柄谷行人「『世界共和国へ』に関するノート(9)」

最近の、株価の下落は、ものすごい。末恐しくならないだろうか。
今、日本で、ほとんどの人が、この不況で大変なことになっているのではないか。
少し前は、まわりには、ネット・株取引をやってる人がけっこういたものだ。タバコを吸ってるときも、いつも、ケータイで、株価を見ていた。あれほどの、下落が、あれほどの短時間で起きるということは、ときどきチェックしている、などというやり方では、対応できない。なんらかの方法で、ある金額以下になったら、自動で、回収する仕組みが必要であろう。
お金は、単純であり、かつ、複雑である。つまり、単純という意味は、だれもがその意味を理解し、使っている、ということ。複雑というのは、結局、これがなんなのかを、だれも説明できない、ということ。

純粋理性批判 上 (岩波文庫 青 625-3)

純粋理性批判 上 (岩波文庫 青 625-3)

を読むと、まず、あれっと思うのは、「カテゴリー」ではないだろうか。カントは人間の思考のパターンを、いくつかの、カテゴリーという形で、提示する。しかし、これは、今の人が見れば、なんのことはない、文法、そのものだ(カッシーラーが、こういったカントの側面を受け継いだんですかね)。
形式論理学がやってる、「全てのなんとかはなんとかだ」「なんとかであるなんとかは存在する」、こういったものですね。
もちろん、アリストテレスの頃から、論理学はあるし、フレーゲラッセルの形式論理、の仕事がこうやって後から現れ、今見るとカントの言ってることは、「なにを実体主義的な話してんの」、といった感じにみえる。
しかし、カントが『純粋理性批判』において、人間の理性の限界、臨界を確定しようとするとき、こういった文法的なものに、注目することが、おもしろい。彼は、明らかに、こういった所に、人間の言語活動の特徴であり、かつ、限界を感じている。
たしかにそうなんですね。言葉でなにかを表現しようとすると、いつもこれです。全て、存在、全て、存在、全て、存在、全て、存在、全て、存在、...。
これはなんなんだろう。言語の文法が、どれだけ、人間の思考の型を規定しているか。
例えば、

探究2 (講談社学術文庫)

探究2 (講談社学術文庫)

の最後の章は、「内部の思考」の形式的な批判でした。我々の思考のキーワードには、あまりに「内」「外」が多い。ナショナリズムは、その典型ですね。自国民は内、それ以外は外。友達は内、それ以外(敵)は外。しかし、まずこのキーワードを放棄するところで考えようという意欲的な思考はないのか。なんでも「内」「外」だと。お前の思考はワンパターンなんだよ。
ちょっと話が、脇にそれましたが、お金の話でした。そういうわけで、むしろこの、お金の規定している表現の言語的な型、その発生論的な問題ですね。
それが、マルクス資本論』第一巻の主題だったわけです。

商品に内在する価値などない。それは他の商品と等値されたときに初めて価値をもつ
。そして、その価値は、他の商品の使用価値で表現される。つまり、一商品の価値は、他の商品との等置形態、いいかえれば、「価値形態」において生じるのである。たとえば、商品aの価値は商品bの使用価値によって表示される。マルクスはこれを「単純な価値形態」と呼んだ。マルクスの言葉では、このとき、商品aは相対的価値形態、商品bは等価形態におかれる。いいかえると、商品bは、事実上、貨幣(等価物)である。しかし、このような「単純な価値形態」では、逆に、商品aで商品bを買った、つまり、商品aこそ貨幣(等価物)だということもできる。つまり、どの商品も自ら貨幣であると主張できる。
とすると、貨幣が出現するためには、商品bだけが等価形態にあるのでなければならない。マルクスは、こうした単純な価値形態からはじめて、「拡大された価値形態」、さらに「一般的な価値形態」、「貨幣形態」に発展することを論理的に示したのだが、貨幣は、いわば商品bが、他のすべての商品に対して排他的に等価形態におかれるようになるときに出現するわけである。たとえば、金や銀が一般的な等価形態の位置を占め、他のすべての物が相対的価値形態におかれるとき、金や銀は貨幣である。ところが、ここで転倒が生じる。金や銀がそこに位置するから貨幣であるのではなく、金や銀に特別な交換価値が内在していると考えられるようになる。

一商品は、他の諸商品が全面的にその価値を、それで表示するから、そのために貨幣となるのであるようには見えないで、諸商品は、逆に一商品が貨幣であるから、一般的にその価値をこれで表わすように見える。媒介的な運動は、それ自身の結果を見ると消滅しており、なんらかの痕跡をも残していない。諸商品は、自分では何もするところなく、自分自身の価値の姿が、彼らのほかに彼らと並んで存在する商品体として完成されているのを、そのまま見出すのである。これらのもの、すなわち、土地の内奥から取出されてきたままの金と銀とは、同時にすべての人間労働の直接的な化身である。このようにして貨幣の魔術が生まれる。

資本論 1 (岩波文庫 白 125-1)

資本論 1 (岩波文庫 白 125-1)

p.167)

今回の、サブプライムローンで、金融業界がやったことは、住宅ローンを、債権にして売ること。その、「ハイブリッド」化、ですね。ごちゃごちゃにして、さらにパックにして売った。これによって、全体の一割にもみたないはずの、不良物件が、どれがどれなのか、どこがどれくらい、それをもっているのか、どこに入っているのか、さっぱり分からなくなった。
貸付債権を証券化するとき、いわば、末端の購買者からは、かなり上の方で、なにをされているかわからない。どんどん上にあがっていった、その先で、どんな小手先の手心が加えられているとも限らない。どんな、ゴミをつかまされてるとも限らない。末端からは、高みを仰ぎ見ることしかできない。
これは、究極の金融不安だ、と思いますね。債権市場で、取引されていた商品に、ある日、「その値段に見合う価値があるのか」、が疑われる。株価、という最低でも、それなりには価値のあるとされているものが、ですね。こういう等価交換物はお金的なものとして当然流通しているわけで、それが、「一律」、値段を下げる、ということ。
お金は、上記にあるように、人間が、「交換」という行為を、ある文法的な形式において理解するときに、突然「現れる」。
交換とは、非常に高度な所作だ。なぜ、自分が手放したものと、それと同時に手に入ったものを、関係付ける、のか。
これは、人間の文法的な、形式的理解手順に依存することではないか。
もっと言えば、私たちそれぞれの、日常生活の中での、形式的な信頼、「こういう行動をとれば、相手が、こう返してくれる」という、信念のようなものに依存している。
上記の引用にあるように、ある時、日本銀行券という紙っぺらが、「一般的な価値形態」となる。しかし、もし、この「一般的な価値形態」に疑義が発生したら?
「そのお金は、どれのお金だ?」
私たちは、お金と言ったとき、ある抽象性で、話をしている(まるで、お金という抽象物が「存在」しているみたいに)。しかし、「一般」など存在しない。当然のように、それぞれのお金は、それぞれのサブスタンスをもち、違いだってある、ただの「紙」だ。つまり、お金は、お金「じゃない」のだ。
もし、その違いが、それぞれの「価値」を侵食してきたとき。
ある日突然、「一般的な価値形態」は、その魔法が解け、もう一度、「単純な価値形態」、普通の「一商品」に戻り、目の前に、ただ、ぽつんとあることに、気づく。

季刊あっと 13号 (13)

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