンスはピアノの鍵盤に指を落としていて、その音は聴こえない。画面の下には白い頼りない文字で『Nardis』と出ている。その映像を、僕がいま想像上で見ているように見ている人は、世界にほかにはいないだろう。その意味で、僕はその映像をふたたび体験することによってあらためて自分自身になれるんじゃないか    。言葉になっていないレベルでそう感じている。手に取った、けっして気の利いたデザインとは言えないパッケージを僕は眺めて、ああ、『Nardis』ってマイルス・デイヴィスの曲だったのか、とはじめて知った。これはたぶん、僕のための映像なんだと思う。たぶん、僕のためにここに置かれていたんだろう。だから買わなきゃいけないということではなくて、ただ、これはたしかに僕の存在と、 「いま、ここにしかいない」という仕方で反応し合っているのだろう。

(門松宏明)※18



※ photo by montrez moi les photos



《次回更新予定日 2008年5月10日》





※1 ベンヤミン「複製技術の時代における芸術作品」(『ヴァルター・ベンヤミン著作集2』所収)晶文社 pp.13-14.
※2 大谷能生・門松宏明『大谷能生フランス革命以文社 pp.261-262.
   (文意を調整するために最後の部分のみ修正した。)
※3 同上 pp.16-17.(一部省略した。)
※4〜6 松井勝正『ゴッホの技法と思想』レジュメより引用。(多摩美術大学芸術学科「現代アーカイヴ」企画室/issues編集部「芸術学」研究サークル第五期(2005年度) 発表:松井勝正)
※7 レンブラント《羊飼いの礼拝》とゴッホ馬鈴薯を食べる人々》との比較は、松井勝正氏の発表(『ゴッホの技法と思想』)に基づく。
※8 『ファン・ゴッホの手紙』みすず書房 p.198-199. 抜粋して引用。
※9 大江健三郎『新しい文学のために』岩波新書 p.59.
※10 同上 pp.31-32.(原文にあるロシア語表記は省略した。)
※11 同上 p.42.
※12 同上 p.50.
※13 同上 p.57.
※14 デイヴィッド・ホックニー『秘密の知識』青幻舎 p.35.
※15 大谷能生・門松宏明『大谷能生フランス革命以文社 pp.185-186.
※16 同上 p.180.
※17 同上 p.182.
※18 同上 p.224.




《ニュース》


[20080502]

門松宏明さんより、仲俣暁生氏による秀逸な『雪沼とその周辺』論をご紹介頂きました。合わせてお読みください。

仲俣暁生

『クッションボール、穴のあいた壁、上昇気流〜堀江敏幸論』


[20080504]

※ 写真家の福居伸宏さんの個人ブログÜbungsplatz〔練習場〕で本稿を紹介して頂きました。ありがとうございます。福居さんとお会いしたことはありませんが、福居さんの作品とは先日お会いしました。また近いうちにお会いすると思います。よろしくお願いします。




《イベント情報》

大谷能生・門松宏明
『今、ここでフランス革命』フェア


於:ジュンク堂書店新宿店7F芸術書コーナー


※批評家・佐々木敦さんから頂いた直筆ポップなどについて共著者の門松さんが渾身のレポートを書いてくださいました。


※『エスプレッソ』(大谷さんが編集していた音楽批評誌)品薄です。再入荷する予定ですが、お早めに。


※ 朗 報

堀江敏幸『河岸忘日抄』新潮社


文庫版が5月1日に発売されました!
http://www.shinchosha.co.jp/book/129473/

[第11回]を味わう上で欠かせない一冊なのですが、単行本が現在、出版社品切で入手できなかったのです。あ〜、よかった。これにて一件落着。


あと[第4回]で岸野さんが紹介している、この本を入手できればよいのだが。

『365日のお弁当革命 新装版』主婦の友社

その他のイベント情報は、大谷さんのウェブサイト《大谷能生の新・朝顔観察日記》をご覧下さい。





阪根Jr.タイガース


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