ミュンスター再洗礼派研究日誌

宗教改革の少数派である再洗礼派について紹介していきます。特に16世紀のミュンスターや低地地方の再洗礼派、17~18世紀のノイヴィートの宗教的寛容を研究中。

上祐史浩氏の考えの変化

オウム事件で一世を風靡した上祐史浩氏が、オウム真理教の後継教団アーレフを離れるという報道は、皆様御存知のことと思いますが、その上祐氏がオフィシャルサイトを作っています。そこで、雑誌のインタビューが再録されており、彼のオウム事件後の心境について知ることが出来ます。

宮台 元代表への帰依から離れていくのはオウム真理教の性格を考えればとてつもないことです。
何を契機にして帰依から離れていけるのでしょう。先ほど申し上げた正統性問題も絡みます。ヒントがあれば教えてください。


上祐 新団体を視野に入れたときに、「新しい宗教」ということをテーマにして、特定の人を帰依の対象とするのではなく、教義を帰依の対象にしていこう、と。
きっかけは「97年くらいにハルマゲドンがある」という予言があって、予言に宗教生命を賭けてもいいと言い切った元代表が、まさに97年くらいから不規則発言を始め、信者を含めた現実の世界とコミュニケートしなくなった。現在、反代表派的な信仰を続けている人は、その予言はグル(指導者)の方便だった、と自分で解釈して通りすぎようとします。
しかし、私は入会してしばらく、この教団は予言に基づいて世界を救済するという認識がありました。97年の予言が成就せず、すぐ変わったわけではないんですけど、考えるうちに、やはり元代表を予言上の救世主として絶対化していくのはおかしいと思いました。それが刑務所から戻ってきて00年頃、つまり団体規制法が導入された直後でしたね。


神保 でも、4年近く拘置所や刑務所で過ごしていた期間は、まだ元代表に対する帰依は残っていたわけですよね。


上祐 そうです。終末思想に基づく予言の救世主ということを完全には信じていませんけど、むしろ信じる信じないではなくて、それを自分たちの軍事的活動で計画的に成就させるんだ、という考え方でしたから。
95 年に現実的な逮捕、教団は破綻しましたが、「ハルマゲドンが起こるのでは」という信仰は、非常に根強かった。私は95〜96年以降、まだ97年、99年にハルマゲドンの予言があるんではないかと、期待するようなところがありました。現実逃避かもしれませんが、予言に期待するというところもあったと思います。それを加速させたのが、元代表拘置所から弁護士を通じて出した「予言を信じるべきである」というメッセージです。自分の「信じたい」気持ちと、「帰依しなきゃいけない」気持ちが相まって、「まだ信じるべきだ」という意識が97年、99年に続いていきました。


「麻原の神格化は大きな過ちだった・ 上」 『月刊サイゾー』(2007年1月号)

予言が外れた後の信者の心理状態は、『予言がはずれるとき―この世の破滅を予知した現代のある集団を解明する』を参照のこと。(紹介記事

上祐 86年に私が出家する直前には、元代表自身が「私はカリスマにはならない。自分は君たちの先輩として修行が先に終わったものであって、組織もあまり好きじゃない」と言っていたが、変わっていった。
そこで宮台さんが仰ったことが起こったのでしょう。「自分がカリスマになり組織を回したほうが、人はもっと修行するのでは」という気持ちがあったと思います。
ただ、一方で負の部分もあった。人を神としたら、信じるものが正しく、信じないものは神に背いているという形になる。現在そんな宗教の悪い部分が世界を滅ぼすかも、というところまできて、これを放置することはできない。
そこで自分は、バランスが必要だと思うんです。絶対神を信仰することで救われることはあっても、自分たちが絶対神の化身などとなり、神と同等と考えるような信仰になるのは危険です。
そして、何かひとつの考え方が絶対的に正しいとするのはおかしい。絶対神信仰しかないんだ、あるいは絶対神信仰は駄目だから初期ギリシャや釈迦のようにすべきだ、とするのもおかしい。
その中間の第三の道をいかないといけない。宮台さんが仰るように宗教は釈迦の最初の道では救えないから、こっちの道に来たが、結果、今や宗教テロリズム対テロ戦争で、世の中が崩壊するかもしれない所まで来た。
だから、バランスを考えた第三の道を行く新しい宗教ないし思想、新しい団体なんです。今までの宗教でいいなら、既存宗教に行って雑巾がけでもしようと思いますよ。


宮台 とすると、上祐さんがプライオリティの上位に置くのが、アーレフ信者の善導なのか、アーレフ信者に限らず今仰った内容を広めることなのか。それが問題になります。
もし後者なら、オウム教団がさまざまな反社会的な振舞いをしたせいで、上祐さんがお作りになる新教団が中庸な「第三の道」を目指しても、世間が許しません。「羊の皮をかぶった狼」あるいは「反省なき存在」だと受け止められるからです。
まさに因果応報ですが、ご自分の立場をどう受け止められますか?


上祐 因果応報ですから、一生受け止め続けていくと思います。ですから、信者の数は目標ではない。
今後自分たちがどんな考え方で、どんな変化をしていくかを伝えていくことはしても、人を神と悪魔の軍勢に分け、神の軍勢を増やして支配することが目的ではない。
変わらないと思われている絶対悪が変わっていくのを自分で実践して、見ていただくのも、奉仕なのかと思います。それが贖罪だし、奉仕だし、救済だと思うんです。


「麻原の神格化は大きな過ちだった・中」 『月刊サイゾー』(2007年1月号)

このあたりは、かなり凄みのある意見だと思います。

神保 ただ、多くの宗教が似たようなことは言ってるわけですよね。聖・邪とか、終末思想だとか。にもかかわらず、オウムだけが地下鉄サリン事件のような前代未聞の事件を起こし、世界中を驚愕させました。なぜオウムがそこまで先鋭化したのだと思いますか?


上祐 内部の要因が第一にありますが、社会との摩擦の中で、より先鋭化していったんだと思います。今でもそうで、たとえばA派と呼ばれている人は、公安調査庁が、「教団は全然変わっていない」とか、「代表派も反代表派も変わらない」と批判するのを聞いて、「実際は変わっている部分もあるのに、やはり社会は認めない。それは、やっぱり(社会は悪とした)元代表の言う通り」という感じになる。
つまり「社会は悪だ」という見方を元代表が立てて、教団がラディカルなことをすると、社会はそれに対して激しい反応をする。それを見て、「やっぱり悪だ」と相互に増幅していく。
最初はある意味、不安だけなんです。でも不安を持った行動が相手の反発を招く。その反発が不安を正当化し、双方が不安の自己増殖していくプロセスがあった。
20世紀、21世紀には、あらゆる分野でそれがあるんじゃなでしょうか。


「麻原の神格化は大きな過ちだった・下」 『月刊サイゾー』(2007年1月号)

私は網羅的に調べた訳ではないので、一般化できるかどうか分かりませんが、ある集団の急進化、あるいは反社会化を極限まで押し進めるための極めて重要な要因として、外部からの圧迫、内部から見れば迫害が挙げられるだろうと思います。