松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

「渡嘉敷島集団自決」について

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/topics/16661/
「「軍命令は創作」初証言 渡嘉敷島集団自決 元琉球政府照屋昇雄さん」
http://b.hatena.ne.jp/entry/http%3A//www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/topics/16661/
はてなブックマーク - イザ!:「軍命令は創作」初証言 渡嘉敷島集団自決 元琉球政府照屋昇雄さん-話題!ニュース
http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20060828 経由)

皇国皇軍の責を問えるかそれとも、住民の自発的行為か、がまず第一の論点です。その論点を問わず、ある特定の部隊長が「命令」を発したかどうか、かどうかという法的論点に焦点を当てるべきだと考えるのは、最初から論点のすり替えだ、(野原)

話題になっているようだが、野原が去年論じた水準に達している議論があるのなら教えてください。

 教科書裁判第三次訴訟での一つの論点が沖縄戦における「集団自決」についてであった。その取組みのなかで、「集団自決」とは「住民の自由意思によるものではなく、日本軍の圧倒的な力による強制と誘導に基づく集団殺しあい」であり、「言葉の本来の意味において集団自決はなかった」ことが明らかにされた1 。
http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper11.htm

 渡嘉敷島には海上挺進第三戦隊とそれへの配属部隊として勤務隊、整備中隊、特設水上勤務中隊の一部などがいた。駐留していた日本兵から島民に対し米兵の残虐さがくりかえし宣伝され、いざとなれば死ぬしかないと思わされていた。この点は日本軍がいたところではすべて共通している。
 三月二〇日村の兵事主任を通して非常呼集がかけられて役場の職員と一七歳以下の青年あわせて二〇数人が集められた。ここで兵器軍曹が手榴弾を二個ずつ配り、いざというときにはこれで「自決」するように指示した。二三日米軍の攻撃が始まり、二七日朝米軍の上陸が始まった。軍は兵事主任を通じて島民を日本軍陣地の北側の谷間に集合するよう命令した。島民はそこで一晩をすごした後、翌日軍から自決命令が出たという情報が島民に伝えられた。また防衛隊員が島民に合流し、手榴弾を持ちこんだ。配られた手榴弾により「自決」が始まった。不発弾が多く、生き残った人たちは男が家族を棒で殴り殺したり、鎌や剃刀で殺していった。残った人たちは日本軍陣地に向かうが追い返され、その近くで「集団自決」をおこなった。犠牲者は三二九人と言われている。
 その後、日本軍による住民虐殺がいくつか起きている。米兵の投降の呼びかけに対して、「投降したら殺す。投降するのはスパイだから」と島民を脅す日本兵がいた。投降することもできず(もとより投降しようという考えを持たないように徹底して教育されていた)、日本軍の保護も受けられず、島の端に追い詰められた島民にとって残された道は死しかなかったといえよう。
 軍による事前の徹底した宣伝によって死を当然と考えさせられていたこと、軍が手榴弾を事前に与え「自決」を命じていたこと、島民を一か所に集めその犠牲を大きくしたこと7 、防衛隊(防衛召集された正規の日本兵)が手榴弾の使い方を教え「自決」を主導したこと、島民が「自決」を決意したきっかけが「軍命令」だったこと8 、日本軍による住民虐殺にみられるように投降を許さない体質があったことなどが指摘できる。
(同上)

野原燐 の表現など
http://homepage3.nifty.com/luna-sy/re54.html#54-1
いざとなったらこれで死になさい culture review54

0) http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050724#p3

http://d.hatena.ne.jp/gkmond/20050725/p1

1) http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050726

http://d.hatena.ne.jp/gkmond/20050726#p1

2) http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050730#p2

3) http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050803

http://d.hatena.ne.jp/gkmond/20050804/p1 

4) http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050807

http://d.hatena.ne.jp/gkmond/20050807/p1

5) http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050816

参考(http://www.nomusan.com/~essay/essay_31_tokasikijima.html

6) http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050820#p1

7) http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050824

キーワード・大江健三郎沖縄ノート曾野綾子・赤松嘉次 

gkmondさんのブログは現在読めません。

悲惨

ニューヨーク・タイムズ』のウオーレン・モスコウ記者は45年3月29日付で、「渡嘉敷の集団自決」の見出しで次のように報じた。
(略)
われわれは朝まで待つことにした。その間人間とは思えない声と手榴弾が続いた。ようやく朝方になって、小川に近い狭い谷間に入った。すると「オーマイガッド」何ということだろう。そこは死者と死を急ぐ者たちの修羅場だった。この世で目にした最も痛ましい光景だった。ただ聞こえてくるのは瀕死の子供たちの泣き声だけであった。
 そこには200人ほど(注・Gリポートには250人とある)の人がいた。そのうちおよそ150人が死亡、死亡者の中に6人の日本兵がいた。死体は三つの小川の上に束になって転がっていた。われわれは死体を踏んで歩かざるを得ないほどだった。およそ40人は手榴弾で死んだのであろう。周囲には、不発弾が散乱し、胸に手榴弾を抱えて死んでいる者もいた。木の根元には、首を締められ死んでいる一家族が毛布に包まれ転がっていた。母親だと思われる35歳ぐらいの女性は、紐の端を木にくくりつけ、一方の端を自分の首に巻き、両手を背中でぎゅっと握り締め、前かがみになって死んでいた。自分で自分を締め殺すなどとは全く信じられない。死を決意した者の恐ろしさが、ここにある。
 小さな少年が後頭部をV字型にざっくり割られたまま歩いていた。軍医は「この子は助かる見込みはない。今にもショック死するだろう」と言った。まったく狂気の沙汰だ。
http://www.joy.hi-ho.ne.jp/byakuya/334.htm

治者の自負

南総里見八犬伝』は有名だが長すぎるからか原作を読んでいる人はほとんどいないのではないか。リサイクル書店に岩波文庫の1があったので買って少しだけ読んでみた。
まだ二十歳前だが圧倒的な武勇知略を持つ里見義実が(冒頭部の)主人公。三年間籠城していた城が落ち、御曹司だった彼はたった二人の家来以外の一切を失う。
食べるものさえなくなった主従は漁村の子どもに訴える。「前面*1へわたす船はなきや?」「いとどしく飢えたるに」何かくれないか、と。それに対する“悪太郎”の応答は鮮烈である。

痴(しれ)たる人ことをいふ人かな。打ちつづく合戦に、船は過半借りとられて漁猟(すなどる)だにも物足らぬに、誰かは前面(むかえ)に人をわたさん。されば又此の浦に、汲む塩よりもからき世は、わが腹ひとつ肥やしかぬるに、馴れもえしらぬ人の飢えを救うべき糧(かて)はなし。堪えがたきまでに脾撓(ひだる)くは、これを食(くら)へ。

とあざみ誇って、塊(つちくれ)を掻(かい)取りつつ、投(なげ)かけんとする程に、(略)義実の胸先へ、閃き来れば自若として、左のかたへ身を反らし、右手(めて)にぞこれを受給う。
南総里見八犬伝(一)』岩波文庫 p23

無礼者と刀を振り上げる家来を義実は止める。漁村の汚らしいガキにしてはその言い分に筋が通っているのだ。戦争だから船を借り上げるという(大東亜戦争でも同じだ)だが生産手段が無くなれば漁民が困るだけではなく魚を食べていた庶民も困ることになる。武士には戦争をする権利があるかも知れないが、それは民が最低限生活を再生産できるその〈遊び〉の範囲ないでしかないはずだ。およそ国の根拠は民の再生産にあるとする儒教の根本を、この悪太郎は突きつけてきたのだ。
この悪太郎のあざけり、悪意を義実は真正面から受け止める。それが治者の自負というものだ。


迂遠な話と思われるでしょうが、「渡嘉敷島集団自決」問題を扱う産経新聞の記事を無批判に読んでしまう現在の若者は一体何を考えているのか。社会について考えると言うときその根拠に何を置いているのか。その根拠が何もないから国家主義的情緒に平気で流されてしまうのだ! というようなことを「老人」は考えたのでした。

*1:三浦半島の向かいの房総へ