脱構築を脱構築する その2 倫理論編
ラカンはフロイトの一部、「快感原則の彼岸」と重要視し、展開した。簡単にいえば、人間は快感原則=動物とは違うということだ。どのように違うのか。動物は先天的な遺伝子情報によって、多くが決定されているが、人間は後天的な教育が多くを占めているということだ。これだけだとなんだ、と思うが、ラカンがこれを人間のもつ欠如として捉える。よく言われる、人間は壊れている、ということだ。
人間は生まれながらに欠けている。それを取り戻すことが、人間存在のあり方である。それは他者を真似ると言うことだ。他者を自分の中に取り込むことで、主体となる。まず体面の他者に想像的に鏡像を見いだす。しかしこのような関係は他者との取り合いという闘争に至る。だから次に社会文化を取り込むことで、社会的に主体になる。これは具体的には言語を学ぶ問うことだ。言語体系を自らのものとしていくなかで、人とはどうあるべきかを学ぶ。
しかし言語体系はすべての解を持っているわけではない。人を殺してはいけないというが、なぜそれがいけないのか、に答えはない。ラカンはこれを「主体はシニフィアンに従う」という。言語はシニフィアン(表記)とシニフィエ(意味)でできている。シニフィアンに従うとは、意味とは関係がなく、シニフィアンの文法的な法則によるということだ。
ラカンの「無意識は言語のように構造化されている」とは、このように人は知らず知らずに無意識に、言語(シニフィアンの連鎖)に従っているだけだ、ということだ。人を・・・殺しては・・・いけないというシニフィアンが無意識にあるから、それに従っているだけだということだ。
人は生まれながらに欠けた存在なのだから、言語に従うしか主体となれないからだ。しかし不幸なことに、言語に従おうが、それでも満たされるわけではない。なぜ人を殺してはいけないのか、という意味は、そこにはない。人は充足した意味を求めて、シニフィアンの連鎖を横滑りしていくしかない。
そこにはなにか充足できる意味をあるようにふるまう。先の「日本人」の例にもどれば、日本人は、「日本人」に対して、「われわれ日本人というのは・・・」「日本人だから・・・」と、そこに共有された意味があるように語ることで、経済的にコミュニケーションを行うのではなく、そこに自らの欠損を埋める充足した意味を見いだそうとするのだ。それは他者の中に見いだすしかない。語らうしかないのだ。そして結局、日本人とは優秀だ・・・生真面目だ・・・などとシニフィアンの連鎖を繰り返していくだけなのだ。そして語りは、決して埋まらない(現実界への)穴の回りをぐるぐると回るしかない。
これはかなり強引に映るかもしれない。人の発話、あるいは行為はすべて自らの充実を求め、欠損を埋め続ける行為であるということだ。一元的な目的に還元されるゆえに、否定神学といわれる。
ベイトソンの学習理論
これをベイトソン学習理論と比較するとおもしろいだろう。ベイトソンはコミュニケーションが成立するということを前提に、学習(コミュニケーション)理論を考えた。
ゼロ学習とは、本能的な行動、生理的な反射という「動物」の領域である。そしてこのオブジェクト(ベタ)レベルから、メタレベルへと階層が上がっていく。学習1はゼロ学習の反復によって学習1をメタに認識する。学習2はさらに学習1の反復でメタに認識する。
人間は学習3まで可能とされる。たとえば、「馬鹿!」と強くいい驚かせ、笑うって冗談であることを示す。と言うような行為は、学習2の文脈(場の空気)を読むだけでなく、その文脈(場の空気)を意識的に操作している。その他、アイロニー、冗談、お笑いなど、文脈(場の空気)を操作することが学習3である。
その学習4は学習3のメタレベルに立つとされる。しかしこれは人間には不可能な領域であり、言葉を用いずに、正確なコミュニケーションができる、とされる。この段階ではもはや「断絶」は限りなく消失する、すなわち個体性そのものが消失しているといえる。エヴァンゲリオンの人類補完計画が目指されたような領域といえるだろう。
ベイトソンによる学習のカテゴリー分類 (「文脈病」斉藤環(ISBN:4791758714))
ゼロ学習・・・ある刺激に対する反応が一つに定まり、刺激−反応が単純な一対一の関係に固定された状態。あらかじめプログラムされた反応、たとえば本能的な行動や、生理的な反射、コンピュータによる演算など
学習1・・・刺激に対する対する反応が一つに定まる、その定まり方の変化。古典的パブロフ条件付け、慣れの形成過程
学習2・・・「学習?のコンテクスト」についての学習。文脈を理解し、多義語の意味を特定できる。習慣の形成。
学習3・・・学習?で学習された学習?のコンテクストの、そのまたコンテクストについての学習。学習2のカテゴリーに入る習慣形成を、よりスムーズに進行させる能力。
学習4・・・学習3に生じる変化。地球上のいかなる成体の生物もこのレベルに達していない。どのような相手とも、言葉を用いずに、正確なコミュニケーションができる。
これは、いままで示してきた、デリダ、ヴィトゲンシュタイン、ラカンのような「断絶」によって、意味、あるいはコンテクストがあるように振るまうことで、コミュニケーションが成立しているような状態とは異なる。ラカンの主体論でいえば、学習4は主体が目指すが決して到達しない充足の地点である。そこへ向けて、言葉は紡がれていくのである。
ラカンはベイトソンのような立場に対して、「メタ言語は存在しない」とった。たとえば最近の「KY(空気読めない)」というのはベイトソンでは学習2になるだろう。しかしラカンはそこに読むような空気がはじめからあるということを認めない。それは横滑りしていくだけなのである。「KY」ということで主体が示そうとしているのは、そこに空気があるようにふるまうことで、意味を獲得しようとする、自らの欲望だけである。
場の空気(コンテクスト)を読み、空気を和ませたり、笑わせたりするということは、場のためにではなく、自らがその場の一部として、宙づりから、なんらかの意味(場)へと着地したいという思いである。
このようなラカンのメタ言語批判の強力さは、デリダのラカン(否定神学)批判への反論として現れる。デリダはラカンを否定神学として脱構築する。
脱構築という行為は、ベイトソンでいえば学習3に相当するだろう。人々がなんらかの意味を想定していることを、宙づりにする。当然、デリダもベイトソン的なコミュニケーションの成立を認めないが、脱構築する中で、自らがその場の一部として、宙づりから、なんらかの意味(場)へと着地したいという思いがないだろうか、という疑いが現れる。
すなわち脱構築がただ宙づりにするだけでなく、着地点を相対したとき、日本人はというようのがウヨ的だから、異なる意味で宙づりにしたい、という意図をもったときには、そこには学習3のメタ位置に立っているのではないか。
たとえば斉藤環の脱構築批判もこのことを表しているのだろう。この斉藤の指摘は、脱構築そのものとと言うよりも、メタレベルに立つことの快感である。たとえば2ちゃんねるは、話をずらしメタレベルに立ち、優越すると言われる。あるいは、中二病があるだろう。当たり前とされることを、あえて問うことで、社会全体を宙づりにし、社会全体を所有した(わかった)ような優越を味わう。これによって、自分/社会の形而上学的二項対立の位置を確保し、自らの充実を求め欠損を埋め続けようとしている。
「脱構築」という技術は、体系の全体性。完結性が破綻する場所を暴いてゆくことで、体系の外部を徴候として示すことだ。しかしこの手続きでわれわれが本当に獲得するものは、何だろうか。それは決して「外部」そのものなどではないだろう。そうではなく、ここでわれわれが想像的に獲得するものこそが「体系の全体」なのである。われわれが「脱構築」を試みるとき、われわれは不完全性をテコにして、体系の全体性をそっくり獲得・所有したと信ずることが出来る。・・・不完全性を言い表し、それを表象することによって、不完全性はきわめて巧妙に「脱構築」する主体の視野から隠蔽されてしまうのである。これはおそらく臨床的事実と言って良いであろう。
「脱構築」もまた、メタレヴェルの視点を要請する。そして主体がその語る位置をメタレヴェルに繰り上げるとき、下位のレヴェルはそっくり一網打尽にされてしまう。メタレヴェルにおいて語るということの欲望は、所有の欲望にほかならない。P392-394
「文脈病」 斉藤環 (ISBN:4791758714)
「脱構築の欲望」
スピヴァクはこのような脱構築と否定神学の近接、「脱構築の欲望」の危険性について、デリダ自身がよくわかっていたと言う。「脱構築」には、すでに自らの充実を求め欠損を埋め続けようとする欲望(否定神学)が隠されている。
そもそもなぜテクストを解体し構築せねばならないのか?なぜ言葉や作者は「言っていることを意図している」と考えてはいけないのか?これは複雑な問題だ。脱構築の欲望それ自体が、支配を通じてテクストを積極的に再我有化し、テクストにそれが「知らない」ことを示したいという欲望になってしまうかもしれないことをデリダは認識している。
脱構築の欲望は逆の魅力にもかかわる。脱構築は認識の閉塞からの脱出口を与えてくれるように見える。テクスト性の開かれた不確実性を開始することで・・・それは自由としての深淵の魅力をわれわれに示す。脱構築という深淵への落下は、恐れと同じくらい快楽でもってわれわれを刺激する。決して底を打たないという見込みにわれわれは酔いしれるのだ。
こうして、さらなる脱構築が脱構築を脱構築する、基盤の追求としての、そして底がないという快楽としての脱構築を。そのための道具はわれわれの欲望である。欲望はそれ自体、われわれの自己というテクストからつねに異なり、つねにそれを延期する、脱構築的・・・である。
この過程は無限に続く。脱構築は差延に住まわれたたえず自己を脱構築する運動である。いかなるテクストも完全に脱構築したり、されたりすることはない。デリダはいまや、「脱構築しない、されない」のはある意味で不可能だと言おうとしている。P179-181
「デリダ論」 ガヤトリ・C・スピヴァク (ISBN:4582765246)
2ちゃんねるで以前「やらない善よりやる偽善」という募金?のスローガンがあった。2ちゃんねるとはとてもアイロニー(ラカンは認めないだろうが)な空間である。ある発言があると、それを異なるコンテクストから宙づりにし続ける。宙づりゲームのようなとても高度なコミュニケーションの場である。よく言えば、高度すぎて意味が発散し、無意味化するほどである。
ここにも強烈なアイロニーがある。「良いことをするとすぐに偽善だと言う人がいる。そうだ、善とは所詮、偽善でしかない。偽善から逃れられる善などだろう。ならば開き直って善/偽善をやってみればいいんじゃない。」ここにはすでに「善」の脱構築的な倫理があるのではないだろうか。
先のスローガンを書き換えれば、「やらない脱構築(否定神学)よりやる否定神学(脱構築)」となるだろう。「脱構築をすることは否定神学から逃れられない。ならば開き直って脱構築/否定神学をやってみればいいんじゃない。」そこにまさに「覚悟」が求められている。そしてそれは否定神学に転落する前に次へ向かうというアクロバティックな「覚悟」である。ラカン/デリダ的に継続する「覚悟」ということだ。
ラカンは・・・裏切り者ポリュネイケスの埋葬を禁じる通俗「道徳」の権化たるクレオン王と、クレオンに背いて自らの命を懸けてまで兄ポリュネイケスを埋葬しようとするアンティゴネとを鋭く対立させたうえで、「己の欲望を譲らない」アンティゴネの態度こそ「倫理」にふさわしいとする。「道徳」対「倫理」である。われわれがわれわれの中心だ・・・と思いこんでいるものとは、ほとんど<他者>の欲望に由来する「道徳」的なものである。己の欲望の現実界=「倫理」はその平面にはありえない。したがって「道徳」の根拠はつねに問われなければならない。
したがって可能な「デリダ的脱構築」とは、自分の立っている地平、たとえば現世的な法が恣意的で無根拠であることに固執しつづけるという意味で、アンティゴネ的、したがってラカン的な意味で「倫理的」なもののみである。P116-117
「貨幣と精神」 中野昌宏 (ISBN:4888489785)
再度、主体論へ
再度、収束−拡散の構造に戻れば、人はベイトソンの学習4という意味の完全な伝達という神の領域を目指すが、「断絶」によって、否定神学的主体として無意識に形而上学的な意味へとの収束する(意味があるように振るまう)しかない。
いかにその欲望から逃れようとしても、自己言及的に回帰するしかない。否定神学の収束は主体であるための条件であり、「脱構築の欲望」として拡散しつつ収束するという反転から免れない。
だから倫理的行為として脱構築とは、収束に−拡散を往復し続けるような継続的な「覚悟」が必要とされる。それがデリダ/ラカン的な倫理である、ということだ。
意味の完全伝達 − (意味の)収束 − (意味の)拡散
神(学習4) <断絶> 否定神学的主体 動物
(つづく)
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