ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

格が違う

 今朝方急遽辞任した松本龍は記者会見で「私は被災した方から離れません。粗にして野だが卑ではない松本龍、一兵卒として復興に努力したい」と述べたのだそうだ(msn産経ニュース2011.7.5 22:21)。
 「粗にして野だが卑ではない」はかつての国鉄総裁だった石田礼助について書いた城山三郎の本のタイトルではないか。なんと不遜な。とんでもない。産経の記者も苦笑いをしながらこんな言葉を無視するべきだよ。彼の言動は「粗野」そのものだ。

書籍

 ここのところ、他の出版物のお粗末さとの落差に困惑しながらも新潮社が出している季刊雑誌「考える人」のファンになっている。7月というのはそれが出る月で、本当は4日が発行日だった。しかし、あまりの暑さに、家を出る気が全く起こらなくて、新しい号の発行をあんなに首を長くしていたというのに、家を出なかった。それで、今朝はまだ暑くならないうちにと、午前10時前に家を出て銀座に向かった。
 駅に向かう途中で頭を刈って貰おうと思っていたが、いつもの千円床屋はまだ早すぎて開いていなかった。銀座に到着して、まず山野楽器に寄ってオペラとジャズ・ヴォーカルのCDを見たいと思ったのだけれど、こちらも早すぎて開いていない。ぐるっと見回すと、殆ど開いていなくて、いつも立ち寄る教文館とアップル・ストアが開いているだけで、ほぼ私のための時間のようだ。

考える人 2011年 08月号 [雑誌]

考える人 2011年 08月号 [雑誌]

 教文館に入ると、あった、あった。片隅にひっそりと「考える人」が梅棹忠夫のモノクロの写真の表紙を見せている。梅棹といえば、私にとっては今西錦司であり、西堀栄三郎である。西堀栄三郎と云えば、初代南国観測越冬隊長である。
 (そうそう、先週の金曜日にニッポン放送の「ごごばん」で南極の石についてのメールを書いたら、それが読まれたのだそうだけれど、私は昼寝をしてしまって聴いていなかったのだ。)
 今回の梅棹特集の目次を見ると、なんと鶴見俊輔の名前を発見した。そうか、鶴見も京大にいたのだ。70頁を繰ってみると、鶴見らしい文章なんだけれど、気がついたら梅棹忠夫著作集に1989年に書いたものの再録だった。
 梅棹は「思想の科学1954年5月号」に「アマチュア思想家宣言」を書いた。京大式カードを作ったのは梅棹だった。「知的の生産技術」なのだ。私の対極にいる人なのだ。
 花森安治の話がある。新潮社らしくなくワクワクする雑誌なのである。

 第17回講談社エッセイ賞受賞作で、2001年にマガジンハウスから刊行されたものの文庫版。この種の本をあんまり読まないんだけれど、教文館の二階で手にして見たら、漱石、熊楠、子規、露伴、紅葉、緑雨なんかと一緒に、かの宮武外骨が慶応三年生まれの同じ年齢で、この中では最後まで生き延びてなんと昭和30年に米寿を全うして大往生したんだというのだ。なんと私は8年間彼と同じ空気を吸っていたと云うことなのだ。と、思った途端に買ってしまった。ついでに岩波書店の「図書7月号」を貰った。これ、読みで充分なんである。巻頭に中川李枝子が書いているものを読んで「留岡幸助」の映画ができていることを知る。

 週刊金曜日の4週間分と「世界」7月号も入手した。

情報統制に警戒せよ

 政府は4日、省庁や県、東京電力などの関係者を集めて「モニタリング調整会議」を開き、国民に分かりやすいモニタリングの在り方などについて議論しました。その結果、現在、省庁などによってバラバラに行われている調査を国の責任で一元的に管理し、文部科学省にすべての情報を集めて専用のホームページで情報提供することに決めました。(NHK7月5日 4時33分)

 今頃何をいっているんだと本当に腹立たしい思いで一杯だ。なんでもっともっと早いうちからどんどん計測して公開してこないのかと、今更ながらの動きにイライラするのだけれど、よぉ〜く考えると、これによって、あっちこっちから出てくるマルチなデーターを一本化するという表現で上塗りをしているけれど、実は意図的に低い値を提示して、原発事件を大したことのない結果に作り替えていこうとすることが容易になる。
 「そんなことができるわけはないだろう」というのがこれまでの日常的な一般的な反応だったのかも知れないけれど、「そんなこと」を平気で日常的にやってきたのが、「原発一家」だったのだ。

訃報

オーストリア・ハンガリー帝国最後の皇帝の長男のオットー・フォン・ハプスブルク氏が、4日、ドイツ南部ペッキングの自宅で死去。98歳。
 1979年から20年間、欧州議会議員を務めた。1989年、オーストリアハンガリー国境で東ドイツ市民が西側へ越境を求めて集まると、積極的に支援し、冷戦終結に一役買った。
 4歳で父親のカール一世が皇帝に即位したことにより皇太子となった。ハプスブルク氏は第1次大戦後、帝国が崩壊した後は、ベルギーやスペイン、米国などを転々とした後、1954年からペッキングに居住した。(ベルリン 三好範英)(2011年7月4日23時37分 読売新聞)

 オーストラリアではこれまでハプスブルク家の末裔が国会議員になることを禁止してきていたが、本年6月16日にそれを解除する法案を成立させたという。まさか彼の遺体はウィーンのカプチーナ教会に安置されている一族の棺の中に加えられて安置されるわけはないだろう。

2011年07月04日のツイート