明るい部屋:映画についての覚書 このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter


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評価の目安: ★(興味深い); ★★(見たほうがいい); ★★★(必見); ★★★★(大傑作、あるいは古典)

2016-08-26

[]ヒューバート・コーンフィールド『Plunder Road』——ロード・ムーヴィー・ノワールの佳作





ヒューバート・コーンフィールド『Plunder Road』(57) ★½


この映画は、いわゆる "heist movie" (強奪映画)の初期の代表作の1つだが、フィルム・ノワールとして語られることも少なくない。いろいろとユニークな点があってなかなか興味深い作品である。

銀行強盗や列車強盗などを描く映画というのは、まず仲間集めがあり、次に緻密な計画が立てられ、それが実行に移されるのだが、思わぬミスや裏切りなどによって、当初の計画通りには行かなくなり、無残な結果に終わるというのが繰り返されるパターンである。

この映画が面白いのは、まだるっこしい導入部分をすっ飛ばして、いきなり強盗の場面から始まるところだ。真っ暗な夜、しかも土砂降りの中、強盗は行われる。視界も悪く、最初は何が起きているのか全くわからない。梯子車や、内部に何かわからない仕掛けが宙づりになっているトラックなどが出てくるのだが、それで何をしようとしているのか。そもそもどこから何を盗もうとしているのか。強盗犯たちの心の声がヴォイス・オフで聞こえてくる瞬間が少しあるだけで、この長い強盗シーンのあいだだれ一人台詞を口にしない(この寡黙さは、ちょっとメルヴィルの作品を思い出させる)。こうして説明も与えられないまましばらく見続けるうちにやっと、あとで金塊だと観客に知れるものをかれらが列車から強奪しようとしていることがわかってくる。今ではこういう始まり方もそう珍しくないかもしれないが、当時としてはかなり斬新だったのではないだろうか。

結局、強盗はあっさりと成功する。5人の強盗犯は盗んだ金塊を3つにわけ、それぞれ種類の違う3台のトラックに載せて運び出すのだが、途中、警察の検問などで一人また一人と脱落してゆき、捜査の網が狭まって犯人たちは追い詰められてゆく。普通、仲間が捕まったら、警察の尋問シーンがあって、仲間の名前を言う言わないというやりとりがあったりするものだ。しかし、ここではそんなシーンは一切なく、残された仲間たちも、捕まった仲間のことはあっさりと忘れて、自分たちが生き残ることだけに専念する。キューブリックの『現金に体を張れ』を少し思い出させもするこのドライな描き方は、このジャンルとしてはなかなかユニークだと思うのだが、それがドラマに緊張感をもたらしているかというとそうでもない。そもそも、5人の強盗犯たちがそれぞれ何者で、どうしてこうやって集まったのかも、最後まで説明がないというのも、斬新といえば斬新なのだが、そうしたこと全てが、結局、全体を盛り上がりの欠ける淡泊なものにしてしまっているだけという印象はぬぐえない。


面白いのは、最後に生き残ったふたりの強盗犯(そのうちのひとりは、この強奪計画を立てたリーダー)と、リーダーの情婦が、盗んだ金塊を新しい車のシートの下に隠し、残った金塊を溶かして車のホイールとバンパーに変えて色を塗ってごまかし、そうやって作ったクラッシックカーに乗って悠々と逃亡を試みるクライマックスだ。チャールズ・クライトンの傑作『ラベンダー・ヒル・モブ』(51) では、強盗犯たちは溶かした金塊をエッフェル塔の置物に変えて運びだそうとしたのだった。金塊を車に変えるというアイデアは、たぶんあの映画を下敷きにしているのではないだろうか。


都市を舞台とすることが圧倒的に多いフィルム・ノワール作品のなかには、都市と都市を結ぶハイウェイを人物たちの生きる場所(あるいは死に行く場所)にしたロード・ムーヴィー・ノワールとでもいうべき作品が少なからず存在する。ウルマーの『恐怖のまわり道』(45)、アンソニー・マンの『Desperate』(47)、ウォルシュの『夜までドライブ』、ジョセフ・H・ルイスの『拳銃魔』(50)などがその代表作になろう。本来ならばどこまでも開かれたハイウェイは自由へと続く道であるはずであるが、これらの作品においては、道路は次第に重苦しく閉ざされてゆく閉鎖空間と化し、登場人物たちを次第に出口なしの状況へと追い詰めてゆく。『Plunder Road』は強奪映画であると同時に、こうしたロード・ムーヴィー・ノワールの系譜に連なる作品の1つとして、十分注目に値する作品であると思う。


2016-08-25

[]ドン・シーゲル『地獄の掟』——アイダ・ルピノと Filmmakers についての覚書





ドン・シーゲル『地獄の掟』(Private Hell 36, 54) ★½


実は見るのは今回が初めて。大好きなドン・シーゲルの未見の作品ということで、かなり期待したのだが、正直、がっかりするできだった。

なぜか『第十一監房の暴動』のような監獄ものだと長い間思い込んでいたので、大金を奪って逃走している強盗犯を追う2人の刑事の話だとわかって驚く。ふたりの刑事役にスティーヴ・コクランとハワード・ダフ。犯人の顔を見ている唯一の目撃者として、アイダ・ルピノが出演している。ルピノはこの作品の脚本も書き、プロデューサーでもあった。

追い詰められた強盗犯は車ごと転落して即死するのだが、刑事のひとり(コクラン)が、犯人の持っていた強奪金に目がくらんで札束の一部を懐に入れる*1。それを見とがめたもう一人の刑事(ダフ)も、結局、ずるずるとそれを黙認してしまう。ためらいもなく一線を越えてどんどん堕ちてゆくコクランと、罪の意識に苦しみつづけるダフ("private hell" というのは罪の意識を表している言葉なのだろう。「36」はふたりが金を隠す宿泊用のキャンピングカーの番号である)。

悪徳警官なら、ロージーの『不審者』(51) や、ジョン・クロムウェルの『脅迫者』、以前に紹介した『眠りなき街』(52)、あるいはこの映画と同じ年に作れたクワインの『殺人者はバッヂをつけていた』など、50年代に作られた犯罪映画やフィルム・ノワールにたびたび描かれてるので、それほど新鮮なテーマではない。しかし、脚本はそれなりによくできているし、コクラン、ダフ、ルピノの3人も素晴らしい演技を見せている。いったい何が悪かったのだろうか*2。シーゲルは『仮面の報酬』の頃からすでに十分な才能を見せていたし、これと同じ年には『第十一号監房の暴動』(54) という傑作も撮っているのだから、つい比べてしまう。リュック・ムレは、シナリオ上のハイ・ポイントと演出上のハイ・ポイントがずれているという言い方をしていたが、それもいまいちピンとこない。まあ、こういうこともあるとしかいいようがない。

たしかにアクション・シーンの切れはいいが、見所はそこだけだという気もする。バーネット・ガフィの撮影もときおり冴えを見せることはあるが(とりわけ、冒頭の闇の中にぼわっと浮かび上がる車とか)、全体としてテレビ映画の画面を見ているように平板である。残念だがとても傑作とは言えない。リュック・ムレはB級映画のマニアとして知られているが、そのかれでさえ、当時「カイエ」に掲載された批評を、「次回作に期待しよう」という言葉で結んでいる。それはまあ妥当な評価じゃないかと思うのだが、たとえば Amazon のレビューアーは★5つの大絶賛をしているから、驚く。ドン・シーゲルだと思って見ると必要以上に面白く見えてしまうのだろうか。







1949年、アイダ・ルピノは作家でプロデューサーの夫コリア・ヤングらとともにインデペンデントの映画製作会社エメラルド・プロダクションズを設立。製作第一作として低予算のフィルム・ノワール『The Judge』(49, 監督エルマー・クリフトン)を発表すると、同じ年に、今度は社会派のメロドラマ『Not Wanted』を同じくクリフトン監督で製作する。ルピノはこの作品で脚本に参加していただけだったが、クリフトンが心臓発作で倒れたあと、監督を途中から引き継いだ(クレジットは、クリフトンの単独監督になっている)。

『Not Wanted』を作り終えると、ルピノとヤングはエメラルド・プロダクションズを離れ、49年8月に、ふたりで新しい製作会社フィルムメーカーズを立ち上げる。第一作の社会派メロドラマ『Never Fear』は、ルピノとヤングが脚本を書き、ルピノが監督した。これがルピノの公式のデビュー作であり、彼女はこの作品によって監督協会(ディレクターズ・ギルド)二人目の女性監督に名を連ねることになった。

『Never Fear』は RKO の興味を惹き、フィルムメーカーズはつづく5作品について、収益の50%と引き替えに、RKO からの資金援助、撮影設備の提供、配給の便宜を受けるという契約を交わす。このあとのルピノの監督としての活躍ぶりは割とよく知られている。『暴行』(50) では強姦被害に遭う若い女性を描くという大胆なテーマに挑み、『Hard, Fast and Beautiful』 (51) では、テニス選手である娘の才能につけこむ野心家の母親をとりあげ、『ヒッチ・ハイカー』では、実在した殺人鬼の実話に基づいて作られた物語を、Motion Picture Association of America (MPAA) の反対を押し切って製作。そして、RKOとの契約下におけるフィルムメーカーズ最後の製作作品『二重結婚者』では、重婚者とそのふたりの妻の葛藤を描いた。つねに斬新なテーマを大胆に取り上げつづけたアイダ・ルピノは、単に女性監督という珍しさからだけではなく、一監督として、今では高い評価を得るに至っている。

『二重結婚者』の翌年に、ヤングとルピノの脚本、ドン・シーゲル監督で作られたこの『Private Hell 36』は、フィルムメーカーズが最後から2番目に製作した映画だった*3。批評は芳しくなく、「ニューヨーク・タイムス」では、“just an average melodrama about cops.” と酷評された。フィルムメーカーズは翌年の『Mad at the World』 (55) を最後に活動を停止する。

*1:このシーンでは、最初に風で散らばった紙幣を2人に集めさせ、そういうふうにして不可抗力でまず札に手を触れさせてから盗ませるところが自然でリアルだと思った。

*2:シーゲルの自伝には、『第十一監房の暴動』で初めて監督として成功を収めたシーゲルに、大女優アイダ・ルピノから突然この映画の監督を依頼する連絡があり、舞い上がってしまったことが書かれていて、ちょっと笑ってしまう。とても断れるような力関係じゃなかったなかで(あっちは大女優だし、こっちは駆け出しの監督だった)、シーゲルは未完成の脚本に納得できないまま仕事を引き受けてしまい、現場の雰囲気も最悪だったらしい。ショットを分けるか分けないかなど、演出上の点でシーゲルとルピノはことごとく対立し、全然思うように撮れなかったという。

*3:ルピノはこのときすでにヤングとは離婚していて、ハワード・ダフとつきあっていた。映画のなかでは、ルピノの相手役はダフではなくスティーヴ・コクランだから、ややこしい。

2016-08-23

[]ノーマン・フォスター『Woman on the Run』——フィルム・ノワールメロドラマのあいだで





ノーマン・フォスター『Woman on the Run』★★


さほど期待していなかったのだが、思いの外よくできた作品だったのでびっくりした。

監督のノーマン・フォスターは、オーソン・ウェルズの『恐怖への旅』の監督であり、『イッツ・オール・トゥルー』にも関わっている。しかし、作家としてはほとんど認知されていないので、安物の作家主義に従って監督の名前だけで映画を選んで見ている人の網には引っかかってこない作品だろう。



フィルム・ノワール」という言葉によって喚起される紋切り型のイメージが、私立探偵や刑事、あるいは平凡な保険勧誘員や銀行の経理係などが悪女(ファム・ファタール)に魅入られてしまい、転落していくという物語であることからもわかるように、この〈ジャンル〉は、基本的に、男性を主人公とする映画であると考えられている。しかし、実際には、女性を主人公にしたフィルム・ノワールと呼ぶべき作品が、少なからず存在する。シオドマクの『幻の女』、ロイ・ウィリアム・ニールの『黒い天使』、そしてこの『Woman on the Run』などといった作品がその代表例になるだろう。もっとも、『幻の女』や『黒い天使』をフィルム・ノワールとすることにはなんの抵抗もないが、『Woman on the Run』を果たしてフィルム・ノワールと呼べるのかという疑問がないわけではない。フィルム・ノワールというジャンルを考えるとき、この作品は微妙な位置にあるといわざるをえないのである。


殺人事件の現場を目撃してしまったために怖くなってその場から逃走した夫の居場所を、妻が捜し出そうとする*1。ときには彼女に張り付いている警察の裏をかきさえしながら、ひとりで(実際は、ジャーナリストの男が彼女を手伝うのだが)夫を見つけ出そうとする妻を演じるアン・シェリダンは、この映画のなかでほとんど私立探偵のように振る舞っているといってよい。しかし一方で、夫にはすでに愛情をほとんど感じなくなっており、彼からも愛されていないと思っていた妻が、夫を捜すうちに、自分が彼のことを全く知らなかったことに気づき、同時に、彼がまだ自分を愛していることを確信して、夫への愛情を取り戻してゆくという物語には、多分にメロドラマの要素が交じっている*2

フィルム・ノワール自体が定義しがたいジャンルであるのに、様々なサブ・ジャンルを作ってさらに事態をややこしくする必要はないと思うのだが、この映画は〈メロドラマノワール〉とでも呼ぶべきものであり*3ドナルド・フェルプスが "cinéma gris"("noir"=黒ではなく、"gris"=灰色の映画)と呼ぶフィルム・ノワールのサブ・ジャンルに属する作品の1つであると言ってもいいかもしれない。フィルム・ノワールならぬ「フィルム・グレイ」という言葉を使ったのは、『ロサンゼルス・プレイズ・イッツセルフ』のトム・アンダーセンだったと思うが、言葉だけ借りるなら、この映画もフィルム・ノワールという集合のかなり外側に位置するという意味で、フィルム・グレイのひとつにあたるという言い方もできるだろう。


女が主人公のフィルム・ノワールと書いたが、実は、この映画の真の主人公はサンフランシスコの町そのものだといったほうが本当は正しいかもしれない。冒頭のヒル・ストリート・トンネル横の石段(?)を上段から見下ろすように撮られ、眼下に今はないバンカーヒル・セントラル・ポリス・ステーションが見えるショット(この階段を上がったところで夫が殺人を目撃する)と、クライマックスのサンタモニカの遊戯施設をのぞくと、この映画はほぼ全編がサンフランシスコの町でロケーションされていて、アン・シェリダンが夫を捜し回って動くたびに、サンフランシスコの町の様々な側面が浮かび上がってくる。『サンフランシスコ・プレイズ・イッツセルフ』という映画がもしも撮られたならば、『過去を逃れて』『めまい』『ブリット』『ダーティ・ハリー』などといった作品と並んで、この映画も必ず引用されるに違いない。ちなみに、フランスでのこの映画の公開題名は "Dans l'ombre de San Francisco"(「サンフランシスコの闇の中で」)だった。


この監督のもう一つのノワール作品であり、彼の数少ない(?)傑作の1つ、『暴れ者』についてはまた別の機会にでも紹介したい。


*1:タイトルから想像する内容とは違って、この映画で逃げているのは女ではなく、男のほうである。ちなみに、この映画の前年に『Man on the Run』という映画が撮られているのだが、たぶん本作とは全く関係がないはず。

*2:この点で興味深いのは、のちに『心のともしび』『悲しみは空の彼方に』『天の許したまう全て』など、多くのダグラス・サーク作品を製作することになるロス・ハンターがダイアローグ監督としてクレジットされていることだ。

*3メロドラマフィルム・ノワールは全然別物のように思えるかもしれないが、いわゆる映画の〈ジャンル〉のなかでこの2つだけは、他と違う異形のジャンルとでも呼ぶべきものであり、意外と共通点も少なくない。

  
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