テイトメー 父よ母よ/はやまみゃ/飛蝗

父よ母よ/はやまみゃ/飛蝗



あらすじ

 葉山真心は自己紹介が大嫌いだ。元より自分の名前が大嫌いだ。高校入学直後の自己紹介では「はやままごころ」と「ま」が二度続いてしまうせいで噛んでしまい、「はやまみゃ」と云って笑われた。
 ある日、彼女に里見江利子という同級生が声をかけてくる。真心は江利子と友人になるが、江利子は向坂直弼という男子に思いを寄せていた。真心は上辺だけで応援の言葉を吐くが、これが後悔を誘うことになる……




テイトメー

 本作は、先日のねとらじに於いてムラムラオ氏にお薦め頂いた作品である。とりあえず「はやまみゃ」は読んでおいたほうがいいとのことなので失敬した。


 なんとなく雰囲気はわかった。
 書き慣れている人間の文章であり、無駄が省かれている。要点を絞って書かれているので、あまりブレがない。サブタイトルが最初は意味がわからないが、一読すれば自ずと理解できる。そして暗に示されている真心の後悔というのが、おそらく直弼に対する恋慕がかかわってくるだろうことも想像に難くない。巧みなリードである。




オンヌ


 さて、本作は三人称視点を取り入れているが、そのなかでもいわば「神視点」とも云われる「作中世界の過現未や登場人物の心理の微細に至るまで、すべて理解把握している全能の視点」が選択されている。これはヨーロッパの哲学者が書いた小説や三島由紀夫の小説などにも用いられているようで、物語の作者が作中世界においての神であることをおおっぴらに露見させている。哲学者や三島の小説には、おそらく作者の思想を説明せんがためのツールとして小説が使われていて、そのために仮想世界をつくりだしているのであり、文学のなかでも堅苦しくなる印象が強い。本作もその例に洩れず、真心の未来を暗示するという神の視点によって、どうも掌の上で転がされているという「遊ばれている感触」に苛まれることになる。僕の得意な形態ではない。


 そして真心の言葉の堅さも、おそらくは彼女自身の心の壁の具現ではあるんだろうけれども、少しくストレスを感じる。彼女は自己紹介のときに「死すべし」と呟く。江利子に好きな人はいないか尋ねられて「一切皆無」と云う。このキャラに慣れるのは難しいかもしれない。
 だがこれは真心だけに限らず、他のキャラにも云えるかもしれない。向坂直弼は真心の自己紹介で彼女がとちったのを笑い、先生に叱られ、過ちを認め、激励され、自ら罰を受けに校庭へ走りに行く。爽やか系を上回る素直系とでも云おうか、そういった記号的キャラを感じた。もちろん1話であるから、キャラをキレイに定着させるのは難しい。話が進む上で、キャラをいかに定着させていくのかが要点とも云えるだろう。

テイトメー 四季 春 Green Spring(THE FOUR SEASONS)/森博嗣

■あらすじ

 僕は透明人間だ。僕はいつも四季の傍にいる。四季は五歳だけど子供らしくなくて、とても頭がいい学者だ。天才だ。
 ある日、僕らのいる病院で看護婦が殺される。四季は犯人がわかったみたいだけど、教えてくれない。
 四季の元に各務亜樹良(かがみあきら)が現れ、四季の資金集めを手伝う。けれど四季は云う。「私、別に、生きていたいなんて思わない」「生きていることが、どれだけ、自由を束縛しているか、わかっている?」
 四季は僕を必要としてくれている。けれど僕はなんなんだろう……?




■テイトメー

 森博嗣の小説は即答できるもので「すべてがFになる」「虚空の逆マトリクス」「φは壊れたね」ぐらいだけれど、今回はかなり異色だった。
 まず主人公は「僕」であり、名前を明かされず病院で暮らす「透明人間」である。体に包帯を巻いていて、驚かれるのを嫌がって最初は四季にも包帯をほどいて体を見せることはない。
 そして真賀田四季(まがたしき)。「すべてがFになる」でも登場した稀代の天才であり、本書はその四季の幼年時代を叙している。ちなみに四季シリーズとして『春』『夏』『秋』『冬』とあるので、推測するにおそらく真賀田四季の成長もしくは死に至るまでの経緯をこの四冊で表しているんだろう(四作を合本したものもあるってさ)。


 「すべF(すべてがFになる)」では大人になった四季があんなことになるわけだけれど、本作では幼年であり五歳から始まる。が、天才としは開花しており、裏表紙のあらすじには『天才科学者・真賀田四季。彼女は五歳になるまでに語学を、六歳には数学と物理をマスタ、一流のエンジニアになった。』とある。いわばラノベとかアニメに出てくるような記号的な天才ではなく、作者・森博嗣の考える「真の天才」を具現化しようとしたのが真賀田四季だろう。
 彼女は「四季ちゃん」ではなく「四季さん」と呼ぶよう強制(呼ばれたがる、ではなく強制)し、本に集中しているときに話しかけても無視し、本を読んでいるときに「僕」が他人と会話していると本を読みながら相槌を打ってくる。子供っぽさをもたず、小さな体に見合わぬ大人びた(もしくは気質的な)言動をする(体は、子供。頭脳は、大人!)。この幼年であるが天才ゆえに理解してしまっているというぎこちなさと、天才ゆえに無能な人間を切り捨てる無情なところが同時に介在している。
 こんなふうに「天才とはどういうことか」といった具体的内容が、いくつかは「すべF」でも表されていたが、本作では如実であり難解でもある。


 本書の見所は「天才・四季の思考と言動」と「”僕”という透明人間の存在」と「看護婦殺人事件」の3つである。
 このうち最後の「殺人事件」は、ほとんど重要な位置を占めておらず、四季が犯人を知りつつ教えないというイケズなことをすることで作中全体を通して謎を残すことと、ミステリとして体裁を保つぐらいの理由らしい。しかし謎というほど長続きする興味をもたせられていない(「すべF」でもそのケがあった)し、だから単に殺人事件が起きる作品=ミステリという程度の浅はかな存在理由にしかなっていないと思う。一応はドンデン返しっぽい殺人事件の内容にはなっているけども、別のカタチで明かし方のほうがしっくりするような気がした。殺人事件として露見することがひとつの形式であるということはわかるんだけど、その犯人を明かさないというのが「謎を残す」という浅はかさに繋がるんじゃないかなぁ。ミステリとしてはかなり半端だから、殺人事件は起こったりするけどミステリじゃない形式、だとかにしたほうがよかったのかもしれない。まあ、本作がミステリだなんて作者は云ってないんだけどね。


 森博嗣が僕より頭がよくて年齢も上で経験も豊富だってのはわかってんだけど、この人のトリックは「せこい」印象を受ける。物理トリックをあんまり使わずに、使ったとしても最終的には「概念」を操ってなんだかんだごまかす、みたいに受け取れる場面がある。本作ではそれが「透明人間」であるが、どのように透明人間が存在し続けていられるかが読者の興味であって、それをあんなふうな理由にするのはある種の裏切りだと思う。京極夏彦の「姑獲鳥の夏」も、最初は「なるほどおもしろいなー」とか思ってたけど、同じ理由で「それはどうなんだろう……」と納得できなくなってしまった。


 そういえば京極夏彦の、逼迫したシーンで連続改行するという書式を、真似ているような書式があった(僕も真似てますが)。京極氏の場合はスピード感を出すためだろうけど、森氏の場合は動的でも活発でもないシーンで使っていたから、たぶん印象に残すためのスローモーションみたいな役割だと思う。



■いんとれすちんぐ(興味が湧いた箇所)



 四季の補佐役で森川という女性が登場するが、四季の母親が森川を辞めさせようとしたという話題を”僕”と四季とで話すシーンにて、こんなものがある。



四季「私も期待してはいない。お母様の判断は、実はとても優しいものだし、それに正しいわ」
僕「正しい?」
四季「正しいなんて、その程度のものです」



 この言葉が読んだ瞬間に少し残った。2006年にベストセラーとなった「国家の品格」で作者・藤原正彦が「論理は間違っている」と云っていたのを多少の疑問があれど納得できた僕は、「正しいなんてその程度」という簡単な言葉が少し心地よかった。


 別の、森川の進退を相談する2人の会話でこういうのもある。



僕「気をつけた方が良い。ヒステリィになられると困る。おかしな兆候があったら、早めに切った方が良いと思うよ」
四季「リスクは大きくはない。適度に優しくはしているつもり。面倒だけれど」
僕「賢明だと思う」



 この2人の非情とさえ映る器質さにシビれましたw


 また”僕”が四季に「僕の命に、何の価値があるかな?」と聞いたとき、「貴方の価値は、私が知っています」と云うシーンがある。このときの地の文で、こんなものがある。一部略。



彼女には、価値がある?
僕の、命が?
背筋がぞっと寒くなる。
何が僕を惹きつけるのだろうか。
つまりは、既に僕は、彼女の中に取り込まれた部品の一つ、ということだろう。僕は彼女の一部になってしまったのだ。隷属しているのだ。



 この隷属という、いわば透明人間・僕は四季の奴隷だと知るのだが、彼は彼女の部品として少しでも彼女に影響を与えられることを幸せと感じる。これを見て、この主従の関係をふと不思議に感じた。
 上位の四季は下位の透明人間に指令することができ、下位の透明人間は上位の四季に反抗することは許されない。一般的には下位であれば自由がなく不幸だとされる。でも、上位の四季は、四季の存在すべての一部分を使って透明人間に接するのであって、下位の透明人間は、全身全霊をもって四季に接するのである。そして透明人間・僕はそれに喜びを感じている。透明人間はとても幸せじゃないだろうか? 下位ではあるが、上位の四季よりも。そう考えると、主従というのも本人たちの見方で一般的見解とは異なるものかもしれない。


 森博嗣は英語も堪能らしく、カタカナ語での伸ばす音「ー」を省略したりするのは通例(「ミステリー→ミステリ」「ヒステリー→ヒステリィ」など)だが、「ワイパー」を「ワイパ」にするのはさすがに無理があると思いました。FUJIWARA原西のギャグかよ。



原西「ワイ、パッ!」



 「いないないばあ!」のように顔を隠してから「ワイ(関西弁でワシなどと同じく自分のこと)」が「輝く」だとか「パッと現れる」という意味で、「パッ!」と云いながら手を開いてあのゴリラ顔を露出させるのである。彼には色んなことにめげずにやっていってほしいと思います。



あ、引用は一部略してます。

テイトメー サカサマサカサ3章/只野空気

あらすじ

 テーマパークを訪れた一同。思いのまま遊び、観覧車に美穂たちと乗ったところ、停電で停止してしまう。祐斗はまた「あーちゃん」のことを思い出す。
 途中で眠ってしまった美穂は、いつのまにか自室で眠っていた。目が覚めると恋がそばにいて、祐斗のことが好きだと打ち明けられる。
 そして美穂は学校を休み、祐斗は先生から手紙を美穂の家へ届けるよう頼まれる。そこで祐斗は、美穂の弟・大河が登校拒否していることを知る。祐斗がお粥とウサギの林檎をつくると、美穂はおいしそうに食べるのだった。
 その帰路で男に絡まれていた西条赤を助け、祐斗は返り討ちに遭う。
 そして修学旅行が近くなった頃、祐斗はふと美穂にウサギの林檎のことを訊ねる。それは「あーちゃん」の好きなものだった……




テイトメー

 本章の目玉は、テーマパークと美穂の弟・大河のことである。
 テーマパークの話では皆で遊ぶだけではなく、恋が祐斗を好きだということが露見する。美穂は祐斗を「好きじゃない」と云おうとするが、なぜか言葉にできなかった。美穂の心情の変化が見てとれる。
 そして大河の不登校は、姉の美穂にとっては自責の理由になっている。ここでも「あーちゃん」の影が見え隠れする。随所に「あーちゃん」へと続く伏線が配置されている。
 このなかでも物語の中核といえるのは、美穂の心情の変化だろう。当初は嫌っていた祐斗のことを、それほど嫌がってはいない。少しずつではあるが、兆しが見えてきているようだ。

オンヌ

 ハーレムです。そうなのです、ハーレムです。ハーレムであることが問題なのではなく、理由なきハーレムが問題なのです。なぜ祐斗はこんなにも愛されるのでしょう? 絶チルであるならば、「エスパーを認め、ノーマルと隔てずに接してくれた人」として理由があります。僕は「ハルヒ」に於いても、ハーレムに至る決定的な理由を見出せずにいます。キョンキョンであるから好かれているのではなく、”主人公”であるから好かれるのと同様に、本作でも”主人公”であるから愛されるという構図であるように思います。さて、章の始めに遊園地へ行く話があるが、そこで恋・可憐・花梨が登場する。この3人は名前の音が似ていて、レン(REN)・カレン(KAREN)・カリン(KARIN)とラ行+ンという音で構築されています。本来こういう名前のつけ方は、区別を煩雑にするためあまりよくない。だが、漢字のおかげか、とくにこの場合はそうでもないようです。本章もあらすじに概略するのが難しいものでした。たとえば18話は、美穂の家に行くというイベントの残滓(ウサギの林檎の話題を持ち出したいだけ)と、修学旅行があるという伏線を張るという2点のみに集約されるようで、これほどのスペースを割くというものではないように思います。ところどころに伏線があるようなので冗長とまでは云いませんが、削れるが削らない部分が多いと感じました。これは以前から少し感じていたことですが、プロに近いほど「文節に意味がある」ように思います。ここでいう文節とは、「改行とインデントを施す」ことが次の節に移るということで、インデントごとに節があると見なしていただければわかりやすいかと思います。

テイトメー 死後の恋/夢野久作

あらすじ

 浦塩の通りで、コルニコフというロシア人に声をかけられ、彼の「死後の恋」の話を聞いて肯定してくれれば、全財産を譲り酒で死のうと思っている、と告げられる。
 コルニコフは出兵中にリヤトニコフという兵卒と仲睦まじくなった。リヤトニコフは彼を厩(うまや)へ連れて宝石を見せた。そして自分が王族であることを明かし、家族が殺されたと吐露した。コルニコフは厄介事に巻き込まれたくはなかったため適当にあしらった。
 後日、行軍の最中に彼らの隊は敵の攻撃に見舞われる。コルニコフは負傷し、仲間たちは森へと逃げていった。攻撃がいつしかやんだが、彼はなぜか森のなかへと向かった。そこでは仲間が惨劇的に殺されていた。振り返った彼の目に、裸で死んたリヤトニコフの姿が映る。リヤトニコフは女だった。弾丸の代わりに宝石を打たれたらしく、彼女の下腹部には宝石が血にまみれて埋まっていた。
 コルニコフは云う。彼女は自分に恋をしていて、宝石は結婚資金だったんだろうと……




テイトメー

 「死後の恋」というタイトルから、コルニコフが誰かに恋するものと勝手に想像していたために、リヤトニコフ=女という図式にまったく気づけずに驚かされた。使い古された技巧を使いこなす術を、夢野ちゃんは心得ているようです。任天堂で活躍された横井軍平さんの「枯れた技術の水平思考」ではないけれど、技術を生かすも殺すも使う人間次第であるとは改めて気づかされました。
 しかし若干の「それでいいのか?」という疑問は残りましたね。コルニコフの「リヤトニコフが死んだ後も私に恋をしている」という考えはあくまでコルニコフのいち見解であって、真実であるかはわからないのであるからです。
 とはいえ、リヤトニコフの死の無念、それでも宝石だけは盗んできたコルニコフの愚かさ、そして話をしても誰にも理解されないコルニコフの哀れ……。一読でいくつもの感情が見え、感じることのできる作品でした。

 始めは日本でロシア人が日本人に語りかけている2人称視点の小説かと思いましたが、浦塩(うらじお)という地名で「あ、ウラジオストックか」とロシアが舞台であることに気づきました。

 この話は、けっこうまとめづらい。まずロシア人ということで「コルニコフ」と「リヤトニコフ」という似通った名前で区別がつきにくいという点。そして主人公コルニコフの宝石がらみの感情という点。そしてリヤトニコフの死の描写という、この3点が端的には表現しづらかった。
 まずロシア人の名前に関しては、僕らはロシアにさほど知識がないので、名前を聞いただけでは男女の区別すらわからない。これはおそらくこのブログを見て下さってる方もそうだと思うが、それ以上に僕はロシアのことを知らない。さらにはロシアの王族がらみの話へと展開させられるため、そういった知識も要求される。本作は「ああッ…… アナスタシヤ内親王伝家……」とあるが、これが厳密になにを指すのかが僕にはわからなんだ。自分がわからないことを他人に伝えることほど難しいことはない。だから上述のあらすじでは、完全にすっとばしてやった(キリッ)。
 次に主人公コルニコフの宝石がらみの感情であるが、コルニコフは宝石好きでありながら、リヤトニコフの王族うんたらの厄介事には巻き込まれたくないと思っていた。これを正確に表記すると、けっこう煩雑になるのである。さらには行軍中の攻撃で仲間とはぐれた後、主人公コルニコフが森のなかへ向かうのであるが、ここで地理がうまく把握できずに物語の流れが了解できなかった。しかもコルニコフが森へと向かう理由も明確でなく、「リヤトニコフが死んでいれば宝石が手に入るかも」という動機へ安直に繋げていいかもハッキリしなかった。とどのつまり、ややこしかったということ。
 そしてリヤトニコフの死の描写だが、「実は女でした〜、テヘッ☆」っていうのは昔からよくあるし、端的に表現するのも難しくはなかったけれども、宝石がリヤトニコフの下腹に猟銃で撃ち込まれていたってのが短くしづらかった。空砲にして銃弾の代わりに宝石を込めて、いわば「宝石の弾丸」をリヤトニコフに撃ち込んだらしいが、ひょっとしたらコレは明喩かもしれないと思ってしまったのだ。明喩とは直喩とも呼ばれ、対義語に暗喩(隠喩・メタファ)がある。暗喩が「〜みたい」とか「〜のようだ」と云うのに対して、明喩ではそういった定型の表現を用いない。たとえば「あいつは政府の犬だ」と断言しきったとしても、本当に犬という種であるわけではなく、あくまで比喩として「政府に飼われている」と蔑んでいるわけである。だから宝石を体に猟銃で撃ち込む、という非現実的な方法を「明喩か!?」と躊躇させたわけである。この猟銃云々の直前には、「強制的の結婚」という表現があり、おそらく女であるリヤトニコフが凌辱されたと見られる箇所がある。ここが明喩であるだけに、後に続く猟銃の部分も明喩かもしれないと思った次第なのです。それに敵軍は宝石を撃ち込むだけで盗まなかったらしいのも変だし。
 この3点が、あらすじにまとめる上で困難な箇所だった。ちなみに「あらすじにまとめる」というのは、立派な小説の技巧訓練です。

テイトメー サカサマサカサ2章/只野空気

あらすじ

 テストが始まり、成績不振な祐斗とその友人の藤村と恋は、美穂に勉強を教えてもらうことになる。
 その日の帰路、美穂は自分の能力の確認をして祐斗にケガを負わせる。2人は警官と出会うが、警官は最近よく発生していたネームレス(能力者)殺しの犯人だった。一般人を殺してネームレスと勘違いさせていた警官を前に、美穂は気絶する。美穂を抱えて祐斗は逃走する。
 後日、ケガをした祐斗に驚いて、前に下駄箱でぶつかった少女・西条赤が現れる。
 そしてテストの結果が返ってくるが、祐斗は赤点をとってしまう。美穂は自ら教師役を買って出る。その結果、祐斗は再テストで満点をとる。美穂が「赤点をとらないでほしい」と願ったにもかかわらず……




テイトメー

 この章の末では、美穂の能力への変化もしくは矛盾が発生する。美穂は「赤点をとらないでほしい」と願ったのだが、祐斗は再テストで満点をとったのである。次章へと繋がる謎としては申し分ない。
 そして警官……もとい殺人鬼との対峙である。「ネームレス排除をしている警官がいる」とされていたが、殺していたのは一般人であり、その一般人をネームレスを偽って報告していたのである。その直前、美穂は祐斗に「電柱に頭をぶつけろ」と考えたにもかかわらず、そうならなかったことに疑問を感じて、「こけるな」と願う。そしてこけた祐斗は胸にケガを負ってしまう。さらに美穂は警官との対峙で気絶してしまい、祐斗に助けられる顛末となる。祐斗の再テストで教師役を買って出た美穂の心中にあったのは、感謝だろうか? それとも引け目だろうか? どうやら美穂の心中も、少しは変化があったようである。


オンヌ

 まず対峙の直前の、祐斗がケガを負うシーンである。美穂が自分の能力がうまく働いていないように感じたため、確認のために祐斗で試して倒れさせてケガを負わせるのだが、なぜこけて「胸」にケガを負うのか、説明が一切ない。普通は手や肘、膝、顎などじゃないだろうか? なぜ胸にケガを負い、「血がにじむ」のだろう? 服に血がにじんだとするなら、なにか突起物が胸にあたったりしないと流血はしないだろう。しかしその説明はない。不完全燃焼である。

 そして西条赤の登場に関して。髪が赤く、祐斗とは下駄箱での因縁がある、とのこと。記憶を辿って7話を読み返してみると、女生徒とぶつかるシーンがある。そして以下の文へと続く。

[俺の名をつぶやいた目の前の女子は、それだけを口にして、顔を真っ赤にしながら、顔と同じ色の髪をなびかせて走り去っていってしまった。]

さすがにそりゃ煩雑でしょう……? まず↑の文で、「女生徒=赤い髪」と定義せずに「女生徒≒赤い髪」としている。それで今回の西条赤の登場で「赤髪」としても、わかりにくい。なぜ7話の時点で「女生徒の髪は赤かった」みたいに明言しなかったのかがわからない。明言することでデメリットがあるのならわかるが、デメリットがあるようには思えない。



<ちょっと一言>
すべてを見たい人と、いいところだけ見たい人とがいると勝手ながら判断して、傍目にはいいところだけ見えるようにした。すべてを見たい人だけが少しの労力を駆使すればいいと思う。なにも見たくない人はそもそも、ここに見に来ないだろうしね。

テイトメー サカサマサカサ1章/只野空気

あらすじ

 ある日、白金祐斗が出会った少女・黒須美穂、彼女は逆転現象<サカサマサカサ>――自分が思ったことと反対のことをしてしまう――という能力をもっていた。
 美穂が祐斗のクラスに転校してきた日、同級生に手を触れられそうになり、美穂はその生徒を突き飛ばす。すると突然、窓ガラスが割れてその生徒がいた場所に散らばった。美穂は生徒を助けたとして感謝される。
 帰路で妹と鉢合わせ、美穂が隣に越してきたと祐斗は知る。そして公園に立ち寄ったとき祐斗はふと昔よく遊んだ「あーちゃん」という幼馴染のことを思い出すのだった。





テイトメー(このブログでのレビュー)

 この作品は、妹との和みシーンから始まり、読みやすさが演出されている。ただ「妹を無視し続ける兄」という構図が少し伝わりにくいかもしれない。また作中人物の名が2話の後半で登場するため、多少の困惑があるかもしれない。
 さて、プロローグでは作中世界における異能者の存在とその種類について述べられているが、タイトル「サカサマサカサ」とはヒロインの能力のことである。その能力を有する黒須美穂は、自分が感じたこととサカサマのことをしてしまう。
 物語中にはいくつも伏線が張られており、事前の設定がなされていることを示している。1章を読むだけではまだ謎のシーンもあるが、ストーリーを読み進めていくことで明かされていくことだろう。





テイトメーとは、このブログでのレビューのことを指します。完全な造語なので、どこの辞書にも載ってないし特に意味もなかったりして。

オンヌ
<オンヌとはテイトメー、つまりTATEMAE(たてまえ/建前)に対するHONNE(ほんね/本音)です>

 僕はtxtデータは印刷して読むようにしているんだけども、紙面に写して1章を全体的に見てみると、1話と2話がほとんど意味をなしていないのがわかる。ヒロインとすぐに出会えばいいものを、なぜか妹とのシーンが続くのである。ひょっとすると1・2・3話は統合されていたが、4話以降と比べると長くなってしまったために分割されたのかもしれない。それに1話はキャラ名も出さず、主人公が妹を徹底的に無視するという不可思議なシーンとなっている。1話めでこれだと、「主人公はまともなコミュニケーションがとれないキャラじゃないか?」と疑問を生ませる。掴みをとるのが苦手な僕が云うのもなんだが、完全に掴みには失敗していると思う。1話が他の話に比べて突出して煩雑である。

 またサカサマサカサという能力も難しい。「ヒロインが意図することとは別のことが起きる」という能力であるが、これが「話したくない」と思っているのに「話してしまう」という程度なら問題ないが、「馬鹿と話したくない」と思った場合は、「馬鹿と話してしまう」のか、それとも「馬鹿でない人間と話したくなくなる」のか、ということである。これは「話したくない」という否定的な感情が単一であるから、能力が発揮される場合は「話したくない、の逆をする=話してしまう」となるが、「馬鹿と話したくない」を否定しようとすると「馬鹿」と「話したくない」とに分けることができるため、「馬鹿の逆=馬鹿でない人間」と「話したくない、の逆=話してしまう」という2つの可能性が現れてしまう。これは設定の方法によっては逃れることもできるかもしれない。

 だが、既に失敗していると見られる箇所がある。たとえばこの箇所。

  自分が忌み嫌う能力の名前なんか考えたくは無かったが、思いついたのでそう呼んでいる。

 4話にて美穂が自分の能力について語るシーンでのことである。心底から「考えたくない」と思うなら「考えない」と能力が発揮されて、美穂が自分の能力にサカサマサカサという名をつけてしまったことが、能力の説明と矛盾する。ひょっとすると1章以降で説明がつくようになっているのかもしれないが、この問題を広げていくと「美穂が心底から思っていることってなんだ?」となる。心底イヤだと思っていることは能力のせいでしてしまうが、少ししかイヤと思っていないことは能力が発揮されないからしないで済む。つまり美穂がイヤだと考えていることでも、しないで済んでいることが数多くあることになる。実はまだ問題があって、それは「運命への抵抗」にも繋がってしまうことなんだが、それはまた後日。

レビュー 文章/芥川龍之介


あらすじ

 ある日、堀川保吉教官は弔辞の作成を頼まれる。死んだのは、保吉のあまり知らぬ少佐だった。保吉は小説も書いていたが、弔辞の作成には飽き始めていた。だから授業が始まるまでの30分で、弔辞を書き上げてしまった。
 葬式の当日、保吉の弔辞を校長が読み始めると、死んだ少佐の家族や弔問客は涙を流した。保吉は満足と共に罪悪感にさいなまれる。
 帰る途中、保吉は自分の小説への酷評を目にする。心を尽くした作品は蔑まれ、簡単に仕上げた弔辞が感動される……。保吉は落胆するのだった。




書評

 読んでいて思ったのは、芥川の小説は密度が高いということだった。作中では「上は柿本人麻呂から下は武者小路実篤に至る語彙の豊富を誇って」と保吉の筆力を表現しているが、芥川の語彙や葬式から始まる宗教知識などが、短編のなかにどっしりと構えている。あまりその知識が疎ましがられたりもせず、衒学的にも見えないのは作者の力量ということだろうか。まァ、それでも堅ッ苦しいのは否めないけど。

 本作のテーマについては、小説のみならずともいわゆる「クリエイティヴ(ヴで下唇を噛む)」な作業を営んでいる者ならば、プロ・アマ関係なく少なからず感じることだと思う。鋭意してつくったものが受けずに、気持ちを微塵も込めずに作ったものが評価を受ける。作品の魂ともいうべき作者の情熱に始まる感情の、いかに伝わりにくいことか。



 ちなみに主人公の保吉がバットを吸うシーンが見られるが、このバットとはおそらく「ゴールデンバット」のことであり、「朝日」などの銘柄と共に時代を感じさせる。僕自身はタバコを吸わないので、昨今の銘柄も詳しくないが、以前コンビニでのバイトをごくごく短期間だけしていて、そこではよくある”オッチャンが自分だけの略称で銘柄を指定し、すぐに出さなかったらキレたり、『いつもの』とか云い出して、すぐに出さなかったらキレたり、挙句には金銭を放り投げてよこす始末”を喰らったおかげで、トラウマにも似た苛立ちを伴って幾つかの銘柄は思い出すことができる。
 あと同年の友人でやたら背伸びしたがるヤツがタバコをふかすので、タバコとは背伸びの道具であることも知っている。
 さらにはゲーセンに行くと、やたら甘いフレーバーを醸し出している輩もいるので、自己顕示のツールであることもわかっている。
 このように、僕自身の経験知ではタバコにいい見識がないのだが、なるほど銘柄によって時代を感じさせることができるんだなァ、と(作者はそれを狙っていたのか定かでないにせよ)思った次第なのです。