架空の空に浮かぶもの

鏡音リン】 東京ルミネッセンス 【オリジナル曲】

http://www.nicovideo.jp/watch/sm26013779:movie:H315:W630


いやー DATEKEN さんも引き出し多いひとですぬゃー
ニコニコのランキングで見かけて、なんだこれと再生してみたら、
レトロな雰囲気がひとまわりして新鮮な曲が流れてきました。
楽しそうなリンちゃんがいいよね。

さっそんなわけで曲紹介も終わったことだし、さっそく脱線するよ。
なんかもう最近こんなんばっかだね。
まさかこんなペースで更新するなんて、ぬゃーも予想外だったんだよ。
でもしかたない。


太宰治の辞書

太宰治の辞書

シリーズ終わったと思ってたのに、
17年ぶりに新刊が出てたんだよ。なんかもう時間経ちすぎていて、ひとまわりして、
はやっ、17年たつの早っとかおもってしまったよ。
デビュー作『空飛ぶ馬』のアマゾンの紹介文をそのまま貼ってみます。

「私たちの日常にひそむささいだけれど不可思議な謎のなかに、貴重な人生の輝きや生きてゆくことの哀しみが隠されていることを教えてくれる」
宮部みゆきが絶賛する通り、これは本格推理の面白さと小説の醍醐味とがきわめて幸福な結婚をして生まれ出た作品である。

空飛ぶ馬 (創元推理文庫―現代日本推理小説叢書)

空飛ぶ馬 (創元推理文庫―現代日本推理小説叢書)

言ってみれば、いわゆる、日常系ミステリのはしりみたいなものかぬゃあ。
主人公がもろに文系で、いろんな文学作品が引用されるので、ぬゃーにはどストライクだったんだよ。というかシリーズ後半『六の宮の姫君』あたりになると。事件そっちのけで、ひたすら芥川龍之介菊池寛の作品を追っかけたりしているので、うん、そういうのに興味ない人には面白くないかもしれない。

北村作品をまだ読んだことのない人なら、『街の灯』で始まるシリーズがおすすめかな、これもけっこう日常系ではあるんだけど、時代を戦前に設定して、それなりに事件らしい事件も起きるしね。レトロな雰囲気を味わいながら、ミステリも楽しめます。レトロレトロ。


街の灯 (文春文庫)

街の灯 (文春文庫)

いわゆる日常系ミステリ、というのもいろいろあると思うけれど、ぬゃー的ポイントとしては、「悪」をどう捉えて、描いているか、が気になる。
事件らしい事件が起きなかったりするからこそ、「悪」の書き方に、けっこうもろにそのひとらしさが出るんじゃないかなと思うんだ。
そして、ぬゃーは北村薫の書き方が好きだったりするのだ。

たとえばこんなふう。ちょっと『街の灯』から引用してみるけど、

ミステリ小説のラスト数ページというところからの大胆な引用なので注意してね!
まだ読んでない人は、見ちゃダメだよ!ぬゃーはじぶんのこと棚に上げるけど、やっちゃいけないことだよ!
言ってみれば、ぎりぎりのところでふんばってる人を熱湯のなかに突き落とすような外道の行いだよ!
ダメ、絶対。

ちょうど、タイトルにも関係しているチャップリンの「街の灯」が話題になってます。

「最後のところで、眼の治ったバージニア・チェリルが、花屋さんにいるでしょう。すると、彼女のために一所懸命になって、治療のお金を工面したチャップリンが通りかかる――ぼろぼろに落ちぶれ果ててね。バージニアは眼が見えなかったから、自分を救ってくれたのはお金持ちの青年紳士だと思っている。彼女は、チャップリンの姿を見て笑う。そして、お金を恵んでやろうとして、手を取る。そこで握った掌の感触から、この男が実は、自分を救ってくれた人だと気づく」
「そうだったわね」
「弁士が声を張り上げて、感動を呼ぶところよ。でも、そこを観た時、わたしの耳からは楽団の演奏も、弁士の声も、全部消えた。わたしは、真相に気付いたバージニアの顔に、ただ、いいようのない嫌悪と憎しみの色が浮かぶのを見た」
 こんな高いところまで、上ってくるものか、蜻蛉がすっと目の前をよぎった。そして、黒い岩にしがみつくようにとまった。

≪中略≫

蜻蛉は岩を噛んでじっと動かない。
「――要するに、わたしは、わたしの心を観ていたのね。《お前の見る夢の正体などこんなものだ》ということでもあり、逆にいえば、《本当にいいものが目の前に現れても、お前には、おんぼろの浮浪者にしか見えない》ということでもある。――わたしが会えるのは全て駄馬なの。――そして仮に、千里を行く馬から見れば、わたしの方がただの駄馬なのよ」
 ××さんは、すっと立ち上がり、わたしに背を向けた。
 蜻蛉が、その動きに驚いたのか浮き上がるように岩を離れた。そのまま、ひとつ所で透明の羽根を震わせていたが、やがて風に運ばれるように、高く飛び去った。

北村薫『街の灯』より

「街の灯」ラストシーン

http://www.nicovideo.jp/watch/sm22944048:movie:H315:W630



とりあえず、人名は××ってしといたから、いいよね、うん。未読だけど読んじゃったひとは、さっそく書店へ行って、誰がこんな台詞言っちゃうんだろうって推理しながら読んでね。


まあ、そんなこんなで、『太宰治の辞書』に戻ります。

今回、事件らしい事件なし、事件らしくない事件もなし、終始芥川がどうだとか、太宰がこうだとかいう話です。まあ、小説内でもしっかり時間は経っていて、シリーズ開始時は大学生だった主人公も、中学生の子供がいる年齢になってたりはします。
なのでまあそういう話題に興味ない人は、あれだけど、そうでない人は、シリーズ読んだことのない人でも単独で楽しめるのかも。
ぬゃーはやっぱりどストライクだったんだけれど。

だから、あんまり興味ないな、と思った人は、とりあえず、ここまでで読むのやめておっけー。先に『街の灯』とか読んでみてね。
なんか、ミステリの感想書くのって難しいよね、ネタバレしないように注意して、あさっての方向に迷走したあげく、やっぱり盛大にネタバレしてましたみたいなことになるんだろうぬゃあ。
だから、やっぱりまだ読んでない人は読んじゃダメだよ!

というわけで続けます。
さて、今回収録されているのは、「花火」「女生徒」「太宰治の辞書」という三つの短編です。順番に、感想を書いてみようと思います。

取り上げられている作品は、いろいろあるんだけど、主に
芥川龍之介が「舞踏会」「或阿呆の一生
太宰治が「女生徒」「待つ」
という短めのものがメイン。青空文庫ですぐに読めるので読んでない人はチェックしてみてね。


[[「花火」]]
 言ってみれば、芥川龍之介は、どのようなことばを使って表現する小説家か、ということを書いているんじゃないかぬゃー。

 芥川の「舞踏会」という掌編がとりあげられていて、この短い小説が、ピエール・ロチというフランスの作家の「日本印象記」(別訳では「秋の日本」?)という本の中の「江戸の舞踏会」という章を踏まえて書かれているというところが核になってます。
 
 なぜ、芥川が、ロチの文章を下敷きにしたかについて、北村はこう読んでみせる。

 《舞踏会》でロチから世界を借りたのも、外国人が覗きからくりを覗くように見た日本の中のさらに鹿鳴館というーー二重の作り物に、舞台としての必然を感じたからであろう。

北村薫 「花火」より


 と、たしかに、芥川が好みそうな、ややこしい架空の舞台だぬゃあ、と納得させてくれる読みかたです。そのような小説的な設定をじゅうじゅう仕組んだ、《舞踏会》のクライマックスは、以下の部分だろうぬゃー。基本的には、短編内で引用されているところを紹介するよ。

「でも何か考へていらつしやるやうでございますわ。」
「何だか当てて御覧なさい。」
 その時露台に集つてゐた人々の間には、又一しきり風のやうなざわめく音が起り出した。明子と海軍将校とは云ひ合せたやうに話をやめて、庭園の針葉樹を圧してゐる夜空の方へ眼をやつた。其処には丁度赤と青との花火が、蜘蛛手に闇を弾きながら、将に消えようとする所であつた。明子には何故かその花火が、殆悲しい気を起させる程それ程美しく思はれた。
「私は花火の事を考へてゐたのです。我々の生のやうな花火の事を。」
 暫くして仏蘭西の海軍将校は、優しく明子の顔を見下しながら、教へるやうな調子でかう云つた。

芥川龍之介「舞踏会」より

 
 他にも、芥川を巡る批評や、ロチにちなんだあれこれの挿話がさしはさまれるのですが、その中のひとつに、晩年の作品「或阿呆の一生」の中の一節《火花》も引用されてます。
 

 すると目の前の架空線が一本、紫いろの火花を発してゐた。彼は妙に感動した。彼の上着のポケツトは彼等の同人雑誌へ発表する彼の原稿を隠してゐた。彼は雨の中を歩きながら、もう一度後ろの架空線を見上げた。
 架空線は不相変(あひかはらず)鋭い火花を放つてゐた。彼は人生を見渡しても、何も特に欲しいものはなかつた。が、この紫色の火花だけは、――凄(すさ)まじい空中の火花だけは命と取り換へてもつかまへたかつた。

芥川龍之介或阿呆の一生」より

 
 「舞踏会」と「或阿呆の一生」を並べて見れば、同じ小説家の作品とはいえ、そもそも小説の構造に対しての芥川の考えが、だいぶ変わっているように思えるぬゃ。
おそらく、細かいところを比較し始めればきりがないんだぬゃ。
まあ、もちろんつきつめれば読者の数だけ解釈が生まれるはず。ただ、それでも、このふたつの文章には、あるいは文章の行間に透けて見える、その小説が生まれたところというのは、ある、ひとつの場所から、ほんのすこしも動くことはなかった、そういう感じを持たないだろうか。
  
 ふと闇夜の虚空を見上げた時にきらめいた光、それは主人公の内面を強く動かす。
 
 何故かその花火が、殆悲しい気を起させる程それ程美しく思はれた。/彼は妙に感動した
 
 だけど、どちらもそれがなぜなのか、ひとしく理由を明らかにしようとはしないんだぬゃー。

 あえて書かなかったのだろうか、とも読めるけれども、ぬゃーは、ここが芥川の小説のことばの境界だったからではないのだろうかとおもう。
 小説のことばの境界なんて、わけのわからないことを書いちゃったけれど、他にうまくいうことができない。
 これは単にぬゃーの限界なのかぬゃあ。
 つまりその境界が、芥川の小説のことばが生まれるところ。境界のもう一方に、小説のことばは存在しない。
 
 根拠はないけれど、例えば同じロチの作品「お菊さん」を芥川は「お菊夫人」と実在の翻訳タイトルとはすこし違った書き方をしている。
という北村の読み。
芥川は、そういうふうにしか書けない。ということなのだけれど。
――そういうところと、ちょっとつながっているような気がするんだぬん。
 
 ラストちかくに引用される、評論家、江藤淳の批評が美しいです。
 
 
 
よし次だ。
「女生徒」
 太宰治の同名の小説のタイトルと同じ。
 実はこの短編も、太宰の元に送られてきた、実在の女子高生の日記を元に作られた作品だったりする。
 
 有明淑(ありあけしず)という方だそうですが、その方が、ノートに書いた日記を太宰に送り、受け取った太宰はこれを元に小説を書いた。
北村の小説にも大まかな経緯が書かれているけれど、それにしても一体ぜんたいなぜだろう。という部分はもう歴史の彼方だよね。
 
 太宰のこの作品、ある程度文章に手を入れてはいるものの、ほとんど原文のままと言っていいところも多いようで、主人公は、後に出版された「有明淑の日記」を借りてきて、小説との表現の比較をしたりしてます。
 完全な太宰オリジナルは書き出しと、末尾、そしてロココ料理なるものが出てくるあたりぐらいらしい。
 

それから、もう一品。あ、そうだ。ロココ料理にしよう。これは、私の考案したものでございまして。お皿ひとつひとつに、それぞれ、ハムや卵や、パセリや、キャベツ、ほうれんそう、お台所に残って在るもの一切合切、いろとりどりに、美しく配合させて、手際よく並べて出すのであって、手数は要らず、経済だし、ちっとも、おいしくはないけれども、でも食卓は、ずいぶん賑やかに華麗になって、何だか、たいへん贅沢な御馳走のように見えるのだ。卵のかげにパセリの青草、その傍に、ハムの赤い珊瑚礁がちらと顔を出していて、キャベツの黄色い葉は、牡丹の花瓣のように、鳥の羽の扇子のようにお皿に敷かれて、緑したたる菠薐草(ほうれんそう)は、牧場か湖水か。こんなお皿が、二つも三つも並べられて食卓に出されると、お客様はゆくりなく、ルイ王朝を思い出す。まさか、それほどでもないけれど、どうせ私は、おいしい御馳走なんて作れないのだから、せめて、ていさいだけでも美しくして、お客様を眩惑させて、ごまかしてしまうのだ。料理は、見かけが第一である。たいてい、それで、ごまかせます。けれども、このロココ料理には、よほど絵心が必要だ。色彩の配合について、人一倍、敏感でなければ、失敗する。せめて私くらいのデリカシイが無ければね。ロココという言葉を、こないだ辞典でしらべてみたら、華麗のみにて内容空疎の装飾様式、と定義されていたので、笑っちゃった。名答である。美しさに、内容なんてあってたまるものか。純粋の美しさは、いつも無意味で、無道徳だ。きまっている。だから、私は、ロココが好きだ。
 いつもそうだが、私はお料理して、あれこれ味をみているうちに、なんだかひどい虚無にやられる。死にそうに疲れて、陰鬱になる。あらゆる努力の飽和状態におちいるのである。もう、もう、なんでも、どうでも、よくなって来る。ついには、ええっ! と、やけくそになって、味でも体裁でも、めちゃめちゃに、投げとばして、ばたばたやってしまって、じつに不機嫌な顔して、お客に差し出す。

太宰治「女生徒」より


 この箇所について、北村はこう読んでみせる。
 

 
 太宰は女生徒の仮面を借りることにより、なんの遠慮もなく、じたばたしている。
 

太宰の側の書く理由は、おそらく、これでいいと思うのだけれど、実在の女子高生は一体どういうつもりで太宰に日記を送ったんだろうぬ。
ぬゃーにはさっぱりわからん。

ただ、すくなくとも、北村はこの章のラストにそのなぞに答える読みを示して終えていると思うぬゃ。
それは、ぬゃー的に言えば、太宰治という小説家の小説のことばの境界、小説のことばの生まれるところ、についての北村の読みが書かれているのだとおもうんだぬゃあ。
気になる人は、本を手にとって確かめてみてくれ。



そしてラスト
太宰治の辞書」
ここでは、更に細かく突っ込んでこのロココ料理の箇所の表現に踏み込んで行くのだが、あとはもうまじ本買って読んでね。
うん、ぬゃーはめんどくさくなったわけじゃないからね。


それはそうとこの本で引用されるのは、芥川や太宰だけではなく、実にいろいろな作品が自然にこんにちはと顔をみせるんだぬゃあ。
たとえば、主人公が太宰のことばについて調べていくうちに、資料を求めて群馬にまで足を伸ばすことになるのだが、そうなれば群馬出身の詩人、萩原朔太郎の詩もでてきたりするというもの。


およぐひと

およぐひとのからだはななめにのびる、
二本の手はながくそろへてひきのばされる、
およぐひとの心臓はくらげのやうにすきとほる、
およぐひとの瞳はつりがねのひびきをききつつ、
およぐひとのたましひは水のうへの月をみる。

萩原朔太郎「月に吠える」より


この詩のポイントは、ラスト一行にある。
これが結構反論の余地なく、論理的というよりは、即物的な的確さでうっかり納得
させられるような読みが示されていて、そんなことに、なんかびっくりしたりするんだぬゃー。

も一度太宰に戻ってみれば、戦時中の掌編、「待つ」が取り上げられています。


実は円紫さんから、「女生徒」の結びの一行が、

もう、ふたたたびお目にかかりません。

だと示された時、ぼんやりと浮かび、次第にはっきりと見えてきたのが「待つ」なのだ。

北村薫太宰治の辞書」より


ということなので、青空文庫で「待つ」を読んでみると、とても短い文章で、小説の言葉で書かれた詩、散文詩にちかい作品でした。
言ってみれば、朔太郎の「およぐひと」とその立ち位置は限りなくちかいようにおもう。
太宰はここで、小説のことばの境界で思う存分じたばたしているように読めるんだぬゃ。
ラスト一行は、決めてますけどね。
太宰は、小説のことばの境界で、人混みの中に視線を漂わせ、じたばたする。
それでいいじゃない。
でも、そのむこう、境界のむこうには何があるんだろう。小説のことばはどこから生まれるんだろう。

そう考えた時、ぬゃーにとって「ぼんやりと浮かび、次第にはっきりと見えてきた」のが
谷川俊太郎の、たぶん有名な一遍だったりします。
「かなしみ」
時代は戦後へとめぐる。


 

かなしみ

あの青い空の波の音が聞えるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい

透明な過去の駅で
遺失物係の前に立ったら
僕は余計に悲しくなってしまった


谷川俊太郎「二十億光年の孤独」より


「青い空の波の音が聞えるあたり」も「透明な過去の駅」
もどちらも現実には存在しない、現実とはつながっていない、ことばの上にしかありえない場所。
それがどこから生まれてきた言葉なのか、ぬゃーにはよくわからない。でも書かれたことばはたしかにいま目の前にある。
ぬゃーたちがそれを読む、そのとき、ことばはどこへ巡っていくんだろう。
それはきっとみんなひとつのところという気もするんだけど、でも、その先を言葉にすることは、まだ、ぬゃーにはうまくできないぬゃぁ
たぶんそれが、ぬゃーの限界。
それにしても
かなしみを見上げて捉えてみせる谷川の視線のふしぎな的確さはどうだろう。
きっと、
空の光と音が交じりあうあたりに、落としてきちゃったんだよ、ね、と。
ひろく、つめたく、あかるいところ、もしそこにいて見わたしてみることができるなら、その宿命のささやきが、ひとしくすべてをかがやかせていることを、きっと谷川は、ことばのはじまりからわかっていたのだろう。


これにておしまい。

下に貼ったのはなんと珍しい洋楽カバー
元は聖書の伝道の書の言葉をもとに、ピート・シーガーというフォークシンガーが曲を作ったもので、
バーズ (つづりを一文字変えてるあたりにビートルズの存在感がにじむ) がロックアレンジしてカバーしたバージョンのカバーです。
なんだか、無性にマッギンのきらきらした12弦ギターがききたくなってくるぬゃー
マッギンのギターいいよね。


巡音ルカ】TURN TURN TURN /THE BYRDS【洋楽カバー】

http://www.nicovideo.jp/watch/sm22654603:movie:H315:W630