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現代科学の頼りない姿とその先〜池内了『科学の限界』

科学の限界 (ちくま新書)

科学の限界 (ちくま新書)

この本の主張をひとことで言えば、科学至上主義を抜け出し、それに代わる論理を見出そうというもの。自分にとって、科学・技術を問い直すための基礎となり、時間をおいて改めて読み直したい本だった。


表紙にも序文にも書かれているように、このタイトルで本が作られた大きなきっかけは東日本大震災。中でも最新技術の粋であるはずの原発事故。

それは人々に対し、科学の無力さを露呈したとともに、技術がいかに脆弱なものであるかを見せつけ、科学・技術に依拠する現代の文明がいかに脆い基盤の上に花咲くか弱い存在でしかないかを認識させることになった。
さらに、科学や技術が人びとの生活や生産力を向上させる効用だけでなく、事故や災害を通じて大きな災厄をも生むという現実、つまり科学・技術には二面性が内在していることをも明らかにした。
(p7)

冒頭に書かれたこの文章を最初に読んだときには、作者のこだわりに自分はあまり気がつかなかった。
しかし、読み進めると明確になるが、「科学」と「技術」を厳密に切り分けて扱っているところは、この本の大きな特徴のひとつで、曖昧さを避けて、内容を分かりやすくしている。すなわち、

  • 科学:総合的な知識を求める知の営み。文化の基礎を成し、精神的要素が強い。
  • 技術:経験によって獲得した系統的な手練。文明の土台であり、近年、社会の要請に迎合して肥大し続けてきた。

この辺りの説明は、特に3章に詳しい。科学と社会の関係が大きく変化した結果、社会が科学を先導するような状況が生まれている。たとえば遺伝子工学を駆使した医療の新しい展開などを指す。
また、原子力については、国策ということもあり、社会の要請に応じるために、技術(工学)ばかりが前に出て安全に対する科学(安全性に対する異分野からの批判、討論)がおざなりになってしまったという事実がある。(p86、p168)
これらの科学(と技術)の限界を5章までで一通り示し、第6章でそれらの限界を踏まえた新しい科学の在り方を呈示するのがこの本の基本的な流れである。

第1章 科学は終焉するのか?
第2章 人間が生み出す科学の限界
第3章 社会が生み出す科学の限界
第4章 科学に内在する科学の限界
第5章 社会とせめぎ合う科学の限界
第6章 限界のなかで―等身大の科学へ

4章後半はトランス・サイエンス(科学に関わっているが、科学のみによっては解決できない問題)についてページが割かれており、この部分は第6章への橋渡しになっている。ここで挙げられているトランス・サイエンスの問題群は

これらに対して科学に代わる論理として挙げられているのは以下のような考え方である。

  • 通時性の論理の回復(今を生きる人間のみを重要視する共時性的発想を抜け出す)
  • 予防措置原則(利益を後回しにして、負の側面を最小化)
  • 少数者・弱者・被害者の視点(功利主義の欠陥の是正)

そのような考え方を踏まえて6章で、これからの科学のあるべき姿として掲げるのは「等身大の科学」すなわち、あまり費用がかからず、誰でもが参加できるという意味で、等身大である科学。たとえば開花時期や産卵時期の全国調査などの観察を主体とする研究をイメージしている。
同時に挙げているのは博物学復権で、どちらにしても、専門分化して要素還元主義的なアプローチをするのとは正反対の方向から、複雑系の問題に取り組もうとするものである。
そして、一般市民が、等身大の科学に触れ合う中、科学者もまた市民との連携を欠かさずに、社会と共存していくことが必要と説く。


作者は、エネルギー問題について、自然再生エネルギーを中心とした小型化・分散化・多様化をメインに考えており、それも上に挙げた考え方からすれば、当然の結論だ。通時性の論理、予防措置原則からすれば、原発という選択肢を取るメリットは限りなく小さい。しかし、グローバル社会と言われる中で経済を考えると、どうしても視点は短期的になり、悪いことは後回しにした方が良い結果を得られるような感覚にとらわれる。ギリシア、スペイン、イタリアなど馴染み深い国々の危機を見て日本という国の存続を考えた場合、原発の取り扱いについてもスパッと割り切れない気持ちがある。
ただし、たとえば原発がいずれの方向に向かうとしても、今回の事故で学んだことは、何とか今後克服していけるよう姿勢を改めていくべきだと感じた。

一方的に安全を保証するのが専門家の役割ではなく、むしろ危険な個所を指摘して「こういう設計ですが、実行しますか?」と問わねばならない。科学や技術は本来的に価値中立的だから、その選択は市民に委ねられているのである。しかし、その選択も自分が決定できるかのように錯覚してきたのが原子力ムラの専門家たちではないだろうか。(略)
それは科学の論理とは大いに隔たっている。科学の真髄は疑うことに始まり、科学的証拠以外の要素を考慮せずに断を下すことにある。それがなくては、個人の願望や欲望によって真実が歪められるからだ。それは科学の行く末に対する大きな限界となってしまう。原子力はもはや科学の範疇から外れてしまったのかもしれない。(略)
考えられる状況を正直に表明することによって科学は信頼されるのであって、科学以外の要素を考慮の対象に含めるのは科学への冒涜なのである。それは科学者への不信に通じ、結果的に科学が大きな制限を受ける事態もあり得ると覚悟しなければならない。(p89)


その他、軍事技術と宇宙開発についての指摘*1も興味深かったし、科学全体を俯瞰する目が確かだと感じた。先日、本屋に行って気がついたが、子ども向けの本もたくさん出しているようなので、こういうのも読んでみたい。

親子で読もう 宇宙の歴史

親子で読もう 宇宙の歴史

参考(過去日記)

⇒従来、読んできた本では、「科学」ではなく「技術」をメインとして扱い、「技術者倫理」を問うものが多かったが、その代表的な本。技術者が主体性を持って技術と向き合う(判断し、推進する)必要がある、とする視点は重要。特にシミュレーションなど、主要部分について人間の手を離れれば離れるほど、主体性のない「作業」のように感じられてしまう弊害について指摘があり、なるほどと思わせる。技術者必読の本。

地球温暖化懐疑論を批判する内容のこの本では、「科学」は、公正でオープンな議論(プロセス)を経ているから正当性が確認できるとしている。政治と科学の関係についても実例を通して分かりやすく書かれている。

⇒この本で問題とされているのは、海洋上に溢れるプラスチックごみ。それらは、まさに社会の要請に迎合して肥大しつづけている技術ともいえる。「予防原則」「通時性」を主張する池内了さん(『科学の限界』著者)であれば、プラスチックごみ対策は、いの一番に取り組む問題の一つかもしれない。

*1:2008年の宇宙基本法は、宇宙開発の目標を非軍事から安全保障に切り替えており、2012年にはJAXA法にあった「平和目的に限る」という条項を抹消しているなど、日本の宇宙開発は、軍事技術の側面が強くなってきている