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ロゴスの小径 〜心の空洞を埋める方法〜 RSSフィード Twitter

2018-06-06 「目的」はいらない このエントリーを含むブックマーク

ロゴスの小径へようこそ。

人生は目的を持って
それに向かってまっすぐ進んでいくのが良いこと

という宗教もしくはイデオロギーを
信じて生きている人はいまだに多いですね。

最近の若者は目的も持たない

なんて批判するようなコメントを
テレビなんかでもたまに聞きますね。
たいてい大成功している団塊の世代のオジサンとか。

先日テレビのインタビューで
超有名なデザイナーの方が

今の若者は夢を持たない。
夢は本気になってそれを追いかければ必ず叶うんだ

なんて話されていてびっくりしましたが

あれをみて、じゃあ自分もがんばろう!なんて思う人は
いるんでしょうかね・・・

ある程度の年代の人はそういうのに心が動かされるかもしれませんが
時すでに遅しw
今から夢を追ってもなあ・・・

あ、それは私のことかw


大成功していなくても
目的を持って生きるのは正しいことであり

しかもそれは仕事で自己実現する

というのが正しい人間の生き方のように
思われていた時代に
(今もまだまだそういう風潮はありますが)
私は育ちましたので

それが正しいのだと思って生きてきました。

目的をもってそれに向かって。


しかしそれは

単なる思い込みに過ぎなかったと気づいたのは
わりと最近です。

もっと俯瞰して見れば

国民を勤勉に働かせるのがお国のためになるので
そういう人間に育て上げられていたということです。

戦争時には、喜んで戦争に行くような教育を子供にしますよね?
敵国を悪く教えたりして。

それと全く同じですね。

もちろんそれで幸せな人はそれでいいのだと思います。

けれどそれは
人にこうしろと言われたことを考えもせずに「良い」と思って
生きているということですよね。

人の思うままに生きて、死ぬだけ。

まあ、ある意味楽かもしれませんが。


ともあれ私はそれが嫌になってしまったわけです。

もう人生も半分を過ぎて

・・・
あ、そういえば!女性の平均連例は84歳だから自分もそれまで生きれる、と思うのは
間違った認識だそうですね。
平均寿命とは今年生まれた子供が何歳まで生きられるかの試算だそうです。
なので、生まれた年によって平均寿命は違います。
人生100年時代、なんて言われていますがそれはあと数年か数十年後に生まれた人たちの話だそうで
私たちには関係ないともいえるんですねえ!w
・・・

残りの人生をできるだけ
好きなように生きようと決めているのです。

それでまず
目的を目指すように生きるのをやめよう、と。

例えば私は旅行が好きですが
考えてみたらふらふらっと宿も決めずに旅に出るわけではなく

泊る宿を徹底的にリサーチして決めて
行きたい場所も決めて

そしてすべて自分の予定通りだったなあと
満足して帰ってくるような旅のしかたです。

まあ、それはそれで楽しいのでいいとも言えますが

ところで人間を変えるものとは
「驚き」だそうです。

今まで知らなかったようなことを知った驚きで
世界は一変しますよね。

そういえば旅に出てそういう驚きに出会っていない気がします。
netで景色も確認してから行きますからねー

昔はせいぜい旅行本くらいでしたから
足袋は驚きに満ちていたわけですが

旅をも目的、にしてしまうと
それは旅というよりイベントですね。

(繰り返しますがそれで楽しいならそれでいいのです)

そんな風に考えると
私のいろんなことが、「目的」に満ちていることに気づきました。

しかも「大学に受かるため」など
他の何かのための暫定的な目的でもないのに。

謎の目標設定をせずに旅するように生きるには
少々練習というか意識が必要なようです

と考えてぎょっとしました。

目的を持たないように生きよう

を目的としているような自分に気づいたからです。

オソロシイ呪縛。

生きることに目的などはない。
だから虚しいとも言えるわけですが

もともとそんなものは無いのです。

あると思い込んでいただけ。

もし生きることに確固たる目的がある、としたら
それは宗教的なことでしか表現できないでしょうね・・・

だって死ぬだけなんですから。

けれど
それを虚しく思うこともないのです。

人生は遊びと同じだそうです。

遊びに目的なんかないですよね。
それ自体が遊びなんですから。


漠然としてわかりにくいかもしれませんが

こういう時私は寅さんを思い出します。
父親が寅さん好きだった影響が大きいですが

寅さんの生き方こそが
目的を持たず、自分の好きなように旅をするように生きる
というような生き方のように思えます。

恋もそうですよね。寅さんは結婚という「目的」に向かって恋をしたりしません。
毎回マドンナが変わってもいいわけです。

もちろん実際は真似できないですがw

でも、ふと立ち止まって考えると
ああそうか、と思えたりします。


そういえば
昔は読書が大好きでした。小説を読むのが。
しかも純文学とかではなくw

ある時からそれは無駄な時間に思えて

英語の本だけを読んだり
哲学書だけを読んだり

いまだにそれは続いていて
漫画も好きだったのに読んでないですね・・・

「目的」には不要なものだと思えてしまったからですね・・・。

もちろん生活に支障が起きるほど
好き勝手に生きるのがベストとは思いませんが
(一生遊んで暮らせる資産があれば可能ですが)

目的をもってそれに向かって生きるということに

実は大きな意味はないということ
(宗教に帰依されている方には意味はあるかもしれません)

今まで目的で自分を縛り
目的が叶わなかったことで自分を責めてしまうような人には

少し考えてみてもいいのではないかと思う昨今です。

2018-05-06

明日の憂鬱

ロゴスの小径へようこそ。

GWが終わっちゃいますねえーー!寂しいですか?

やりたいことがいっぱいあったのに
結局たいしてできないままとか?

何をして過ごしてたんだろう・・・思い出すと走馬燈のようだとかw

新入社員や学生はこんなときに、もう会社に行くのが嫌になってしまうそうですね。
5月病というやつになってしまうんですね。


そういえば昔、当時勤めていた会社に行くのが嫌で嫌で
日曜はサザエさんどころか、夕方になるともうどこにも行きたくなくなって
憂鬱になっていました。

そんなとき読んだのが
・・・すいません、失念してしまったのですが
仏教系の本でした。


そこで読んだのは
本当に単純で本当に当たり前のことなのですが


今から、明日を憂鬱に思って、明日朝会社に行くまでの何時間化を過ごしても

明日会社のドアを開けるまで何も考えずに過ごしても

明日会社に行くという事実と時間はまったく同じ


ということ


つまり


今はまだ日曜なのだから

日曜を満喫した方がいいに決まっている、


というような話でした。


ホント当たり前ですが


でも当時の私には、目からウロコで

その後の私の日曜の過ごし方が激変しました。


日曜に限らず

旅行にいっても、帰りたくないなあ、と思って最後の数時間を過ごすより
そんなことは忘れて最後までめいっぱい楽しんだ方が
いいに決まっていますよね。


明日は病院でいやだなあ、と前日の何時間をつぶしたりしなくても
明日病院に行くのは同じなら

直前まで考えず他の時間を楽しんだ方がいい。


そしてそれは
死も同じです。


死ぬのが怖いと思い悩んで恐れて生きるよりも

最後まで目いっぱい好きに生きた方がいいです。


それは紀元前、ソクラテスも言っています。


死後のことはわからないのに、それを恐れるなんて愚かなことだと。

もし死後というものがないのなら
それは永遠に眠るようなもので見つけもの

もしあったとしても
過去の偉大な哲学者たちと語れるかもしれないので楽しみだ

と。

としたら
死は悪いものだとなぜ決めつけられるのか???


逆に、
一週間後に旅行に行くんだ〜とか
友達と会う!とか

楽しいことは前倒しで楽しむのはお得、ということになりますよね。

私は旅行が好きなのですが

どの宿に泊まろうか、とか調べたりしている時間が最高に好きなんです。

もちろん旅に行っている間はもっと楽しいし

帰ってきて画像を整理したりする時間もまだ旅行のうち、のような気がして楽しめます。



もちろん、前もって準備が必要なことがあるなら
例え嫌なことでも前もって考えた方がいい場合もありますが

ただ憂鬱な気分に浸るだけなら
その時間は無駄な時間です。


こんなことをふと思ったのは
休みの終わりに当たり

私の身の回りのわりと多くの人が
(そして以前は私も)


明日から仕事だ、いやだなーーと話すのを耳にするからです。


その時間、もったいない!と思ってしまうんですよね。


もちろん私もその本に出合わなければいまだに
日曜はサザエさん・・・というか、イッテQあたりかな?w で
ああ明日会社だ、と憂鬱になっていたと思いますが。

ちなみに私は毎朝カフェで朝食を食べるのですが

それは、明日から会社、と考えないどころか

会社のドアを開けるまで会社のことは考えないようにするためです。


夜、翌日のことをふと考えると頭に浮かぶのは会社のことではなく

明日の朝はどのカフェに行こうかな♪


ということです。

朝のギリギリまで、会社に向かって歩いている時間さえも

私は自分の時間として楽しむようにしています。
(なので、なるべく会社近くのカフェにするのがポイントですw)


日曜の夜例えば今21時ですが

21時から明日はいやだなあ、と考えて過ごせば

残り3時間、(もしくは出勤時間までの12時間)は

まだ「お休み」のはずなのに、

会社の時間 の方に食われてしまうことになってしまいます。


コップ半分の水は

「あと半分しかない」なのか
「まだ半分もある」なのか


それはその人の思考次第と言いますが

それにちょっと似ていますよね。


ちなみに最初のうちは、そう思ってもつい考えてしまうかもしれませんが

大丈夫です。慣れますw

私もいつの頃からか、明日のことを今日から悩むことは
しなくなりました。

(特別な事情がある場合はもちろん考えずにはいられませんが
長期休みが終わっちゃうなあ、程度であれば)


今日から、それをちょっと心がけてみませんか?

ふと明日の心配をしている自分に気づいたら
その都度、いや、今日はまだ日曜日!というように考え直すのです。


だってそれは「そう思い込みなさい」というのとは違いますよね。

むしろあと数時間は日曜だという方が、事実ですから
「幸せだと思い込もう」とか言うようなアレとはw全く違って、
簡単に思考の切り替えができるはずです。


さてあと数時間。
いえ会社に行くまでの時間。

休みを楽しみましょう。


いかがでしたでしょうか。

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2018-05-04

「目的」は必要ですか?

ロゴスの小径へようこそ。

生きるにあたって
「目的」が必要だ、とかひと昔前はよく言われていました。

確かに目的をもってそれに向かって生きるのは
ある意味「楽」な道ではあります。

目的があればそう考えないで済みますから。

大学に受かりたいなら勉強
痩せたいならダイエット

小さな範囲では誰もが小さな目的をもって生きていますよね。

買いたいものがあるから電車に乗って隣の駅へ

とかね。


しかし裏を返せばそれは
目的に縛られているとも言えますね。


もちろんそれで自分が幸せに感じるのであればそれでいいのでしょうけれど。

目的を持って
生きなさい

とか

目的を持って生きるのが正しい


とか

そんな定義はこの世界にはありませんね。
何かしらの宗教の教義内にならあるかもしれませんが。

目的を持っているからエライ、というわけでもありません。
もしそうだとしたら
他人を不幸にするという目的であっても、目的をもっているならエライ、と
言うことになってしまいますよね。

先日ノルウェーの哲学者(正確には倫理学者)の本を読んでいたら

「目的を持たないで、旅をするように生きる」

というような生き方が批判的にかかれていてぎょっとしてしまいました。


目的を持って生きるのが正しい、とする思想はキリスト教的です。
「最後の審判」とか「死後の世界」を措定するのであれば
神様の国に行けるように
目的を持って生きるのが正しいと言えるのでしょう。
(説明だいぶ端折っていますが)

しかし現代で哲学を語る場合はたいてい
そういう宗教観は隣において語られることが多いのです。
だからちょっと驚きました。


東洋思想では
「旅をするように生きる」ことは、
死後の世界がある、と考えたとしても批判的には考えられていません。

むしろ、この世は仮の世界、
お釈迦様が遊びに降りてきたのが人間界です。
私たちは人間界を観光客のように遊んで旅して

そうして本来の場所に帰っていくというような思想だそうです。

(詳しくはひろさちやさんの本がお勧めです)


そういう視点で見ると

最近の旅行は、netで見た自然など観光地を
確認するのを目的としたような旅行が主流となってしまっているそうですが


旅は旅すること自体が目的であって
何か他の目的がある(例えば伊勢参り、など)生き帰りの道のことではない
と考えることもできますよね。


人生もまた、なんらかの目的のために「精進」して「努力」するものではなく、
(というか、そうであると言いきる根拠はない)

ふらっと歩く旅のようなものだということもできるのです。

どういう旅をするのが自分にとって心地よいかは
その人によって違います。


友達とワイワイの旅が好きな人
二人旅が好きな人
一人旅が好きな人

美味しいものが食べたい人
温泉に入りたい人

土地の歴史を知りたい人
珍しいものを見たい人
ただゆっくりしたい人


人生もまた
どう生きたいのかは人それぞれなのです。

・・・と、まとめるとキレイなのですがw


どう生きたいか、は自分の意思で決められるようでいて

実は時代や教育などに大きく影響を受けています。
考えてみれば当たり前なのですが。

人間には自由な意思がある、と昔はよく言われていましたが

幼少時の親の教育などが人間に大きく影響しているのは
現代ではよく知られていることです。

自由に意思決定しているようでいて

時代に影響受けていたりするんですよねえ・・・


忙しく働く方がエライ、とか
勤勉なことはいいこと、とか


そういう価値観は環境によっていつの間にか植え付けられていて
自分で自由に決めているつもりでも

決めさせられている

と言えることになってしまいます。


まあ、そういうのもすべて含めて自分、としか言いようがないのですが。


人生に「目的」と言われるようなものは、無い。
無いからこそ自分で決めるもの(もちろん決めなくても良い)


私は今まで常に、目的というものを意識して生きてきました。
無意味なことに意味を感じないというか。
ぼーっとしている時間を無駄だと思えてしまいますし。

でもそれは、私が育った時代が私に植え付けた意識です。

よおく考えると幼少時私はけっこうぼーっとしている子でした。
一人でいるのが好きで
一人でボーっとしていました。

と、幼稚園の連絡帳に書かれていたと親が話していましたw

私はもともとそんなような性格だったのかもしれません。


最近は意識して
旅に目的を持たずに

その旅を味わうようにすることにしています。

それは人生も同じ。

もちろんこれも「正解」ではないのですが


目的を持って生きるのがエライわけでも真理なわけでもないということ。

もちろん社会の中で生きているので
一定の範囲・・・例えば人を殺してはいけない、などはありますが

こう生きるのが正しい、というような
基準はないということ。


何かに追われるように生きることが正しいと考えがちな方は
この連休にそんな風に考えてみるのもいいのではないでしょうか。



いかがでしたでしょうか。

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2018-05-03 人生を「引き寄せる」人 このエントリーを含むブックマーク

ロゴスの小径へようこそ。

私の友人の中に、とてもポジティブな人がいます。
本人は自分のことをそう思ってはいないかもしれませんがw

その人は、Aということがずっとしたかった。
それは何年もそう思い続けていたのです。

そして見事その夢が叶いました。
まさに「引き寄せ」ってやつです!
・・・だったのですが

せっかく得たAという状況だったのに
急にBという状況にならざるを得なくなりました。

AとかBではわかりにくい方は、例えば・・・

ずっとA君が好きだった。振り向いてもらえた
引き寄せだ!と思ったとたん
A君に他に好きな人ができてしまった

とか

会社の出張でずっと行きたかった北海道に行くことになった!
引き寄せだ!と思ったのに
たった数か月で今度は沖縄に行くことになってしまった

とか

そんな時どう考えますか?

自分は運が悪いとか
思ってしまいませんか?

引き寄せなんか嘘じゃんーーー!!とか。


私の知人はこう考えました。

「A君に他に好きな人ができてしまったけれど、
これは私にも他にいい出会いがあるという引き寄せなんだ」
「北海道にはいられなくなってしまうけれど、沖縄にもっといいことがあるという引き寄せなんだ」
と。

ポジティブですよね。羨ましいです。本当に。

しかしまだ続きがあったのです。

実はA君は他の人と付き合いだしたものの、
そのことでむしろ
やはり知人の方がいい!と気づいて
知人にプロポーズしてきたのです。

沖縄の例だと
沖縄に行くことになったものの、
また北海道に行くことに決まった

とか。

結果はOKです。望んだとおりです。

あれ、でもちょっと違和感・・・


A君と別れてむしろよかったんだ
とか
沖縄に行くことになってむしろよかったんだ
とか

さんざん聞かされたこちらとしては

あれはなんだったんだ・・・????みたいなwww


でも、これでいいんです。

知人はどんな状況の変化でも
「いいことだ」というように捉えていたと言うことです。

論理的に考えれば、

A君と別れた方がむしろよかったと言ってたんだから別れるべきなんじゃないの?

とか

沖縄の方がむしろいいと言ってたんだから、北海道にいくことは悲しむべき出来事じゃないの?

とかいうことになりますが


・・・
そんなの関係ねえ!!ですw(古い!w)


他人が矛盾をどう思おうかなんて関係ないです。

そのことでたいした迷惑をかけたわけでもないし、
犯罪ではないですからw


重要なことはその人が、どんな状況でも自分のハッピーを軸に考えていたことです。


その人を見ていると、引き寄せの法則、が彼女には適応されているなあと
思います。

だってどんな状況になっても、その人には「引き寄せ」になるんですから。


チョコのアイスが食べたい!と念じたらチョコが来た! ←引き寄せ

と思ったらチョコは隣の人に渡されて私にはバニラが来てしまった。
でもきっとそれはきっと、バニラの方がむしろいいという意味があったんだ!! ←引き寄せ

と思ったら隣の人がバニラがいいから交換して、と言ってくれて
チョコが来た!ほらね!引き寄せ! ←引き寄せ

というように

どんな状況でもその人は引き寄せが成功していることになります。

これを広げていくと、その人の人生の全ては引き寄せ成功となります。


客観的に見れば、それで成功とするなんてずるいですよねw
単なる自分の捉え方だけじゃん、と。


でも

人生とは自分の捉え方だけなんです、最初から。

だったらずっと成功、と思い続けていた方がハッピーに決まっていますよね。


とはいえ
この仕組みに気づいてしまっている人は

自分をどこまで騙せるか微妙ですw

知人はその仕組みには気づかず、ただ素直にそう思っているだけなので
そのままハッピーなわけです。


念のため言っておきますが、
「知人の話とかいって自分の話をしているんでしょ」というアレではありませんw

私はむしろ、自分の中だけでも矛盾をついてしまいます。


え、さっきチョコがいいって言ってたのにバニラでむしろよかった、なんて
負け惜しみじゃないの?

とか

バニラでいいと納得してたのにやはりチョコをもらえてうれしかったということは
さっきバニラで納得しようとしていた自分ってなんだったんだ??
見苦しくない???

とか

考えてしまうわけですw

自分の人生を生きたいように引き寄せる人は
そうなるような思考法が出来ているということですね。

これ、皮肉なようですが、実は正しいと思っています。

やっぱりチョコがよかったのに
一度バニラと決めなおしたんだからバニラを食べるべき、とがんばって貫いても

他人にとっては私がチョコを食べようがバニラを食べようがどうでもいいことです。


さて今日は有意義に過ごされましたか?

ダラダラ過ごしてしまって後悔している方、大丈夫です!

それはむしろいい結果を引き寄せることに繋がっています。たぶんw


そしてそうとわかっていても
どうしてもそう考えることができず
理論的におかしくない?と突っ込んでしまう私のような方と
話をすること

それが私の人生のお楽しみとなっておりますw


いかがでしたでしょうか。

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クリックすると引き寄せ確率が上がります、・・・たぶんw


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はみはみ 2018/05/04 01:03 瑠璃ちゃん!笑

いやー、類友というか、私と瑠璃ちゃんこそ引き寄せ?って思うくらいに私も自分を誤魔化せない派ですわ。
無理矢理ポジティブ、確かにそういう人いるいる!笑
どこから見てもそれは違うだろ、と見える状況なのに、不自然に自己満足してる人。自分に嘘をついている事すら気がついていない人。そんな引き寄せに拘っている人達を見て、つい感じてしまうのは、
自分を改善して成長する努力を脇に置いて(言い換えれば、現実を認めようとしないで) いい事ばかりの人生と思い込んで生きるのって、それって本当に生きているって言えるの?ということ。
いい事ばかり引き寄せる事を考えていたら、本当の成長なんて実現しないんじゃないかと思ってしまう。
ご都合主義の価値観が最後に何を生み出すかも見据えないとね。
人生なんて、いい事もあれば、悪い事もある。
むしろ喜びの天と悲しみの地を隅々まで生き抜いて、人生の悲喜交々をまるごと受け止めて、初めて本当の自分が分かるようになるし、本当の成長があるんだと思うけれど。
まぁ確かに周りに害を及ぼさない訳だし本人がそれで良しなら、それも1つの生き方なんだろうけど、どうも無理ある引き寄せやポジティブシンキングには、違和感を感じて仕方ないですわ。
そういう人とは一緒にいても、本音で語り合えない。裸の王座といるみたいで。笑
いつも勝手なこと書き並べてごめんなしゃ〜い❣

はみはみ 2018/05/04 01:48 あれ、なんかウタウダ書き並べた割には実は1番言いたかった事、書いてなかったかも。
要は何が言いたかったかというと、人間成長しなければ盲人(自分を知らない)のまんま→盲人には自分にとって、何がホントの幸せか分からない→自分にとっての幸せが分からない人は、いつか誰かを巻き込んで不幸にする。コレってニュートンの法則より確実性がある気がするんだけどな〜笑
という事でした。単なる私の呟きと思って下さい。(それにしちゃ長いけど。)

ruribyakururibyaku 2018/05/04 17:02 >はみさん
コメントありがとうございます!
そしてお読みくださってありがとうございます。

最近の私は、なんというか、やはり人生は楽しく生きた人の勝ちだなあと
つくづくそう感じています。

私は「成長」することにそんなに意味はない、
その結果が幸せに直結するわけではないとも考えています。
そもそも「成長」って何にむかっているのかも私には正直不明ですw
というか、向かうものなんてない、というのが私の信じている世界観です。

ただし「成長」しているんじゃないかと思えるその過程を自分は楽しい、幸せに感じる
だから成長を望んでしまう

というのは確かにあるなと思います。
おそらく私はそれなのかもしれません。
昨日よりは今日は少しはマシな自分でいたい、という・・・
(しかしこれも昭和時代の教育を受けたおかげでそう思い込んでいるだけですけれどw)

ちなみに今回の記事の知人も
そういう方です。昭和世代ですねww
常に何かを学び、習得しておられます。頭が下がります。

はみさんの言われている、
「ホントの幸せ」という定義も非常に難しいですね。
自分にとっての幸せ、というのもとても難しいですが

最近の私は、健康でどこも痛くない、体調悪くない、というのが
自分にとってのホントの幸せ、と真剣に思っています。
年をとるにつれその幸せは「成長」していきそうにないので
機械の体が欲しくなりますがw

はみさんの考え方は私とは根底の部分がおそらくものすごく違いますね。
そしてそこがとても面白く、私には魅力的です。
ご自分でもブログとか書かれたらいいのに!と思います!

2018-05-02 「常識」は大事ですか このエントリーを含むブックマーク

ロゴスの小径へようこそ。

突然ですが

遠方に住む親戚が重い病気にかかり
そう何度も行けないというようなとき

死を待つように準備して
お葬式に参加するべきですか?

私なら
お葬式には参加できなくなっても
生前に一目でも会いたい。
そう思います。

それが血縁であればなおのこと

そして自分がその立場でもやはり
お葬式を待ってお線香をあげにきてくれる・・・といっても
それを自分が知ることができるかどうかは誰にもわかりませんが

それよりも

言葉を交わせる間に会いたいとそう思います。

ですから私は、それを選びました。
会って話をする方を。

そのかわりお葬式には行けないかもしれません。

先日知人にその話をすると

「お葬式に行かないなんて常識知らずだ」というように
ちょっと冷たい対応を受けてしまいました。

まあ、価値観は人それぞれなのでそのこと自体はいいのですが

自分がどんなに常識ある親に厳しく育てられ
常識ある人間なのかを彼女は語ってくれました。

常識

ってなんなのでしょう?

その人は年賀状を出すのが常識

と言います。

けれど近年、年賀状を出すことはもはや常識とは言い難くなってきていますよね。
メールやSNSで新年のあいさつは済んでしまいますし

そもそも常識というのであれば

女性は子どもを産むのが常識

けれど私は子どもがいません。
そしてその人はご結婚もされていません。


おわかりの通り、私は別に未婚者や子供がいないことを非常識だとは
まったく思っていません(特に近年は)が

常識

という言葉で人を断罪するのであれば

それは自分に返ってくると思うんですよねえ・・・

その方は
科学を信じていて
非科学的なことがキライだそうです。

しかしお盆にはお墓参りに行くそうです。
それは科学的?と思いきや

常識

だからだそうです。

うーーん。難しい・・・

例えばキリスト教徒にとってはお盆にお墓参りに行くのは
常識ではないですよね。

となると、「常識」の定義はずいぶん狭いものと言えることになりますね。

このことについて私はその方と議論はしませんでした。
というか、できませんでした。

そこを訴求するのが気の毒というか・・・。

「科学で証明できるもの以外は信じない」とも言われたのですが

科学

というものがそもそも、人間が信じる方向に発達してきたものとしか
言えません。

よく、

「人間が想像できるものは実現することができる」

という言葉が、科学の素晴らしさとリンクさせて話されることがありますし
私もその言葉に以前は感動していたのですが

実は

「人間が想像できないものは実現することができない」

という言葉が正しいのです。

例えばものすごく簡単なことで、実際は今の科学でも実現可能だとしましょう。

けれど、それを誰一人想像できないなら
実現できるわけがないのです。

誰かが一人想像できて、いつか実現できた時それは

「人間が想像できたもの」ということになりますよね。


結婚式には偶数を包むとか
訃報の時は新札はダメだとか

それは常識と言われますが

でも、考えてみたら結婚式という儀式自体
一般庶民がやるようになったのはせいぜい明治時代だそうで
(それまでは お嫁入)

だとすると、その「常識」も案外新しい「常識」ですよね。

でも、常識とは便利なものでもあります。

それに従っていれば他人との波風を立てずに
無難にいられますし。

お金いくら包む?なんてわからないときに
目安があるのは便利ですもんね。

そんなことでいちいち常識に逆らって
時間をとられることはありません。

けれど

最後に会えるのか
会えないのか

そういう決断をするときには

自分の心の声に従いたい。そう思います。

ちなみにその方はやはり遠方の血縁が亡くなったときに
「お葬式」
の方を選んだそうです。常識として。


私にはそれがどうしても理解できませんが

きっと、お葬式に出るという常識を守らず
それよりも話がしたいと思った私の行動は
お葬式派には理解できないんでしょうねえ・・・。


むしろ私にはお葬式よりも
会って話したいと思う方が常識に思えるのですが

きっと恐らくは
親の教育なんだろうと思います。
うちの親なら間違いなく、会って話す、を勧めると想像できますから。

大事なことは一つだけ。

自分にとって、大事なことを選ぶこと。
それが常識だからかどうか、ではなく。
そう思います。

それが一生に一度というようなことであるならなおさらのこと。


いかがでしたでしょうか。

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