人と接する、部分と全体

  • -


しばらく前の休日、息子(4歳)の友だちSくんが自宅に遊びにきてくれた。帰りに表で見送った息子は、曲がり角でSくんの姿が見えなくなりかけたときに何を思ったか「Sくーん!!」と駆け出したそうだ(と妻から聞いた)。しかし勢い余って息子はつまずいて転けてしまい、額と膝をすりむいて出血し、大泣きしたらしい。

Sくんがきてくれて遊べたのがうれしかった、と息子は泣きながら言った。もっとSくんと遊びたかった、と。

これを聞いて笑ってしまった。それなら相手がいるときにその気持ちを示したらいいのに。部屋のなかではおもちゃの取り合いをして、ときにべそをかいてどっちが悪いなどと言っていたのだ。


でもなんか自分と似とるなぁ、と思う。大事な友だちや同僚に気持ちや感謝を随時適切に表現できなくて、ひとりになってからじんわりと相手のことを考えたりしている。

とくに以前は、仕事中などゴールありきで、けっこうドライに厳しくフィードバックする方だった。
これはビジネスでは「コミュニケーションか生産性か」というテーマでよく語られるものだ。
組織人としての自分は少数派の役まわりを意識して選ぶ傾向があり、まず人間関係ありきと考える人にとっては人格攻撃とさえ思えることもあるだろうとはわかっている。そうすると、仕事が一段落して、相手が去りかけたコーナーで追いかけて名前を叫ぼうと、相手には届かない。


話は変わるけれど、ひとり旅をしていたときにいちばん楽しかったのは、ビジネスでは到底出会えないようなキャラの人とたくさん出会えたことだ。旅行中は自分も相当なゆるキャラだったが、ぼくなど及びもつかない人がいて興味深かった。とはいえ、ときに誰かのあまりにも理解不能な言動に疑問を抱くこともあった。そんな場合でも、しばらく同じコースを同行したりあちこちで再会したりすると、しだいに相手のことが多面的に理解できてくる。

そうすると、いい悪いという評価をこえ、人として好きになる。同質性だけ許容してなぁなぁになるというのではなく。そこまでいくと、相手と別れたとたん、日がな一日めそめそと相手のことが思い出されて仕方がなかったりする。


部分と全体って面白いなぁと思う。人の魅力や人柄の味わい深さ(?)は、一側面では判断がつかない。部分や意見は自分と異なっていても、全体としては好き、できたらそうなるように接したい。別れた後に、思わず追いかけて相手の名前を叫びたくなるくらいに。



というわけで、今年もいろいろお世話になり、また拙文をお読みいただきありがとうございました。
来年もまた元気にお目にかかれますよう。どうぞよいお年を。

  • -

PC故障顛末

-


ある夜、ノートPCが発火した。ように見えた。煙が上がっている。アラジンと魔法のランプの煙みたいに。しかしそれはランプではなく電源アダプタの差込口からで、魔神の姿も現れない。

あわててすぐにアダプタを引っこ抜き、異臭まじりの空気のなか深呼吸して、どうすべきかしばし考えた。
分解して内部を確認すると、液晶パネルをつなぐヒンジ部の液晶ケーブルとプラカバーが焦げている。おそらく開閉によってケーブルが劣化し、ショートして焼けたのだろう。しかし試しにバッテリで起動してみると、問題などなかったかのようにこれまで通りに立ち上がった。

ほっとしたものの、その起動がいけなかったのかもしれない。



焼けたケーブル


液晶ケーブルを交換する必要があったが、ヤフオクで中古ケーブルを手に入れて交換して再起動したところ、画面がうっすらとしか映らない。ショートしたまま再起動したのが悪かったか…。外部モニタをつないで切り替えてみると大丈夫だったので、問題箇所は次のどれかだろうと見当をつけた。

1.液晶ケーブル
2.液晶インバーター基盤
3.冷陰極管
4.マザーボード

しかし、中古とはいえ手に入れた液晶ケーブルはまだ状態もよく断線もなさそうだ。そこで新品のインバーター基盤を手に入れつけかえてみたが、解決せず。で、別の状態のよい液晶を見つけ、つないでみたが、これでも解決せず。原因はマザーボードらしい。しかも、いろいろいじくっているうち、マザボの別の部分を破損させてしまった。キーボードケーブルをつけはずししていたら、差込口で固定させるプラスチック片がポロリ。細い部品を折ってしまったのだった。ま、不具合はマザボの別の部分にもあるんだしいいやと、外付けキーボードで操作。ノートの液晶と外部モニタとの切り替えを付属キーボードのコマンドで行うのは、一瞬手でケーブルを固定したら可能だった。



キーボードと液晶の裏側


さて、どうしよう。マザボを手に入れて修理するか。ジャンク品を買ってリストアにはまる人の気持ちがわかる。しかしそれには時間がかなりかかる。その手間を省いて新しいのを買うか。

調べてみたら、ノート型も相当安くなっていて驚くばかりだ。つい先ごろ家族に買ったデスクトップノートはクアッドコアで3万円台だったし、モバイルノートもスペックにこだわらなければ2万台だ。今の低スペックといっても、故障したレッツノートとは比較にならないほど立派だ。レッツノートは当時20万円以上したけれど、その十分の一。コモディティ化を実感する。

ヨドバシに実機を見に行ったところ、えらいことになっている。国内メーカーのノートPCの配色やデザインはグロテスクというか、何かやばい気配が感じられた。差別化が変な方向に行っているようだ。デルのブースも、ゲーム用に特化しているのか恐竜みたいな風体のデスクトップPCが並んでいて、凋落前の家電メーカーのステレオコンポが一時期ムキムキデザインだったのを思い起こさせた。ダイレクトモデルという往時の強みを失い、値段でもエイサーやレノボにかなわないんだろうな。今でも「デルの革命」はビジネスプロセスを勉強する名著だと思うけれど。

結局、今のレッツノートを修理してみることにした。
たぶん費やす手間や時間を考えたら買った方が安いのだろうし(こうやってつらつら考えているうちにも時間はすぎていく)、安くなったものに乗り換え使い捨てていくという考え方もありだろう。
でも、やっぱりこのレッツノートには愛着がある。

これでいろんな場所を一緒に巡ってきた(ほとんどデジカメのストレージと化していたけど)。モンゴルの馬の上や南米の深夜バスでのロデオ状態でも持ちこたえ、マチュピチュにも一緒にのぼった。東欧のカフェで画面を開いていたら、当時は海外メーカーには真似のできなかった小ささにまわりの人々は驚愕していた。

スペック的にこれで十分というのもある。何より、ぼくのニーズにちょうどいいというのが、安いモバイルPCをさわってよくわかった。重さと画面サイズのバランスがよく、ファンもないので静音だ。

そんなこんなでマザボを探しはじめたところ、ちょっと足した値段で運良く丸ごと本体が買えた。安かったので状態には期待していなかったけれど、届いてびっくり。筐体に擦り傷はあるが、液晶とキーボードの状態がよく、バッテリーもまだ充分使える。企業向けの機種だった。出品者がOSはないと書いていたけど、予想通りHDDにDtoD領域が残っていて、BIOSからXPをインストールできた。しかしSP3にアップデートする段階でいろいろと問題点が出てきた。



マザボ


まずネットワークアダプタが認識されるときとされないときがある。古いLANカードを試みたが、PCカードアダプタも認識されない。SDカードも認識されず。HDDの使用時間は5000時間ほどとまだ短いので、故障品だったのか意図的にこうしたのか。

さらに、ネットワークアダプタが認識されるとたびたびブルースクリーン。これは、OSの起動中にブルースクリーンが出てひたすら再起動を繰り返す症状で、以前のレッツノートに見られた問題だ。当時は原因がわからず、ずいぶん時間と労力を無駄にした。同じくレッツノートを買った人のなかには、よくわからずに自分だけの故障だと思って使用をあきらめた人も大勢いるだろう。

いや、思い出した。ぼくもいろいろと試みたあげく、仕方なくOSを再インストールしたのだ。そのときに、バックアップしていなかった家族の写真やらの一部を失ってしまった。PCの故障よりこっちの方がよほどショックだった。バックアップは重要だ。BIOS無線LANを切ったら症状があらわれないとなんとかつきとめて使っていたけれど、無線LANのドライバが原因の固有の症状だったらしいとあとで知った。当時のレッツノートの値段からしたら、リコールしてパナソニックが責任をもって修理すべき症状だったと思う。強制再起動ばかりではHDDの寿命を縮めてしまう。時間を経ずしてHDDが故障して換装をパナに依頼して6万近くかかったけど、マッチポンプじゃないかとさえ……まあいいや。でも金はともかく、失われた時間とデータは二度と戻らない。


ブルースクリーン問題は新しいドライバをいくつかインストールして修復。今の時点ではネットにはつなぐ必要はないので、故障箇所は修復できなくてもいい。幸運なことに、USBが生きていた。

前のレッツノートはまた安いマザボを見つけて載せ替える予定。当初はXPのサポートが切れるまであと1年ちょっと使えればいいやと思っていたけれど、勢い余って、IDEコネクタのSSDを買って換装してやろうかという気にさえなっている。

発煙からここ2カ月ほど、ブログも書かず、修理に時間もかかったけど、久しぶりに工作気分を味わえた。20年ほど前にはじめてMacを手に入れあれやこれやといじっていたときのことをふと思い出した。たとえば起動時間を数秒早くするために、機能拡張ファイルを入れ替えたりという作業に(アホみたいだが)一日費やしたりしていた。つまりはっきり言って時代のテクノロジーの進歩の方がはやく、あとから振り返ると、かけた時間ほどアウトプットにはつながらなかった気もするけれど、自分の道具を自分で調整しているという実感はなかなかのものだ。MacからWinに乗り換えて以降、ツールへのこだわりは捨てたつもりだったけれど、その楽しさを久々に思い出した。

PCがコモディティ化した時代だからこそ、壊れて上等という気楽な気分でいろいろと試みられるし、愛着も生まれてくる。平凡な道具でも、ときに魔法のランプのような気分を抱かせてくれることもあるかもしれない。願わくは、それが故障の煙によってではないことを。


-
・精密ドライバーは、100円ショップのものよりも30倍くらいやりやすさが違う下のようなのを使うのがおすすめ。
アネックス(ANEX) 精密ドライバーセット

小型USB Wireless LAN Adapter、802.11b/g/n 対応

青白い歯茎(1997カンボジア 1)

-

「何もないんじゃないの」
 ここで旅行者はどんなことをしているのかと訊ねると、彼はそう答えた。そこは、数時間前に廊下で顔を合わせたとき声をかけ少し言葉を交わした、長髪の日本人の部屋だった。半開きのドアをノックして入ると、彼は上半身裸でベッドに寝転がっていた。文庫本を読んでいたらしい。煙草とは異質のにおいと煙が部屋に充満していた。それが何かは見当がついた。

「何もない……ですか?」
「みんなそうなんじゃないの」
「そうなんですか」
「できるのはハッパか女だけだし」
 彼は眼鏡を取り、にやっと唇をゆがめた。薄暗い蛍光灯の下で、歯茎が異様に青白い。
「吸う?」
 自分がくゆらせていたものをさしだした彼にぼくは手を振った。
「昼間はヒマだね。女とやるのも夜だけだからさ」

 彼はたるんだ腹の前で女の腰を抱く手つきを作り、またゆがんだ笑みを浮かべた。その姿に、バンコクの安宿で遭遇した状景が重なった。夜の宴会でのことだ。車座のなかにいた日本人の男が、皆の眼前で従業員の女相手に突然ディープキスをはじめたのだ。それまでその男を見かけたことはなかった。女はたぶん男より歳嵩(としかさ)で、生活に倦み疲れた気配が表情に滲み出ていた。そこで働く女たちは皆地方出身らしく、ほとんどがまだ顔にあどけなさを残すなかで、彼女だけはもう若くなかった。周囲の戸惑いをよそに、彼らは人目も憚らず舌を絡ませていた。男には、酔っていることを差し引いても尋常ならぬものが浮き出ていた。相手がどうであれやれるだけやってしまえという欲望の塊のような気配。女の服装の野暮ったさが、逆に男の不純さを強調するかのようだった。対照的に女はふたりの世界に陶酔していた。たとえ女が甘い期待を抱いていても、彼は使い捨てるだろう。そんなことをぼくは直感したのだった。

 夜、ホテル前の道で日本人に声をかけて晩飯のテーブルに混ぜてもらい、食後にフルーツシェイクの屋台に寄った。彼ら四人もたまたまここで知り合ったらしく、ひとりはぼくと同じく黙って話を聞いていたが途中でホテルに帰っていった。残ったひとりは濃い無精ひげで、二十代半ばくらいだろうか、Tシャツの袖を肩までまくり上げ、最近バイクでこけたという腕のすり傷が痛々しく、汚れた包帯に黄色い液体が滲み出ている。こっちで仕事を探していて、ホテルの面接をこのあいだ受けたところなのだという。だから最近は少しハッパをひかえてるねん、と彼は言った。とはいえ実際は無害なのだと力説し、マリファナ関係の言葉の使い分けを解説した。嗜好用の麻の葉を乾燥させたものを大麻あるいはマリファナと総称し、ガンジャあるいはハッパともいう。樹液を固形樹脂にしたものはハシシと呼ぶらしい。「やってみる?」と彼はマルボロの箱をさしだしたが、ぼくが断るとポケットからビニールの小袋を取り出し、細かくちぎられた茶色い葉を指でひとつかみして、においを嗅がせた。市販の煙草の中身を捨てて巻き直しているのだという。

「わざわざ?」とポロシャツの男が言った。
「昼間ヒマやから」
「煙草の匂いと同じやん」丸顔にメガネをかけた男が鼻先を近づけながら言った。
「乾燥してるからかな」包帯の男はつぶやいた。「指ですりつぶしてみたらわかるよ」

 空は黒く、人通りがかなり減っていた。ぼくが、アンコールワットに程近いシェムリアップにいつ行こうか考えていると話すと、「あんまり急がんでここにしばらくいた方がエエよ」と包帯の男は強調した。
「なんでですか?」
「はっきりした理由はないけどさ。ここで女もやっておくのも話のネタにええかもしれんし」
 カンボジアでできることは、女とハッパ、市内観光、銃を撃つことなのだと彼は説明した。
「銃ですか?」
「バズーカも撃てるよ。金さえあれば二万円でマシンガンと弾一式買えるし。アメリカ製は二百ドル。中国製とか、どこ製かわからんようなやつはもっと安いけど」
「一度くらい女もやっておいたら」とポロシャツの男が言った。

 その男の口から出てくるのはこの町で女を買う話ばかりで、他の誰かが別のことをしゃべっていても話題を戻し、何かにつけ女を買えとすすめた。ポロシャツにチノパンという服装に癖のない雰囲気で、二十代後半から三十代半ばくらいだろう。第一印象はごく普通に感じられたが、ここは女しかすることはないとあっさりと言い切った。女の話になると異様な粘着性を帯びる彼の目を見ながら、ぼくは、旅行者には女しか目的のないくだらない奴も多いとバンコクの宿で言っていたゴシマ君の表情を思い出した。
「ファック、ファック、ファック!」そのときゴシマ君は吐き捨てるように言った。「そいつらの頭はそれだけですよ」

 買春推奨のポロシャツはしばらくここにいるつもりらしく、彼もシェムリアップに急いで行かない方がいいと繰り返した。
「そうかな」と丸顔メガネの男が言った。「おれは早く行った方がいいと思うよ」
 タオルでしきりに汗をふきながら、快適すぎてシェムリアップで二十日もすごしてしまったと彼は言った。もっと短かかった予定が、宿を気に入り長くなったのだという。
「明日はフルムーンだからぜったいシェムに行った方がいいよ」と丸顔メガネは勧めた。「こんな危険なところにいることはないし」
「どうして」と包帯。
「だって危険じゃない。オレは危険はイヤだからさ。死んでも納得がいかないから。こんな殺気立ったところにはいたくない」
「でもだいぶマシになってきたよ」包帯がフォローするように言った。「やっとこの二、三日、夜の屋台がぽつぽつ出るようになってきたし」

 殺気立った空気を感じていたのはぼくだけではなかったのだ。彼らによると、数日前に警察と軍の大規模な衝突が起こり、市街中心部で撃ち合いがあったばかりなのだという。アメリカ大使公邸にも着弾し、その直後は暗くなると通りから人の姿が消えた。観光客を狙った強盗事件も頻発しているらしかった。

 丸顔メガネの彼は二一時前になるとホテルに帰ると席を立ったが、まだ大丈夫と引き止められてまた腰をおろしながら溜め息をもらすように言った。
「この国は狂ってるよ。すべてが狂ってる
「狂ってる?」
「そう、異常でしかないよ。同じ民族で殺し合うんだからさ」彼はタオルで首の汗をぬぐって言った。「それもつい最近の話だよ。そんな話、他に聞いたことないよ」

 戻った部屋には日中の蒸した空気がそのままこもっていた。外からの騒音はかなり静まり、同じフロアのどこかから中国音楽が聞こえている。寝支度をしていると突然明かりが消えた。人々が驚いて息を飲む音が、ざわっという一つのかたまりとなって届く。暗闇のなかでぼくは耳を澄ませた。自分が殻に包まれていることを感じる。それは部屋の壁ではなく、空気の厚みだ。殻の外ではあたりが暗かろうとバイクがおかまいなしに走っていく。停電は一、二分続き、誰も騒ぐことなくもとにもどった。

 眠りに落ちかけていたとき、隣の部屋にノック音が響いた。異国語の低い話し声。欧米系の言葉なのか現地のものなのか、はっきり聞き取れない。ベニヤ板で仕切られただけの隣室に白人がいるのは、何度か廊下ですれ違って知っていた。言語の種類はわからなくとも、口調から内容はわかった。女を買いに行くらしい。ほどなく廊下にスプレーの噴射音が響き、虫よけスプレーのにおいが漂ってきた。

※これは紀行文「ゼロ地点」の一部です。



◎関連エントリ
彼女の贈りもの(ベトナム紀行・サパ前編)
ゴールデンブラザー (ミャンマー紀行) 1

ゼロ地点

-

政治のブラックボックスを見える化しよう

-


日本HR協会


今、政治なんて関心がないという若い人が多いのだろうけれど、ちょっと見方を変えてみるとがらっと面白くなる。ぼくも以前は無関心だったので大きなことは言えないが、遠すぎて関わりようがないと思っていたことが、ふとしたときに身近に引き寄せて考えられることがある。

少し前に読んだふたつのインタビューがそうだった。強く印象に残った理由は、内容が似ていたからだ。ふたりとも、自分が政権内に入ってみて「発見」したことを語っていた。


ひとりは内閣府参与を2年務めた湯浅誠氏。

「『政治家や官僚は自分の利益しか考えていないからどうせまともな結論が出てくるはずがない』と思い込み、結論を批判しました。しかし参与になって初めて、ブラックボックスの内部が複雑な調整の現場であると知ったのです」

 ブラックボックスの内部では、政党や政治家、省庁、自治体、マスコミなど、あらゆる利害関係が複雑に絡み合い、限られた予算を巡って要求がせめぎ合っていた。しかも、それぞれがそれぞれの立場で正当性を持ち、必死に働きかけている。

「以前は自分が大切だと思う分野に予算がつかないのは『やる気』の問題だと思っていたが、この状況で自分の要求をすべて通すのは不可能に近く、玉虫色でも色がついているだけで御の字、という経験も多くした」


もうひとりはNPO法人フローレンスの代表理事駒崎弘樹氏で、鳩山内閣で半年、内閣府非常勤国家公務員(政策調査員)をされていた。

政策決定の中枢に入ってみて、これまで大きな勘違いをしていたなと思った。総理大臣になればいろんなことを変えられると思っていたのに、どうもそうではないらしい、というのが分かってしまったんです。
たとえば寄付税制についても、鳩山総理がこういうことをやります、と言っても、財務省のナントカ課の課長が、「それはカクカクシカジカでできないです」って言って突き返すみたいなプロセスが何回もあって、「そんなバカな」とびっくりした。「社長がやろうって言ってるのに、課長がダメっていえるのかな」と。

それまでは、ベスト&ブライテストがいて、その人たちがたるんでいるから進んでいかないのかなと思っていたけど、そうでもないらしい。機構自体が、リーダーシップをふるいにくいものになっているんだなあというのを思い知ったんですよね。

震災や原発問題に関してのみならず、政治不信ここに極まれりという感じで、国民には、呆れや諦めといった種々の感情があふれているように思う。政治の混迷ぶりを見ていると、政治家の個人的資質が原因だとばかり思ってしまいがちだけれど、前述のおふたりのインタビューを読むと、それだけでもないのだなと気づかされる。

つまり、政治家の資質を問題にしてしまうようでは、問題の掘り下げ方が足りないのだろう。そもそも、これだけ状況が混沌として糸がからまりあっていたら、ちょっとやそっとのことではほどけないし、ましてや個人の力などちっぽけなものなのだから。


こうやって物事が前向きに動いていく実感が少ないとき、わかりやすいスローガンや言説が人をとらえる。あるいは、身近なスケープゴートが供出される。でも、そこに流されてはいけないとぼくは自分を戒めている。一時のブームや熱狂はすぐに冷める。人の関心は移ろいやすい。

結局は、そうした移ろいやすい世論に乗じる形でシーソーのようにパワーバランスが移動し、一貫性のない政策につながっていくのが、郵政で国民を熱狂させた小泉政権から現政権に到る特徴ではないかと思う。

今ぼくが大事だと思うことは、誰が意思決定を行い(誰が政権を取り)、どんな結論になったかではなく、意思決定の構造、仕組みだ。その際に何が問題になったのか、プロセスができるだけ見えるようにすることが大事だと思う。

・利害関係者の意見
・決定の結果
・決定の理由(基準・根拠)、方法
・最終決定者(責任者)

湯浅氏の言うこの「ブラックボックスの内部」が広く共有されていけば、問題が徐々に解決に向かう力が加わっていくのではないか。もちろん、それで意見の統一がはかれるわけでは決してないだろうし、打ち出の小槌ではない。けれど、プロセスへの納得性が増すし、問題の所在がわかりやすくなる。つまり改善の具体性が増す。そういう意味では、湯浅氏と駒崎氏が政権内に入ってその情報を発信してくれたおかげで、内部が垣間見れたことは有意義だったと思う。これからも、一般の人が内部に入って、その矛盾点などをどんどん発信してほしい。

で、リーダーシップを期待するとすれば、この意思決定プロセスの可視化とともにだ。現状にイライラして、とにかくプロセスを無視して強行突破できるリーダーを選ぼうということでは、安易な独裁者待望論になってしまう。

最近の日本の組織で目立つ問題は、責任の所在が曖昧なことだ。原子力行政にしても、あれだけの事故のあげく、どこに問題があったのかはっきりわからないし、責任がとられない。リーダーは、決断する権限をもつかわりに最終的な責任を取る必要がある。それはやはり公務員ではなく政治家であるべきだろう。


それにしても、昨今、地方行政で議会や会議などが徐々に可視化されている意味がどれだけ大きいかと思う。それこそがPDCAサイクル、つまり計画(plan)、実行(do)、評価(check)、改善(act)のループを合理的にまわす第一歩だ。国レベルで一気にやろうとすれば、各ステークホルダーが巨大で複雑すぎて途方に暮れてしまう。でも小さな小さなループならば、個人でも家庭でも地方議会でもはじめられる。それが国レベルにつながっていくことを期待している。


■参照サイト
内閣府参与を辞任、湯浅誠さん 「入って」みたら見えたこと
江川紹子ジャーナル「小さな革命を起こしていく」〜駒崎弘樹さんにインタビューしました
湯浅誠からのお知らせ【お知らせ】内閣府参与辞任について


◎関連エントリ
我が家もファシズム?
「世界」はひとつじゃない
本「自分のアタマで考えよう/ちきりん」



最後までお読みいただきありがとうございます。
このエントリをどうお感じになったでしょうか? 
ご意見をお聞かせください。
ツイッターでのシェアやフォローもどうぞよろしく!

ゼロ地点、政治、地方行政、意思決定

子供に怒って教えられること

-


 子供は親を怒らせる天才だなと思うことがある。

 こないだ4歳の息子とふたりで家にいたとき、うんちを漏らした。いやぼくじゃない息子がだ。いわゆる「ちょっとやっちゃってからうんちしたいとわかった」系のやつで、ときどき発生する。そのときは、ぼくが別の部屋から居間に行ったら息子の挙動が変なので気づいた。

 注意深く服を脱がせ、便所に座らせてお尻をふき、便所から出して風呂場に放り込んだ。ひとりで遊んでいて「アカン!やってしもた!」となったらしく、パンツのなかの小粒の固形がゴミ箱に捨ててあったりと、自分で挽回処理しようと手なども汚れたようだった。

 シャワーを浴びさせようと浴室前に足拭きを用意していたら、シャワーノズルを聖火トーチみたいに持った息子が蛇口をひねってジャー。水がこっちに飛んできて床と足拭きマットがべちょべちょ。
「や、やめい!」
 結果を自分でも予期していなかったからか、ぼくが大声を出したからか、息子は固まったまま泣きそうな表情になっただけで、ますます水びたし。
「おいおい、こっちに飛んでるやろ!」
 急いで中に入って、蛇口を捻り、床を拭き。息子を洗って、体を拭いて、部屋にリリース。
 
 その後、汚れたパンツをぼくが便所で予洗していると、真っ裸のまま床に寝転んでいた息子がのたまった。
「おとうさーん、ゴーバスターズの絵、描いて〜」
 それでカチーンときた。
「おいおい? 今おとうさん誰のパンツ一生懸命洗ってると思ってるんや? それになんじゃ? まずパンツ履かんかいっ!」

 ぼくはよく知っているが、やつがこっちのやっていることに気づいていないはずもない。ただ、わかっていても、安心して甘えきっているのだ。そうした、好きなだけ甘えることのできる環境は子供時代には大切だし、こっちも余裕があれば対応できる。

 でも、そういうのが重なるとイライラの喫水線が下がってしまって、頭に血がのぼってあふれだしやすくなる。それで、後から思い返すとたいしたことでもないのに、勢い余って強く叱りすぎてしまったりするのだ。

 で、ある種卑怯ではあるのだけれど、「あ、ミスったな」と頭の片隅で気づきはしても、あえて謝ったりしない。「ほんまに怒らせてばっかり……」などと心の中で毒づきながら、誤魔化したりするわけだ。

 ●

 がらりと内容が変わるけれど、前段と関係する話だ。

 前のエントリでも触れたけれど、バブル後の住専や金融機関の破綻に際して、最初は大蔵省もコントロール可能だと考えていただろうし、メンツにかけてうまくやろうとしていたと思う。たとえば他行による吸収合併などを目論んだりしたものの、結局は日本経済全体がガタガタになるまで傷口をひろげてしまった。日銀がそのきっかけを作ったということはあるにせよ、大蔵省もつぶれた銀行の幹部も意識構造は同じだった。

 先日のオリンパス損失隠しもそうだ。バブル時の財テク失敗で抱えた1000億円ほどの含み損が表面化しないよう、98年頃から海外ファンドを使って「飛ばし」処理していったのが今頃表面化した。

 いやいや、それを言えば、敗戦に到るまでの軍の態度もそうだったのだろうし、恥の文化ゆえか、体面を気にして小さな失敗を公にできず泥沼にはまっていく伝統のような気もしてくる。

 そもそも人は自己の失敗をなかなか認めたがらず、処理を先延ばしする傾向があるし、ぼくだって同じだなと思う。バブル後の銀行救済も、「高給取りのいる銀行を税金で救ってやる必要などない!」といった、ぼくも含めた国民の感情的で誤った世論が国による資本注入を遅らせ、状況をさらに悪化させてしまったことは否めない。

 人は間違った判断や行動をするものだ。さらに、なかなかそれをすぐに正せない。

 ●

 さて、また息子の話に戻る。
 先日の夜、仮面ライダーの武器を振り回していた息子がそれで妻を叩いた。
「痛っ!」
冷蔵庫をのぞいていた妻が叫んだ。
「どうしてそんなことするの?」
「……」

 たまたまそばにいたぼくは息子を叱った。しかし、謝りなさいといっても謝らない。
「悪いことしたと思ったらすぐに謝ったらええねんで。誰だって間違うんやから」
 そんなことを言い聞かせても、もしかしたら故意ではなかったからか、息子は「わぁー!」と泣き叫び、感情のコントロールができなくなって床を叩いた。さらにはぼくに突進して強打してくる。それで、息子を持ち上げて玄関から放り出しかけた。
「自分が悪いのにそんなんするんやったら、もう外行きなさい!」

 宙ぶらりんで足をバタバタさせながら息子は号泣した。外には出さなかったものの、しばらく拗ねて「お母さんなんか大っ嫌い!」「もう晩ごはんなんか食べへん」などと壁やものにあたっている。
「食べへんねんな? じゃあ食べへんでもいいよ」とこっちも放っておいた。

 しばらくしてぼくが部屋で机に向かっていると、後ろに気配を感じた。振り返ると、開けたドアから息子が顔を出したりひっこめたりしている。そして、ぼくと目をあわせると「ごめんなさい」と言うなりわっと泣きだした。
 ちゃんと謝れたことを褒め、息子を抱き上げた。そして妻のところに連れていき、ぽろぽろと涙の粒を落とす彼を妻とふたりで強く抱きしめたのだった。
「Mくんがどれだけお父さんとお母さんこと嫌いやっていっても、お父さんもお母さんもMくんのこと大好きやなんやで」

 自分のことを振り返ってみてもそうだけれど、ぼくたち大人はもっと巧妙に自己を正当化する。人と簡単に争ったり、腹立ちまぎれに軽率な行いをしては、自分が悪いと薄々感じながらも、誤ちを素直に認めずにうまくごまかそうとする。役に立たないプライドで自分を縛りつけながら。夜、子供の安らかな寝顔を見ていると、そんな自分の浅はかさを反省させられる。




◎関連エントリ
子どもの問い--悪いことをしていないのになぜ殺されるの?
子供もつらいよ―大人たちの梯子はずし―
不揃いでイイノダ


最後までお読みいただきありがとうございます。
このエントリをどうお感じになったでしょうか? 
ご意見をお聞かせください。
ツイッターでのシェアやフォローもお待ちしています!

キーワード:ゼロ地点

とあるカイシャの会議風景

-


建築工事中の風景、無数の竹で支えている/バングラデシュダッカ(2005)



前回、サービス断捨離の手はじめに、まず社内へのサービス削減をと書いた。
たとえば企業の間接部門に属していると、こういうことがある。


●とある業界大手A社のミーティングルーム

(各セクションの担当がずらっと長テーブルを囲んだ空気の重い室内に部長が急ぎ足で入ってくる)

A部長:ごめんごめん、COOとの話が長引いちゃって。(部長着席)じゃ、はじめようか。B君よろしく
B課長:はい、では定例会議をはじめます。まず先週の報告を××セクションのC君から

(各セクションの週間データを各担当者が読み上げる。数値はデータ集計の係が半日がかりでまとめている。数値を読み上げたあとは今取り組んでいることなどの進捗状況が手短かに報告される。最後の担当が説明を終えると、場を沈黙が覆う。各人、資料に視線をやったり腕組みして何かを考えている風でA部長の発言を待つ。A部長がおもむろに口を開く)

A部長:うーん、Dサイトの××率がちょっとさがってきてるみたいだねぇ
B課長:E君、これどうなってるの?
E:えーと、それは……たしか……(慌ててページをめくる)
A部長:クレームとか上がってきてない?
E:はい、それは今のところは何も……
A部長:じゃあちょっと確認しといて
E:はいっ、すいません
A部長:それと、ほんとに問題ないか現場にもヒアリングしといて
E:わかりました
B課長:じゃE君、確認したら部長にメールで報告してくれる?
E:はい
B課長:いつまでにできそう?
E:今日中には
B課長:わかった。ぼくにもCC入れといてね
E:はい、わかりました

こうした指摘がしばらく続く。それが終わり、A部長があらたまって話し始める。

A部長:ところで、COOからさっき話があったばかりなんだけど、Dサイトを閉鎖することになった

(ざわ…ざわっ…)

A部長:あるところからの情報によると、F社も××のサイトをリストラする方向で通達がはじまったらしい。うちもいろいろと模索してきたが、顧客へのコスト転嫁が厳しい状況で、F社との差がさらに開くことになる。みな理解してくれてると思うが、COOと相談してやはり多少の「整理」もやむを得ないだろう、と

(ざわ…ざわっ……ざわーっ)

A部長:もちろんここにいるメンバーは対象ではないが……

(随所でため息のようなものが漏れる。何人かがさっき配られたデータ資料にメモらしきものをとる)

A部長:時期等は追ってCOOからの発表があると思うけど、みなには内々に知らせておきます。オフレコなので、まだ他言はしないように。なんとか状況を打破できるようぎりぎりまでがんばってきたが、残念だ。これから、さらに危機感をもって業務にあたってほしい。このままではわたしも自分で自分の首を切らなくちゃいけなくなる、アハハ……

(シーン)

A部長:ま、そういうことで、よろしく
B課長:部長、あの、だいたいの閉鎖はいつ頃でしょうか? 
A部長:目安としては、来年の×月頃までにと考えてる
B課長:×月ですかぁ……スケジュール的に、厳しいですねぇ
A部長:厳しいとは思うが、COOからのどうしてもという指示なんで、なんとか頼むよ

EとGが深いため息をつきながら自分のデスクに戻る。

G:あーあ、うちもとうとうリストラかぁ。そんな予感したんだよなぁ

(Eは分厚い会議資料をファイリングし、Gはばさりと机の上の資料の山の上に投げる。)

G:Dサイトの再生計画せっかく作ってきたのに。さんざん時間かけといて、F社の情報聞いたら慌てて方針転換って。そんなのやってるから傾くんだよ
E:……(笑)
G:しっかし、なんだよあの会議。出るだけ時間の無駄だよ。おれもそろそろ次考えよかなぁ。今回は大丈夫でも、正直これからますますヤバイんじゃない?
E:次考えられる余裕あってうらやましいよ。おれなんか次ないよ〜(とDサイトに電話をかけはじめる)



笑い話っぽく軽く書いたけれど、実際、こういうやりとりは珍しくないはず。


・全員で数字を確認し情報を伝達するだけで、検討課題の設定、アクションの提示がない
 (なんで集まる必要がある?)
・分厚い資料に細かいデータが並んでいるが、それが意味する結論・仮説がない
 (誰が分析するの?)
・データが有効に使われている形跡がない
 (現場の手間はどう生かされるの?))
・数値をもとにしたPDCAがまわっていない
 (何を基準によくしていくの?)
・ただ同席しているだけの(ずっと黙っている)メンバーがいる
 (あんた誰?)
・議事録がとられていない
 (……原発事故時の日本政府)


生産現場が0.1秒単位で動作を測定してコスト削減に励んでも、雇用者数の60%をしめる知識労働者・サービス従事者がこうでは全体の生産性があがるはずもなく。

そもそも数値化した部分には厳格になるわりに、それ以外の基本的方針や意思決定でぐだぐだだったりすると、数値の計測なんて意味がない。

さらに、知識労働者は生産性をはかりにくく、業務も実質的には自分でしか管理できないから、定期的に業務を削るつもりで自ら見直さないと、重要でない仕事が増えて大事なことをする余裕もなくなる。


健康管理で贅肉を落とそうとして外側の皮膚から削らないように、顧客サービスの肥大化はまず自分の身の回りの業務プロセス(社内サービス)の断捨離から。大事なことはそんなに多くないハズ。





船のなかでの商売/バングラデシュ、クルナ(2005)



◎関連エントリ
サービスの亡霊
97年のアジア経済危機と今

ゼロ地点
-