明るい部屋:映画についての覚書 このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter


ロベール・ブレッソン『白夜』Blu-ray
Blu-ray のみで DVD の発売はないらしい。

2016-05-19

[]新作DVD――ジャン・ルノワール『十字路の夜』、エレン・クリモフ『炎628』ほか






ウィリアム・A・ウェルマン『飢ゆるアメリカ』 [DVD]


ウェルマンには数々の傑作があるが、30年代のいわゆる「プレ・コード」時代に撮られた作品群は格別だ。なかでもこの『飢ゆるアメリカ』は、第一次大戦の終結から、大恐慌、そしてニューディール政策へとつづく激動の時代を生きる主人公を通して、アメリカの暗部を生々しくえぐり出した傑作中の傑作といってよい。英雄的行為はだれにも気づかれず、逆に、やってもいない罪で裁かれてしまう主人公。ここでは、軍隊も、企業も、警察も彼に不当で、資本主義者も共産主義者も共に腐敗している。ワーナーが最も攻めていた時代の作品。


ジャン・ルノワール『世界の推理小説傑作映画 十字路の夜』 [DVD]


霧と雨に湿る濃密な夜(ルノワールがやりたかったことに技術が追いついていないのではないかというもどかしささえ覚える画面)。理解不能で迷宮のような物語。「フィルム・ノワール」という言葉が発明される以前にそれを実現してしまったかのような作品だ。フィルムで一度だけ見たことがあるが、その時の衝撃は忘れがたい。海外版で先に見てしまっているので、日本でどんなソフトが出てもあまり驚かないことが多いのだが、これにはちょっとびっくりした。しかし、同時に、残念な気もする。この傑作はできれば最初にフィルムで見たいし、それがダメならせめてクライテリオンブルーレイとか、とにかく最高のかたちで見たいものだ(もちろん、買うけど)。

『世界の推理小説傑作映画』DVD-BOX のラインナップには入ってなかったはずなのだが、『黄色の部屋』がこれに差し替えられたということか。

『アメリカンホラーフイルム ベスト・コレクション DVD-BOX Vol.4』

「狂へる天才」「電気人間」「殺人魔の魂」「透明人間の逆襲」「殺人鬼の巨像・クリーパー」の5作品を収録したアメリカンホラーフィルム ベスト・コレクション第4巻。

第4弾まで来るといささかマイナーなラインナップになってきた気はするが、マイケル・カーティスが表現主義的な感性を発揮したといわれる『狂へる天才』が入っているのが注目。

『ハリウッド西部劇映画傑作シリーズ DVD-BOX Vol.17』

ハリウッド黄金時代に輝いた、珠玉の西部劇傑作シリーズの第17弾!一流のスタッフ&キャストが結集した厳選の5作品「フェザー河の襲撃」、「サドル・トランプ」、「挑戦」、「廃墟の守備隊」(アンドレ・ド・トス)、「アリゾナの襲撃」を収録。

こちらもちょっとぱっとしない並びだが、西部劇初の3D映画として撮られ(サークの『アパッチの怒り』などがこれにつづく)、『捜索者』を予告しているとも言われるゴードン・ダグラスの『フェザー河の襲撃』あたりが興味深い。

『エド・ウッド コレクション DVD-BOX』

『アンドレイ・タルコフスキー 傑作選 Blu-ray BOX』(初回限定)


エレン・クリモフ『炎628』 Blu-ray


戦争という狂気の体験を少年の目を通して描き、カルト的人気を誇る作品。


サタジット・レイ『ビッグ・シティ』『チャルラータ』


あのウェス・アンダーソンが大好きでベストテンに選んでいる『チャルラータ』と、これも傑作と呼び名の高い『ビッグ・シティ』の2本がブルーレイで登場。日本ではすっかり忘れられていたインドの巨匠サタジット・レイがようやく思い出されはじめようとしている。


『あの頃映画松竹DVDコレクション 桃太郎 海の神兵 / くもとちゅうりっぷ デジタル修復版』

松居大悟 『私たちのハァハァ』 [DVD]

日本映画はあんまり熱心に見てないのだが、これは最近見たなかで強く印象に残った一本。テレビで見たのだが、それでも画面の迫力を感じた。

2016-05-16

[]クリスチャン=ジャック『聖アジール学園消失事件』――戦争の不安を背景にしたミステリアスな子供映画の傑作





フランス映画の墓堀人」と呼ばれた批評家時代のフランソワ・トリュフォーが「フランス映画のある種の傾向」と題された記事のなかでドラノワやオータン=ララといった巨匠たちを痛烈に批判し、結果的に、彼らを半ば葬り去ってしまったことはよく知られている(正確に言うと、そこでのターゲットは彼らと言うよりも、脚本を書いていたオーランシュ=ボストだったのだが)。これらの監督たちはかつて日本でももてはやされ、わたしが子供だった頃には、テレビで毎月のように彼らの映画が放映されていたものだ。しかし、それも昔のこと。今ではテレビで放映されることもほとんどないし、ソフト化されている作品もほんの一握りしかない。むろん、それはトリュフォーひとりのせいではないのだが、ヌーヴェル・ヴァーグの若き映画作家たちの登場によって彼らが突然時代遅れの存在となってしまったこと、そしてその最初の一撃が、トリュフォーのあの記事だったことは間違いないだろう。

もっとも、トリュフォーが記事のなかで批判した監督たちや、その中には名前こそ出てこないが、彼らと同じく戦前のフランスで活躍したデュヴィヴィエ、ルネ・クレールなどといった巨匠たちの作品は、たしかにヌーヴェル・ヴァーグの登場以後、いささか影が薄くなってしまったとはいえ、フランス本国において、大衆レベルではそれ以後もテレビやビデオを通してずっと見られ続けてきたのであり、決して忘れられていたわけではない。とりわけ、最近は、DVDやブルーレイといったメディアの登場にともなって彼らの作品は修復作業が進められ、装いも新たに観客の眼にふれる機会もふえ、批評的な再評価も高まりつつある。つい最近も、デュヴィヴィエの代表作が何本かリヴァイヴァルされ、話題になった。

この時代のフランス映画の再評価を行っている一人が、『ファム・ファム』などの作品で知られる映画作家ポール・ヴェキアリだ。彼は30年代フランス映画を扱った著書『 L'Encinéclopédie: cinéastes « français » des années 1930 et leur œuvre』(2巻に分かれた百科辞書的な分厚い本)において、ヌーヴェル・ヴァーグ以後すっかり変わってしまった戦前のフランス映画観を覆すような再配置を試みている(「ジャン・ルノワール30年代フランス映画におけるもっとも偉大な映画作家ではありません」などといった発言は、いささか物議をかもした)。





というわけで、トリュフォーらが性急に葬り去ってしまったフランス映画の遺産については再調査が必要だと前々から思っていたのだが、そろそろ本格的に始めていこうと思う。まず最初に取り上げるのは、クリスチャン=ジャックの最高傑作のひとつであり、また戦前のフランス映画屈指の名作と言われる作品、『聖アジール学園消失事件』である。



クリスチャン=ジャック『聖アジール学園消失事件』(Les disparus de St Agil, 38)

映画の舞台となるのはフランスの地方にある全寮制の男子校「サン・タジール」(邦題は『聖獣学園』を意識して適当につけた)。都会と田舎という違いはあるが、『操行ゼロ』に出てくるような学校を思い浮かべればイメージに近いだろう。この学校の腕白3人組がとりあえずの主人公だ。3人は秘密結社を作っていて、その目的はアメリカに渡航するための準備をひそかに整えることだった*1。真夜中、みなが寝静まった後、自然科学の教室で彼らはミーティングを行っていたのだが、ある夜、3人のうちの一人が、教室の何もない壁から見知らぬ男が忽然と現れて消えるのを目撃する(こういうことが起きるのは、たいてい解剖模型が置いてある教室なんだよね)。しかし、翌日その話をしてもだれも信じてくれない。ところがその日、その少年が学校から跡形もなく姿を消してしまい、やがて二人目の少年まで失踪してしまうと、残された三人目の少年は、何かただならないことが学園内で起きているに違いないと、調査を始める。だれも信用できないので、たった一人で真相を突き止めようとする彼に、一人の教師が近づいてくる。彼は、教師たちの中でもひときわ不気味で、怪しい教師だった……。

ミステリーの筋立て自体は、おそらく観客の予想をそれほど覆すものではないだろう。しかし、ここでは謎解き自体はさして重要ではない。学園を舞台にしたミステリー(謎)は、何もかもが謎に満ちていた幼年時代の神秘を、観客のなかに呼び覚ます。
さらには、1938年というフランスに戦争の脅威が迫りつつあった時代にこの作品が撮られたという事実が、この映画に並々ならぬ緊張感を与えている。映画のなかでも、登場人物たちは迫り来る戦争に対する漠とした不安をひっきりなしに口にしていた(「戦争はおきるんですかね?」)。「スパイ」ということばもたびたび聞こえてくる。さらに事態を複雑にしているのが、教師たちのなかに一人だけドイツ系らしき人物が混じっていることだ(教師たちのあいだで共有されているゼノフォビア)。威圧的な外見とは裏腹に非常に繊細な一面をみせる一方で、カッとなると暴力的になってしまうというこの複雑な人物をエーリッヒ・フォン・シュトロハイムが演じている。そしてもう一人、ことあるごとに彼に絡んできて挑発する芸術家崩れのシニカルなフランス人教師が出てくるのだが、これを演じているのがミシェル・シモンだ。この二人の聖なる怪物の共演を見られるだけでもうれしい。

この映画にはさらにロベール・ル・ヴィギャンまでが出演している。戦前に活躍していたが、対独協力した罪で戦後になって逮捕され、投獄されることになったことでも有名な俳優だ。彼はセリーヌの小説の中にも登場する。ドイツオーストリア的なイメージを引きずっているシュトロハイムと、後の対独協力者ル・ヴィギャンがこのタイミングで居合わせているというのも、今にして思えばだが、この作品に予期せぬ意味作用をもたらしている。

まさにこの時代のこの時期に、この俳優たちが集まったからこそ撮られえた、そういう意味では二度とリメイクすることのできない作品と言っていいかもしれない。


*1秘密結社といっても、メンバーは3人だけ。なぜアメリカに行きたいのかもよく分からない。そういえばフランスで撮られたラング版『リリオム』の主人公もたしかアメリカに憧れていた。この時代特有のなにかがあるのか。

2016-05-11

[]スティーヴ・エリクソン『ゼロヴィル』――映画は世界の始まりから存在している





"I believe that cinema was here from the beginning of the world."

Josef von Sternberg




Everybody say, "Is he all right?"
And everybody say, "What's he like?"
Everybody say, "He sure look funny."
That's...Montgomery Clift, honey!

The Crash "The Right Pfofile"





スティーヴ・エリクソン『ゼロヴィル』


1969年の夏、フィラデルフィアからバスを乗り継いで、一人の若者がロサンゼルスに到着する。彼のスキンヘッドの頭には『陽のあたる場所』のモノゴメリー・クリフトエリザベス・テイラー(「映画史上もっとも美しい二人の人間――女は男の女性バージョンであり、男は女の男性バージョンである」)の刺青が彫られている。ヴィカー(c ではなく k の)と名乗るこの若者は、着いて早々に入った食堂で、モンゴメリー・クリフトジェームス・ディーンの違いもわからないヒッピーにぶちキレて、トレーで頭を殴る。世界の映画首都にやってきたというのに、だれも映画のことを知らない。

その日、ヴィカーが最初に見る映画は、クレジットで「マドモワゼル・ファルコネッティ」とだけ記された若い女が、部屋を埋める修道士たちに尋問され、迫害される映画だ(タイトルは書かれていないが、言うまでもなく、カール・テオ・ドライヤーの『裁かるゝジャンヌ』のことを指している)。ヴィカーがこの日つぎに見るのは、宇宙を高速で旅するトラヴェラーが、最後に白い部屋にたどり着き、そして胎児に、おそらくは神たるスターチャイルドになる映画である(これもタイトルは書かれていないが、あえて答えを書くまでもないだろう)。

ヴィカーは、ローズヴェルト・ホテルに向かい、かつてモンゴメリー・クリフトが住んでいた928号室を所望するが、部屋はあいにくふさがっている。モンゴメリー・クリフトのこともろくに知らないホテルの受付の男にヴィカーが、「モンゴメリー・クリフトの亡霊がこのホテルに住んでいるんだ」と言うと、男は、「それってD・Wの方だよ」と答える(「D・Wグリフィスか?」「そうそう、D・W・グリフィン」)。

『ゼロヴィル』はこんな風に始まる。


映画のこと以外は世の中のことをほとんど何も知らない(「映画オタク*1というよりは「映画自閉症」の)若者ヴィカーは、様々な人たちとかかわりながら映画の世界に徐々に足を踏み入れて行き、60年代末から80年代にかけてのハリウッド――つまりは、スタジオ・システムが崩壊し、『イージー・ライダー』や『真夜中のカーボーイ』といった新時代の映画が台頭しはじめ、やがてルーカススピルバーグといった新たなスター監督が登場するまでの時代のハリウッド――を、独特の距離感をもって目撃する。

そのなかで彼が出会う人たちは、シネフィルの黒人押し込み強盗(「『捜索者』はさ、こりゃもう最高にやばい映画だね。[…]だけど『捜索者』は、ジェフリー・ハンターとヴェラ・マイルズが出てくるたびにだめになる。フォードはご婦人をぜんぜん監督できなかったのさ。そこはわれらがハワード・ホークスとはぜんぜん違う、ホークスのご婦人方はみんなイケてるし、おまけにタフときてる、まあたしかに全員同じメス狐の別バージョンっていうか、プレストン・スタージェスの『レディ・イヴ』でウィリアム・デマレストも言うがごとく『絶対同じ女だ!』)や、スペインで「ファシストの人殺しの総統」に対抗するために、半ば誘拐同然の形で連れてきたヴィカーに、わけのわからない映画を撮らせる〈ヴィリディアナの兵士たち〉なる組織のリーダーなどなど、どれも常識はずれのユニークなキャラクターばかりだ。


最初は、ハリウッドで美術の仕事をすることからはじめたヴィカーは、やがて編集を任されるようになり、ある作品で、その「連続性」(コンティニュイティ)を無視した斬新な編集が評価されてカンヌで受賞するまでにいたる。そして、これをきっかけに、ユイスマンスの『彼方』を映画にするという自らの企画を監督するチャンスが訪れる……。

しかし、こんな物語を語ったところで、何を伝えたことになるのだろう。この小説のほぼ全頁が映画の話で埋め尽くされており、作品のなかにはおびただしい数の映画のタイトルが登場する。それらのタイトルは、同時代を反映した作品である場合もあれば、まるで関係ない無声映画や戦前の作品であったりもする。その一方で、いくつものテーマが作品全体を通底するかたちで繰り返し現れ、それらが様々に反響しあう。

小説の冒頭で、ヴィカーがこの映画の首都に到着したちょうどその頃、マリリン・マンソンの「ファミリー」たちによってシャロン・テートが妊娠中の胎児と共に殺害されるという事件が起き(これも、小説の中では実名は出てこないが、アメリカ人ならだれでも知っている事件である)、ヴィカーは、その怪しげな風采からこの事件にかかわっている人間として逮捕されてしまう(すぐに疑いは晴れて釈放されるのだが)。

このエピソードは、同時代の事件を伝えるだけでなく、この小説の重要なテーマの一つを導入してもいる。ヴィカーは、この小説のなかで、「神が子供を殺す」という言葉を何度も繰り返す。彼が映画化しようと企てるユイスマンスの『彼方』も、冒頭の『裁かるゝジャンヌ』と結びつく一方で、ジル・ド・レーを通して子供殺しのテーマとも深くかかわっている。

ここには、宗教的に厳格だった父がヴィカーに語ったアブラハムとイサクの物語(神がアブラハムに、息子イサクを殺せと命じる話)が大きな影を落としている。この小説全体が、そんな父=神への反抗、挑戦の物語であるともいえる(「神が子供たちを殺すのではなく神自身が子供である場」。スターチャイルド?)。それが奇妙なかたちで映画と結びついているのが、この小説のユニークなところだ*2)。

ヴィカーはもともと建築を学んでいた。彼が神学校の卒業制作で作った教会の模型には出口がなかった。だが審査員の教授たちは口々に、「入口がない」ことを非難する。しかし、実は、その模型のなかには小さなスクリーンが張られていることに彼らは気づかない。それは教会というよりは映画館であったのだ。

ヴィカーは、夜ごと奇妙な夢を見る。その夢の中で、石の祭壇のようなものに誰かが横たわり、読めない文字で何かが書かれている。この奇妙な夢は、小説の最後で、サイレント時代から今に至るまでに撮られた無数の映画のフィルムのコマのなかに隠されていたことが判明する。世界の始まりから映画は存在していたと言うわけだ。なんと奇妙な展開だろうか。


次第に夢とも現実とも区別がつけがたくなってゆき、ついには映画史全体を飲み込むような広がりを見せはじめる小説のクライマックスにおいて、ヴィカーがハリウッドで最初に見た映画『裁かるゝジャンヌ』が、ふたたび決定的な役割を果たすことになる。ジャンヌが火刑にされたように、相次ぐ火事によって永遠に失われていたと思われていた『裁かるゝジャンヌ』のオリジナル版が、1984年ノルウェー精神病院で奇跡的に発見されるという、嘘のような本当のできごと、さらには、ジャンヌを演じたファルコネッティが後に発狂してしまったという事実を、エリクソンは、巧みにこのクライマックスの部分で利用している。


そんな小説なら、映画のことに詳しくなければ楽しめないのではと思う人もいるかもしれない。むしろ、逆の気がする。これを読めば増村保造の『盲獣』や鈴木清順の『殺しの烙印』が見たくなるに違いない、といったことがこの本の紹介文に書かれているのだが、それはこれらの映画を見ている人よりも、むしろ見ていない人に当てはまる言葉だと思う。この本のなかには無数の映画タイトルが出てくるが、その多くはエピソード・トーク的なものにとどまっており、知っている人ならば、「それ見てる」で終わってしまうような場合が少なくない。そういう意味で、例外的なのは、『陽のあたる場所』のある場面について詳細な分析が10ページ近く続く場面だ。わたしはこの映画が必ずしも好きではなかったのだが、それを読んで急にこの映画を久しぶりに見直したくなった。ここだけはとことんディテールにこだわって書かれていたからだろう。欲を言うならば、こういう箇所がもっとほしかったなと思う。


読み終わった後で、ジェームス・フランコがこの小説を映画化した作品が今年完成していたことをはじめて知った。映画をテーマにした作品なので、映画化したいという気持ちはわかるが、これをどうやって映画化したんだろうかという不安は感じる。この小説のなかに出てくる映画は、登場人物たちのプリズムを通してある意味ゆがめられている場合が多く、それをただ実際のフィルムを見せるだけではうまくいかないのではないかと思うのだ。たとえば、ヴィカーにとっては、『サウンド・オブ・ミュージック』は、「雪山に住む歌う妖怪の家族が、警察に追われ悪意ある音楽の跡を残していく話」と要約される*3。その辺をどう処理しているのか、興味深いところではある。


(ちなみに、「ゼロヴィル」というタイトルは、ゴダールの『アルファヴィル』でレミー・コーション(エディ・コンスタンチーヌ)が言うせりふ、「ここはアルファヴィルじゃない、ゼロヴィルだ」から取られている。この小説は、章の数字が本の中ほどあたりで、逆周りになって、カウントダウンが始まり、「0」の章で小説が終わる、あるいは、円環を描いて序章に戻るというかたちになっている。エリクソンとしては仕掛けの少ない小説だと思うが、これはこの小説の大きな仕掛けの一つである。)


*1フランス語ではふつうに「映画作家」を意味する "cineaste" という言葉は、英語ではこの意味にもなるらしいので、気をつけたほうがいい。

*2:このアブラハムの物語はニコラス・レイの『ビッガー・ザン・ライフ』でも、驚くべきかたちで使われているのだが、エリクソンは、『理由なき反抗』や『孤独な場所で』のことは話題にしておきながら、奇妙なことにこの映画についてはまったく言及していない。

*3:ついでにいうと、この家族はマリリン・マンソンの「ファミリー」と呼応しあっている。

  
最近紹介したDVD