雨戸を開けて

5月の函館では花芽の出る気配すらなかった紫陽花が、6月の武蔵野で満開の花を雨に煙らせている。全日空の大規模システムダウンの日に帰ってきてから、もう2週間以上が過ぎた。それどころか5月は1日も日記を書いていない。久しぶりにはてなにログインしたら、はてなダイアリー市民でなくなっていた。


ここ数日であらゆるものを捨てている。壊れたガステーブルに始まり、壊れた自転車2台、壊れた椅子、壊れた炬燵、壊れたテレビ、壊れたビデオ、壊れ(かけ)たPC、壊れたヘッドホン、壊れたウォークマン、破れた布団、破れた大量の衣服、いつか引っ越すときに必要になるだろうと取っておいた押し入れ一間分の段ボール箱と発泡スチロールの緩衝材。どんだけゴミ屋敷だ。


夕張で粗大ゴミ回収が有料になる直前に、大量の廃棄物が路上に溢れ出た光景を見て、テレビのコメンテーターが「見方を変えれば、まだこれだけのものを捨てられるだけ私たちは豊かだったんですねえ」と感に堪えない面持ちで語っていた。コメンテーター氏はともかく、ものを捨てられないのは豊かではなく貧しいからだ。自転車2台で各1000円、25型テレビで5000円、デスクトップPCで8000円の廃棄料が掛かると知って、なぜ人が不法投棄に走るのか得心された。整理の過程で、すっかり忘れていた(忘れようとしていた)もろもろが目の前に現れる。年金手帳(!)、保険料の通知書、(数年前の)税金の払い込み書、恩師からの献本(未読)、手紙、未整理の写真、書類、雑誌や新聞の切り抜き、等々。有用不要の判断ごと先送りされた未解決の物件を、10年後の自分が処理するなどとは考えもしなかった。こんなタイムカプセルは嫌だ。


数年ぶりに過ごす5月の函館は素晴らしかった。東京よりひと月遅れの春は静かに爆発して、もはや芝生とは呼べない雑草に置き換えられた緑の上を、デイジータンポポ、苺さえもが這い回る。コブシ、雪柳、レンギョウ、芝桜、水仙、チューリップ、ツツジ、スズランなどなどが入れ替わりつつ庭を彩る。街を歩けば桜が満開だが、どこにも行かなくても目を楽しませるには充分だ。


同時期に2人の姉が帰省してきたので、数年ぶりに家族5人が顔を揃えることにもなった。合わせる顔がないという理由で家族も故郷も避けてきたのだが、合わせる顔がいつ出来るのかもわからないまま、合わせる相手がいなくなりかねない歳になった。久々に味わう変わらず親密な空気に、共に過ごせる貴重な時間を、つまらない不安でずいぶん無駄にしたと思う。これからは用がなくても帰ることにしよう。どうせどこにいてもたいした用などありはしないのだ。毎日食事を作り家事や庭仕事を手伝うだけでも、よほど存在価値があるだろう。花見にも行った。バスを乗り継ぎ郊外のショッピングセンターにも行った。調子に乗って普段はやりもしない長距離ジョギングも決行したが、3度目になんでもない段差で膝を壊し、5月後半は庭を眺めながら家で過ごすことになった。それでも庭を歩くだけで満足だ。退屈凌ぎに日記を書こうとはまったく思わなかった。私にとって日記を書くことは、おそらくは実態のない生活を言葉の力で捏造することなのだ。手入れもしない庭のアスパラや蕗やタラの芽を採っては食べ、自家製のジャムに舌鼓を打つ。生ゴミは畑に穴を掘って埋める。ロハスを気取るまでもなく、ここには文字通り「地に足の着いた」リアルな生活がある。何かを面白がる振りをする必要もない。日々の移ろいの記録など、窓の外の草木にでもまかせておけばいいのだ。


今、私の目の前の雨戸は閉め切られている。その向こうには隣家の壁が立ち塞がる。部屋は本とレコードとCDで埋まり、押し入れの扉を開けるのも一苦労でしまうことのできない布団が床に積み上げてある。机代わりの炬燵が占める面積を除いて歩ける余裕が2畳ほどしか残っていない。実家とのこの生活の落差はなんだろう。格差を云々する以前に、できる範囲でもフィジカルな「生活」を再構築する必要があるのではないか。


というわけで、現在の最大の関心事は部屋の模様替えである。その前段階として大量に廃棄物を排出しているのだが、大家は引っ越しか、でなければ夜逃げか自殺を疑っているかもしれない。動機としてはビリー軍曹のキャンプに入隊するのと大差ないお手軽自己実現ではあるのだが、今は勢いがついて日記を書くどころではない(そんな理由か)。『幸せの賃貸インテリア』を読んでは「カラーボックスひと工夫のおしゃれ収納」のしょっぱさに凹み、ホームセンターに通っては似非カントリー家具のヤンキーファンシーぶりに挫けそうになりつつも、高望みしない等身大の自分を目指して押し入れの奥からゴキブリの干物を発掘したりする今日この頃だ。次は、物置きと化した机と、組み立てても置き場のないベッドと、外したままのブラインドを捨てよう。こぼしたヨーグルトがいまだに乳臭いカーペットの替わりに、夏向きのラグでも敷こう。通販でレコードとCDの収納家具を買って床を取り戻そう。薄地のカーテンを下げて、閉めきった雨戸を開け放ち、朝日を浴びて目覚めよう。

 山本寛『らき☆すた』監督を降板(京都アニメーション)

ガイナ肛門舌禍事件も生々しい時期に今度は京アニで。うーん。「作画崩壊」論争と表裏一体に、京アニ的な「愚直な丁寧さ」ばかりが殊更に「神アニメ」の必須条件のように評価される昨今の状況が正直気持ち悪い私にとって、『らき☆すた』への唯一の、とは言わないまでも期待の大部分は、京アニの潤沢な制作リソースを良からぬことに使う(であろう)山本寛の悪漢性にあったのだが。少なくともこれまでの放映分で見られた(京アニらしからぬ)「引き算の演出」にはかなり惹かれるものがあったので残念だ。「監督において、まだ、その域に達していない」という判断の主体が知りたいが栓無いことか。

 ただいま寄生虫

実質大して違いはないのだが↑27日夕より函館の実家に帰省中。意味もなく1ヶ月の長逗留にしてしまった。5月のイベントは全スルーして心静かに過ごします。
読み切れないだけの本はあるが、散歩がてら五稜郭公園前の図書館に出かける。杉並町で市電を降り、広幅な道の両側に続く瀟洒な家並を抜けると、五稜郭の濠を縁取る緑が見えてくる。開花前の桜の下には気の早い花見客が陣取り、ジンギスカンの匂いを漂わせている。道民のジンギスカン欲恐るべし。図書館で利用カードを作成、クリストファー・プリースト『双生児』(早川書房)を借りようと思ったが未入庫、未読だったジーン・ウルフ『デス博士の島その他の物語』(国書刊行会)借りる。図書館出て公園内を散歩。大きく膨らんだ桜のつぼみはほころばず、藤棚の藤もまだ早い。花といえばタンポポくらいだが、それでも観光客とフライングの花見客で賑やかだ。濠に浮かぶカップルのボートの頭上をカモメたちが旋回する。鳩や鴨よりもカモメが主なのが港町らしい。堤に上がると吹き曝しの風が冷たい。そのまま一周しようかと思ったが、工事により寸断されている。往時の箱館奉行所を復元するのだとか。土産物屋に寄り、珍しさにコアップガラナ購入。ラッキーピエロを覗くも観光客で満席。結局杉並町まで歩き、2両編成のトラム型の市電に乗り帰宅。夕食はすき焼き。10時に就寝。翌朝の起床は6時前。こういう生活がほぼ1ヶ月続く。いずれ帰京すれば昼夜逆転生活に戻ってしまうのが不思議だ。

 あらゆる場所に温泉が

夕方、市議選の投票に出かけた足で銭湯へ。比較的近くの銭湯を検索していて見つけたのがここ「妙法湯 のんびり温泉」。
http://www5e.biglobe.ne.jp/~wadyfarm/nishitoukyou8.html
別に温泉水を引いているわけでもないのに「温泉」を名乗っていいものか微妙だが、そんなことはこの得難い風情の前では些細なこと。近くの早大グラウンド帰りのスポーツ少年と年寄りが生尻を並べる姿もまた良し。浴槽から見上げると鯉のぼりが吊り下げられていた。設置されている古いゲーム機は今でも使えるらしい。ここもあとどれだけ営業を続けられるのだろう。コーヒー牛乳を飲み干し、新青梅街道までひとっ走り。ラーメンと餃子ライスで夕食。せっかくの風呂上がりに汗をかいてしまった。

 真・ギャートルズ

昼に起きたらグレンラガン小林治回の評価がフィーバーしてたので、かなりビビりながら観たのだが、基本ギャートルズなアニメでこれはアリじゃね?と思った。
全編が演出・コンテ・作画の小林治の個性で塗り固められていて(脚本にもかなり手を加えたという)、キャラデザインはおろかカット割り・構図・演技・エフェクトに至るまでガイナックス主流のスタイルとは大幅に異なる。考えてみれば今石監督の神である金田伊功スタイルがまさにそういう「シリーズ本体からのイレギュラー」としか言いようのないものなので、小林治に期待されたであろう「TVシリーズにおけるスタジオZ」的な役割は充分に果たしているといえる。本社制作の1〜2話で基調を固め、3話のXEBECグロス回で社外の水準を示し、4話で「TVシリーズ」としての振り幅を見せる、この制作配分は考えられたものだと思うし、ある程度の拒否反応は折り込み済みだろう。70年代アニメリスペクトなスタッフの狙いは、スタイルのバラつきも含めた「消え物としてのTVアニメ」の復権ではないか。DVD修正とかありえないから!
まあ日和るなら、こういう新キャラの顔見せとなる初盤ではなく、ある程度キャラが出揃った中盤以降に回したほうが無難だったとは思う。ていうかローテーションに入ってるのかしら。
それにしても、アクエリオンエウレカのうつのみや作画といい、作家性の強いアニメーターの起用が「あえて異物感を強調する」飛び道具的なものに限られてしまうのは、DVD時代のTVアニメの宿痾かもしれないが、ちょっと寂しい気もする。
(わりとどうでもいい追記)
・あんまりなので擁護に回ったが、普通に今一つな出来だったと思います。主に演出脚本。
・とはいえ、叩かれ過ぎてスタッフのモチベーションが傷つかないか心配だ。無理解な視聴者への恨みから、最終回がメタ視点になっても知らないよ。
・今の若いファンにこそ「アニメゆとり教育」が必要だ。
・クリエイターはユーザの言うことなど聞かないし、聞く必要もない。もっぱら内なる他者=仮想の観客に向けてのみ作るものだ。むしろ現実の客を相手にした瞬間から腐り始める。かの石田衣良サイレント・マジョリティーを考慮したのは、まさしく彼がクリエイター=小説家だったからだと言えよう。
・どうせなら佐々門信芳一人作画回とか入れるといいと思う。