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ロゴスの小径 〜心の空洞を埋める方法〜 RSSフィード Twitter

2018-11-03

人はなぜ神を要請するのか

ロゴスの小径へようこそ。

4年ほど前に書いた、こちらの記事
についてコメントをいただきました。(ありがとうございます!思考のきっかけになります!)それについて考えてみたいと思います。


カントによると、(かいつまみますと)人になぜ神が必要かというと、
神がいないと誰も道徳や倫理を守らなくなるからだということですが

ちなみにカント自身はキリスト教信者だったそうですので、
ものすごく平たく言うと、
信仰は「理性的には」説明できるものではない、
もしするとすれば、道徳のためと言える、というような意味合いかなと思います。

なぜ人間は神を信じるのかについて
無宗教者の立場である私の考えでしかないのですが

この世界ができた理由も、
人間が生きているということの意味も、

よくよく考えてみると「神さまが創ったから」か「不明」かの二択しかないですよね。
このとき「神」を特定の神と考えると宗教によって定義は別々になりますが

そうではなく、とにかくどの宗教にとっての「神」を「X」と呼ぶとすると

「世界(この世)」は「X」が創ったか、不明か

の二択になりますよね。これはどんな宗教も無宗教でも同じ答えになるかと思います。
ここまでは全人類共通の「真理」です。

で、そこから先は・・・

答えは永遠にわかりません。としたら
どちらを信じるか

しかありませんよね。

なぜ信仰心を持つか と なぜ信仰心をもたないか は同じとも言えます。

どちらも信じるかどうか、だけに依存していますから。

では神を信じる人、信仰を持つ人とはなんなのか・・と考えると

一つは、生まれた環境がありますよね。
キリスト教圏に生まれれば私も間違いなくキリスト教徒だったと思います。

日本で神社に行けば信仰心はなくても
なんとなく神聖な気持ちに(もしくは怖いような)なったりしますが

外国の方からすれば単なる「観光地」でしかなく
だから食べ物を食べたり写真をとって大声で騒いだりして
ちょっと嫌だな、なんて思うときもあるのですが

逆に日本人も海外の寺院や教会に「観光」で行ったりしますよね。
祈りを捧げる神聖な場に
興味本位で立ち入り、インスタ映え!とか言って写真撮ってアップしたりしちゃうわけですw

つまり、
生まれ育った環境で神(X)を信じるということは
非常に多いといえますよね。

そのほかに
キリスト教は「教義を信じる」という信仰のあり方です。
だから聖書は非常に重要なんですよね。
その解釈のあり方の違いから戦争まで起してしまうほどに。

個人的には、信仰をされている方は
何かしらの神秘的な体験をされたのかなーーなんて勝手に
思っていました。

実際そういう方も多く、お話を聞くと
本当に羨ましいと感じます。
神様の愛に包まれているのが実感できるそうです。

私にはそれがないので、
「選ばれし者」ではなかったんだなあとつくづく思いますw

でもですよ!

そういう神秘体験を重視するのは邪道だ、
というキリスト教の宗派もあるそうです。
(聖書の読み方によって、キリスト教はものすごく多くの宗派に分かれています。
キリスト教だけでなく仏教も同様ですが。)

教義と神秘体験は別物で
神秘体験、といっても悪魔が体験させているかもしれないと考えるそうです。

とすると、神という体験をした人だけが宗教に帰依するわけではないようです。
その場合は教義に魅力を感じた、ということになりますよね。
それはある意味「倫理的」だと思うのですが。

ちなみに、
そもそも悪魔という存在がなぜいるかという解釈も面白いんですよ。
完璧である神がなぜ悪魔を創造したのか。

人間への意地悪のためか?

そんなわけないです。神さまは意地悪なんかしません。

だから悪魔はいつも「堕天使」という形をとるそうです。
神が悪魔なんか創るわけがない、もともとは天使だったんだ、と

・・・話が逸れましたが


なぜ人が神を信じるかは
信じるしかないからとしか言えないですよね。

信じるものはなにもなく
世界には生きる理由もない

そう思って生きるのも

信仰をもって生きるのも

生きて死ぬのは同じですから

より楽に生きられる道を選んだほうがいいに決まっています。

ただ、問題は
信仰をもとう!!!と決めても

持てるものではない、というものです・・・

もともと信仰のある環境に生まれ育ったとか
あとは神秘的な体験をするか
心の底から納得できる教義に出会うか

上記がないなら、無理矢理信じるなんてできそうもありません。


このことについては非常にたくさんの細かい思考がなされていて
私などには簡単には語りきれませんが

神を信仰できる人が本当に羨ましいです。
できない人はやはり選ばれなかったんだと感じてしまいますね・・・。

死に際し、神のもとにいけるのだと思えば
怖さも半減するのではないでしょうか。勝手な想像ですが。

信仰が無いのであれば仕方ない、
思考して生きる他ありません。それがある意味哲学とも言えると私は思っています。


コメントをいただいたきっかけで久しぶりに思考ができてうれしかったです。
ありがとうございました。

2018-10-20 お別れについて考える このエントリーを含むブックマーク

ロゴスの小径へようこそ。

最近、まるで日常から逃げるように旅ばかりしています。

日々、生活とか仕事とかしなくてはいけないタスクとか
そういうものに追われてしまって

無条件に「好きで楽しいこと」というのができていない気がして。

学問にしても制作にしても、好きで楽しい、ことは確かですが
もちろん苦しみも同じくらいありますので

私の場合、自分が「ゆるむ」のが旅です。

思えば学生時代から旅が好きでした。
初めて友達同士だけで旅行に行ったのは高校二年の夏の軽井沢。なつかしいな・・・


で、来週も旅行の予定があったのです。
裏磐梯に紅葉狩りに行く予定でした。が

近親者が亡くなりました・・・
それで急遽キャンセルとなりました。

血のつながらない親戚ですので
正直慟哭するほどの辛さはいまのところピンときていません。

けれど

いただいた手作りのものを見たり
先月笑って話したことを思い出したりすると

心がすきんとします・・・

永遠の、お別れ

いつか、私も私と別れる。

死後の世界を信じない限り。

死語を都合よく解釈すると
死んだら愛犬たちに合えるな、とか思ったりしますが

一方私が、「この私」の意識を永遠にもっているなんて
苦痛で耐えきれません・・・。

まあ、これが辛いから「輪廻」の輪から外れることを
仏教では目指すわけです。それはとてもよく理解できます。

永遠の命を得て永遠に、だなんて
例え天国でも嫌だな・・・


さてお別れにあたり
香典はご仏前なのかご霊前なのかとか
お札はピン札はいけないとか
あて名書きは薄墨だとか

謎のルールがありすぎて
なんだか滑稽だな・・・

もちろんそれがその宗派のルールに則っていることであれば
重要なんだと思いますよ。

でもそもそもお札が無かった時代に遡れば
ピン札、なんてものもなかったわけで

とか考えるとそれは
神様とかが考えたルールだとは到底思えず

なんだかなあ・・・と思ってしまうのですが

こういうことを考えて
人間の考えた大事な(?)ルールに則れない人を

ニヒリストだとか
中二病とか
呼ぶそうですw

私は大人なので則りますよ、ある程度。

ネットで調べたりしてね。

でも、ご焼香には数珠が必要だとか言われて
私仏教徒でもないしなあとか思って検索すると

仏教徒でないのなら不要とあったりして

とすると

必要だ、とか言ってるのは売りたい側の戦略なのでは?!
なんてあたりにも気づいたりして。

・・・お別れについて考えていたはずが
なんだか逸れましたが・・・汗

さよならだけが人生

といったのは瀬戸内寂聴さん。

自分とのお別れまでに
なすべきことは

謎の目的を設定してそこまでがんばることではなく
(いえ、それが楽しいのならもちろんいいのだと思います)

楽しむこと

単純だけどそれに尽きます。

そんなわけで
私の旅人生がほぼ10年ぶりに再開したわけです。

結局人間て
子供時代に楽しいと思ったことが素直に楽しいのかもしれません。
私は子供時代から親戚や親とよく旅に出ていました。
そういうことも影響しているのかな・・・

なんだか今日はつらつらと思うことを書いてみました。


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2018-07-30 自分を知る楽な方法 このエントリーを含むブックマーク

ロゴスの小径へようこそ。

今日は心理学のお話です。

自分がどういう人間かは、わかっているようで案外わからないものです。

学生時代は
「私ってどんな性格かなあ」
なんて他愛なく友達同士で語りあったりしましたが

さすがに大人になるとその話題もビミョウです。
また、それに100%思ったことを答えてくれる人が
どれくらいいるでしょうか。

また自分ではこういう性格、と思っていても
自分を贔屓目にみたり卑下したり謙遜したり
どうしてもしてしまいますよね。

これは心理学の手法なのですが
根底は哲学です。

人は自分を他人の中に見ます。

つまり
厳密に言うと

自分は、自分の思考の範疇から外には絶対にでることはできませんよね。

私たちの見たもの感じたもの考えたものすべては
自分と言うフィルターを一度通したものです。

全く同じものを見ても感想が違ったりするのも
あたりまえです。

私が見ているこの月と
あなたが見ているその月が
全く同じものである保証はないというほどの厳密さを持たなくても

自分の中にない感情を私たちは感じることができません。

例えば
爬虫類はかわいい、という感情がない人には
爬虫類のかわいさはわかりませんよね。

自分が感じる感情は全て、自分のものなのです。
つまり自分が他人に感じる感情は全て
自分の中にあるものということになります。

ここまでは哲学。

それを実験したりエビデンスをとるのが心理学です。

そしてその結果

例えば
他人に親切にすべきだ!と言う人は
本当は自分もそうしたいのにできない、と思っている人、つまり
実は他人に優しくない人、というような傾向にあるそうです。

今の日本はダメだ!なんていう人に限って
本当は自分も活動しなくてはいけないと思いつつ
実は何も活動をしていなかったり。

あの人、上司におべっか使って!

なんていう人は、実は自分もおべっかを使いたい、贔屓されたい、
と思っているということです。


さて先週私は体調を崩し会社を数日休みました。

とても外出できるような状態ではなかったのですが
最後まで行くかどうか悩みました。

仕事を最優先はしない、と決めてはいるのですが

休んでいる間に
自分の仕事が奪われたらどうしよう、というような危機感が
全くないわけではありません。

そこでそのとき、ふと知人のことを思い出しました。

どんなに体調が悪くても出勤し
体調以外の、旅行などの理由で仕事を休むことはほとんどありません。
仕事が多すぎるわけでもないのに有給も消化しきれないそうです。
恐らくは
仕事が奪われる恐怖感もあるのでしょう。

・・・そこで気づきます。

そう感じているのは私自身。
つまりこれは自分の中の感情なので、
自分のことに他なりません。

他者は自分の鏡。

そこで私は
こんなに体調が悪くても休めない自分、というものに気づきました。

仕事を奪われてもいい
体調を優先しよう

そこで考え直します。

冷静に考えればその通りなのです。
最初に仕事を休めない、と考えていたのはある種直観的なもので

仕事が奪われる恐怖(実際奪われるかどうかは別として)からの思考です。

そこで自分を知ることで、理性的に考えることができれば
自分がどうすべきかもわかります。

しかし、人を批判するようなとき、
その批判内容を自分のものとして受け止めることは
非情に難しいもので、不快を伴いますよね。

あの人、上司におべっかつかって!

なんて思う人が実は、自分もそうしたい、と思っているなんて
自分では認めたくないですよね。

でも、ここを認めるかどうかが
バカの壁」だそうです。

豊かな人、とはその否定の部分も自分に取り込める人のことで

自分にない、いわばコンプレックスの部分を
自分に取り込むことができるそうです。

私は、あの人絶対に休まないよね、仕事の奴隷だね、なんて言ってw

自分が本当はそういうふうに会社に認められたい、と
思っていたことになります。

それを認めて初めて

いや、そんな自分は嫌だ!と

会社を休んで健康を優先したりできるわけです。

ぜひ次に他人に腹がたったときは
この方法を思い出してみてくださいね。

自分の中で思うだけです。恥ずかしいことはありません。
私は書いちゃいましたがw

何かが変わるかもしれません。
いえ、変わります。


いかがでしたでしょうか。
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2018-07-22 銀河について このエントリーを含むブックマーク

ロゴスの小径へようこそ。

宇宙と哲学、なんて無関係のように思えるでしょうか。
しかし哲学はもともと、自然科学とは密接な関係にあります。

そもそもこの世界って何?

という疑問(そして驚き)で始まっているのが哲学で

科学者とは哲学者のことでした。

人生のこと、人間のことをどうしても考えてしまう人は
宇宙のことも考えてしまうのではないでしょうか。

私も子供時代から宇宙のことをいろいろ想像する子供でした。
宇宙の果てのその果ての果ての果て・・・と想像すると
怖くなって泣いたりしてましたねw

それは今でも似たような思いです。

今空を見上げて、その先をずーーーっと辿っていっても
終わりがない、果てしないのだと考えただけで気持ちが悪くなりますね・・・

さて
昨日、銀河系についての放送大学の講義を見ました。

宇宙に対する知識は、子供時代に習った知識より
当たり前ですが(笑)ものすこく進んでいて驚きました。

高性能の観測(ハッブル宇宙望遠鏡他で)が可能になってから
宇宙は格段に調査が進んでいて
いま、宇宙の地図がどんどん更新されているそうです。
その範囲は何百億光年!

人間は到底辿り着けないその先を観察し地図を創ることの意味はあるのか?とも思いますが、
興味深いですし、そんなに広範囲な地図があったのかということに驚きました。

空にはどうやら神様は住んでいなくて
銀河がいくつも存在しています。
そんな宇宙の地図をみると、

例え行くことは出来なくても
なんだか宇宙は一気に狭く感じられます。
アメリカ大陸発見!というのと同じことなのかな、と。

当時は驚きの未知の世界でしたが
いまでは世界(地球のという意味での)はとても狭く

宇宙の地図なんてみてしまうと
世界中を旅しなくても地球儀を見れば地球が狭く、
手のひらに乗ったように把握できたように感じるのと似たような感覚です。

私たちは地球にへばりついて住んでいます。
宇宙は
音のない(正確には私たちの鼓膜には音が伝わらない)世界。
空気のない人間は生きられない空間が広がっている。
実はそんな中に自分たちは住んでいるという恐怖。

しかし興味深くはあっても
日々の生活でそれを知らなくても生きて行けますよね。
天に神様が住んでいると思って生きていても
何ら問題はないはずです。

けれどどうしても「本当の」ことが知りたい。
そんな思いで宇宙開発は始まっていますよね。
もちろん経済的な目論見もあるのでしょうけれど。

それは哲学と全く同じことです。
真実が知りたい、ただそれを希求してしまうというだけで

なくても生きて行けますね、この世界の、地球の中の「常識」の中で。

でもそれでは満足できない人がいるんですよね・・・


ところで
現代、宇宙と生物についてはいろんな概念があるそうですが、

こんな風にも考えられてもいるそうです。

生物が誕生したというこの奇跡はあまりにも有り得ないほどの奇跡であり
むしろ宇宙の方がチューンアップされているのではないか、と。

つまり私たち生物にとってこの宇宙はあまりにも環境がよく作られているそうです。
ですから、私たちがいることそれ自体が宇宙がこのようにあるという理由なんだと。

宇宙という「イレモノ」がまずあって、
そこに人間が入っているわけではないという思想ですね。
現代の量子力学の考えに通じますね。

そして私たちが生きているこの宇宙以外にも、
宇宙があるのではないか、とも考えられているそうです。

そういえば宇宙はビッグ・バンで始まってどんどん膨張している、と
子供時代に親に習ったのを覚えています。

そのビッグ・バンを「神の一撃」と呼んで、
つまりそれが神がこの世界、宇宙を創ったのだという「神話」に繋がっていますが

ホーキンズ博士が「神の一撃がなくても宇宙は今のようにできた」というように
数年前でしょうか、発表されて話題になっていましたね。

神が世界を創った科学的証拠が一つ減ったことになりますから。

宇宙は大爆発ではなく、「ゆらぎ」から発生したというのが今では定説だそうです。

これからどんどんもっともっと宇宙が何であり、
その発生はどうだったのかなどが解明されたとしても

それは次々に大陸を発見していったのと同様

物理的に世界を解明していくに留まります。
宇宙は全て「重力」ですから。

なぜ「存在」しているのか

なぜこの世界が「在る」のかという謎は永遠に解けません。

「神」が創ったとして、ではその神ってなぜ「在る」の?

という疑問に変わるだけです。

宇宙のことを知らなくても生きて行けるように
そんな疑問を持たなくても毎日生きて行けますから

人は存在を問う哲学をだんだんしなくなりました。それが現代です。

生きるのに役立つものの方が重要ですから。

哲学がなくても生きて行けますが
経済や、宗教がないと人間は生きていけないですから。

けれどどうしても哲学をしないと生きていけない人が
たまにいます。

答えのない、役に立たない「存在」を
つまりは「真実」を
それでも探究せずにいられない人たち。

子供時代から宇宙のこととか死後のことを
宗教上での説明では満足できずどうしても考えてしまうあなたはお仲間ですw


いかがでしたでしょうか。
どう考えても賛同者が少ないだろうこのブログw
それでもおかげさまで10位以内に帰って参りました!
少数派の皆さまw、ありがとうございますm(__)m

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2018-07-21 正しいか正しくないか このエントリーを含むブックマーク

ロゴスの小径へようこそ。

世界は「正しい」かそうでないかを決定して成り立ってきました。

火傷に油を塗る(昔はそうしていたそうです)→正しくない
火傷は冷やす→正しい

のように、一つずつ吟味して
より正しいものへと向かっています。

子どもの頃から
赤で渡るのは正しくない、青は正しいというように

友達と喧嘩するのは正しくない
みんな仲良く、が正しい というように。

しかし本当にそうなのでしょうか?

世界はそんな風に、正しい、正しくない、で二分して
いつか「より善いもの」に到達できるのでしょうか?

だとしたらなぜ宗教による戦争がなくならないのでしょうか?

例えば病気にいろいろな投薬をして
この抗生剤が正しかった、とか

科学的な検証をいろいろしてみて、これが正しいようだ、とか

経済発展のためにはこうするのが正しい、とか

そういう部分であある意味正しさを決められるそうです。
だって何にむかっているかがハッキリしていますから。

けれどそれを、哲学が倫理、つまり
生き方の問題に当てはめることはできないと言います。

例えば
「自分の意見をはっきり言えるのが正しい」というような思想が
日本でも蔓延していますが

日本人の性質として
また日本人が美しいとしてきたもの、あるいは生き方、もしくは習慣として

自分の意見を言うのは差し控えて
皆の意見を調整しよう、すり合わせよう

というような思想もありますよね。

和を以て貴しとなす のが日本人の特性ともいえるわけです。

それをずっと続けてきたのですから
言いたくて言いたくてムズムズしているのを我慢する、というのではなく

以心伝心のような
なんとなく通じ合うような

悪く言えばソンタクするようなw

そういう文化なわけです。


そこに、自分の意見を言いなさい、という西洋的な思想を押し付ける。
それが正しい、とする

自分の意見をはっきり言えない子供は
どんどん傷ついていきます。

意見がはっきり言えない自分を責めて
自分が悪いのだと思わされて

いじめにあったりもするわけで

それも日本人の自殺者が多い理由の一つと言われています。

自分はいじめっこではなかったから関係ない、ではなく

問題は
「意見をはっきり言うことが正しい」と教育(あるいは啓蒙)されてしまっているだけの自分に気づかず
それを「正しいこと」と多くの人が認識してしまっていることです。

なぜ意見をはっきり言えないといけないのか?
語らずとも深い思考を持つ人はたくさんいます。

むしろ、本当にものごとを知れば意見を言うことが難しくなります。
なぜなら

「これが正しい」ときっぱり言いきれるものなど
ほぼないことを知っているからです。

さきほどもテレビで池上彰さんが
日本と海外の違い(学校など)を解説されていました。

日本は海外に遅れていると取れることもあれば
進んでいるといえることもあって

池上さんは最後に
「だから日本は悪い!というのではなく、違いを知ることが大事」
というようにコメントされていました。

「だから日本は悪い!遅れている!」と自分の意見を言うことが悪いわけではありませんが
一概にそう言いきれません。
だから、なんではっきり悪いと言わないの?と思う人には
ある意味歯がゆいコメントなのかもしれませんが

ものごとを多方面から見れば
一概に正しい、とは言えないものです。

唯一の正しさのようなものがあるのなら
戦争は無くなるはずです。皆がそこに向かえばいいわけですから。

ですから
こうするのが正しい、と言えるのは

この病気を治すにはこうするのが正しい、

というようにゴールがはっきりしている場合です。

けれど
正しい生き方のようなものは明示されていませんよね。

国ごと、宗教ごとにその内容が違うくらいですから。


なんて偉そうに書いていますがw

私もほんの少し前までは
世界の全てはだんだん正しい方に向かっていけばいいし
そうなっていると思い込んでいました。

10年くらい前でしょうか、とある本で

一夫一婦制が「正しい」というのは人類の普遍ではなく人間が決めたルールでしかなく
(キリスト教がベースになっていますがその方が政治的・経済的に便利だったのかもしれません)

一夫多妻が正しいとしている国もある

と読んだことです。

いえ、そんなことは知っていました。
日本だって昭和の初めころまでは、力のある人はお妾さんがいるのは当然だったわけで

けれど、それは時代のせいで、
昔は間違っていた、今は正しい

と思い込んでいた、ということに気づいたのです。


世界は
正しいか正しくないかで二分はできない。

哲学書の多くはそのことを言っているのです。

二分した方が思考としては楽なのですが
世界はそうできていないのです。

もし世界中の人がたった一つの宗教を信仰していたら
「正しいもの」はある、ということになるはずですが。


今日放送大学の講義でシンギュラリティの問題について話していました。

人間は、人類全体でたったひとつの正しさのようなものを持っていません。

AIにはそれを教えないと
一部の「正しさ」の知識に傾倒すると危険な方向に向かうというのは
私たちでも想像つきますよね。

何か自分が

これが正しいのに!と思ったときは
もしかしたらそう言いきれないのではないか、と自問すると
はっと気づくことが多いです。
ぜひ試してみてくださいね。

特にすごく怒ったりイライラしているときは
それで気が楽になることもあります。


いかがでしたでしょうか。
我ながら万人受けしない内容だよなーーと思いますがw
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はみはみ 2018/07/22 02:20 またまた遊びに来ました。
最近思っていた事を綺麗にまとめて書いてくれていたので、読んでいてとても嬉しくなりましたよ!

文中にもあったけど、例えば「宗教」…、よく宗教などは歴史を振り返ってみても大抵の争いのもとになるから危険、と思っている人は多いですよね。でも宗教そのものが危険なのではなく、人間の側がそこに「正しさ」を持ち込んでしまうから、問題なのだと思っています。
そしてもっと面倒なのが、ただの正しさに収まらず、そこにプラスアルファの議がついて「正義」となってしまった時。その対極は「悪」になるのですから、抹殺や撲滅すべき存在とされる。恐ろしいですね〜。

何が正しいかなんて言い切れないこと、本当に沢山あると思います。
ただ社会生活の中では、やはりある程度定義付けしなければ、前に進めない側面があるのも事実。
そんな時(こんな事を言ったら鼻で笑われるかも知れませんが)、私はやはり1番大切な事はその正しさの中にに「愛が込められているか」どうかかな、と思いました。

例えば、どんなに正しい言葉だったとしても、それが相手のことをまったく考えず、ただ自分を正当化するためだけに発せられた言葉であるなら、そんな言葉が相手の心に響くことはありません。
人間には、言葉を聞いたとき、その言葉が発せられた動機を見抜く力があると思います。
自分のことしか考えていない人の言葉は、たとえ論理的に正しかったとしても、動機が間違っていれば受け入れることができないのです。相手の心に響くのは、ただ相手を思う愛から発せられた言葉だけだと思います。
人を傷つけるような正しさは、どんなに正しかったとしても誰の心にも響かない。誰の心にも届かない正しさだから、結局、時代や状況とともに変化したり、消えて行ってしまうような気がします。

愛が込められた普遍の正しさの上に一人ひとりが立てれば、何かが少しでもより良くなるのではないのかな、というのが私の思うところです。

眠れなかったので、またクドクド書いてしまいました。
いつも楽しく読ませてもらっています。これからも頑張って下さいネ〜!

ruribyakururibyaku 2018/07/22 21:24 >はみさん
コメントありがとうございます。
おっしゃる通り怖いのは宗教そのものではなくて、
宗教に帰依されている人が自分の「正しさ」で他宗教を「判断」するのが
戦争に繋がるのでしょうね。まったく同意見です。

自分の信じるものを信じているだけではダメなんでしょうかね・・・???

愛があれば他宗教だからと批判して戦争に至ることもないはずですから
はみさんのおっしゃることは鼻で笑うどころか真理だと思いますよ。

宗教観の違いは論理では解決しませんから
解決策は愛だけですものね。

他宗教であっても無宗教であっても「ゆるす」「ゆるせる」ということですね。

それはお互い干渉しあわず、それぞれが好きな宗教を信じている、というだけよりも
素敵なことに思えますね。

>愛が込められた普遍の正しさの上に一人ひとりが立てれば

素晴らしいですね。言うだけは簡単ですがw実行されるのはすごいことですね。
誰かがやれば、とか、だって誰もやってないのに、では永遠に到達しませんものね。

まあ、私にはちょっとハードル高いですがw
私のほうこそ応援しています。

ありがとうございました。