生命のリズム <3>


 小学生のころ、単行本を読みだしたぼくに友だちがこんなことを言った。
「まだ知らない漢字は、ウンと言って読んだらいいねんで」
 それからぼくもそうすることにした。知らない漢字が出てきてもウンと言ってとばして先に先に読んでいく。「三銃士」「ああ無情」「ロビンソンクルーソー」「岩窟王」、次から次へ夢中になってむさぼり読んだ。いつの間にか知らない漢字が読めるようになっていた。言葉が、文章が、リズムになって身体のなかに入ってくる。
 思春期にはいって、詩を愛吟した。島崎藤村土井晩翠薄田泣菫佐藤春夫萩原朔太郎室生犀星北原白秋‥‥、朗唱するうちに詩はリズムをともなって身体の中に入り込み、信州、大和、紀州、上州、北陸、筑紫、中国や世界の風土は憧憬の地となった。
 今ぼくは「じいさん教師」をやっている。高校生をマンツーマンで教えているが、いろんな子に出会う。「声を出して教材の文章を読んでください」と言うと、声の出ない子がいる。声を出そうとしないのか、声を出したくても出ないのか、苦しそうな顔をする生徒もいる。自分の声が周りに聞こえることを気にする子もいる。蚊の鳴くような声で読む子に、「もうちょっと声を大きくして」と促したりするがなかなか大きくならない。読もうとしない生徒には無理強いはしない。読む意欲が出てこないのに強制しても無理だ。

 小学校低学年から習ってきたはずの漢字が陥没したように読めない子がいた。小学校のときから不登校だった。だがその子はぼくとマンツーマンになったら、読めない漢字につまづきはしたが、大きな声で朗読した。ほめると自信が湧いて、胸張って読んだ。読むうちにリズムが生まれた。初めて晴れ舞台に立ったかのように、声に出すことは心を開き身体を開き、精神を高揚させた。
 マンツーマンの指導は進度がひとりひとり違う。教材が中島敦の小説「山月記」のとき、黙読ではなく朗読させたいと思った。声を出さないとこの文章・言語は身体に響いてこない。けれどもこの小説は難解な漢語がやたらと多く、朗読は難しい。
 全文をぼくが朗読したことがあった。内気で小柄な彼女は、日常会話もほとんどなく、声も小さかった。ひとりでやってきて、ひっそりとひとりで帰っていく。朗読を促すと、とても全文の朗読は無理だと言った。
 「じゃあ、ぼくが読むからね。よく聞いてね、文章を目で追っていくんだよ」
 ぼくはその小説が彼女のなかに入っていくといいなと思って朗読した。失意と挫折のなかで、人間の体を失い虎になっていく主人公、その悲哀と絶望。朗読していくと身体が乗ってくる。全身で朗読する。全文朗読し終わったら疲れた。
 朗読は、言霊のひびき。文学作品にはリズムがあり、香りがある。昔、NHK巌金四郎という朗読の名人アナウンサーがいた。彼がこの「山月記」を朗読したのを聴いたとき、ぼくは陶酔した。先日図書館に行くと、俳優の江守徹の朗読CDがあった。学校の授業で、こういうのを活用するのもいいと思う。
 ある時は、ぼくと生徒が適当な段落で交替して読んだ。全文朗読には抵抗していた生徒もそれに応じて声を出した。そうして朗読した子は、ひとつの大切な体験をした。朗読したことが力となる。
 生徒の内なる自然の律動に呼びかけ、命の声として朗読する。一斉授業では、一人ひとりに応じる練習はなかなか難しいが、朗読・音読は重要な学習方法である。「源氏物語」や「伊勢物語」、「方丈記」に「平家物語」「奥の細道」など、古典は声に出さねば身体に入ってこない。そして言語の香りや優雅さを味わう。それがあって、時代の人びとの生活、人間に迫っていくことができる。
 声に出す、リズムを発見する、リズムを生みだす、美を見出す、言語教育にはそれが欠かせない。
 気づいたことの三つ目である。