*ミントの人物伝その62−3[第447歩]

最初に物事を成し遂げた人は名を残します。
前人未到という言葉が、いつの時代にも光彩を放つように。


ミントの人物伝(その62−3)


1894年(明治27年)になったが議会は解散したままの状態だ。
3月1日に総選挙、5月半ばの国会再開の予定となったので
陸奥らはそれまで時間を稼ぐことができた。


陸奥はこの間に条約改正交渉を進めてゆこうとする。
しかしイギリス側も政権が変わり外相も交代したので、初めからの交渉となった。


同年4月2日、イギリスとの交渉は、青木周蔵公使が窓口となり再開された。
新条約についてイギリス側は
居留地における土地所有権、新条約発効期日、関税協定などの点で難色を示したが
意外にも領事裁判権の徹廃についてはそれほど強い言及はなかった。


じつはイギリスはこの頃、
東進するロシアが日本に対し野心を持っていることに警戒心を強めていた。
今後はロシアを牽制するため、
日本をイギリスの同盟国として扱ってもよいのではないか
という戦略的な考えに変わってきていたのである。
国際情勢の変化が日本に有利に作用したといえる。


青木周蔵


しかし交渉の場ではそんなことはおくびにも出さず
新外相のキンバレーは青木公使に対しこう言った。
−新条約は日本にとって有利なばかりではないか。
何らかのイギリスに対する譲歩があってしかるべきだ−
こう言って、函館の開港間貿易、できれば根室も含めてほしいと求めたのである。


青木公使はイギリス側の真意を測りかねて陸奥と相談する。
陸奥は話を聞いて
イギリスの要求はもはや戦略的なものだ。
領事裁判権の放棄も関税権の回復もきっと可能だ、と看破した。


陸奥は青木に
一応はイギリスの提案を拒否せよ。
もしイギリスが譲歩しないのなら函館港など一定の譲歩をしてもかまわない。
と指示した。


7月12日、最後の交渉。
はたして陸奥の読み通りに推移した。


1894年(明治27年)7月16日、日英通商航海条約がロンドンのイギリス外務省において
青木公使とイギリス外相キンバレー外相との間で調印された。
日清戦争の開戦の約半月前のことであった。


かつての反対論が嘘だったように、日本中が新条約を支持する空気に包まれた。


日英通商航海条約の主な内容は次の通り。


1.英国の領事裁判権及び特権を撤廃する。
2.日本国内を外国人に開放する。
3.日本の関税自主権の一部回復を認める。
4.相互対等の最恵国待遇を規定する。
5.条約は1899年に発効し、有効期間は12年間とする。


この条約により、領事裁判権は完全に撤廃することが出来た。
関税自主権についてはまだまだ問題は残ったが、
領事裁判権の撤廃を主目的としていたわけだから、目的は達成されたといえる。
以降は同じ内容の条約をアメリカ、フランス、ドイツ、ロシアなど14カ国とも調印した。


日英新条約調印の電報を受けとるや、陸奥はすぐさま斎戒沐浴して皇居に向かい、
その旨明治天皇に報告した。
またロンドンに打電し、イギリス外相に感謝の意を伝えている。


キンバレー外相は、
「日英間に対等条約が成立したことは、日本の国際的地位を向上させる上で
清国の何万の軍を撃破したことよりも重大なことだろう」
と語ったという。


日英通商航海条約により、日本は領事裁判権の完全撤廃を成し遂げ
治外法権の束縛から解き放たれることとなった。
また最恵国約款が相互的となったことは、日本の国際的立場を向上させることに
大きく寄与した。


陸奥は運が良かった、国際情勢が味方をしたのだ、という意見もあるかもしれない。
でも良い時期であったとしても、成果を出すのはやはり人なのである。
陸奥が的確な判断をしなければ、新条約は締結できなかっただろう。


一方、同年5月に朝鮮で甲午農民戦争が始まっていたが、日本は清の出兵に対抗して派兵。
日清戦争が始まる。
この間、陸奥はイギリス、ロシアの中立化にも成功した。
この開戦外交はイギリスとの協調を維持しつつ、対清強硬路線をすすめる川上操六参謀次長の
戦略と気脈を通じたもので陸奥外交」の名を生んだ。


戦勝後は伊藤博文とともに全権として
1895年(明治28年下関条約を調印し、戦争を日本にとって有利な条件で終結させた。
しかし、ロシア、ドイツ、フランスの三国干渉に関しては、
遼東半島を清に返還するもやむを得ないとの立場に立たされる。
日清戦争の功により、伯爵になる。


1896年(明治29年)、外務大臣を辞し、大磯別邸やハワイにて療養生活を送る。
1897年(明治30年)8月24日、肺結核のため西ヶ原の陸奥邸で死去。
享年53歳。


なお3年後の1900年(明治33年)に陸奥亮子も死去している。
生前の夫婦仲は良かったようだ。
陸奥は監獄に収監中だけでなく、ヨーロッパ留学中も
亮子にまめに手紙を書き送っていたらしい。


1907年(明治40年陸奥の功績を讃えて、外務省に彼の像が建立された。
歴代の外相で銅像となったのは彼だけだという。


了)


(参考文献)
「教科書が教えない歴史」(自由史観研究会)
陸奥宗光」(岡崎久彦
  Wikipedia 、他
  写真は Wikipedia、web から借用しました。



[平成24年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20121230


[平成23年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111231


[平成22年の記録]
 http://d.hatena.ne.jp/mint0606/20111230



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