明るい部屋:映画についての覚書 このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter


ケリー・ライヒャルト『ライフ・ゴーズ・オン 彼女たちの選択』 [DVD]
「カイエ・デュ・シネマ」の2017年ベスト10の3位に入っている『Certain Women』、いつの間にかDVDスルーされてたんだな。

2017年12月16日(土)・17日(日)に神戸映画資料館にてクリス・マルケル『レベル5』の上映が行われます。
その際、16日土曜日の回に、「戦争・記憶・映像ーークリス・マルケルの『レベル5』をめぐって」と題して講演を行います。
http://kobe-eiga.net/program/2017/12/3480/

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評価の目安: ★(興味深い); ★★(見たほうがいい); ★★★(傑作、あるいは必見); ★★★★(大傑作、あるいは古典)

2017-12-10

[]フィルムアート社『映画を撮った35の言葉たち』の紹介





フィルムアート社から今月末に発売される予定になっている『映画を撮った35の言葉たち』という本に参加させていただきました。

完成した本はまだ見ていないのですが、映画監督たちが残した言葉から映画史を振り返ってゆく、ちょっとユニークな映画監督ガイドであり、映画への誘いの書となっていると思います。わたしはフリッツ・ラングオーソン・ウェルズニコラス・レイについて書いています。詳細


渡辺進也/フィルムアート社=編、得地直美=イラストレーション

赤坂太輔、伊藤洋司、井上正昭、荻野洋一、木原圭翔、葛生賢、隈元博樹、黒岩幹子、須藤健太郎、角井誠、長門洋平、南波克行、橋本一径、降矢聡、三浦哲哉、安井豊作、結城秀勇=著
発売日:2017年12月25日


2017-12-08

[]ジョン・フォードの2本の警察映画ーー『赤毛布恋の渦巻き』『ジョン・フォード/ギデオン』




ジョン・フォード赤毛布恋の渦巻き』(Riley the Cop, 1928)


フォードはトーキー映画を初めて撮ったあともサイレント映画を何本か作り続けた。これは現存するフォード最後のサイレント映画(のはず)である。このあとに撮られたフォードのサイレント映画は失われてしまった。

邦題の意味は見当もつかない。二人の女優のどちらかが赤毛で有名だったのか(だとしても、モノクロ映画だからあまり意味がないのだが)。


「すぐれた警官であるかどうかは、かれが逮捕しなかった人間の数でわかる」という格言(?)で映画は始まる。

今まで一度として人を逮捕したことがないベテラン警官ライリーがこの映画のとりあえずの主人公である。そのはずなのだが、IMDb のストーリー要約を見ると、まるで彼が脇役であるかのように物語がまとめられてあって、本当に同じ映画のことを語っているのかと一瞬疑ってしまう。IMDb のストーリー要約ではこういうことはよくあるのだが、フォード映画の場合これは不思議ではないという気もする。最初にストーリーがあって、それにそってシーンが作り上げられてゆくというよりは、それぞれ独立したシーンが並べられたあとにストーリーが出来上がってゆくという印象を、フォードの映画を見ていると受けるのだ。プロデューサーから撮影スケジュールが遅れていると言われたフォードが、脚本から一シーン分をまるまる破り捨て、これでいいだろと言ったという逸話は有名だが、この逸話はフォードの映画の本質を言い当てているようにも思う。フリッツ・ラングが同じようなことをするところなど想像もつかない。


ライリー警官は、子供の頃から見守ってきた地元の青年と娘がもうすぐ結婚すると知って喜ぶ。だが娘は、青年との結婚を快く思っていない叔母に連れられてベルリンに旅行に行ってしまう。青年はなけなしの金をはたいて彼女の後を追うのだが、なぜか彼には勤め先の金を盗んで逃げた逃亡犯という汚名が着せられる。ライリーは彼を追ってベルリンに向かう。ところが、向こうに着くと、彼は青年のことなどなかば放ったらかしにして、ドイツ娘と楽しくやり始める。果たして彼は青年を逮捕して、警官人生で初めての手柄を立てることができるのか……。

後半ドイツが舞台となる部分は、フォードがドイツのウーファ撮影所のムルナウに会いに行った話を思い出させる。物語の舞台はドイツからさらにパリへと移るのだが、パリのナイトクラブのシーンには、ルビッチの『陽気な巴里っ子』の影響が色濃い。

ライリー役のJ・ファレル・マクドナルドのコミカルな演技は、後年のウィル・ロジャースなどに通じるものがあり、彼とその同僚のドイツ系警官とのライヴァル関係は、ジョン・ウェインとヴィクター・マクラグレン、あるいはジェームズ・キャグニーダン・デイリーといった、フォード映画が数々描くことになるライヴァル関係を予感させるものである。ライリーは最後にドイツ娘と結ばれ、青年と娘のカップルとダブルで結婚式を行うことになるのだが、そのドイツ娘が実は彼のライヴァルであるドイツ系警官の妹だったと最後にわかるというオチ。

ジョン・フォード/ギデオン』(Gideon's Day, 1958)

"Gideon of Scotlandyard" というタイトルでも知られる。このタイトルからもわかるように、イギリススコットランドヤードを舞台にした作品で、ワイラーの『探偵物語』(51) やフライシャーの『センチュリアン』(72) などの系譜にも連なる警察ものである。フォードが警察官を主人公にした映画を撮ったのは、たぶん『赤毛布恋の渦巻き』以来であり、これ以後もなかったはず。その意味で、これはフォードのフィルモグラフィーのなかでかなり異質な一本であると言っていい。

ギデオンの〈平凡な〉一日を描くこの映画は、ギデオンが最も信頼している同僚刑事の汚職疑惑、そして彼の交通事故死という重々しいエピソードでいきなり始まる。この同僚刑事を轢き殺した男は、彼の愛人の夫である画家であり、この夫婦はひそかに給金強盗に加担していた。その一方で、精神病院から脱走して少女を殺害した狂人がいまだ捕まらずに、街をうろつきまわっている。次から次へと起きる事件にギデオンは休む暇もなく、最後は、有閑階級のドラ息子たちによる銀行強盗を解決して、ようやく我が家に帰り着くのだが、ホッとしたのもつかの間、事件を知らせる電話が鳴り響き、彼は再びスコットランドヤードに連れ戻されるのだった。


フォードらしからぬダークな内容だが、コミカルな要素は随所に散りばめられている。『赤毛布恋の渦巻き』がコメディ調のスケッチに近いものであったとするなら、こちらは非常にシリアスであると同時に、コミカルでもある、悲喜劇とでもいうべき濃い内容の映画になっている。いや、むしろ、平凡な日常のなかのヒロイズムとでもいうべきものを描いているというべきか。実際、フォードは映画のなかで描かれる犯罪そのものにはほとんど興味を持っていないように思える。

人や車の行き交うロンドンの通りを捉えた映像をバックにクレジットが流れ、それが終わると、スコットランドヤードのオフィスのデスクに座る主人公ギデオン警部のショットがつづくのだが、カラー映画にもかかわらず、その顔はほとんど判別がつかないほど深い影に覆われている。まるでフィルム・ノワールのような暗い画面だ。グレッグ・トーランドが撮影を担当した『果てなき船路』などで頂点に達するキアロスクーロの画面は、カラー映画になってからフォードの映画から徐々に消えてゆくのだが、この映画を見ると、フォード作品におけるドイツ表現主義の影響の名残とでもいうべきものは、作品が扱う主題次第によっていつでも前面に現れれてくる状態にあったといえる。

ギデオンを演じるジャック・ホーキンスの、すぐにカッとなり、身振りや言葉でその怒りを表しながら、その感情をぐっと抑えつける演技は、フォード映画に出ているときのジョン・ウェインのそれを容易に思い出させる。

ライリー警官は独身だったが、最後に結婚する。一方、ギデオンには最初から妻も娘もいる。考えてみれば、フォードは、主人公が結婚して妻も子供もいて、家に帰ると愛する家族が待っているという映画を、意外なくらい撮っていないのではないだろうか。ひょっとすると、これはそういう意味でも例外的なフォード映画の一本になるのかもしれない。登場する度に彼を苛立たせる子供のような顔をした新米警官と、自分の娘がいつの間にかいい関係になっていることをギデオンが最後に知るというラストは、『赤毛布恋の渦巻き』のオチを少し思い出させる。二人を玄関で見送ったあとで、「警官とだけは結婚しちゃダメよ」と、本気とも思えない顔で娘に忠告する母親。その母親の言葉を聞いているのかいないのか、「うん」と生返事する娘の視線は、その新米刑事を追いかけている。


この映画は米英合作ということになるのだろうか。ともあれ、最初に公開されたのはイギリスでだったようだ。アメリカでは、この映画はモノクロ映画として公開されたらしい。嘘のような話だが、映画の世界ではこんなことはごくごく普通に起きるのである。『モナリザ』が白黒に塗りつぶされたら大事件になるが、映画の世界では、カラー映画がモノクロにされてしまっても、だれも騒ぎはしないのだ。

2017-11-30

[]アンドレ・バザンによるクリス・マルケルシベリアからの手紙』評





アンドレ・バザンクリス・マルケルの初期ドキュメンタリー作品『シベリアからの手紙』(58) について書いた文章。フランス語の原文が手に入らなかったので、英語からの重訳である。
(今日は、とりあえず急いで訳しただけなので、細かいチェックは明日になってからする。)

バザンとマルケルの関係については、12月16日の神戸資料館での講演のなかで軽くふれる予定。


覚えておられるだろうが、クリス・マルケルは『世界のすべての記録』と『彫像もまた死す』(後者は今も、検閲によって半分カットされたヴァージョンしか公開されていない)のナレーションを書いた人物である。これらの作品の、痛烈な皮肉とポエジーが見え隠れする、鋭く力強いナレーション*1は、その作者に、現在のフランス映画のもっとも活気に溢れた周辺部分を形作っている短編映画の分野において、特別な地位を保証するに十分だろう。共通の理解で結ばれている友人アラン・レネによるこれらの作品のナレーションの作者として、クリス・マルケルはすでに、テクストとイメージの間の視覚的な関係を大いに変化させてきた。だが、彼の野心は明らかにもっとラディカルであり、それゆえ、彼自身が自分で映画を作ることが必要になったのである。





最初に『北京の日曜日』が作られて、1956年のトゥール映画祭で賞を取り、そして今、驚くべき作品『シベリアからの手紙』がついに現れた。『北京の日曜日』は見事な作品だったが、主題の大きさに比べて短すぎるという点において、少しがっかりさせるものでもあった。それに、この映画の映像は、しばしば非常に美しくはあるが、結局のところ満足なドキュメンタリーの素材を提供するものではなかったということも言っておかなければならない。見終わったあとに、これではまだ足りないという気にさせたのである。だが、マルケルが『シベリアからの手紙』で蒔きつづけることになる、言葉とイメージの間の弁証法の種は、すでにそこに存在していた。この新作『シベリアからの手紙』のなかで、その種は長編映画にふさわしい大きさにまで育ち、重みを獲得する。


〈一つのドキュメンタリー的視点〉

シベリアからの手紙』をどうやって説明したらいいだろうか。最初は否定的に、この映画が、ドキュメンタリー方式の映画――〈主題〉を描く映画――でこれまでわれわれが見てきたものとは何一つ似ていないことを指摘してみる。だがそうなると、この映画はいったい何なのかを説明する必要がある。そっけなく、客観的に言うならば、これは、シベリアを何千キロにも渡って自由に旅できるという稀な特権を与えられた一人のフランス人によるレポート映画である。過去3年の間に、われわれはロシアに旅行したフランス人たちによるレポート映画を何本か目にしたが、『シベリアからの手紙』はそのどれにも似ていない。だからより詳細に見てみるべきである。次のような大凡の説明をしてみよう。『シベリアからの手紙』は、映画に撮られたレポートというかたちで過去と現在のシベリアの現実を描いたエッセイである、と。あるいは、ジャン・ヴィゴが『ニースについて』について語った言葉(「一つのドキュメンタリー的視点」)を借りるならば、映画によって記録された(documented)エッセイであると言ってもいいかもしれない。大事なのは「エッセイ」という言葉であり、これは文学においてこの言葉が持っているのと同じ意味で使われている。つまりは、歴史的であると同時に政治的な、さらには一人の詩人によって書かれたエッセイである。

政治的なドキュメンタリーや、ある特定の主張をもつドキュメンタリーにおいてさえ、事実上は、映像(すなわち、映画特有の要素)が作品の第一の素材をなしていることが普通である。作品の方向性は、映画作家モンタージュにおいて行う選択を通して示され、ナレーションが、記録された映像(document)にこうして与えられる意味の組み立てを仕上げる。マルケルの映画においては、今述べたこととはまったく別のことが起きるのである。そこでは、第一の素材は知性であり、その直接的な表現手段は言語であって、映像は、この言語的な知性との関係で、三番目に介入してくるに過ぎないと言っていい。通常のプロセスが逆転しているのである。思い切って別のメタファーを使ってみよう。クリス・マルケルは、ショットとショットの関係を通して持続の感覚と戯れる従来のモンタージュとは対照的に、〈水平的な〉モンタージュとわたしが名付ける、全く新しいモンタージュの概念を自分の映画にもたらしたのである。そこでは、映像は、それに先立つ映像とも、それにつづく映像とも関わらず、むしろ、語られている言葉[ナレーション]と、何らかのかたちで、水平に関わっているのである。


耳から眼へ

あるいは、マルケルの映画では、基本をなす要素は語られ聴かれる言葉の美しさであり、知性は聴覚的要素から視覚的要素へと流れると言ったほうがいいかもしれない。そこではモンタージュは耳から眼へと形作られてきたのである。紙数が限られているので、ひとつだけ例をあげよう。それはこの映画で最も成功している瞬間でもある。マルケルは、意味に満たされていると同時に、まったくニュートラルでもある一つのドキュメンタリー映像を提示する。それはイルクーツクの通りを捉えた映像である。一台のバスが通り過ぎ、道端で労働者が道路工事をしている。ショットの最後に、どことなく不思議な顔をした(控えめに言って、少しばかり自然の恵みを受けた顔をした)人物がたまたまカメラの前を通りかかる。マルケルはこのどちらかと言うと平凡な映像に、2つの対照的な視点からコメントを加える。最初は共産党の方針に沿ったコメントで、それによると、このだれとも知れない通行人は、「北の国(north country=シベリアのこと?)を絵のように鮮やかに代表している」ということになる。ところが、もう一つの反動的な観点に立ったコメントの中では、彼は「人を困らせるアジア人」ということになってしまう。

このたった一つの、人を考えさせる対照法だけでも、見事なインスピレーションの賜であるが、その機知はどちらかと言うと安易なものにとどまる。その時である、マルケルはそこに、偏りのない、微に入り細をうがつ第三のコメントを加え、このかわいそうなモンゴル人を「やぶにらみのヤクート*2」と客観的に描写するのである。ここに至って、映画はたんなる才気とアイロニーの作品を遥かに超えたものとなる。というのも、マルケルがたった今証明してみせたのは、客観性というものが、特定の党派に偏った相対する二つの視点以上に、偽りのものだということだからである。少なくとも、ある種の現実に対して、公平無私であることは幻想にすぎない。マルケルの映画のなかに今見てきた操作は、したがって、同じ映像を異なる三つの知的文脈のなかに置き、その結果をたどるという、まさに弁証法的な操作なのである。


知性と才能

このかつてない試みがどういうものなのかを読者に完全にわかってもらうために、最後に指摘しておきたい。クリス・マルケルは、現場で撮られたドキュメンタリー映像を使うだけにとどまらず、助けになるものならありとあらゆる映像素材を――静止画像(彫刻や写真)はもちろん、アニメーションまで――使っていることである。[アニメーション映画作家ノーマン・]マクラレンのように、彼はためらうことなく、この上なくシリアスな話題をこの上なくコミカルなやり方で語ってみせる(マンモスの場面がそうである)。この花火のように陳列されるテクニックには、一つだけ共通項がある。それは知性である。すなわち知性と才能。あと一つだけ指摘しておかなければならない。この映画の撮影はサッシャ・ヴィエルニ―、音楽はピエール・バルボ―、そして、見事に読み上げられるナレーションは、ジョルジュ・ルキエによるものだということである。

(「フランス・オプセルヴァトゥール」紙、1958年10月30日)



*1:英訳では「narration」という言葉が使われているが、マルケルはこれよりも「commentaire」という、どちらかと言うと対象に対する客観的距離が感じられる言葉を好んで使った。彼の極めて文学的なコメンタリーは、その後テキストとして本にまとめられ、『Commentaire』『Commentaire2』として出版されている。

*2:主に北東アジアに居住するテュルク系民族に属して、サハと自称する。ロシア連邦サハ共和国の主要構成民族の1つである。人種はモンゴロイドであるが、近年はロシア人との混血が進んでおり、中にはコーカソイドの容貌をもっている一派も存在する。[ウィキペディア

  
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