明るい部屋:映画についての覚書 このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter


6月24日 連続講座:20世紀傑作映画 再(発)見 第2回 ジョン・フォードと西部劇の神話──『駅馬車』をめぐって

---

トビー・フーパー『マングラー』 [Blu-ray]

---
評価の目安: ★(興味深い); ★★(見たほうがいい); ★★★(とにかく必見); ★★★★(大傑作、あるいは古典)

2017-06-17

[]ジョン・フォード





6月24日に神戸映画資料館で行う予定の「連続講座:20世紀傑作映画 再(発)見 第2回 ジョン・フォードと西部劇の神話──『駅馬車』をめぐって」(タイトルはいつものように適当につけたもので、実際の内容はちょっと違うものになると思います)が、あと一週間と迫ってきたので、さすがに焦っている。なんとか間に合わせるつもりだ。

それまでのあいだ、様々な映画監督ジョン・フォードについて語った言葉を、順次アップしてゆく(ほぼ毎日このページに追加してゆく予定)。フラーとヴェンダースの言葉は雑誌「リュミエール」掲載のテキストからの引用だが、それ以外はすべて筆者による拙訳である。急いで訳したもので、中には英訳からの重訳も混じっている。不正確な部分もあるかもしれないが、とりあえず今は、これでご勘弁いただきたい。時間の余裕ができたときに、再チェックするつもりだ。

古い記事だが、「ジャン=マリー・ストローブ、ダニエル・ユイレ、ジョン・フォードを語る」も参照していただきたい。



ジョン・フォードはわたしの教師だった。わたしの作風は彼の作風とはまるで関係ないが、『駅馬車』はわたしの教科書だったんだ。40回繰り返して上映した……。映画はどういうふうに作るのかを、この作品から学ぼうとしたんだよ。『駅馬車』はまさに、古典として完璧な作品だった……。[『市民ケーン』を準備しているあいだ]一月以上に渡って、毎晩、RKOの制作スタッフを一人づつ呼んで、『駅馬車』を上映しながら、あれこれと質問しまくったんだ」

オーソン・ウェルズ

「アメリカ映画がかつて長いあいだそうだったもの、リヴェットいうところの〈探索弾頭 tete chercheuse〉の役割を今や担っているのは、ヨーロッパ映画である。ベティカーが撮った数本の近作以来、アメリカ映画(ニューヨーク派も含めて。ただし『沈黙のこだま』は除く)は、空回りし(フラー)、足踏みし、パロディ化し、剽窃し、ニコラス・レイのように(かれは、デュースブルクで、アトラス・フィルム向けにくだらない仕事を引き受けたばかりだという)、裏切り、自己を否定しさえしている。(たとえばチャップリン、ラング、ルノワールロッセリーニらが、人から嘲笑われることなどまるで恐れずに新作を発表し続けているのにくらべれば、ヒッチコックホークス、ウォルシュでさえ、少しばかり足踏みしているように思える。)例外が二人いる。ジェリー・ルイスはおそらくその一人であり、もうひとりはジョン・フォードだ。フォードは、アメリカ映画をその頂点にまで高め(『馬上の二人』『捜索者』『騎兵隊』)、そしてその失墜を加速させたあとで(『リバティ・バランスを射った男』『シャイアン』)、アメリカ映画を崇高なものにしたばかりだ。無論、『荒野の女たち』のことである」

ジャン=マリー・ストローブ

「私は、ジョン・フォードの映画の友情を、入念さを、正確さを、手堅さを、真摯さを、静謐さを、人間性を、惜しむ。私は、決して作り物ではない表情を、決して単なる背景ではない風景を、決して押し付けられたものでも、滑稽なものでもない感情を、たとえそれが喜劇的なものであっても、決して自らを嘲笑しない物語を、絶えず完全な変貌を遂げる俳優を、惜しむ。私は、騒々しいジョン・ウェインを、ぎこちないヘンリー・フォンダを、誠実なコンスタンス・タワーズを、内気なヴェラ・マイルズを、謙虚なジョン・クォーレンを、アイルランド人のヴィクター・マクラグレンを、母性的なジェーン・ダーウェルを、不平屋のラッセル・シンプソンを、子供っぽいハリー・ケリー・ジュニアを、惜しむ」

ヴィム・ヴェンダース

「その神話的ともいえる西部劇に加えて、ジョン・フォードの社会的影響力を持つ作品は、私を最も震撼させるものだ。ジョン・スタインベックの『怒りの葡萄』は30年代大恐慌を描いた、愛国的で、絶望的な小説であり――そしてもちろん、映画化されるために書かれたわけではない。だがフォード、心の腐った馬鹿な連中によって、右がかった男らしさ(マッチョ)を誇示する監督と決めつけられたこの男は、映画館に足を運ぶアメリカ人たちの様々な感情を視覚的につかみ取り、それらの感情を極めて大きな衝撃力で揺すぶった。それゆえ、アメリカの国全体が、スクリーンに次々に映される、失業による社会構造の崩壊、干からびた大地、放浪する農民たち、土地を追われた家族、自国にありながら難民化したアメリカ人、などといったイメージに反応を示したのだ。彼のカメラは,ユーモアと、温かい心と、いきいきとした動きをもって、合衆国において決して起こりえなかった、だが実際に起ってしまったことを示してみせた。この映画は一人のアメリカ人が、法の「向こう側」のために働くおまわりに対して抱く、不信、恐怖の最初のきざしを明らかにした、初めての映画だった」

サミュエル・フラー

ジョン・フォードは〈完璧な監督〉Compleat Director だった(『人類の戦士』『男の敵』『駅馬車』『怒りの葡萄』『果てなき船路』『わが谷は緑なりき』『静かなる男』)。どんな映画でも撮れる最強の監督だった。ジョン・フォードにとってメガフォンは、ミケランジェロにとっての鑿のようなものだった。つまりは、彼の命であり、情熱であり、十字架だった。フォードをピンで留めて分析することはできない。彼はただ単にフォードだった。つまりはただ単に偉大だった。ジョンは、半分は暴君で、半分は革命児。半分は聖人で、半分は悪魔。半分は我慢できるが、半分は我慢のならない男。半分は天才で、半分はアイルランド人だった。だが、いつだって、全身映画監督だった」

フランク・キャプラ

「私がジョン・フォードでもっとも好きなところは、純粋状態の芸術家であるということだ。芸術家であることに気づかず、無骨で、不毛で回りくどい文化を介さず、知性偏重主義に汚染されていない、芸術家であるところだ。彼の力強さと、人に警戒心を解かせるようなシンプルさが好きだ。フォードのことを考えると、掘っ立て小屋や、馬や、火薬のにおいがしてきて、静かで、人を不安にさせる平坦地が、ヒーローたちの終わることのない旅路が、眼に浮かぶ。だが、私が何よりも思うのは、映画を愛し、映画のために生きた一人の男のことだ。彼は映画を、万人に語られるおとぎ話に、いやなによりも、彼自身によって生きられるおとぎ話に、ごく自然に楽しく人を楽しませ、情熱を持って生きられる住みかに、変えた。こうしたことすべてにおいて、私は彼を尊敬し、賞賛し、愛する」

フェデリコ・フェリーニ

ジョン・フォードの映画は視覚的な喜びだった――明快であることと見かけの単純さにおいて、雄弁な彼の撮影技法。暖炉の炎越しに部屋を撮ったショットだの、シャンデリアを揺らしながら進んでゆくカメラだの、これといった目的もなしに果てしなく繰り返されるズームイン・ズームアウトだのといったものは、フォードの映画には存在しない。彼の脚本には、始まりと、真ん中と、終りがあるだけだ。それは世界中どこででも理解される。そしてそれは、彼が愛した土地、モニュメント・ヴァレーを讃える金字塔モニュメント)であるのだ」

アルフレッド・ヒッチコック

「才能というのは稀なものだ。技術的な巧みさは誰もが持っているものではない。撮影現場での統率力は、どこにでも見つかるものではない。だがそれにもまして稀なのは、高潔さだ。ジョン・フォードは王様だった。かれは、この上なく幸運なことに彼とともに仕事をすることができたものたちすべてに、ナイトの爵位を授けてくれたのだ。彼を失ってしまったことは、取り返しのつかない損失だ」

ジャン・ルノワール

「若いとき、私は、ベートーヴェンを賞賛したのとほぼ同じ理由で、ジョン・フォードを賞賛した。その力強さと飾りのなさ(simplicity) を。その暖かさと、詩情と、視野の広さを。その英雄的な態度と、限りない信念と楽観主義を。この二人は、突然荒れ狂い、しばしば感情的になりすぎるところも、共通している。フォードは、私に映画への愛を吹き込み、そのイロハを教えてくれた5、6人の監督たち(その多くはアメリカ人だ)の一人だった。だれよりも彼のおかげで、私は、一本の映画が命を持ち、呼吸し、健全な一人の人間のように振る舞うことを、そして、このような命を吹き込む芸術は、我々を取り巻き支える空気のように、しばしば目には見えないものであり、また、それでこそ命をよりいっそう吹き込めるのだということを、理解した。これほど長きに渡って実り多い仕事をしてきた芸術家が亡くなったことを惜しみはしないが、ジョン・フォードを可能にした一つの時代が終わり、息をする空気そのものが汚染されてしまっている新しい時代が来てしまったことを、心から惜しむ」

サタジット・レイ

「たいていの監督は、前景で起きている出来事を美しく飾るために風景を利用するだけだ。わたしがジョン・フォードの幾つかの作品を好きな理由の一つはそこにある。フォードはモニュメント・ヴァレーを一度として単なる背景として使わなかった。彼はむしろそれを、登場人物の心を表すために使ったのだった。西部劇は、実のところ、我々が正義というものを基本的にどう考えているかを描いている。フォードの映画に描かれるモニュメント・ヴァレーを見るとき、不思議なことに、信じたくなるのだ。アメリカにも正義があると」

ヴェルナー・ヘルツォーク

「古典的作家のなかで最も現代的な映画作家。彼が西部劇を発明したのであり、そしておそらくは映画そのものを生み出したのだ」


ジョン・フォードは世界で最も有名な監督の一人であったが、その振る舞いや言葉、彼にまつわるすべてから、本人はそんな名声を求めてもいなければ、受け入れてもいないという印象を受けた。ぶっきらぼうで、人には見せないでいるが、実は心優しい人物だといつも言われていたこの男は、ジョン・ウェインが演じた主人公よりも、ヴィクター・マクラグレンが演じたキャラクターたちのほうに、間違いなく近かった。
ジョン・フォードは「芸術」という言葉を決して使わない芸術家であり、「詩」という言葉を決して使わない詩人だった。
ジョン・フォードの映画で好きなのは、彼がいつも登場人物を優先させたことだ。長いあいだ、私は彼の女性の描き方を批判していた。あまりにも19世紀的な女性観に思えたのだった。やがて、ジョン・フォードの映画を通して、私は理解した。モーリン・オハラのような素晴らしい女優は、1941年から1957年にかけてのアメリカ映画における最高の女性の何人かを演じることができたのだということを。
ジョン・フォードは、ハワード・ホークスとともに、「透明な演出」賞を受賞することもできただろう。この二人の物語作家(ストーリーテラー)のカメラワークは、観客には見えないのだ。動いている人物を追いかけるとき以外は、カメラはほとんど動かないし、固定ショットの多くは、常に正確な距離を置いて撮られる。こうして、ギー・ド・モーパッサンツルゲーネフなどと比較しうる、しなやかで流れるような文体が生み出されたのだ。
堂々たる余裕で、ジョン・フォードは観客を笑わせ、泣かすすべを知っていた。かれが唯一知らなかったのは、観客をどうやったら退屈させることができるかだった! 
ジョン・フォードは神を信じていたので、最後にこう言おう――ジョン・フォードに神の祝福を」


フランソワ・トリュフォー

2017-06-13

[]アラン・ドワンフロンティア・マーシャル』



アラン・ドワンフロンティア・マーシャル』(Frontier Marshal, 39) ★★


保安官ワイアット・アープのトゥームストーンでの活躍を描いた西部劇。『荒野の決闘』と同じスチュアート・N・レイクの小説を原作としているため、登場人物やエピソードはフォード作品と重なる部分が多い。ちなみに、レイクはアンソニー・マンの『ウィンチェスター銃’73』の原作者でもある。

酒場で暴れているならず者をアープが外に引きずり出して町の人たちに一目置かれるエピソードとか、『荒野の決闘』のチワワリンダ・ダーネル)にあたるジェリー役のビニー・バーンズが賭博師とグルになってイカサマをしているところをアープ(ランドルフ・スコット)がみつけ、彼女を水桶に放り投げるところとか(その直後に、ドク・ホリディが登場し、アープと一触即発の状態になるところも同じ)。

荒野の決闘』ではアープ兄弟とクラントン一家対立が物語の中心になっていたが、ドワンの映画ではアープに兄弟はいないし、クラントン一家も登場しない。ドクが、流れ弾にあたって大怪我をした子供を手術して命を救った直後に(このエピソードも『荒野の決闘』に出てくる)、ならず者に殺され、アープがたった一人でOK牧場に向かうところが映画のクライマックスになっている。ところが、酒場から一分も歩かないところに牧場があるという空間の描き方が何だか異様だった。

荒野の決闘』と素材が同じだけにどうしても並べてみると見劣りしてしまうし(ドク役のシーザー・ロメロは意外と悪くないが、リンダ・ダーネル、キャシー・ダウンズと比べると二人の女優はいささか影が薄い)、『バファロウ平原』『逮捕命令』『対決の一瞬』など、50年代にドワン自身が撮った西部劇の傑作の数々と比べても、随分マイナーな印象を受ける。しかし、フォードの演出独自性を見極めるために、この映画はなかなか助けになる(フォードの見せない演出)。


2017-06-11

[]ウェズリー・ラッグルス『シマロン』




ウェズリー・ラッグルス『シマロン』(Cimarron, 31) ★½


1889年オクラホマの土地獲得競争(オクラホマ・グレート・ラン)から大恐慌の時代に至るまでの40年近い時の流れを年代記的に描いたこのスペクタクル大作を、単純に西部劇に分類していいものかどうかわからないが、少なくとも前半部分には、西部劇的な要素がいろいろと詰まっている(教会のなかでの悪漢との対決や、大通りでのガン・ファイトなど)。

リチャード・ディックス演じるヤンシーは、妻を連れてオクラホマに移住し、新聞社を立ち上げる。西部劇においてジャーナリズムが果たしてきた役割を考えると興味深い展開である。しかしこの映画では、新聞はたんに主人公の職業である以上の役割は果たしていない。

ヤンシー夫婦の旅に勝手に同行する黒人少年の描き方は、黒人のステレオタイプそのもの(キーキー声でしゃべり、知性のかけらも感じられない)。しかし一方で、主人公ヤンシーの考え方や行動が、意外なほどポリティカリー・コレクトなことに驚かされる。彼は、教会にユダヤ人を受け入れ、町の品行方正な人たちから軽蔑されている女(『駅馬車』のダラスや『三悪人』のミリーのような孤児)を裁判で擁護し、息子がインディアンの娘と結婚するのを歓迎する(彼の妻は、最初、それがまったく理解できない)。

すぐに水溜りの出来るでこぼこ道はゆっくりと整備されてゆき、やがて市電が通り、最後には、両側にビルが立ち並んで車がひっきりなしに往来するようになる。同じ位置から撮られた町の風景が40年の時間の流れのなかで変貌してゆく様子には、なにがしかの魅力がないわけではない。

しかし、この長きにわたる時間を描いた年代記映画で、その中心となる人物たちがあまり魅力的でないというのは、ちょっと致命的だ。とりわけ、後半でヤンシーに取って代わって物語の中心となる彼の妻を演じるこの映画のアイリーン・ダンはまったくと言っていいほど魅力を欠いている。


とにもかくにも、サイレントからトーキーへの移行期に最もダメージを受けたジャンルである西部劇が、トーキーにおいても成功作を作ることが出来ることを示したという意味で、無視できない作品ではある。


  
最近紹介したDVD