ほぼ足りてまだ欲 その先

「ほぼ足りてまだ欲」がはてなダイヤリーの廃止にともないこちらに移りました。

 ここのところ、Amazonの欲しいものリストにダラダラと積み重ねていたものがあって、そろそろそれを整理しようと思い立ったわけです。

カナダに漂着した日本人―リトルトウキョウ風説書

カナダに漂着した日本人―リトルトウキョウ風説書

 古本とは書いてはなかったはずなんだけれど、到着したら周辺は微かにすでに黄変し掛かっていて、いつの出版かと思ったら2002年としてあります。ま、13-4年ですから新しくはありませぬな。著者は東京経済大の先生で、思想の科学研究会、日本移民学会のオリジナル・メンバーだそうだ。海外の日系ジャーナリズムについての研究者でもある。
 バンクーバーは第二次大戦ですべての日系社会がご破算になったといって良い。その点では豪州の日本人社会にかなり近いものがある。
前夜[増補改訂版]

前夜[増補改訂版]

 増補改訂版と書いてある。ということはオリジナル版があるということだ。初版は2013年11月のことであるらしい。で、この改訂版は2015年12月の出版ということのようだ。約390頁の二段組みだから、相当な分量で、副題に「日本国憲法自民党改憲案を読み解く」とあるように、如何に自公連立政権が向かっている先がとんでもないものかを資料をどんどん平行して記載して拾えるように、かなり丁寧に作られていて、資料として多用できそうな中身である。これは一体どこで知ったのか、記憶にない資料だけれど、著者の中に岩上安身の名前があるから多分彼のIWJがらみなんだろう。帯の裏を出すと「自民党改憲案と緊急事態宣言条項は許さない!!」というプラカードになる。
アール・デコの<挿絵本>: ブックデザインの誕生 (ToBi selection)

アール・デコの<挿絵本>: ブックデザインの誕生 (ToBi selection)

 ちょっと傾向が違いすぎるかもしれないけれど、思い立ってしまって、思わずポチってしまった鹿島茂のコレクション。昔だったら決してこんな本を買うことはなかっただろうに、この私としたことが一体何事ならんと思わんではないが、アール・ヌーボーからアール・デコはなかなか魅惑的でござらんか。
つるとはな第2号

つるとはな第2号

 先日入手した「つるとはな」創刊号が結構面白かったので、それじゃ、これまでに刊行されているものを全部揃えてみようと(とはいえ一年に一冊だからまだ全部で3号までしかないんだけれど、これ、ひょっとしたら案の定で三号雑誌となりはてりになっちゃうのかなぁ。(おっと、縁起でもないといわれそう!)
 リリー・フランキーみたいな若造が「「でかいパンツはいていたらすぐに老けますよ」とインタビューに応えているという。どういう意味なのかと思って一番に読んでみたら、あぁ、こういうこという奴、必ずどこかのバーにいるよなぁと思わせる話だった。爺になっても性欲はあるんだっていう話でね。多分呑み屋に出かけるような男性だったら一度や二度こんな話に巻き込まれている。麻雀の強い婆さんとか、一日に自転車で何十キロも走る80歳過ぎの爺さんとか、みんな凄いのね。パソコンの前に座って活字ばっかり追っかけている爺さんはただただ読むだけ。この雑誌の「体操をするとこんなに変わる」シリーズ(らしい)はモデルが最高!創刊号はあのヘタウマ絵の蛭子さんで、この号はドリフターズ仲本工事。三号は一体誰なんだろう。矢野誠一志ん朝のことを書いていて、矢野は志ん朝の前座からずっと聞いたんだそうだ。そういえばあの一族、美濃部さんちは志ん朝以降噺家は出ていない。ようやく十一代目の金原亭馬生の弟子に小駒というまだ年端のいかない入門してまだ2年くらいなのがいるけれど、彼が先代の金原亭馬生の次女の息子で正真正銘の美濃部である。ちなみに林家正蔵(元こぶ平)の息子(たま平)もいるらしい。はてさて、どんなことになりましょうや。それにしても心配なのは、その小駒の兄弟子になる二つ目の馬久だ。
つるとはな第3号

つるとはな第3号

 山藤章二立川談志の「落語は人間の業の肯定である」をけだし名言だと褒めている。ま、そうだろうね。私は少しく違っていて、そんな大それたことをいわなくても良いと思っている。落語も、吉本新喜劇も、松竹新喜劇も、山田洋次もそうなのだけれど、目に見えてあからさまに陥ってしまう面倒くさい事態に直面して、それを泣きながらめでたしめでたしにしてしまう、日本の定番ストーリーテリングなのよね。それがもうイヤでイヤで堪らない時があったりする(概ねそうだったりする)のだけれど、体調が良いと、どんどんそこに一緒に連れてって貰ったりする。そんな我を忘れることのできるほんのちょっとの間なんである。これをず〜〜っと永遠に忘れていたくなると、これはもう日本人は遠い西方浄土へ行くしかなくなっちゃうんだけれどね。イヤ、それより、向井千秋かあちゃんが凄いぞ!お!町屋のボンソワールを取材してらぁ。あれ、ポール・ラッシュの弟子の黒田哲朗がでている。体操のモデルはおっさんじゃなくてお笑い芸人の女性だった。ちょっと残念だった。
ここから先は本屋で入手。
世界 2016年 05 月号 [雑誌]

世界 2016年 05 月号 [雑誌]

 岩波書店の月刊世界にしては珍しい特集だなぁと思った「テレビに未来はあるか」なんだけれど、一瞬まるで昔の朝日新聞が出していた雑誌「論座」みたいだなぁと思った。しかし、この特集の目玉は国谷裕子の「インタビューという仕事」だろう。これは読んでおいて良かったと久しぶりに思った。日本人の人の良さというか、踏み込みたくない、ヨヨイのヨイの関係ではジャーナリストはいけないんだ、真実を掘らずに忖度してどうするという非常に明快な意思がものの見事に露出されている。下のうちのおじさんが喧嘩をして怒鳴っている時にうちの娘がDVだったらどうするんだ、見に行ってこいというのだけれど、私は怖いからイヤだというのが日本人の典型例であるように、日本のテレビ・インタビュアーは踏み込まない。
ハプスブルク帝国、最後の皇太子 激動の20世紀欧州を生き抜いたオットー大公の生涯 (朝日選書)

ハプスブルク帝国、最後の皇太子 激動の20世紀欧州を生き抜いたオットー大公の生涯 (朝日選書)

 今頃この本の和訳が出版された理由はよくわからないけれど、著者は既に2007年に没している。初版は1987年。この皇太子というのはかの皇帝フランツ・ヨーゼフの孫である。私は1916年に死んだ皇帝の息子が最後の皇太子なんだとばっかり思っていたから、この本を手にして一瞬たじろいでしまった。つうことはどういうことだよ!と。これもまた大書で索引を入れると370頁ほどになる。読み通せるのか?という質問を戴くのだとしたら、多分それは無理だろう。なんでも書斎に山積みされた書籍を見た人がその書斎の主に「これは全部読まれたんですか?」と尋ねたら「読んであったら何もここに置く必要はないだろう?」と答えが返ってきたそうだ。それを聞いて、思わず得たりやおうと膝を叩いた。 本日の極めつけはこれだろう。ビッグ・コミック・スピリッツに連載されていたノー天気広告代理店・白クマ広告社が次から次にひねり出す業界・アハハ!ものの連続。当時私はイン・ハウス・エージェントなのにままっ子扱いされている代理店にすっ飛ばされて、自分の後輩を相手に手をすりあわせながらお仕事を戴く・・・事ができなくて、居直った営業だったから、そこもまたすっ飛ばされてしまったのだった。わたしなんぞはまだ良い方で、中にはコピーの仕事を昔の後輩から貰って歩いて、仕上がりを配って歩くなんて仕事をやらされた人だっていたんだから、結構とんでもねぇ会社だったのだ。なにしろ派閥に入って、ヨイショしないとねぇ。だから、後年潰れちゃいましたけれどね。
 それにしても馬鹿みたいに分厚い完全版を作って、如何にもこれらしいんだけれど、984頁もあったら重たくて持てねぇだろ!寝床で見ようとしたら落として鼻の骨を折るぞ!
 今年は桜をまだまだ楽しめていて、今八重桜は満開だし、そのうえ花桃が咲き乱れに乱れていて、もう都会の片隅に蟄居しているにはちょっと我慢ができない。
 そうそう、本といえば、こんなものを入手することができた。神奈川大学評論No.82(こちら
 先日辺野古の抗議活動の中でカヌーをこぎ出していた芥川賞作家の目取真俊が官憲に逮捕されて収監された。

「いつもカヌーで通っている場所だ。自分の後ろにいた人がフロート(浮具)の内側に入った時、軍の警備員が岩場から手を伸ばして彼の腕をつかんだ。そこで私が抗議してたら軍警が私の腕やライフジャケットをつかんで、海から陸の方に引きずられた」
 「軍警が『島袋さん、陸に上がっていますよね。刑特法(日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定の実施に伴う刑事特別法)違反です』と私の本名を言って、浜の所で待機することになった。この軍警は沖縄の人だった。『島袋さんなぜ教員を辞めたんですか』とか言うわけですよ。明らかに人物を特定した上で引きずられているんですよ」
 ―陸に上がったか。
 「カヌーで抗議をしていた。上陸する理由はないし、陸に上がったというのは全くの事実誤認だ」
琉球新報2016年4月5日 05:01)

 つまり、ハナから彼が誰だかわかっていて拘束するべく拘束したということになる。つまり、転び公妨(官憲が自分で転んでそこにいた人間を公務執行妨害だといって引っ張る)とまったく一緒だ。
 その目取真俊がこの神奈川大学評論の中で【沖縄の戦後70年、続く「戦争」と「占領」】というタイトルでインタビューに応えているのである。(2015年9月13日)
 この評論を送っていただいて、その支払いなんだけれど、神奈川大学からきた支払い案内書に「ペイジー」と書いてある。なんだそりゃ?ってなものだったのだけれど、そこになにやら関連のありそうな数字が書いてある。銀行のATMに取りあえずいってみたら、偶々その銀行のATMでは右下に小さなボタンがあって、そこに「Pay Easy」と書いてある。それを押してみると、要求される番号が大学から来た案内書に書いてある番号に相当する。次々に番号を入れたら、そこでようやくカードを入れろという。へぇ、こんな機能があるんだぁ!と感心しながら、郵貯で振り込みにいった。そうしたら、ここのATMにもちゃんとそんな言葉の選択肢が出てくる。今初めて知った。オイ、いつからこんなのあるんだよ!?また文句をいう。

会食

 昨日は3年振りくらいに姉の一家とうちの家族で合同の会食を横浜の中華街でやろうじゃないかということになった。3年前というのは実家を壊して姪っ子家族の家ができた時にみんなで集まって以来だった。
 子ども同士は11-12年くらい前、うちのおふくろの葬儀の時以来だという。そうか、そんなに経っていたのか、とまずうちの5人で墓にいってきた。金沢八景の駅を降りたら、なんと駅前の小さな商店街はすべて撤去されていて、工事中だった。一体あの人たちはどこへいったのか、そしてこのあとはどうなるのか。
 そんなことをいいながら信号を渡ろうとしたところにバスが来て、出ていきそうだった。信号が変わるやいなや子どもたちが走っていって、待っていて貰うことができた。
 ちょっと盛りは過ぎていたけれど、霊園の桜の花がまだ少し持っていて、こんな時期にやってきたのは初めてだったけれど、それだけいつもに比べたら人がたくさん来ていた。
 横浜中華街にやってきたら、噂には聞いていたけれど、驚くほどの人で、あふれかえっていた。若い人たちが多分デイトにも来るようだし、週末でもあるから、家族連れで沸き返っていて、小さなテイクアウトの店があちこちに出ていて、いやはや、昔の中華街なんかの比じゃない。あの頃はまだのんびりしていて良かったというしかない。
 45-6年ほど昔、まだ学生だった頃、出入りしていた団体から頼まれて、欧州からやってきている若者たちと交流をしてくれといわれ、私と二つ歳下の幼馴染みと二人で、西ドイツからやってきた若者を中華街に案内した。確か、横浜駅から市電に乗って山下公園にやってきて、中華街へ連れて行ったんだと思う。今から考えたら、トラムに乗っていくんだからまったく当たり前だけれど、当時は何だかわざわざ普通の生活を、と意識した。それでだったかなんでだったか忘れたけれど、中華街でランチにしようといった時に、当時の中華街では滅多に普通の日本人は入らないお粥の店にわざわざ入った。彼は「熱い!」といってなかなか食べられなかった。私たちは「そういうのはcat's tongueというだ」なんていっていたけれど、考えてみたら変な英語だったよねぇ。
 そのお粥屋なんだけれど、驚いたことに行列ができていて、もっと驚いたことに、2号店も3号店までできていたのだ。いつの間にそんなことになったのだろう。当時は頼み方もわからなかったし、中国の人たちが行くところだからというような考えがあったような気がする。その辺のところが今時の日本人はどんどん直ぐさま要領を得て、あっという間に自分のものにしてしまうところが素早い。
 ふと気がつくと、もう私たちがついこの前までのうちの家族の中心世代だったのに、もはや長老メンバーになっているのには驚きを隠せないのだ。

2016年04月10日のツイート