Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

現在起きているのは「漸進的なジェノサイド」の総決算~岡真理『ガザとは何か』

地獄とは、人々が苦しんでいるところのことではない。
人が苦しんでいるのを誰も見ようとしないところのことだ。
マンスール・アル=ハッラージュ)
p102

「GWに積読本を消化しないと!」という、小さな気持ちから読み始めた本だったが、強烈な読書体験だった。
本は、10/7の奇襲攻撃に端を発するイスラエルのガザへの攻撃を受けて行われた、京都大学(10/20)、早稲田大学(10/23)での緊急講演を2部構成で納めたもの。
パレスチナ関連については、基本知識は色々なところで目にし耳にし、それなりに把握していると思っていたが、この本を読んで、やっとそれらが有機的に繋がった感じがした。目から鱗とはこのことだ。


自分にとっての「鱗」ポイントは3つある。

(1)ガザの完全封鎖

この本で繰り返され、最も印象的だった歴史的事実は、2007年から始まったガザに対する完全封鎖の状況。
本文から長めに引用するが、ここだけ読んでも辛くなる。自分が何を見過ごしていたのかを突きつけられて愕然とする。

完全封鎖されたガザは「世界最大の野外監獄」と言われます。完全封鎖というのは、単に物が入ってこなくて物不足になるとかいう、そんなレベルの話ではありません。占領者が自らの都合のいいように、なんでも自分たちの意のままに決めているということです。
230万の人間が、占領者に服従しなければならない、そういう状況に生まれてからずっと置かれている。今、この講演会場には大学生の方々がたくさんおられますが、ガザの同じ年代の若者たちは物心ついてから、ずっとガザに閉じ込められているんです。それを世界はこの16年見捨てているわけです。この世界最大の野外監獄の中で、パレスチナ人が「生き地獄」と言われるような状況の中で苦しんでいても、世界は痛くも痒くもない。ずっと放置している。何か凄まじい攻撃が起きた時だけ話題にして、停戦したら、もう忘れる。その繰り返しです。そこでイスラエルによる戦争犯罪が行われても、問題にしない
p84

  • 電気の使用も制限
  • 水道水は飲料に不適
  • 乳幼児の過半数が栄養失調
  • 失業率は46%(世界最高)
  • 排水ポンプも稼働できず、冬季は毎年洪水が起きる

これらの状況が、イスラエルによる完全封鎖によって生じている。
しかもそれが2007年から16年以上もの間、続いている。今回、物資不足が問題になって、「栄養失調が起きているなんてひどい!」と思ったが、何のことはない。物資の搬出入の制限は16年続いていることで、今回これまでよりも入口を絞っただけのことだったのだ。


また、理解が進み、衝撃を受けたのは「封鎖」に至る経緯。

  • 2007年の完全封鎖まで
    • 2005年:ガザからイスラエルの全入植地が撤退
    • 2006年:パレスチナ立法評議会選挙でハマースが勝利
    • アメリカ(やEU)はファタハをけしかけてクーデターを画策させるが、内戦はハマースが勝利
    • 内戦での分裂により、ガザはハマース政権、西岸はファタハ政権という二重政権に

そして、アメリカやイスラエルがテロ組織とみなすハマースを政権与党に選んだパレスチナ人に対する集団懲罰として、2007年、ガザに対する完全封鎖が始まります。p76

この流れは、ファタハとハマースの位置づけがよくわかる出来事であり、特にアメリカや国際社会の関わり方にはとてもショックを受けた。
完全封鎖を生み出したのは、思い通りに行かなかった選挙結果に対する「懲罰」なのだと読める。(なお、「集団懲罰」は国際法違反)
抜粋して書き出しながら、「おかし過ぎるだろう…」と驚愕している。

(2)占領と民族浄化

それでは2007年の完全封鎖前はどうだったのか。この本では、封鎖前の2005年に、ガザの政治経済の研究者であるサラ・ロイさん(ユダヤアメリカ人)によって書かれたエッセイが引用されている。

過去35年のあいだ占領が意味してきたのは、追放と離散でした。家族の分断、軍の統制によって組織的に否定される人権、市民権、法的・政治的・経済的権利でした。何千人もの人々に対する拷問、何万エーカーもの土地の収用、7000以上におよぶパレスチナ人の家の破壊、パレスチナ人の土地に不法なイスラエル人の入植地を建設し、過去10年間に入植者の人口が倍増したこと、パレスチナ人の経済をまず切り崩し、そして今は破壊していること、封鎖、外出禁止、地理的に分断し住民を孤立させること、集団懲罰などでした。(略)

占領とはひとつの民族が他の民族によって支配され、剥奪されるということです。彼らの財産が破壊され、彼らの魂が破壊されるということなのです。占領がその核心において目指すのは、パレスチナ人が自分たちの存在を決定する権利、自分自身の家で日常生活を送る権利を否定することで、彼らの人間性をも否定し去ることです。占領とは辱めです。絶望です。
p154


京都大学での講演(第1部)では、京都在住のパレスチナ人の方も話をしており、この中で、占領下の生活についても触れられている。

十年前に日本に来る前はヨルダン川西岸に住んでいました。生まれた時からずっと軍事占領下で生きてきました。(略)
検問所を通らねばならないため、車で20分しかかからない大学までの道のりを2時間かけて通い、毎日毎日、人間性を否定され、顔の前に銃を突きつけられ、「名前は? なぜここに来た?」と問いただされました。ただ私がパレスチナで生まれ、私の家族がパレスチナ人だからという、ただそれだけの理由で。子供の頃からずっとそうでした。
p104

占領というのは、つまりこういうことなのだ、と、自分の認識を改めた。
かつて日本も他国を占領下に置いており、ガザに比べれば短い期間ではあるが、同様の状態を強いていたのだろう、ということも含め。


そして民族浄化
1948年に、イスラエルパレスチナ人に対して意図的な、組織的かつ計画的な民族浄化を行った。(「ナクバ」と呼ばれる)
ただ、それは75年も前のことで、ジェノサイドや民族浄化は、現代ではもはや起き得ないものと思っていた。しかし、今回のような事態*1が生じてしまうと、イスラエルは、政府高官自らが公言する通り「第二のナクバ」を行おうとしていると理解するしかない。


占領下の地域を完全封鎖した上で、抵抗が生じたら、それを口実に民族浄化としか言えない無差別攻撃を進める状況。これは「戦争」とはとても言えない。

(3)ガザとは実験場

本の中では、タイトルの質問「ガザとは何か」に対して複数の回答が出されている。
その中でも一番心に響いたのは早稲田大学講義(第2章)でのこの言葉だ。

ガザは実験場です
2007年当時で150万人以上の人間を狭い場所に閉じ込めて、経済基盤を破壊して、ライフラインは最低限しか供給せず、命を繋ぐのがやっとという状況にとどめおいて、何年かに一度大規模に殺戮し、社会インフラを破壊し、そういうことを16年間続けた時、世界はこれに対してどうするのかという実験です。
そして、分かったこと---世界は何もしない
ガザでパレスチナ人が生きようが死のうが、世界は何の痛痒も感じない。彼らが殺されている時だけ顔をしかめてみせるだけ。だから、なるべく攻撃が世界のニュースにならないように、できるだけ短期間におさめるのが得策ということになる。
p142

著者の岡さんの専門は文学で、自ら「今、私たちが何よりも必要としているのは、”文学”の言葉ではないかと思います」(p144)という通り、「実験場」というのは文学的表現であり、中立的な言葉ではないかもしれない。しかし、ここまでのガザの歴史を改めて振り返ると、むしろ状況を正確に表している表現と感じられる。
実験というのは実験する者が外側に存在し、実験状況は、外側の人の匙加減だということ。実験場の中の住人に責任を求めること自体が誤りだろう。


もちろん報道の問題も大きい。さも問題の本質を語っているように、「暴力の連鎖」「憎しみの連鎖」「テロと報復の連鎖」という言葉でまとめる報道は目くらましだ、ということがよくわかった。
今起きているのは、もちろん「戦争」では全くない。75年前からじわじわと続く「漸進的なジェノサイド」の総決算のようなもの(p102)なのだ。

国際社会は何をすべきか。私たちは何をすべきか。

国際社会は何をすべきかについて、この本では「人道支援ではなく、政治的解決を」と繰り返す。日本は、今回も15億円の人道支援をすぐに表明したが、これに対して「私たちは怒らなければならない」という。

もちろん、今生きていくためにはそうした人道支援は不可欠です。でも、封鎖や占領という政治的問題に取り組まずに、パレスチナ人が違法な占領や封鎖のもとでなんとか死なずに生きていけるように人道支援をするというのは、これは、封鎖や占領と共犯することです。だから、政治的な解決をしなければいけないんです。
p180

これまで、パレスチナ問題は、その歴史の長さから、難しく、すぐに答えが出せないものと思っていた。しかし、それは「憎しみの連鎖」という常套句に惑わされていたに過ぎず、すぐに行わなくてはならないことは、ある程度明確だ。
イスラエル国際法にしたがわせること。それが出来ないなら、国際法の意味がないし、ウクライナの戦争など、他の国際問題の対処にも影響する。


ちょうどアメリカでは反イスラエルのデモが拡大しているが、この本を読んで、その気持ちがとてもよくわかったし、親イスラエルの代表的な国での抗議活動には勇気づけられる。
なお、自分も何か連帯できる部分はないかと、登戸で開催されている「パレスチナ あたたかい家」展(Palestine,Our Warm House)にも参加して少しですがグッズを買ったりお金を落としてきた。
早い時間から人が絶えず、少しでも何かできないかと思いを同じくする人がたくさんいることに、ここでも勇気づけられた。
(犬はきなこさんというそうです。↓)


本の最後に質疑応答が収められており、その中で「私たちにできることは何か」という質問がある。
これに対して岡さんは「何ができるかというより、何をしなければならないか」だと少し修正した上で、たくさんあるが、最も基本的なことは正しく知ること、としている。
今回、『ガザとは何か』を読んで、パレスチナを読み解くための強固な視点を得ることができた。これをもとに、改めて他の本を読み勉強しておきたい。そして、色々な形で支援もしていきたい。


*1:南に逃げろと呼びかけながら避難ルートを攻撃。さらにはラファに集めてラファを爆撃。

期待膨らむ大河ドラマの副読本~川村裕子『平安のステキな!女性作家たち』


大河ドラマ『光る君へ』の副読本として、信頼のブランドである岩波ジュニア新書のこちらを読んだ。


ちょうど先日もドラマの中で、藤原道綱母紫式部(まひろ)が対面して『蜻蛉日記』について語り合う場面があったが、この本で取り上げられる5人、紫式部清少納言和泉式部藤原道綱母菅原孝標女(すがわらたかすえのむすめ)は、ほぼ同時代を生きた人たち(菅原孝標女のみは少し後の時代)。

よく対比される紫式部清少納言については、同時代という印象が前からあったが、それ以外は、これまで国語(古典)のテストで、作品名と作者を線で結ぶためだけに記憶した知識で、あまり人間同士の結びつきを意識したことが無かった。

だから、大河ドラマで何度か『蜻蛉日記』が話題に出て来て、しかもその作者である藤原道綱母財前直見)と、「登場人物」である兼家(段田安則)と道綱(上地雄輔)を見ると、ああ、国語資料集にしか存在しない架空単語なのではなく、実際にその時代に存在した人たちについての本(日記)なのだな、と変な感慨が湧く。


この本でも、大河ドラマの登場人物のエピソードがいくつも取り上げられ、『光る君へ』の今後の展開の予習という意味でもとても有用だったが、一番気になったのは和泉式部

和泉式部は彰子に仕えたというから、完全に紫式部の同僚で、『光る君へ』で触れないはずはないのだが、いまだにキャストの発表がない。

紫式部日記』では、年も近い(5歳年下)和泉式部に対しては、知識や理論面で浅いところがある、道徳的に問題がある(略奪愛)とけなしつつも、歌人としての才能は認めざるを得ない、と白旗状態のようだ。(勅撰歌集に247首採られているのは女性歌人でトップ)

この本では「平安の超モテ歌人」「恋愛体質」と評される和泉式部を演じるとしたら誰なのか?というのは確かに気になるところで、ドラマの今後に期待したい。


なお、「平安の萌え系文学少女」と紹介されている菅原孝標女は、 紫式部より35歳年下なので、ドラマには出てこなさそうだが、源氏物語における彼女の「推し」は夕顔と浮舟とのこと。浮舟については山崎ナオコーラさんの『ミライの源氏物語』でも一番気になったキャラクター。
ドラマではもう少し進んでから、源氏物語の執筆が始まるはずなので、それまでに何とかつまみ食いでも源氏物語本編を読みたいなあ。

「親ガチャ」的ニヒリズムを乗り越える~戸谷洋志『親ガチャの哲学』

先日『おわりのそこみえ』という本を読んでショックを受けた。
20代女性が主人公の小説だが、彼女は買い物依存で衝動的に欲しいものを買って借金し、借金を返すために働く生活を送っている。
彼女は社会には期待していないし、自分も努力したくない。未来を信じておらず、いつ死んでもいいやと思っている。
学生時代から付き合いのある友人は、裕福な家庭でお金に困らない生活を送っているが、それに対する嫉妬もなく、ひたすら諦めている。この諦めは、もはや「無敵」状態。


この本を読んで、自分には、とても共感しにくい主人公だけれど、もしかしたら、「こういう気持ちわかる」と思って読む若い人が多いんじゃないか、と不安に思った。

というのも、最近、「親ガチャ」や「ギフテッド」など、「生まれたときから人生は決まっているので努力は無意味…」というニヒリズムをはらんだ言葉を聞くことが多いと感じていたからだ。

また、それと合わせて、もしそんな風に考えて、人生に後ろ向きな人が身の回りにいたら、どう付き合えばよいのかと考えてしまった。


『親ガチャの哲学』は、そういう自分にとってピッタリの本だった。以下、内容について簡単に整理し、自分には何ができるのかを考えてみたい。


「親ガチャ的厭世観」にハマってしまうのはなぜか?

親ガチャというのは、どんな親の元に生まれてくるのかは、自分で選べないガチャガチャのようなもので、当たり外れの差が大きいという比喩表現だ。
基本的には、この本は、タイトル通り、哲学的な視点から、つまり、どう生きるか、という視点から、親ガチャ的な考え方を捉え直す。


苦境に陥っている人は、「親ガチャ」的な思考方法で、「辛いのは自分のせいじゃない」と、安心感を得る。つまり、一種の対処方法ではある。
一方で、その考えにハマると、どんなに努力しても自分の人生を変えることができない、という無力感を引き起こし、自分をさらに苦しくしてしまう。(本書では、これを「親ガチャ的厭世観」と呼ぶ)
こういった自暴自棄がひどくなると、秋葉原通り魔事件を起こした加藤智大のような、いわゆる「無敵の人」にも繋がってしまう。


そこで、「親ガチャ的厭世観」に囚われた人が、どのようにしてそこから抜け出せるのか、その哲学的な支援が、この本の書かれた意図と言える。
本の中盤では、そこから抜け出すために(もしくは子ども世代が親ガチャで苦しまないようにするために)、飛びついてしまいやすい2つの考え方をとりあげる。(3章、4章)

  • そもそも生まれて来なければ良かった、という「反出生主義」
  • ガチャではなく、デザインされて生まれてくれば、という「遺伝子操作」

しかし、そもそも、親ガチャ的厭世観が苦悩をさらに深めるのは「自分の人生を自分のものとして受け入れることができない」からである。上記2つの考え方では、それを解決できない。
特に、遺伝子操作については、遺伝子操作により最強のポケモンとして生まれたミュウツーを使った説明がわかりやすい。彼は生い立ちに苦悩し、自分を生み出した世界への怒りを募らせる。これは「親ガチャ的厭世観」の根本にある苦悩と変わらない、という説明だ。


つまり、結局、そこから抜け出すためには「自分の人生を自分で引き受ける」覚悟が必要だ、というのが、この本の最終的な結論だ。
しかし、そもそも辛い状況から逃げ出して来たのに、自分自身で責任を取れ、と「自己責任論」的なアドバイスは簡単には受け入れられない。
(「自己責任論」の押し付けにならないように、結論を受け入れてもらうにはどうすればよいか、というのは、この本全体から感じる最も大きなテーマで、その試行錯誤がところどころに見られる。)
そこで、「自分自身の人生を引き受ける」という「説得」のために、5章では、ハイデガーを引き合いに、決定論と責任について説明する。この章が一番哲学的で、一番難しいのだが、よく読めば「説得された感」はある。
それに対して、最終章の6章冒頭では、以下のようにシモーヌ・ヴェイユ『工場日記』を引用しながら、改めて、自分の人生に向き合う難しさを説く。これでは議論は行ったり来たりだ。(自分の人生を自分で引き受けることが必要[5章]→いや、やはりそれは難しい[6章])

あるとき彼女は、生まれつき身体が弱いにもかかわらず、当時の社会問題となってい た過酷な労働を体験するために、工場に勤務しました。その記録が、『工場日記』という本のなかに残されています。彼女は、その現場から洞察した、苦境に陥った人間のあり方を次のように描いています。
ひどい疲れのために、わたしがなぜこうして工場の中に身をおいているのかという本当の理由をつい忘れてしまうことがある。こういう生活がもたらすもっともつよい誘惑に、わたしもまた、ほとんどうちかつことができないようになった。それは、もはや考えることをしないという誘惑である。それだけが苦しまずにすむ、ただ一つの、唯一の方法なのだ。
p178

この本は、同じ説明を表現を変えて繰り返す場面が多く、丁寧ではあるがまどろっこしいのが短所で、この部分も行きつ戻りつ、なかなか進まない。

しかし、その後の論理の展開が自分にとっては非常にドラマチックだった。

私たちには何ができるのか

6章は、「親ガチャ的厭世観」に囚われている人が、そこから抜け出すのを、周囲の人はどう支援していけばよいのか、について書かれている。これこそ、自分が読みたかった内容だ。
こういった「私たちが解決するべき課題」について、戸谷さんは、鷲田清一の言葉にヒントを見出している。

哲学者の鷲田清一は、対話のなかで相手の言葉を「聴くこと」のうちに、その鍵を見いだします。
聴くこと、それは文字通り、相手の言葉に耳を傾けることです。ただしそれは、相手に同意したり、相手の意見を支持したりすることを意味するわけではありません。鷲田によれば、そうしたことは問題ではありません。重要なのは、「私はあなたの声を聴いている」ということ、「あなたの声がきちんと私には届いているよ」ということを、相手に伝えることです。
自分の言葉が他者に届いているという感覚、他者が自分の声を待ち、それを迎え入れてくれるという感覚、そうした感覚は、苦境に陥っている人に不思議な力を与えます。一人ぼっちでは自分自身について考えることができないかも知れないけれど、自分の言葉を誰かが聴いてくれる、それも、どんなことを言おうとも、内容に関わりなく、それを聴いてくれるという確信を持てるなら、自分自身を語ることを通じて、自分と向かい合うことができる---鷲田はそう主張します。  
p180

このあたりから、どんな立場の読者も、この話題は、親ガチャに限った話ではない、と感じられるようになってくる(誰にとっても、自分の意見を聞いてもらえることは嬉しく、心の支えになる)
ただ、ここでも、論理の展開は非常に慎重だ。

  • 他人が自分の声を聴いてくれることへの信頼は、現代日本ではどんどん失われている。
  • かつて存在した地縁と呼ばれるコミュニティは、もはや存在せず、あったとしても信頼感はない。
  • このような中間共同体のない社会では、「保育園落ちた日本死ね!」のように、家庭がダメなら国家に助けを求めるしかない(と思ってしまう)
  • だから地縁社会を復活させる、というのではなく、人為的に対話の場を創出しよう、というのが戸谷さんの考え。(ここで例として挙がるのは「哲学対話」)
  • しかし、苦境に陥っている人ほど、そうした対話の場に赴く余裕(時間的な余裕、経済的な余裕)がない、という大きな問題がある
  • 国民に保障される「健康で文化的な最低限度の生活」に、対話にアクセスできる権利を組み込むべき。

さて、読み返してみると、6章は、共同体について2つの提言が並行して進み、読者を混乱させているように感じる。戸谷さん自身も、それを懸念してか、これまでの議論の整理を繰り返し行うが、それがさらに議論が進んでいない印象を与えて混乱を深める。
自分なりに整理すると、ここでは、親ガチャ的厭世観から距離のある「私たち」が、どのように「共同体」と関わるべきかについて2つのことが書かれている。

  • 対話の場となる共同体を創出し、もしくはそこに参加し、相手の言葉に耳を傾ける
  • 国家共同体による社会保障を充実させるために(もしくはもっと狭い共同体による包摂性を担保するために)、想像力を働かせて、連帯の輪を拡げていく

実際には切り分けることのできない部分もあるが、後者のアプローチに重きを置いているのが6章ラストの文章で、前者のアプローチに重きを置いているのが終章ラストの文章だろう。

親ガチャ的厭世観を乗り越えるためには、社会による連帯が必要です。しかしその連帯は、決して、出生の偶然性を否定するものではありません。むしろ、私たちが、自分の選んだ人生を歩めないからこそ、私たちは連帯できるのです。
いずれにせよ、親ガチャ的厭世観に苛まれ、「無敵の人」になりかけている人に対して、責任の主体であることを要求するなら、私たちはそうした人の苦しみを最大限の想像力を持って想像し、そして連帯する努力をするべきです。努力なしに、他者に対して責任の主体であることを求めるのは、許されない暴力と言わざるをえないでしょう。
(p206:6章ラスト)

最後に、改めて、筆者の立場を明確にしておきたいと思います。
自分自身を引き受けるということは、対話の空間に参入できるということを、可能性の条件としています。私たちが現代社会のニヒリズムに抗うために、まず変えていくべきことは、そうした対話の場を少しでも社会のなかに創出していくということであって、決して、親ガチャ的厭世観に苦しんでいる人に対して、価値観の変更を迫ることではありません。その条件が成立していない限り、価値観の変更などできるはずがないからです。そうした要求をすることは、結局、自己責任論を押し付けることになり、さらなる苦しみを生み出すだけになります。(略)
私たちは、自分のできる場所で、自分のできる範囲で、他者と対話する機会を、この世界に創り出していくべきです。そこで何が語られるかは重要ではありません。ただ、誰かに話すことが許されること、誰かが自分の話を聴いてくれることを信じられること――それが、現代社会のニヒリズムへの、根本的な抵抗なのではないでしょうか。
(p220:終章ラスト)

前者の「想像力」について、戸谷さんは、ローティの言葉を引き、「私」の目に見えないところ、知らないところで、人々が傷ついているのではないか、苦しんでいるのではないか、と思いを馳せること、そして、そうした人々が自分の仲間であると感じること、そうした感性を育むことが欠かせない、と説明している。
個人的には、そういった感性を育むためには、読書が効果的なのだろうが、最近は、ドキュメンタリー映画を観る頻度を増やしたいと思っている。単なる「知識」よりも「人物」や「物語」への感情移入の方が自分にとって強度が大きいからだ。


後者の「対話の場」については新たに「創出」するのはハードルが高いが、場に参加して他者の言葉に耳を傾けるということ自体は、ビブリオバトルで定期的・継続的に実践しており、馴染みがある。なお、まさに、この本をビブリオバトルで紹介したら、他の参加者から、戸谷さんは、一時期ビブリオバトル界隈でもよく姿を見せていたという話が出てきて驚いた*1。もしかしたら「対話」の一形態として想定されているのかもしれない。
また、この本の中で挙がっている「哲学対話」については、永井玲衣さんがラジオで行っているのを聴いたことがあり、参加できる場があれば顔を出してみたい。
もちろん、「人の話を聞くこと」自体は、その効果も意識しながら、家族や身の回りの人に積極的に行っていけるだろう。


ということで、何となく、モヤモヤしていた「親ガチャ」に代表されるニヒリズムへの対抗手段について探ることが出来た、良い本でした。戸谷さんは、他の本も面白そうなものが多く、読んでみたいです。

*1:お会いしたこともあるかもしれない、というか、お会いしている可能性が高い

無関心でいることはできても無関係でいることはできない~北原モコットゥナシ『アイヌもやもや』


元々、昨年末の『ゴールデンカムイ』実写映画化のタイミングで、改めて当事者キャスティングと差別というキーワードで「アイヌ」について考える機会が増えたことがきっかけで読んだ本。
...ではあったが、この本を読んで特にハッとさせられ、良いと感じたのは、(1)アイヌ問題に限らず差別全般を話題にしていること、および、(2)マジョリティの立場の読者に向けて、強く「君たちこそ”当事者”なのだ」というメッセージが発せられていることだった。
アイヌに限定したものではなく、より一般的な差別に関する本、ということで、広く読まれてほしい本だと感じた。
目次は以下の通り。


この本の特徴は、アイヌや、非アイヌの抱えるスッキリしない思いをこめた『アイヌもやもや』という柔らかいタイトルが示す通り、読み手のハードルを下げることに心を配っていること。
それが最もよく表れているのが漫画を挟んだ構成で、4章構成内で4つずつのパーツに分かれたテーマそれぞれに、アイヌとしてのルーツを持つ家族の漫画と、エピソードに対する解説がついている。
表紙にも一部抜粋されている漫画は、田房永子さんによるもので、一連の著作を読んでいた自分にとっても非常に入りやすい本であった一方で、読後感は、思っていた以上にマジョリティとして緊張感を持つような本だった。
以下、特に「気をつけたい」と考えた3つについてメモをしていこうと思う。

ネット空間での「新しい差別」

3章では、近年、露骨な差別は減ったが、ネット空間など匿名性のある場面で起こるようになってきた「新しい差別」として、「アイヌはもういない」など存在そのものを否定する「否定論」や、「マイノリティ利権」(在日特権同和利権など)が取り上げられている。
否定論については、ちょうど、sessionで書籍『〈寝た子〉なんているの? ー見えづらい部落差別と私の日常』の著者・上川多美さんのインタビューを聞いたばかりだったので、ホットな話題として読んだ。
また、先日、厚生労働省ハンセン病に対する意識調査を初めて行い、その結果がニュースとして流れた。*1
近年は、「LGBTQ+の人なんているの?」と考える人は少なくなってきたと思うが、部落差別やハンセン病アイヌについては、今あるもの、というより、史実として捉えてきてしまった人が多いのではないだろうか。特にアイヌについては、まさに自分がそのタイプだと思い知らされた。


また、マイノリティ利権や陰謀論などについては、以下の説明に尽きる。

マイノリティの施策に限らず、公的な施策は税収入を運用して行います。しかし、マイノリティに関する施策は「我々とは無関係」である、つまり「不必要な施策が行われ税金が投入されている」というのです。そしてこれは「怪しい人々に大金が流れている」とか「国の中枢が支配されている」といった陰謀論にもつながっています。こうした主張にのめり込んでしまうのは、社会や制度がマジョリ ティに傾いていることを実感できないためです。マイノリティが不利な地位に置かれている事は制度的差別・文化的差別の結果であり、それを是正するための取り組みを、差別と呼ぶことはできません。

p109

さらに、このあと取り上げられていた「当事者性」「代表性」の問題が、ネット上で非常によく見られる炎上を理解する上で、常に参考としておきたい基礎知識だと感じた。
例えば、先日のイオンシネマ調布の車椅子ユーザーの苦情に関する問題*2は、ある部分までは車椅子ユーザーの不便を「代表」して語ってはいるものの、彼女自身の特性ももちろんあり、その思考や性格も含めて、「車椅子ユーザーはこういう人」と語るような言説は危うい。
このあたりのマイノリティ内の多様な立場と、組織の在り方や意見収集の方法の課題、さらには、アイヌの活動に和民族(非アイヌ)が入る場合(組織の代表となる場合)の意識のズレについては、なるほどと思いながら読んだ。


関連して、「学者批判」の項目が興味深かった。
明治期以降の日本の研究者は、日本の優越性/アイヌの劣性という予め決まっている結論に向け、人種主義的な研究を進めることで研究を進めてきた歴史があるため、アイヌの口から「学者」「研究者」という言葉が発せられるときは批判的なトーンを伴う。
そんな中で「あんた誰」と中見出しのついた文章を長めに引用する。

変な話ですが、学者批判や政策批判の隊列には、アイヌへの支援を謳って和民族社会を批判する和民族も加わります。ここでも、しばしば主語の大きさが問題になります。支援者を自認する人が活動をともにしているアイヌは、数人からせいぜい10人くらいでしょうが、活動を発信するときには「アイヌとともに」と、いきなり話が大きくなります。「全米騒然」くらい主語が大きいですね。マイノリティあるあるだと思いますが、支援者ポジションに立ちたがる人はいわゆるマンスプレイニングをするタイプです。何らかの事情で、強い承認欲求を持ちながら、マイノリティに関わろうとするためか、いやに上から目線で、なんでも先回りして保護者的に振る舞うコミュニケーションしか知らない。そして、そのことに無自覚。
(略)
繰り返しになりますが、アイヌの立場や考え方は多様です。支援者ポジの人々は、アイヌ全体を代弁しているかのように振る舞いますが、実のところ自分の意向を受け入れるアイヌを「真のアイヌなどと呼び、その声を選び取っているのです。そして、支援者のはずだったのに自分がプレイヤーになり、「アイヌはですね!」とか「お前たち日本人は!」と正義の怒りを叫ぶのです。あなたの立ち位置はどこ?と思わずにはいられません。

p118-119

このあたりは、いかにも悪い意味での「サヨク」的な振る舞いで、右からは勿論、「寄り添われている」はずのマイノリティからも嫌われていることがよくわかる。アライだ何だと「寄り添いたがる」自分のようなタイプは、気をつけなければならない。

「私たち」って誰?

そして大きなショックを受けたのは、「マイノリティを理解する」という項目で書かれている内容。この項目の漫画の出だしはこんな感じ。

結局、こういった啓発を目的としたリーフレットや報道の場合、書き手(作り手)も読み手も、アイヌを含まない「私たち」になりがちで「私たちは彼等から学ぶべき」「私たちの知らないアイヌ文化を見てみましょう」などの言葉が並んでしまう。

啓発のパンフや教材の役割は、人々に情報を伝えるだけでなく、読み手の考えや意見を引き出すこと、人々がそのテーマにそって意見を交わすきっかけを作ることです。もちろん、マイノリティ自身 も読み手となるし、いっしょに意見を交わすことも必要です。とこ ろが、アイヌが第三者として描かれていると、読み手に「アイヌはここにはいない」という前提を与えてしまいます
(略)
 私たちの認識は、言葉によって強く影響を受けます。(略)その場で使われている言葉によって、私たちは無意識に様々な判断をしています。ですから、アイヌが常に三人称で語られていれば、受け手は「アイヌとはまずその場にいることは無い、遠い存在」という前提を作ってしまいます。  
p125

つまり、アイヌを第三人称で書くことは、対話の場から締め出す効果を持ってしまうという。
であれば、どうすればよいか。

以上をまとめると、アイヌについての一般的な説明は「世の中のどこかには風変わりな人がいる」と知らせるもので、「私たち」に表される和民族の世界に変化を起こすものではないようです。これでは、アイヌが和民族の世界に参入する気苦労や面倒はなくなりません。「あなたのいる場所は多様な人が隣り合ってくらすところで、あなたもその一部だ。あなたが周りを見るように、周りもあなたを見ている」というメッセージに変えていかないと。
p128

たとえばビブリオバトルで差別に関する内容を含む本を紹介するときに、自分はいつも「自分がマジョリティの立場にいること」「聞き手に”当事者”の立場の人がいる可能性があること」を意識しているつもりだったが、ここで書かれるよう、もっと、今暮らしている社会がすでに多様な人とともにあることを前提とした言葉遣いをする必要があると感じた。

マジョリティの優位性

そして、満を持して、というべきか、第4章は「マジョリティの優位性」について1章を割いて書かれる。
中でも「本州出身」は「アイヌについて知らなかった」ことの免罪符にならないという指摘が痛かった。
ここでは、アイヌのみならず沖縄、朝鮮、台湾などの問題も含めて、次のように書かれる。

繰り返しますが、現代の人々の多くは占領に直接関与したわけではないものの、支配や占領から利益を得て作られた社会に暮らしていること、支配が今日も続いていることと無関係ではありません。無関心でいることはできても無関係でいることはできないのです。
和民族を中心・標準とする考え方を身に付けていれば、他の民族を抑圧することにも、否応なく関わってしまいます。「本州出身だから関係ない」と、問題から自分を切り離すことは、そうした責任から目を背けることです。マジョリティもマイノリティも、たとえ不本意だとしても、自分の立場から離れることはできません。可能なことは、社会の仕組みを変えるために働きかけることです
p141-142

ここで重要なのは、「支配・抑圧を受けてきた側からの問いかけに、応じようという姿勢」=「直接的に罪を負う、というのではなく、相手からの問いかけを黙殺しない姿勢」であることで、それが何度も強調される。*3
この章では、さらに具体的に「できる」「できない」対照リストなど、具体的な例を挙げながら、「自動ドア」という特権のある暮らしと、それが無い(ドアを開けるにも苦労の多い)暮らしを説明する。
この、現状認識について詳しい解説のあとの文章が、また、自分のような人間が陥りやすい「声かけ」で、非常に耳が痛い。

不利な立場に生まれた人と同じく、優位な立場に生まれた人も、自分で選んでそうなったわけではありません。立場の弱い人を見下したり、自分の特権を利用して相手を脅かしたりすることは不当だと言えますが、たまたま特権的な立場に生まれたことが悪だというわけではありません。ただ、自分が生まれた社会にある不均衡を維持したいか、変えたいか、ということは問われます。そのとき、無関心を装ったり、格差や抑圧を無いことにしたりしてしまうことは、結果的には不均衡な現状の維持につながるのです。「ぼくは立場の違いを気にせず、垣根なく付き合いたい」と言ってみせることは、優位な立場の者にとっては気分の良いことかもしれません。しかし、マイノリティにとってはまったく意味がありません。むしろ、自分が優位にあることを隠す、あるいはマイノリティからの指摘にまともに取り合わない態度として呆れられるかも知れません。
p153

それでは「マジョリティはどうすればいいのか」というのが、次の「解説15」のテーマになっているが、ここでも厳しい指摘は続く。

  • よく「当事者の声を聞く」ことが重要と言われるが、傷を負ったマイノリティが声をあげるのは精神的負担が大きいことを知ってほしい
  • 必死に絞り出した申し立ての声が、マジョリティに「気のせい」「よくあること」の一言で打ち消されたり、「感情的・ひがみっぽい」などのバイアスをかけられることも多い
  • そもそもマイノリティはマジョリティが作り出した環境の中で暮らしているのだから、マジョリティも「当事者」である。もっとマジョリティが声を上げるべきではないか。
  • インタビューやルポルタージュの形で、アイヌの声を書いた書籍は60年代から存在し、良書も多く、(新しい取材で問わなくても)すでに「生の声」は響いている。
  • 特に、報道関係者や、研究者(学生含む)で、それらアイヌの言葉に目を通さずに「何が問題なのか語ってくれ」と聞くのは一種の怠慢である。

これらを踏まえて最後に、マジョリティに「アクティブバイスタンダー」になって欲しいとまとめられており、具体的な行動を促進するための「5つのD」について紹介がある。(Safe Campusという、性暴力や性差別をなくすための取り組みをしている学生団体の活動の紹介)

pillnyan.jp


日常的な会話や宴席、もしくは電車内などの公共空間で「アクティブバイスタンダー」として行動できるためには、常に意識し、「行動」に移せるよう、イメージトレーニングをしておきたい。

共感されない物語でいてほしい~図野象『おわりのそこみえ』


ポップな表紙デザインとは対照的に不吉なタイトル。
よく見ると、フォントまで不吉さを増幅している。
で、タイトルが『おわりのそこみえ』
そこみえ?
底が見えたのか?見えているのか?
いずれにしても、底まで行ってしまう話なんだろう。


実際読み始めてみると、語り手は、既に「底」にいるように見える。

コンビニに駆け込んでおろしたお金に、例えば消費者金融のマークが大きく書かれていたとしたら、ちょっとは借金のことを真剣に考えるのかもしれない。 
あら、この子借金したお金でコンビニのおにぎり買ってるわ、若いのに恥ずかしくないのかしら、しかも女の子、いやあねえ、なんてレジのおばちゃんに思われて。でもきっとそんな恥ずかしさにも慣れるんだろう。
昨日、ベッドに寝転がってスマホで借り入れの申し込みをするときもなんの感情もなかった。操作方法にも虚無感にも慣れ切っていた

さらに、読み進めると、ある種の「無敵」状態を、彼女・美帆の刹那的な考え方から何度も感じてしまう。こんな人が周りにいたらどう話をすればいいんだろう。

  • 去年もタクシーから同じような風景を見た気がする。今日と同じように借金をしてタクシーに乗ってバイトにいった。日当七千五百円のバイトに遅刻しそうだから二千円払ってタクシーに乗る。週のうち三日はタクシーに乗っているし、結局だいたい遅刻する。こんな生活を数年間続けているなんて正気じゃない。借金を返すための労働のはずなのに、借金をするために働いているみたい。バイトは辞めたいし今すぐ死にたいのに、借金があるから仕方なく生きているなんて笑っちゃう。(p5)
  • 「あのさ、その『死にたい』もファッションみたいなものでしょ?SNSとかではとりあえずそう言っておくの。死にたいな、って。わかる?そういう女子はそうやって生きてくの。死にたいって言いながら生きるの」 (p9)
  • 女はかわいければ人生楽勝イージーゲームみたいなこともよく聞くけど、そうではない人間もいる。私はそのイージーゲームに難解なステージをわざわざつくりだしてゲームオーバーをただ待っている。人生がコンティニューのない仕 様だったことは唯一の救いかもしれない。(p13)
  • 人生は配られたカードで勝負するしかないと聞くし、仕方のないことだけど、私はどうやって勝負すればよかったんだろう。外見がかわいいというカードを擦り切れるまでつかうくらいしか方法がなかった。でもかわいい一本で勝負した結果がバカで、後先考えられなくて、メンヘラくそビッチで、買い物依存症だなんてね。てへ。(p28)
  • 実際返済の目途は立たないし、先のことは考えたことがなかった。例えば風俗で働いてAVに出てたんまりお金を稼いだとしても、きっと今より借金は増えると思う。借金をする人間というのはそういうものなのだ。だから死ねばいいか、と思っていた。どん底まで落ちたら死ねばいい。悲しくも怖くもない。痛いのは嫌だけど、全部仕方のないことだと思う。(p59)


読み直してみると、「何も起きない純文学」ではなく、短い時間で色々なことが起きる飽きない展開だし、明るい要素もたくさんある。
そもそもこういった悲劇の主人公には「殺したいほど憎い親」がつきものだが、彼女の両親は、ダメで弱いが「悪」ではない。
物語を通じて「家族」を取り戻すシーンすらある。


それでも物語の最後には「そこみえ」が控えている。
マッチングアプリで出会った男とホテルに行き、トイレから戻ると財布から現金を奪われていたことに気がついたときに、突然、死が「見え」てしまう感覚が怖い。

でももう面倒だった。イッツマイライフだと思った。もう死ぬときがきたのだ。それを先延ばしにする理由はない。こんなにもわかりやすく死期が示されると思わなかった。目の前にはっきりと地獄への道が開かれた。(p127)

ナムちゃんのような「親友」や、宇津木のように、肉親以外で、明確に自分の味方になってくれる新しい「家族」を得ても、結局、美帆の気持ちは変わらない。冒頭の呟きに書かれているような思考を、毎日毎日繰り返しているうちに、そこから離れられなくなってしまった。
このような生き方・考え方の若者はそれなりにいるのかもしれない。
そもそも社会に期待していない。未来を信じていない。
そして自分に自信もないし、努力もしたくない。
そんな時に、たまたま「事故」を起こしてしまったら…。
そう考えると、美帆の「おわりのそこみえ」感覚は、特に若い世代には意外と多くの共感を得てしまうのだろうか?
日本の若者の多くが「こんな刹那的なこと」を考えていないよね。

かなり不安になってしまいながら、正体不明の著者図野象のインタビューを読んでみた。

web.kawade.co.jp


やはり男性だったか、ということ以上に1988年生まれの35歳で、それなりに年齢が行っていることに驚く。
作品内に充満する刹那的感覚は、20代のものかと思っていたが、30代の作家でしたか。
また、インタビュー記事を読んで、この本を作るきっかけが「買い物依存」の記事だと知り、納得した。この「ノーフューチャー」感覚は、世代由来のものではなく、買い物依存の人の感覚ということか。ここで改めて冒頭の文章を読み返して、最初からこの本は「買い物依存の主人公」の物語として読むべきでは無かったか、と恥じる。
ただ、学生時代からの唯一の友人だった「加代子」との関係を見ると、美帆の「ノーフューチャー」には、買い物依存と別に「親ガチャ」要素が垣間見える。彼女には「加代子を見返してやる」という感覚も嫉妬もなく、ひたすらに差を受け入れて諦めている。


そのように色々と書いていて、美帆のような人を救う救わない、というよりも、
こういう考えの人が多い社会は、とても「治安が悪い」に違いない、
だから治安をよくするために、美帆のような「ノーフューチャー」感覚の人たちを減らさなければ。
という利己的な考えが、自分の中に渦巻いてきた。(こんな読まれ方で良いのだろうか)


「親ガチャ」という言葉に代表される格差の問題や、「買い物依存」に政治や福祉はどうアプローチするのだろうか。
このあたりは、どんな問題があり、どんな対策が取られているのか関連書籍も読んでみたい。



関心を持たざるを得なくなるドキュメンタリー映画~『ビヨンド・ユートピア 脱北』

映画を観に行くシチュエーションというのは自分には2パターンあって、見る映画が完全に決まっている場合と、映画を観に行く日と時間だけ決まっている場合がある。
映画が決まっていない後者の場合でも、常に観たいストックはたくさん貯めているので、あまり迷うこともないのだが、今回は少し違った。

  • 公開日で前評判の高い「52ヘルツのクジラたち」は当然候補に入っていたし、こちらも公開3週目で継続して評価の高い「夜明けのすべて」。気分次第ではこれらを選んだが、邦画を見る気分になれない。さらに、元々、本屋大賞関連作には警戒感があり、避けることに。
  • 第一候補「ストップ・メイキング・センス」を観に行くなら時間的に渋谷のシネクイント。元々激賞されていたIMAXではないのは諦めるとして、「4Kレストア版」なのに「※当館では2K上映となります。」と書いてあるのが気になって、優先度が落ちる。
  • 先日のアトロクでの宇多丸評が高かった「梟」は、歴史も関連しているということでかなり最後まで迷ったが、良い時間のものが無く、泣く泣く選外。
  • マ・ドンソクが日本で暴れ、青木崇高も登場する「犯罪都市3」。これは良さそうだけど、1,2を観ていないので…。
  • さんざん悩んだ挙句辿り着いた結論が、1月公開で存在を忘れかけていた「ビヨンド・ユートピア脱北」。ただ、いつも座席を選ぶときに参考にしているサイト「東京映画番長」で、シネマート新宿のスクリーン2(7階の方)について、「スクリーンが小さく見づらいです。ホームシアターのレベルです。」「鑑賞自体おすすめできないスクリーンです。」と、激渋の評価がされていて不安になるが、もう自分にはこれしかないんだ!


で、結論としては、さすが俺!と自分を褒めたくなった。
今不足していたのはドキュメンタリー成分だったということに気がついた。
先週最大限の期待を持って観た「落下の解剖学」が、その期待には見合わなかったので、今、フィクションを観ても面白い(と思える)ものに出会える自信が無かったというのもあり、そんな自分にピッタリの作品だった。

感想

脱北を試みる家族の死と隣り合わせの旅に密着したドキュメンタリー。

これまで1000人以上の脱北者を支援してきた韓国のキム・ソンウン牧師は、幼児2人と老婆を含む5人家族の脱北を手伝うことに。キム牧師による指揮の下、各地に身を潜める50人以上のブローカーが連携し、中国、ベトナムラオス、タイを経由して亡命先の韓国を目指す、移動距離1万2000キロメートルにもおよぶ決死の脱出作戦が展開される。

あらすじの補足について、パンフレットの森達也(映画監督、『福田村事件』等)評から抜粋する。

でもその日を待てない。 だから脱北する人たちは少なくない。過去に成功した女性。自分は成功したが息子が強制収容所に入れられた母親。そして現在進行形で脱北しようとしている5人の家族とこれを援助する韓国人牧師。本作はその4つの視点が交錯しながら展開する。
特に中国からベトナム、さらにラオス、タイと逃避行を続ける五人の家族については、まさしく今目の前で行動しているかのようにリアルだ。いやリアルで当たり前。ドキュメンタリーなのだ。でもなぜこれを撮れたのかと思いたくなるシーンが続き、まるで劇映画を見ているような気分になる。

「なぜこれを撮れたのか」、本当にその通りで、どうやって撮影したんだよ!と突っ込みたくなる映像の数々が挟まれ、編集も上手く、息を付けないようなスピード感がある。(パンフレットで、ブローカーたちに撮影を依頼したことが明かされている)
今回、特に巧みだと感じたのは、メインの家族の脱出行(ロさんの5人家族での脱北)が、別で進行中の脱北失敗事例(ソヨンさんの事例)と並行して描かれること。
ソヨンさんの事例では、北朝鮮に残してきた息子の脱北失敗の原因はブローカーの裏切り。ロ一家もあらゆる場面で複数のブローカーの協力を得ており条件は同じで、ブローカー達の気が変われば、作戦は失敗必至の状態だ。そのせいで、最後にメコン川を渡ってタイに入るまで全く気が抜けない。

しかし、彼らの脱北を直接指示するのは、我らがヒーロー、頼れるキム牧師。脱北者である妻とのなれそめの話を「妻の一目惚れ」(北朝鮮には太った男は金正日しかおらず、太ったキム牧師は金正日に見えた)と笑いながら言い切る姿は、自信とユーモアに溢れ、信頼できる人間に映る。

毎日何本もの相談の電話を受けながら、ロ一家の脱北には直接同行する、という、まさに体を張った支援には驚くばかり。過去の脱北支援の際に首の骨を折ったエピソードも笑いながら話していたが、ジャングルでの激しい疲労状況も含めて、よくもそんな無茶を…と観ながらとても心配になってしまうほどだった。
シンドラーのリスト』のシンドラーもこんなタイプの人だったのだろうか。

北朝鮮での生活と「脱北」

映画を観て、これまで北朝鮮がどういう国か理解どころか、あまり想像したことが無かったことに気がついた。
ロシアや中国など厳しい情報統制のある国のことは知っているから、北朝鮮も似た感じの状況かと思い込んでいた。例えば、スマホもある現代では、少なくとも都市に住む人たちは(北朝鮮の)外の情報についても、ある程度は把握しているのだろう、と高を括っていた。

しかし、映画を観ると、北朝鮮国民が、自分の国がユートピアだと信じているのは、国外の情報が完全に遮断されているからこそであることがわかる。


映画の中で描かれる北朝鮮の日常で驚いたことはとても多い。

  • おそらく郊外ということなのだろうが、上水道整備が行き渡っていないようだ。脱北者であるキム牧師の奥さんは(北朝鮮での生活を思いだすと)麺のゆで汁を「捨てられない」と言っていたし、ロ一家の父親も、水の確保がひと仕事だと説明していた。
  • そして下水道も同様で、水洗が普及していない。便は肥料として使えるよう、桶に貯め、定期的に袋などに詰めて学校や職場に持って行くのだという。隠し撮り映像で実際のトイレの様子も映っていた。
  • ロ一家は、親戚の脱北が原因で、マークされるような立場だったというから、元々厳しい生活を強いられていたのだろう。毎日、生活のために路上に物を売りに出かけていたのだという。なお、パンフレットにもあったが、配給制度が崩壊してからは、その日暮らしのような暮らしをする人たちが増えたようだ。
  • 罪の重い犯罪者に対して、見せしめのために公開処刑(銃殺刑等)を取ることが多いようだ。(その映像もあった)
  • 罪の軽い犯罪者に対しては、収容所施設(ソヨンの息子が連れていかれた場所)というのもあるようだが、それ以外の処罰の方法の話も強烈だった。何もない山の上で車を下ろされ毛布さえ取り上げられ置いて行かれるのだという。古い時代から使われている「流刑地」のような場所があるようだ。
  • また、家には金正恩金日成肖像画を飾り、抜き打ち検査でホコリがついていることが分かった場合は刑罰に処される。また、キム牧師の奥さんが、「金日成に似ているから」キム牧師を一目惚れしたように、彼らのことを美的にも優れていると洗脳させられるようだ。ロ一家の2人の娘にも洗脳の成果がよく表れていた。

そして、その洗脳ぶりに驚き、辛くなるのが、ロ一家のおばあちゃん(80代)の様々な発言だ。そもそも彼女は「国のことを信じているから脱北したくなかった。でも、毎日お金を要求され、暮らしていけず、出るしかなかった」と、北朝鮮に未練がある。
その上で、「なぜ金正恩将軍は、あれほど若くて賢いのに、日々の暮らしが良くならないのか。国民が怠けてしまうせいだ。」というようなことを脱北中にもカメラの前で繰り返していた。
最後の方で、やっと「こんなことだったら、もっとおしゃれがしたかった」というようなことも言っていて、やっと洗脳が晴れたのか、と少し安心した。彼女の場合は80年以上も洗脳され続けていたのだから、それを解くにも時間がかかるということだろう。
ロ一家の父親(50代?)も、脱北後の生活を幸せに感じながらも、「もう時間を取り返せない。やり直したくてもかなわない」と辛そうにしていたのが印象的だった。
彼らの話を聞いていると、「脱北」は、場所的な脱出、だけでなく、時間的な脱出=未来方向へのタイムスリップの意味がとても大きいように感じた。日本で言えば、1945年から現代に来たくらいのインパクトがあった。

コロナと脱北、ベトナムラオス

映画の最後では、キム牧師が、いつものように電話を受けながら、「今は難しい」と脱北の相談を断るシーンが映し出される。ロ一家の脱北直後にコロナ対策が厳しくなり、映画で描かれたような北朝鮮から中国国境を越えての脱北は相当難しくなってしまったのだという。
なお、今回の脱出行は、北朝鮮→中国→ベトナムラオス→タイ→韓国というルートを辿り、実質的なゴールはタイ入国だ。確かに、中国で捕まれば北朝鮮に強制送還されるというのは感覚的にわかる。しかし、ベトナムラオス北朝鮮寄りなのか、という、東アジアにおける、いわゆる地政学的な状況に改めて気づかされた。
最後にラオスからタイに入る際にメコン川を渡らなくてはいけないという地形と関連づけた地理的イメージも含めて、非常に勉強になる一作でもあった。

北朝鮮という国

本作の監督はアメリカ人のマドレーヌ・ギャヴィン。彼女のインタビュー記事は、なかなか示唆に富んで面白かったので、一部を引用する。
fansvoice.jp

(以下はマドレーヌ・ギャヴィン監督の言葉)

  • もちろん、飢饉やミサイル発射、生活苦といった一般的なニュースは見聞きしていましたが、あの国に2,600万人の人が住んでいることや、実際に彼らの生活がどれほど大変なのかという、その“質感”のようなものは全く分かっていませんでした。
  • 例えばロ一家の祖母は、キム政権の発信する情報を全身全霊で信じていました。アメリカや日本が敵だということを心底信じていたわけですが、私たちとして知り合うことで、我々は同じ人間であることを肌で理解しました。

つまり、プロパガンダは勿論、ニュースでの情報では、実際の“質感”は伝わらない。もっと言えば、身の回りにいる人のことは、かなり精度の高い“質感”を持って捉えることが出来るが、知らない異国の地に住む人や生活については、何かの機会がなければ伝わらないし、「おばあちゃん」がアメリカ人を毛嫌いしていたように、何らかの偏見に染まりやすい。
そこを打開するのがドキュメンタリーの役割ということだろうし、自分がドキュメンタリーに期待することを、マドレーヌ・ギャヴィン監督が言葉にしてくれた気がする。


その一方、アメリカ人監督が危機感を持って知りたい、伝えたいと感じた北朝鮮の状況について、「隣国」日本に住む自分が、これまで無関心に過ごしていたことを恥ずかしく思った。(あれだけ、横田めぐみさん等拉致被害者の報道を目にしているのにもかかわらず)

映画で描かれるような生活を北朝鮮国民の多くが続けているのであれば、もうこの国は持たない。遅かれ早かれ大きな問題が生じてもおかしくない。そのときに日本にどのような影響があるのか、どう対処すればよいのか。
地震津波、洪水などの自然災害と同様に、北朝鮮の崩壊や、突然の武力行使なども、(政治レベルでは論じられているのだろうが)一般市民として、もっと関心を持っておくべき話題であると感じた。

これから読む本、見る映画

まず、映画の(当初の)原作本であり、映画にも登場するイ・ヒョンソの著作。

また、同時期に出版された脱北者による著作。(よく比較もされているようだ)

さらに、『かぞくのくに』をはじめとするヤンヨンヒの映画と著作。


もう一つ、北朝鮮の収容所を扱ったアニメ映画。

トゥルーノース [DVD]

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  • ジョエル・サットン
Amazon


非常に大量の「あとで読む」候補が出てしまい、嬉しいですが困惑もしていますが、とにかく興味を持つことが重要ですね。


ミステリ要素の配合が巧い短編集~古矢永塔子『ずっとそこにいるつもり?』


5編から成る短編集で、共通するのは、作中で伏せられていたことが、○○だと思っていたら実は××だった、という一種の叙述トリック
ただ、どれも日常生活の中での人間関係を扱っており、事件要素、謎解き要素はゼロで、ミステリを読んでいる感じがしないまま、最後に種が明かされる。
先日読んだばかりの古谷田奈月『フィールダー』(傑作!)に続いて「こや」繋がりの著者は、『七度笑えば、恋の味』(文庫化の際に『初恋食堂』に改題)で小学館主催の第1回「日本おいしい小説大賞」受賞というミステリとは関係のない経歴をお持ちで、やっぱりミステリ畑の人ではないからなのか、日常とミステリ要素のバランスが絶妙だと感じた。


冒頭に挙げたように、「○○だと思っていたら実は××だった」という作品集なのだが、「○○だと思っていたら」とい部分に、いずれも、ある種のステレオタイプが利用されており、そこが上手い。
中でも1編目「あなたのママじゃない」と5編目の「まだあの場所にいる」は秀逸なだけでなく、大好きな話だった。
「あなたのママじゃない」は、最後まで読むと、仲良し夫婦の話かと思っていたら、共に夢を追いながら結婚した夫婦のうち、片方だけが軌道に乗り、もう片方は生活のために夢を諦めるかどうかという決断に迫られる話であることがわかる。
そこにさらに従来の男女の役割の逆転(つまり妻が稼いで夫が家事をこなす)が加わると、男性側が辛くなってしまうというのは、よくわかる。ちょうど先日観たフランス製作の映画でほぼ同じテーマ(かつ同じシチュエーション)を扱っており、「理想の男性像(有害な男らしさ)に苦しめられる男性」というのは世界共通の話だ。
ただ、見かけとしては、嫁姑問題がテーマだとミスリーディングさせて話が展開し、最終的には嫁姑問題も上手い着地を見せる。前向きに終わるので読後感もよく、あの映画より全然完成度が高いじゃないかと感じた。(ネタバレになるので映画名は伏せます)


5編目「まだあの場所にいる」は、女子校での教員生活15年目の女性高校教師が主人公。
問題児のいるクラスに入ってきた転入生をめぐる一悶着の話なのだが、これもルッキズムというメインテーマがありながら、語り手の教師の母娘関係や、高校生時代の辛い思い出話が挟まれて、最終的には、まだとどまっていたあの場所から、自分を解放するという前向きな終わり方で、締め方もすがすがしい。

彼女のダンスが終わったら、迎えに行かなくてはいけない。もう取り壊された旧校舎の、薄暗いトイレでうずくまっている自分を。この手でドアをこじ開けて、外に連れ出してやらなければいけない。
観客がどよめく。倉橋美月が、信じられないほどの軽やかさで跳躍する。ははっ、と西条が笑う。こんな場所で、若くはない女ふたりが並んで涙ぐんでいる姿は、きっと滑稽だろう。それでも杏子は、もう恥ずかしいとは思いたくなかった。


一番緻密に作られているのは、かつてコンビを組んでいた漫画家の相棒が8年ぶりに戻ってきて…という3編目「デイドリームビリーバー」。これは読後に最初に戻って読み返したくなる話で、意図されているミスリードの通りに読まされて、意図通りに驚かされた。これもお気に入り。

なお、短編集だが、表題作はなく、5編に共通するテーマとして出会いや別れ、変化を『ずっとそこにいるつもり?』に込めているのだろう。もちろん5編目の「まだあの場所にいる」とも呼応している。*1

これから読む本

せっかくこの本に出会ったので、次は、これまで興味が無かった「日本おいしい小説大賞」の本も読んでみたい。基本的に新人発掘の場ということで、これまで3回の受賞者とも経歴が面白い。第2回受賞作『私のカレーを食べてください』、第3回『百年厨房』、ともに、ガイドやレシピ本としての実用性もあるようで、興味が湧いてきました。


*1:ということで巧いタイトルなのだが、どうしても岡村靖幸『どんなことをして欲しいの僕に』の語りの部分を思い出してしまう。(最終的にパンツの中でバタフライをしたくなっちゃう曲)