sayakotの日記

コスタリカ、フィリピン、ベトナム、メキシコ、エチオピアで、勉強したり旅したり働いたりしていた当時20-30代女子のブログ。

デレジェの再就職(への道のり)②

sayakot2013-02-14

振り出しに戻った。
流したメーリングリストへの反応もパッタリ。


一度、アジスアベバ在住の知人から問い合わせがあったのだが、住んでいるエリアがデレジェの家から遠く、「交通費だけで給料がなくなってしまう」とのことで絶ち消えになった。


そんなある日、日本の、面識のない女性の方から、ブログに記載していたアドレスにメールが届いた。なんでも、その方がよく見ておられるブログ(その方も私は存じ上げないのだが)にデレジェの件が紹介されていたという。「とても心を動かされて、何とかご縁をつなげないかと思い、直接面識はないのですがグローバルに活躍されている藤沢久美さんという方にFacebookでご連絡してみたんです。(中略)。そうしたら、お力になってくださるというので、是非ご紹介したいのですが、いかがでしょうか。」
(***実名を出すご了承、ご本人からいただいています)


初対面の方からの突然なメールと、文面にある「グローバルに活躍されている藤沢久美さん」の名前。そしてFacebook。状況を理解するのに、数秒かかった。頭を整理しながら、まず「藤沢久美さん」のことをインターネットで調べて見ると、この方は女性実業家として多数の著書がある他、社会起業家支援でも広く活躍されていることがわかった。また、私が個人的にお手伝いしているTable For Twoという日本のNPO団体にも深く関わっていらっしゃることも判明した。


私はメールを下さった方にすぐコンタクトをとり、若干戸惑いながら、藤沢さんに連絡をした。私の心配とは裏腹に、返事はすぐに届き、そして、藤沢さんが最近国際会議で出会って意気投合されたという、エチオピアのある病院の理事という方の連絡先をいただいた。同病院は通称コリアン・ホスピタルといい、その名の通り、韓国のミッション系の団体が運営している。アメリカでトレーニングを受けた韓国系医師が常駐し、エチオピアでは最も充実した設備を誇るとされている。日本人の利用者も多い。思いがけず知り合うことになった藤沢さんから、更に思いがけずエチオピアで馴染みのある施設につながったことに、私は世間の狭さと、不思議な縁を感じずにはいられなかった。たしかにコリアン・ホスピタルのような大病院であれば、従業員を一人増やすことくらい可能かもしれない。場所も、デレジェの住んでいる家と同エリアなので、交通費や学校への通学も心配する必要がない。


早速、コリアン・ホスピタルのその理事の方にメールすると、ご本人は韓国にいることが判明した。だがその代わりに、コリアン・ホスピタルに常駐している医局部長Dr. Kimを紹介してもらった。「状況は説明しているから、きっと彼が力になってくれるはずだよ」と頼もしい理事の言葉を支えに、Dr. Kimに電話すると、「人事部長に会わせてあげるから、いつでもおいで」と、とんとん拍子。既に時は12月半ばになっていて、私は焦っていた。通常の仕事に加え、家を引き払うための引越し作業もあり、2年間半の間に蓄積された物品の処分と整理に途方にくれていた。だが、止まっている時間はない。


オフィスのお昼休み時間、私は非番のデレジェに連絡をとり、今からコリアン・ホスピタルの面接に行くので、現地集合しようと伝えた。病院のゲートでデレジェは約束通り待っていた。私たちはDr. Kimの部屋に通された。50代半ばくらいだろうか。Dr. Kimは韓国語訛りの英語で自己紹介した。いかにも人の良さそうな紳士だった。きっと超多忙に違いないのに、私たちをソファに座らせて、こちらの必死の訴えをふんふんと聞いてくれ、その場でエチオピア人人事部長を紹介してくれた。


「Grade 1(小学1年生)という学歴で雇えるのは、敷地内の掃除夫のポジンションだ。それでもいいなら調整してあげよう。仕事は月〜土曜の週6日、朝8時から夕方17時までだ。始めるのはいつからでもいい」人事部長氏は、あっさりと仕事をくれた。
でも肝心の給与は、、、? 私が恐るおそる尋ねると、返ってきたのは「750Birr(約3750円)」という、現状の給与のほぼ半分の額だった。面食らう私の様子を察してか、人事部長氏は「その代わり、うちで毎年健康診断を受けられるし、病気や治療にかかる医療費は70%カバーされるんだ。それに年金制度もある。」と、付け加えた。


確かにそう言われてみると、これまで非正規の雇用しか経験していないデレジェが、エチオピアで最高峰とされる病院の職員となる意味は大きいかもしれない、と私は思った。健康診断なんて、きっと人生で一度も受けたことがないに違いないし、少なくとも日中の仕事なので夜間学校の通学に支障はない。先日のK氏宅の条件とは違い、日曜日はまるまる休みだ。
人事部長氏は、私に話した内容をデレジェのためにアムハラ語に訳して伝え、「なかなか悪くないだろう」と聞いた。デレジェは小さな声で「はい。ありがとうございます。」と答え、2人は翌月頭から仕事を開始することで合意した。


なんとか決まった。給与はかなり下がったが、それでも何の当てもないよりは良かったのではないか。とりあえずやってみて、他によい仕事が見つかればそちらに移ることもできるだろう。そう思いながら病院を出たが、なんとなく元気のないデレジェの様子が気になって、私は事務所のドライバーに通訳してもらい、デレジェに本当にハッピーなのか、と聞いてみた。するとデレジェは悲しそうに首を振り、「750birrでは生きていけません。」とうつむいた。「今の家賃は400Birr(2000円)です。それを支払ったら、残るのは350Birr (1750円)だけです。それでは生きていけません。あなたには本当に感謝しているんです。でもどうしたらいいか、本当に分かりません。」デレジェの目は、みるみるうちに涙でいっぱいになった。


健康診断も年金も、デレジェにとっては、遠い未来のための贅沢品にすぎなかった。まずは生きのびなければいけない、目の前の日々があるからだ。それにも関わらず、デレジェは私に対する申し訳なさだけで、あの場で人事部長氏と握手したのだ。本当は不安でいっぱいだったのに。またしても私は自分の独りよがりに気づかされ、同時にこれからどうしたらよいのか途方にくれた。
だが一つだけはっきりしていたことは、デレジェはここで働く訳にはいかない、ということ。勝手に進めて悪かったとデレジェに謝り、私はDr. Kimのオフィスに戻って、先ほどの仕事はやっぱり受け入れられないと伝えた。「無資格の職種にはあの給与が限界なんだよ。申しわけないね」とDr.Kimはすまなそうに言った。そして、「今日言った以上の待遇はオファー出来ないけれど、もし他にどうしても仕事見つからなくて彼が本当に困ることがあったら、いつでもここに戻ってくるように(彼に)伝えておきなさい」とも言ってくれた。私は再度御礼を言って、病院を出た。


その後、大使館の警備員として雇用してもらえないかと日本大使館の知り合いにお願いしてみたり、インド人の会社が昼間の警備員の募集をしているのを聞いて連絡をとってみたりしたのだが、結局まとまらなかった。期限が刻々と迫る中、やはり当初のK氏宅にお願いするのが一番よかったのではないか、私はそんな後悔を感じ始めていた。このまま仕事が見つからなかったら、デレジェは学校を続けられないどころか、路上生活に戻ることになるだろうかと、悪い想像ばかり働いた。


期限5日前。気分が重いまま、引っ越し準備が佳境に入っていた時、人づてに、知人の日本人夫妻がデレジェの雇用を真剣に検討してくれているという話を聞いた。同夫妻のお宅は警備会社と契約しているのを知っていたから、それまでまったく候補となっていなかったのだが、私は即タクシーを捕まえてデレジェと夫妻のお宅を訪れた。


その後、夫妻の配慮の下、非常に恵まれた条件で、晴れて個人契約してもらえることとなったのは、前回のブログの冒頭でご報告した通り。


家を出る最終日、デレジェは朝から(また)目を真っ赤にしていた。私の母と、私宛てにと、新聞紙にくるんだ綺麗な白いショールを2つ贈り物にもってきて、手渡しながら深々と頭を下げた。その心の優しさと誠実さゆえに、本当に沢山の人たちが、遠く日本から、胸を痛め、やきもきし、なんとかしようとしてくれたのだということを、私は最後までデレジェに伝えることはなかった。言葉の問題もそうだし、たぶん、説明してもきっとピンとこないだろうと思ったのだ。ブログだとかfacebookだとか、彼の日常にはあまりに無縁だ。でも、いつか機会があったら、やはり伝えてみたいとも思う。少なくとも私にとっては、今回の一連の出来事は、物理的距離も、国境も、その他あらゆる隔たりを越えた、人と人とのたしかな「つながり」を実感した特別な出来事であったからで、その温もりは、きっとデレジェにも伝わるような気がする。


先日、デレジェの様子を夫妻に尋ねたら、「庭や外壁の掃除も熱心にしてくれて、人になかなか懐つかない我が家の飼い犬まで、デレジェには記録的なスピードで馴れたんですよ」とおっしゃってくれた。新しい環境でも、デレジェはデレジェらしく頑張っているということにほっと胸を撫で下ろした。

デレジェの再就職(への道のり)①

sayakot2013-02-10

多くの方にご心配いただいた、門番氏デレジェの再就職先が、決まりました。現在既に、私の友人夫妻(日本人)のお宅で、門番として元気に働いています。沢山の方たちにご心配頂いたにも関わらず、ご報告が遅くなってしまい、本当に申し訳ございません。。。


友人夫妻宅での今の仕事が決まったのは、前回のブログのエントリーでアナウンスをしてから1ヶ月半後、私が家を引き払う、わずか5日前のことだった。デレジェを雇ってもいいと申し出てくれたこの夫妻宅には、実は既に警備会社から派遣されているガードマンがいたのだが、安全対策とシフト体制の都合上、1名増やそうかとちょうど考えていたとのことで、個人契約で追加で雇ってもらえることになったのだった。心配していた夜間学校も、夫妻の配慮でシフトを夕方までとしてもらい、無理なく通えており、また1日毎のシフトなので、仕事がない日には、パートタイムで庭師をしたり、他の家での門番の仕事を引き受けたりと、収入面でもこれまで以上に充実しているそうで、「本当に幸せそうよ」とメイドのメクデス嬢から聞いている。


それにしても今回の一件では、驚くほど多くの方にご心配いただいた。
エチオピアでは、これまで面識のなかった日本人の方たち複数に、「ブログ見ました。あのガードさんどうなりましたか?」と、声をかけられ、また遠く日本からも、少なからぬ方たちから、「彼の学費を援助したい」という申し出をいただいたり、また「知人(のそのまた知人)がアフリカで仕事をしているので、何かの助けになるかもしれません」と連絡先を送ってもらったりした。


これまでアフリカとはほとんど縁のなかったであろう日本の方が、ふとしたきっかけで、エチオピアアジスアベバに生きる1人の門番の苦境を、「他人事とは思えない」と感じてくれたこと、何かできることはないだろうかと胸を痛めてくれたこと、実際に行動しようとしてくれたことーーその一つひとつが、私には、たまらなくありがたく、また、目には見えない無数の「関係性」で相互につながりあっている “inter-connected”な現在の世界を、象徴的に表している出来事のように感じられた。


以下、職探しが成功するまでの1ヶ月半の道のりを複数回に分けてご紹介します。


◇◇◇◇ 
学歴もコネもないデレジェが、企業やNGOに雇用してもらえる可能性はほとんどないことが判明したので、手始めに行ったのは、アジスアベバ在住の外国人が多く登録しているメーリングリスト(ML)に情報を流すことだった。このMLでは日々、ガレッジセールの案内や、ルームメイトの募集、子犬の里親募集といった、さまざまな情報交換が行われている。


「信頼のできるガードマンを知っているので、興味のある人は是非連絡してほしい」、そうMLに流してからわずか1日、北欧系の名前の女性からメールが届いた。夫婦で最近アジスアベバに引っ越してきたばかりで、新居のガードマンをちょうど探していたとのこと。週末だったこともあり、私は即座に彼女に電話をし、同日、彼女の家にデレジェを連れて面接に行くことになった。


 緊張しながら黒い大きなゲートを叩くと、迎えてくれたのは、ハンサムなイラン人男性K氏と、ブロンドで控えめな印象のノルウェー人のカップルだった。2人とも30台半ばくらいだろうか、知的でフレンドリーで、いかにもUN系の国際機関で働いていそうなタイプの人たち。これは期待出来るかもしれない、と私は直感的に思った。簡単な雑談を済ませると、私たちは小ぎれいに手入れされた庭のテーブルに通され、K氏と向かいあって座った。(奥さんは挨拶を済ませると、家の中に入っていったきり戻ってこなかった)。K氏は、最近飼い始めたばかりという小さな子犬2匹を腕に抱き寄せながら、デレジェの雇用条件を説明してくれた。


なんでも、K氏宅には既に1名の門番(「夜ガード氏」とする)がいるが、その夜ガード氏を機械工の専門学校に通わせることになったので、デレジェにはその間の昼シフト(朝8am-5pm)を担当してもらいたいとのこと。給与は、私がこれまで支払っていた額(1400Birr)を引き継ぎつつ、働きぶり次第で昇給も検討してくれると言ってくれた。
我が家ではこれまで、デレジェには24時間交代シフトで働いてもらっていた。例えば月曜朝に出勤した場合、夜はそのまま家に併設されたガード部屋に泊まり、火曜朝にもう1人のガードと交代、次は水曜朝に出勤、という体制だった。K氏の提案は、その体制とは若干異なるが、いずれにせよ昼シフトのみであれば、毎日夕方17時には解放されるので、夜間学校には支障がない。私はほっと胸をなでおろし、なんとあっさりといい話が見つかるものだと、既に話がまとまった気になっていた。


しかしふとデレジェを見ると、夜ガード氏のたどたどしい通訳を、どこか不安げに聞いている。いきなり見ず知らずの外国人の家に面接に連れてこられ、きっと突然の展開に緊張しているのだ、私はそう解釈した。だが、一通り通訳を聞き終えたデレジェに、「(K氏の条件で)いいよね?」と尋ねると、返ってきた言葉は「ノー」。思いがけない返事に、私とK氏は顔を見合わせた。デレジェの顔は緊張で凍りついている。
私は慌て、また混乱した。K氏夫妻が良識的な人たちであることは、英語の分からないデレジェにも雰囲気で十分伝わっているはずだ。雇用条件だって、基本的に今までとそう変わらない。きっと、突然に面接に引っぱりだされ、新しい環境に混乱しているのだろう、私はそう理解した。私は夜ガード氏に通訳してもらいながら、K氏の条件を再度ゆっくりと説明した。しかしデレジェは、しょんぼりと申し訳なさそうな表情を浮かべながら、それでも頑なまま。何がそんなに問題なのかと理由を聞き出そうとしても、自分は今までと同じ24時間シフトがよいのだと泣きそうに言う以外、口を閉ざす。K氏も、きっと夜ガード氏の通訳が不十分だったのだろうと、何度も言い方を変えて、通訳をやり直しさせるが、一向にラチがあかない。


結局K氏には、3日以内にまた連絡するということで同意してもらった。K氏は“No problem。彼もきっと突然のことでまだ状況を整理出来ていないのだろうから。”と、何でもないというふうに言ってくれた。私はますますK氏の人柄の良さを確信し、なんとしてもデレジェを説得しなければと思った。デレジェの信頼するメイドのメクデス嬢に協力してもらえれば、きっとデレジェも納得するはずだと確信していた。


月曜日、私はオフィスからメクデス嬢に電話で状況を説明し、デレジェにもう一度考え直すよう説得してほしいとお願いした。“Ok, I will do my best”と彼女の返事は頼もしかった。だが数時間後、再び彼女に電話すると、「デレジェが考えを変えることはないと思う」と返事が返ってきた。


メクデスによると、デレジェはK氏の条件を完璧に理解していた。しかし、日中のみとはいえ、週7日、1日の休みもないのが厳しいのだという。正直なところ、それを聞いて私は少し意外な気がした。たしかにこれまでの我が家の方式であれば、24時間連続勤務の代わりに、1日毎にまる1日の休みがある。しかし、もしかしたら路上生活に戻ってしまうかもしれない、学校にもいけなくなるかもしれない、そうした差し迫った状況下であれば、学歴もコネもないデレジェにとって、安定的な収入を確保できることが最優先だと思っていたからだ。無職の人々で溢れるこのアジスアベバで、安定的な仕事があるというのは非常に恵まれたことなのだ。
しかし、自分に当てはめてリアルに想像してみれば、デレジェの言い分はよくわかる。家族もなく、週7日間、1年間365日働き通しで、自由な時間は夜だけという生活に、一体どれだけの安らぎがあるだろうか。デレジェの主張を贅沢だという人は、エチオピアには沢山いるだろう。だが、少なくとも私には、それを決める権利はない。立場が立場だから、生きていけるだけで十分ではないかという発想が自分の中にもあったことを、私は恥ずかしく思った。もちろん、現実問題、どこまでできるかは分からない。結局は妥協しなければいけないかもしれない。が、時間の許す限り、デレジェが本当に幸せだと感じられる仕事を見つけよう、と私は決意を新たにした。


その日のうちに、私はK氏に事情の説明と御礼のメールを打った。
K氏からは、"No problem. I understand. Good luck!"と、爽やかな返事が返ってきた。
さあ、もう後がない。



○○
写真は、犬のブラッシングをするデレジェ。(以前の家にいた頃)

あなたを知っているというだけで。

sayakot2012-11-02

“I feel I am a better person for knowing you”
(あなたを知っているというだけで、私は少しだけ良い人間になれた気がする)”


初めてこのフレーズを聞いたのは、アメリカの高校に留学していた時のこと。卒業する友人達とYear Book (卒業アルバムのようなもの)にメッセージを書き合っていた頃。私も一年間の留学が終わろうとしていた。それは、担当だった英語教師からのメッセージとして書かれていたもので、正直、彼女と自分の関係性を考えると、いくらなんでも大げさだろう、というのが真っ先に持った印象だった。が、そのいかにも英語らしい、ストレートに感傷的な言葉の響きに、どこか強く惹かれたのも覚えている。いつか自分が、その人を「知っているというだけで、自分が“少しだけ良い人間になれた気がする”」と、本当にそう感じさせられる人に出会うことがあるとしたら、その時はその言葉通りに伝えてみたい――高校生ながら、そんな決意じみた妙な願望を持ったのを覚えている。あれから15年経つが、幸いなことに、というのか、その機会は1、2度あった。また、いまだ伝えられないままだけれど、会う度にこの言葉に初めて出会った時のことを密かに思い出させられる人もいる。


アト・デレジェ(「アト」は男性に対する敬称で、Mr.のようなもの)は、2年2ヶ月の間、私の家の門番として働いてきた。年齢は30代半ばくらい、家族がいないらしいことはなんとなく分かったが、それ以上のことは最近までほとんど知らなかった。毎日早朝から欠かさずに家の周りと庭の掃き掃除をし、雨の日には、レインコートで水ハキをし、庭の芝を刈り、雑草を抜き、水やりをし、我が家の犬2匹に餌をやり、甘やかされてすっかりわがままになった犬達を、愛おしそうにせがまれるままにいつまでも撫でてやる。洗ってくれなどと一度も指示したわけでもないのに、週末の犬のシャンプーはいつからか恒例となった。メイドのメクデス嬢曰く、犬がご飯を食べないときには、彼は手でドッグフードを練って一口サイズにしてから口先まで運んでやっているそうだ。「お犬様」状態に甘やかされ、得意げになっている我が家の犬たちをおかしく思うと同時に、彼らがアト・デレジェの姿を見つけると猛烈にしっぽを振って(私に対する以上)喜ぶ理由がよくわかる。


彼はまた時々、ペットボトルを半分に切った手作りの花瓶に、花を沢山さして家の扉の前にそっと置いておいてくれる。彼は決して、押し付けがましいパフォーマンスをしないのだ。庭の花を使っている時もあれば、一体どこから持ってきたのだろうという花をさしてくれていることもある。エチオピア正月のときには、朝起きて家の扉をあけたら、季節の花「マスカル・フラワー」が玄関先いっぱいに置いてあった。


アト・デレジェの優しさは、私と犬たちに対してだけではなかった。彼は、メイドのメクデス嬢が掃除をしているときも、何か手伝うことはあるか、買い物の用事はないかと必ず聞いてくれるのだという。彼女が妊娠中だったころは、体にいいからとよく果物を持ってきたそうだ。それでも、家族のいない彼を気遣って、彼女が正月のときなどに自宅に彼を招き入れようとすると、彼は遠慮して、決して応じようとしないのだという。「あんなに純粋で、見返りを求めない人に、私は会ったことはないわ」とメクデス嬢は言う。


エチオピアに住む外国人や企業の間では、警備は専門の会社と契約するのが普通だ。企業に支払われる相場は一ヶ月3000ブル(約1万3千円)くらいだが、配置される警備員本人の手元に渡るのは月400ブル(約1840円)程度だと聞く。いくら途上国とはいえ、インフレが続くアジスアベバで、1日わずか60円でどうやって生活できるのか、理解出来ない金額だ。アト・デレジェの場合、私は大家の紹介で個人契約を結んでいるので、彼には直接毎月1100ブル(約5060円)を門番代として、300ブル(1480円)を庭師代として払っている。だが正直この金額でも、給与を渡すたび後ろめたい気がしてきた。私達外国人は、1回に200-300ブルの夕食を外食することも珍しくないからだ。


しかし今回メクデス嬢に聞いた話によると、初めて給料を受け取った日、彼は、「人生でこんな大金を手にしたことがない」と、とてもびっくりしていたそうだ。地方の出身の彼は、母親を早くに亡くし、父親が再婚をしたのをきっかけに、14, 15歳のときに一人アジスアベバに上京し、当初は路上生活をしていたらしい。『それが今は自分で部屋を借りられるようになって、自分の銀行口座を持てるようになったんだ』って、本当に嬉しそうに言っていたのよ、とメクデス嬢は教えてくれた。


英語が全く喋れず、アムハラ語はなんとか書ける、という彼に、今年の9月から、私は夜間学校の学費を出すことにした。自分がいつまでもエチオピアにいる保証はないので、その日に備えて、できる限り彼をサポートしたいと思ったのだ。学費がどれくらいするのか見当がつかなかったが、彼が持ってきたレシートに書かれていたのは、入学金50ブル(約230円)と月々20ブル(90円)の授業料だけだった。彼は元気に小学1年生のクラスに通い出した。
そして一昨日の朝、10月分の給与の受け取り証明のサインをもらおうとしたら、書面にいつものアムハラ文字ではなく、アルファベットが書かれてきたので、びっくりして思わずぱちくりとして彼の顔を見つめてしまった。今まで2年以上、私は彼をファーストネームでしか知らなかったのに、思いがけず本人からフルネームを知ることになったのだ。デレジェ・アベラ、と名前を読み上げると、彼は嬉しそうに頷いた。学校に通い始めて1ヶ月半。教育とは、こうやって人に変化をもたらすのだなと実感した瞬間だった。


しかし今、彼のこうした変化が、私の心を重くしている。実は諸事情で、急遽、来月末に今の家の契約を終え、彼との個人契約も打ち切るしかなくなってしまった。今日、事務所に、彼をオフィスの警備員として雇うことはできないかとダメ元で相談してみたが、そもそもGrade 8 (中学2年生)を終えていないと、資格要件に満たないのだという。飛び級制度がないエチオピアでは、小学1年生をつい先月始めたばかりの彼には、(今後運良く勉強を続けられたとしても)、8年後まで機会さえ与えられないことになる。途上国では、時に、先進国以上に学歴による序列があるが、そうでもしないと雇用にあぶれている人が多すぎるということなのだろうか。私は他にもエチオピア人の友人達にあたってみたが、企業やNGOの警備員やドライバーといったポジションは、低所得層にとっては比較的アクセスしやすく、また日雇い労働に比べるとまだ恵まれているので、関係者の親戚等に融通し合うことが多いのだと聞かされた。


このままでは、彼は道半ばでまた元の世界に戻ることになる。中途半端な支援が最も残酷なのだと、この仕事をしていて十分に知っていたはずなのに、今まさに自分が彼をそうした状況に置きつつあることに、胸が押しつぶされそうになる。職を失うという意味では同様の状況にあるメクデス嬢さえ、「私は結婚しているから、今の仕事がなくなってもどうにかなるけど、デレジェのことはすごく心配なの。なんとかしてあげて」と懇願される。


いたずらな気休めは言いたくないが、同時に完全に希望を失ってほしくもなくて、昨日の朝、オフィスを出る前に「なんとか代わりの仕事を見つけるから、どうか心配しすぎないように彼に伝えて」とメクデス嬢宛の連絡用ノートに書き置きをした。夕方、家に戻ると、まだメクデス嬢が掃除をしていて、私を見ると、「彼にあなたの書いたメモを読み上げたら、彼、子どもみたいにぽろぽろ泣き出したのよ」と悲しそうに教えてくれた。そして彼女はその場で彼を呼び、ほら、なんとかしてくれるって言ってくれているんだから、御礼を言いなさい、と教師のように促すと、彼は下を向き、またポロポロと涙を流した。大の大人の男性がそんな風に泣く姿を見たのは、初めてで、ただただ頬を伝い落ちる彼の涙に、私もメクデス嬢も顔を見合わせ、気付いたら3人で立ち尽くしてぽろぽろ涙を流していた。切ない夕方だった。


学校に行くことが決まったとき、「学校に行かせてくれるなんて、お母さんみたいだ」とデレジェが言っていたことを、帰り際、メクデス嬢は教えてくれた。デレジェの方が年上のはずなのに、お母さんと言われるのはなんだか変な気持ちがしたが、早くに母親を亡くした田舎の青年がこれまで一人都会で生きてきた苦労が想像されて、また私が以前一時帰国するときに、私の母宛にと伝統的なショールを買ってきてくれたことを思い出して、彼の温かい気持ちが今更に伝わってくる気がした。たまたま外国人であるというだけで彼よりも多くのお金を持ち、また外国人の感覚からいうと「格安」の給与を払っているだけだったのに、「母親みたい」だと恐らく心の底から言ってくれた彼の純真さに、わたしはただただ、恥ずかしいような、情けないような、申し訳ない気持ちでいっぱいになり、また同時に、I feel I’m a better person for knowing you という、しばらく忘れていたこの言葉がわき上がってくるのを抑えることができない。


アジスアベバ在住の皆さま、なにかお心あたりがおありでしたら、是非ご連絡下さい。
何卒よろしくお願いいたします。

ティグライにて。

sayakot2012-10-03

9/17-20まで、エチオピアの最北、ティグライ州に出張してきました☆


◇◇◇
エチオピアは言語や文化を異にする80を越える民族から構成されているが、中でもティグライ族の人々は、伝統的で、勤勉で辛抱強く、またホスピタリティに溢れている人々だと特に好意的に語られることが多い。その特別な敬意は、どこから来るのか。その一つには、ティグライの経験してきた歴史的な出来事が関係していると思われる。偶然なのか、なにか所以があるのか、過去百数十年の歴史を振り返るだけでも、ティグライはエチオピア国家の命運を分ける衝突に3度も関わっている。


まず19世紀後半、ティグライはアフリカの国として初めて西欧の国イタリアを撃退したと言われる、「アドワの戦い」の舞台だった。「植民地化に屈しなかった唯一のアフリカ国家」として、誇り高いエチオピアだが、その原点はティグライにあるといっても過言ではない。また1974年、「暗黒時代」を支配していた、時の社会主義政権に、17年に渡る山野での激しいゲリラ活動を展開させたのも、ティグライの人々だった。ティグライ人民解放戦線(TPLF)は、ティグライ全土の農村部から兵士をリクルートし、1991年の現政権の設立に中心的な役割を担った。先日急逝した故メレス首相も、ゲリラ時代からTPLFの雄弁な書記長としてその名を轟かせていた人物だ。更に、ティグライと国境を接するエリトリアとの独立/国境紛争でも、度重なる両者の衝突により、多くの人々が犠牲となっている。


ただし、今のティグライは平穏そのもの。かつてはそのほぼ全土が戦地と化したと聞いたが、その傷跡は、今では一見しただけでは分からない(もっとも、地方では時々、牧歌的な農地に突如として戦車の残骸が表れ、ぎょっとすることがあるが)。むしろ、厳しくそして雄大な自然に目が向く。雨季を除くと年間を通じて非常に乾燥するティグライでは、3000mをゆうに越える山々も、その下の低地でも、ゴツゴツとした巨大な岩や石が散らばる荒涼とした風景が多い。農民の家々も、エチオピアでは珍しく、泥や木ではなく、丁寧に積み上げられた、オレンジ色を帯びた石造りが中心。

そのせいか農村でさえ、どこかヨーロッパの田舎を思わせるような、落ち着いた独特の雰囲気がある。またティグライには、人の背の高さを越えるサボテンが多く生息し、家や農地の天然の垣根としてよく利用されている。そのオレンジ色のかわいらしい果実は、エキゾチックな果物として、時々首都アジスアベバでも見ることができる。種が硬く大きいのが難点だが、外見に反してとてもみずみずしく、柿のような味がして美味しい。


さて、出張の話。視察先への移動途中、3400m級の山脈に走る道を通ると、等高線に沿った石垣がなんと頂上付近まで延々と続いていた。石垣に守られるように窮屈に植えられた小麦畑には、高地らしい強い日射しと、冷たい風が吹きつけていた。わずかに残された大切な土を浸食から守るために、このような高地にまで石垣を築いた人々の知恵と忍耐力には心打たれる。

だが当然、土地は豊かではない。育ち盛りなはずの小麦は薄緑色で、穂は痩せている。自分達で十分な食糧生産ができないこの地域のほとんどの住民は、公共事業に参加し労働力を提供する代わりに食糧配給を受けるという“Work for Food”と呼ばれるセーフティネット事業に参加していると聞く。本来であれば、他地域への移住政策への対象となるエリアだが、住民たちは頑なにこの地と共に生きることを望むのだという。ティグライの人々の勤勉さと忍耐強さは、こうした過酷な自然環境にも由来しているのかもしれない。


山を越えて、ようやく視察先であるティグライ南部のRaya Azebo郡に到着すると、私たちの事業で支援している農民の農地は、明らかな降雨不足に直面していた。例年雨不足に陥りがちな同地域に、私たちは今シーズン、乾燥に特に強い緑豆の品種を紹介し、興味をもった農民の土地に植えてもらっていたのだが、つい1,2週間前まで順調に育っていたらしい緑豆は、一見きれいな緑色を残していたが、その足下は乾ききって硬くひび割れた土の上で、立ち枯れ寸前となっていた。


私が所属するNGOでは、アフリカの零細農民に対して、改良品種や肥料、より効率の良い農法等を普及し、増産と収入向上のお手伝いをすることを主なミッションとしているが、乾燥に特に強いと言われるその新しい品種も、水の全くない環境で生き続けることはできない。農地の所有者である農民によると、その緑豆は、花を咲かせるところまで順調に育っていたが、そのタイミングで雨が完全に止まり、結実に至らないまま、今の状態になってしまったのだという。最寄りの水場まで数キロ先という環境では、死にかけた植物を回復させるだけの十分な水を、農地全部に行き渡らせることは不可能だ。希望と共に手塩にかけて育ててきた農作物が、徐々に朽ちていくのを、なす術もなくただ見ているしかできない無念さはどれほどかと思うと、胸が締め付けられた。畑一面に植えられた作物が乾ききった大地に立ちつくしている光景が、こんなに悲しいものだとは知らなかった。


「あと1回、この土に深く浸透するだけの雨が降りさえすれば、こいつは持ち直すことができるのにーー。」出張に同行したエチオピア人の同僚は、悔しそうにつぶやく。だが見渡す限り晴れ渡った空には、遠くの遠くまで、雲の欠片すら見えない。照りつける日射しはただただ熱い。


どれだけ耐性のある作物にも、限界はある。それが、慢性的に水不足に陥りやすい地域の厳しい現実。このような環境には、灌漑システムを導入しない限り、安定的な農業生産は望めない。しかしそれには莫大な費用が必要で、私たちのような1NGOが広域でカバーすることは難しい。人口の8割が農業に従事し、その大部分が零細農民というこの国では、生活を少しでもよくするために必死に働いている人々は無数にいる。その中で、「成果が見込めない」かもしれない最も困難な地域に住む農民たちを活動の対象とするのか、「ある程度」の成果が期待できる地域ーーこの場合、一定程度の降水量や灌漑水が見込める農民たちを対象とするのかという選択は、非常に大きなジレンマだ。


さて、次に訪ねた女性の農民の土地も、同様の状況だった。先ほどの畑と同様、無惨に枯れ始めた緑豆の畑を前に、私はかける言葉が見つからなかったが、先ほどのエチオピア人の同僚は、「どうか希望を失わないでください。あと1−2週間以内に雨が降れば、まだこの作物は回復するチャンスがありますから」と、ふりしぼるように言った。すると、思いがけない言葉が返ってきた。


「いいえ。私たちは希望を失ったことなんてありません。困難は私たちの生活の一部ですから。あたなたがたが持ってきてくれたこの新しい作物は、この土地の厳しい乾燥にもずいぶん耐えてきてくれましたよ。この作物は、私たちに大きな希望をもたらしてくれたのです。だから私たちは、来年も同じようにこれを植えてみたいと思っているわ」と。その言葉には、なんの悲壮感も感じられず、むしろ力強かった。


この地域には州政府が現在灌漑設備の導入準備を進めているが、実際に水が引かれるようになるのは、2年、3年先と言われている。それまで彼らはどうやって生活するのだろうか。私たちがまた来年、同様の作物を紹介したとしても、同じ結果になってしまう可能性は大いにある。だが、そこで生活する人々が、農業を生きる術とする限り、私たちは彼らに寄り添い続けるべきなのだろうか。それがたとえ、砂漠に水を蒔くような仕事だとしても。その答えは、いまだによく分からない。

ウガンダ出張いろいろ(後編)

sayakot2012-05-20

4日目:5/10(木)
・ 在ウガンダ日本大使館へ表敬訪問。
・ NARO(国立作物資源研究所)訪問
・ 夕食@大使公邸


午前11時、駐ウガンダ日本大使を表敬訪問。大使館の経済協力班の方にも同席してもらい、SAAのウガンダでの活動を紹介。大使は地図を開いてわたしたちの活動サイトに印を付けながら、丁寧に聞いてくださった。各国の日本大使館が独自に持つ草の根助成金のお話も伺い、SAAとしての申請の可能性も議論。日本大使館の草の根助成金の方針は国によって戦略が異なるが、当地では、井戸や病院建設、地雷除去など、人々の生活の最も根本的な部分での援助が重点的に行われてきたそうで、農業事業の取り扱いはまだ少ないとのこと。とはいえ、本当にコミュニティのニーズを反映した事業であれば、農業案件でも申請が承認される可能性は十分にあるとの助言をいただく。ところで来月、日本との国交樹立50周年を記念し、秋篠宮夫妻が皇族として初めてウガンダを訪問されるご予定。その一連の調整に大使館もいろいろ忙しい模様。


午後はカンパラから北へ30km先にあるNARO (国立作物資源研究所)へ。NAROには、ウガンダで生産される様々な農作物の研究施設があるほか、ネリカ米を振興するJICAのプロジェクト事務所が設置されている。ネリカ米は、乾燥や病虫害に強いアフリカの稲と高収量のアジアの稲を掛け合わせて開発されたもので、 その名前は“New Rice for Africa”の意を持つ。ネリカ振興は、ここ10年の間、自国の食糧事情を改善したいアフリカの国々で注目され、日本政府も近年特に力をいれて支援している領域だ。NAROには、Mr.. ネリカと呼ばれるJICAの坪井専門家渾身の圃場があり、今回、幸運にも坪井さんご自身に施設を案内いただいた。


日本であれば田植えは5月、収穫は9-10月と決まっているように思うが、年間を通じて気温が安定しているウガンダでは、なんと水さえあれば年中栽培、収穫できるのだそうだ。実際、NAROの試験場では、水や肥料や土の深さ等の生育条件を変えた区画の中で、2ヶ月置きに新たなイネが植えられ、異なる条件下での品種毎の成長が比較されている。芽を出して間もないイネから、収穫間近の稲穂までの段階的な成長過程が一目瞭然に観察出来るその光景はとても興味深いものだった。ちなみに坪井専門家は、Newsweekの選ぶ「世界が尊敬する日本人100人」の一人。超ご多忙の中、広大な敷地をご丁寧に案内いただき、感激◎



夜19時、夕食のお招きをいただいた大使公邸へ。事前にナンバープレート、車種、運転手の名前を要連絡というセキュリティ体制(エチオピアよりもずいぶん厳しい)。ウガンダでBOP事業を展開予定という九州のNPOの代表の方もご一緒だった。タイ人シェフが腕をふるったミョウガ入りサラダ、天ぷら、お刺身、炊き込みご飯、お味噌汁は、どれも絶品。昨夜に引続き、連日思いがけず美味しい日本の食事にありつくことができ、なんとも運のいい出張。アフリカビールのセレクションも素晴らしかったが、最後にいただいた、蒸留酒「ワラジ」が印象的。マトケという、現地の甘くないバナナが原料で、アルコール度は40度とかなり強いが、レモンと併せるとすっきりした味わい。悪酔いしないので、大使もお気に入りとのこと。ウガンダ話は尽きず、最後は皆で記念撮影をパチリパチリ。


5日目:5/11(金)
・ 意見交換@JICAウガンダ事務所

SAAウガンダ事務所副代表の K(ウガンダ人)とナイジェリア人Rと一緒に、JICAウガンダ事務所へ。今後のJICA-SAA両事務所のコラボレーションの可能性について協議することが目的。JICAウガンダ事務所からの参加者の中には、まだ着任まもない方もいるので、始めにK氏がこれまでのSAAのウガンダでの活動の歴史、またJICAとの連携の実績を紹介。一時間程の意見交換後、最終的にはSAAが新たなJICA草の根事業を提案するのが一番よいかということにまとまる。これからまた、少しずつ準備が始まる。またウガンダに来る機会が出来るのは嬉しい。


夜はJICAで協力隊の活動をコーディネートされている方のお誘いで、協力隊員の集まりに飛び入り参加させてもらう。豚料理が有名なレストランで、噴水付きの開放的な空間が気持ち良い。エチオピアではなかなか食べることができない、豚肉の串焼きとベーコンサラダが最高に美味。賑やかな夜。


6日目:5/12(土)
・ 空港へ(途中、エンテベ動物園へ寄り道)
・ 帰宅


最終日。事務所のドライバーが午前11時にホテルにピックアップに来てくれることになっていたので、朝食後急いでパッキングを済ませ、小雨の中、歩いてホテル近くの外資系のスーパーへ。店内は広く、商品の充実度はエチオピアのスーパーとはずいぶん違う。食糧から生活雑貨まで、豊富な商品群に思わず目移り。ちなみに国民一人あたりのGDPは、ウガンダ:1,151USD、エチオピア:896USD (日本:33,805USD)。わずか255USDの差が、こうした生活の便利さのささやかな違いに表れている気がしないでもない。


ホテルをチェックアウト後、空港近くの動物園(正式名は「ウガンダ野生動物教育センター(UWEC)」)へ寄り道。ビクトリア湖畔にあり、緑が多く開放的で気持ちがよいと評判を聞いていた。直前まで小雨がずっと降っていたせいか、園内には人の気配がなく、どの動物のセクションもうっそうとした緑に囲まれ広々としている。園内そのものがジャングルのようで、歩いていると、逃げ出した動物たちに鉢合わせしそうな雰囲気さえする (実際、ラクダや野生のカンムリヅル、猿たちが園内を悠々と歩いていた)。とはいえこの動物園も、少し前までは、狭いケージに動物達を閉じ込めた昔ながらの展示をしていたそうで、いつ頃からか、世銀を始めとする複数のドナーが施設の環境整備支援を行い、今のような様相になったとのこと。今は横浜動物園(ズーラシア)も、JICAの助成で定期的に人材を派遣し、飼育技術や展示方法の改善に関する技術移転を行っているそうだ。


1時間程で動物園を出て、最後は空港近くのローカルマーケットの食堂でランチ。ご飯に鶏スープをかけて食べるのは典型的なウガンダ飯の一つ。素朴な味わいが◎。5日間の滞在を終え、気持ちよくウガンダを後にする。2時間のフライト後、家に着いたのは20時前。2匹の犬達がしっぽを振りちぎらんばかりに迎えてくれる。出張、終了。


◇◇◇
トップの写真は、ウガンダの国鳥カンムリヅル。

ウガンダ出張いろいろ(前編)

sayakot2012-05-13

2度目のウガンダ出張から帰ってきました。ほとんどホテル併設の会議室にこもりきりだった前回の出張とは違い、今回は地方に少し足を伸ばしたり、現地で活躍する日本人との出会いにも恵まれ、思いがけず彩りのある1週間に。


1日目:5/7 (月)・出発:10:55AMアジスアベバ発 (13:05 エンテベ着)
・SAAウガンダ事務所で滞在中のスケジュールに関する打ち合わせ
・JICAウガンダ事務所への挨拶


エチオピア-ウガンダ間はエチオピア航空の直行便がある。飛行時間は約2時間。時差はない。エチオピア航空というとずいぶんマイナーな印象を受けるかもしれないが、実はANAと同じStar Allianceのメンバーで(昨年末加入したばかりだが)、アフリカ系航空会社のエースといえる。ウガンダ唯一の国際空港であるエンテベ空港には、黄色のSAAキャップをかぶった事務所のドライバーが迎えにきてくれる。渋滞に巻き込まれなければ、首都カンパラまでは車で約1時間。夜は一人、ホテルの野外レストランにて、ウガンダでメジャーなビールNile Specialとペッパーステーキ。


2日目:5/8 (火)
・ 日帰りで、Bugiri(カンパラから東へ約130km)とPallisa(更に北へ70km)の農業組合を視察。


Bugiriの農協では、SAAの農産加工・収穫後処理事業チームが3ヶ月前にセッティングした、改良貯蔵庫の比較実験結果を、現地の農民達と観察。要は改良貯蔵庫の中身を3ヶ月ぶりに農民と一緒に開けてみて、中に保存されていた穀物(とうもろこし)の状況を確認するのだ。伝統的な貯蔵方法では3ヶ月も経つと虫喰いがひどくなって穀物が傷み出し、質にも量にも影響が及ぶのが問題となっていて、実際、こちらの穀物はざっとコップ一杯に取り出しただけで、何匹もの虫が奥底から這い出てくる(右写真参照。黒っぽいのが虫)。農民達の中にはそれを防ぐために穀物に直接殺虫剤をかけてしまう者もいるようで、知られないところで消費者の健康に悪影響を与えている。怖い話である。



一方で、SAAが現在普及を試みている改良貯蔵袋からは、虫は一匹も検出されなかった。「改良」といっても、それほど大げさなテクノロジーではなく、現地でも一般的な大型の水タンクを改造し、気密性が高くきちんと「密封」できるところが特徴。そうすることで内部の虫が時間と共に自然と窒息死するのだ。歴然とした結果の違いに驚いた興味津々の農民達からは、「一体どんな殺虫剤をまいたのか」と質問があがるが、答えは「None」である。農協の代表者たちは、すぐさま購入したいと手をあげた。



私たちSAAは、こうした改良技術を、農民達の住んでいるエリアでデモンストレーションすることで、効果を実際に農民達の目で確認してもらうことを大事にしている。ポイントはそこで無料配布するのではなく、効果を感じた農民達に購入してもらうこと。購入に係る販売企業とのやりとりや輸送等はSAAがファシリテートする。もちろん、全ての小農民に手に入るわけではないけれど、農協などを対象にすることで、間接的にでも末端にサービスが届くことになる。安易な無料配布は、現地アグリビジネス企業の地域への進出の可能性を妨げるし、農民達の依存心を強めてしまう。もしそこにビジネスチャンスを感じた企業が進出するようになれば、やがてより安価なサービスが末端まで届くようになることが期待できる。


移動の途中、路上で購入した鶏モモの串焼きのあまりの美味しさにビックリ。特別な味つけもない、ただ炭火で焼いただけのシンプルな代物なのだが、「最後にこんなに美味しい鶏肉を食べたのはいつだったかな」と(少なくともエチオピアでは経験がない)思わず記憶をたぐりよせてしまう程、感動的な味。

後日お会いしたウガンダの在留邦人の方も、「鶏肉と果物は、(ウガンダは)日本以上です」と断言されていたが、本当にその通りかも。


3日目:5/9 (水)
・ 日帰りで、Zirobuweの農業組合へ。


SAAの支援しているZirobwe (カンパラから約50km北)の農業組合へヒアリング。また、当地のSeed Bankでアクティブに活動をしている青年海外協力隊のSさんにインタビュー。Seed bankは良質の種をシーズン前に農民に貸し出し、収穫後に倍にして返してもらうことで運営されている。返済率は80%とか。SAAではSさんのような協力隊員を常に3-4名受け入れている。


夕方、Sさんのお誘いを受けてJICAのシニアボランティアでいらしているHさんご夫妻宅へ。初対面の、しかも突然の訪問にも関わらず大変温かく迎えて頂く。Hさんはカンパラで擁護学校の先生をされているそうで、ウガンダにおける障害児教育の問題についてお話を伺うことができた。エチオピアでもそうだが、途上国では町や村で障害児に出会う機会が極端に少ないように思う。目にする大人の障害者は大抵ホームレスである。圧倒的に施設が足りず、また障害児教育への意識が低いために皆、家の外を出ないものらしい。


Hご夫妻のご自宅は、協力隊員たちの憩いの場になっているそうで、「アフリカの父・母」と言われている理由も多いに納得。いただいた夕食メニューはビーフシチュー、ベトナム風ハンバーグ、生春巻、海藻サラダ、白米。デザートはちょうど旬の完熟マンゴーとパイナップルが添えられたバニラアイスクリーム。お土産に素敵な折り紙の飾り物までいただいた。 ウガンダにて思いがけず日本の家庭の雰囲気を味わい、大いに癒された夜。


ところでウガンダは「アフリカの真珠」と呼ばれる程、水と緑が豊かな国。治安も良いし、イギリスの植民地だった影響で、きれいな英語を話す人も多い。また、野生のサイやゴリラ、シマウマやキリンが間近で見られるサンクチュアリなどもあり、英語があまり通じず半乾燥地域であるエチオピアに住む身としてはうらやましい点が多々あるのだが、ウガンダウガンダで、エチオピアに比べて文化遺産が乏しかったり、ケニアタンザニアに比べると「目玉級」の野生動物がいなかったりと、「隣の芝生は青い」的な状況は同じ模様。


以下、後編へ。。。


◇◇◇
トップの写真は、フェンス越しに改善貯蔵庫のデモンストレーションの様子を伺う子どもたち。

投石事件に思ったこと

sayakot2012-02-03

先日地方に出かけた際の、ちょっとした出来事。
場所は、エチオピア北西部アムハラ州デブレマルコスからデジェン郡に差しかかる、田舎道。数週間前に収穫が終わり、刈り取られた穂が黄金色のかまくらのようになっていたるところに積み上げられた、のどかな風景が続くところ。そんな中、前方から歩いてきた老女が、わたしたちの乗る車輛をめがけて突然、大きな石を振り投げてきたのだ。小さな体にありったけの力をこめて投げられたその石は、フロントガラス下方に直撃し、大きなヒビを入れた。幸いにも穴が空くには至らず、また、ドライバーが冷静に緩やかに車を止めたので、誰にも怪我はなかったが、後部座席にも小さな破片が少し散らばった。



車が完全に止まり、すぐに道の後方を振り返ると、意外にもその老女は、逃げるでもなく、こちらを睨むようにして道路脇の畑に座り込んでいた。痩せた体、深く刻まれた顔の皺、乾ききった裸足の足、薄汚れたコットンの伝統的な白い布をまとった、典型的な農村女性。


「このヤロウ、なんてことをするんだ」と興奮さめやらぬドライバーが近づくと、女は身近にあった小石を掴み、投げて威嚇したが、やがて石が尽きると抵抗をやめ、「逃げも隠れもしないよ、さあ警察に行こうじゃないか」と啖呵をきった。ドライバーが彼女の腕を掴むようにして、車に連れて行こうとすると、彼女はそれを振り払い、自分の足でさっさと後部座席に乗り込んできた。通常農村の人々はわたしのような外国人を見ると、何かしら驚いた表情をするものだが、彼女は車内にわたしを見つけても全く無関心だった。


車が近くの郡警察署に向かって走り出すと、彼女は持っていた風呂敷のような古い布きれから、緑のさやのついた、摘んだばかりのヒヨコマメの草を掴み、あんたらにくれてやるわと前方に投げつけてきた。そしてぶつぶつと独り言を始めた。同僚のエチオピア人の訳によると、「あたしはただ食べ物が欲しかっただけなのに、あんたらが無視するから石を投げてやったんだ」とか、「あたしらキリスト教徒の土地はアラムディ(エチオピア随一のイスラム教徒の投資家)に二束三文で売られちまった。あたしはそんなことを許す今の政権が許せないんだよ」とか、自分は夫に先立たれ、他人の畑から農作物を盗みながら着の身着のままに暮らしているのだとか、そうしたことを脈絡なく言っていたらしい。明らかに普通の状態ではない、と同僚は私にささやいた。


警察署に連れて行かれた彼女は、たまたま集まっていた10人ほどの警察官の前でどすんと地べたに座り込み、否定なんてしないさ、あたしがやったんだよと大声で言った。一人の警官に動機を問いただされると、先ほど車内で言っていたようなことを繰り返した。「あたしの土地は異教徒の大金持ちに盗られたんだよ。教会さえ、わずかな金で売り払われちまった。手元に残ったのは、やせた土地と牛1頭だけだ。何の未練もない、さあ、あたしの家にあんたらを連れていってやるから、みんな売っぱらって、弁償にでもなんでもすればいいさ。夫はずっと前に死んだよ、あたしの兄弟は殺された。貧しい子どもらにわたしを養うことなんてできやしないんだよ------!」


一通りわめきちらすと、彼女は突然静かになり、先ほどの風呂敷包みいっぱいのヒヨコ豆の草をとりだし、緑のさやがついているものと、ついてないものとを無心に選り分けだした。わたしたち一同はその唐突な断絶に面くらい、彼女の丸まった背中をただ見守るしかなかった。さやを選り分けるその確かな巧みな手つきは、もう数十年畑を耕してきた農民のそれで、その混乱した精神をもってしても、生まれた時から体に流れている農民の血は決して薄まることはないのだということを感じさせた。


唯一英語を話す、上官風の警官に、彼女を今後どうするのかと尋ねたところ、家族に引き渡して、こういうことが再度起こらないよう家族に見張ってもらうしかないね。まあ、あんたらの損害はこちらで必要な調書を作ってやるから保険会社が全てカバーするだろう、心配するな、とのこと。もっとも、同僚たちの読みでは、郡の警官が、どこにあるかも不確かな農村にわざわざ出向くはずなどなく、調書を作り終えたらそのまま厄介払いするだけだろうとのことだった。


わたしたちはエチオピアの農民に農業指導を行うNGOだ。無責任にふてぶてしく開き直る彼女に対し、最初の頃こそ、いわれのない怒りをぶつけられたことに対する憤りを強く感じずにはいられなかった。だがふと彼女に目をやると、所持品は、汚れた風呂敷とヒヨコマメの草だけ。自分で選り分けたマメを、生のままむさぼりつくその後ろ姿には、どうしようもない孤独と、絶望があった。


ようやく落ち着きを取り戻したドライバーが、車内に残っていたパンをそっと差し出すと、彼女は「あんたらはさっきあたしがくれてやったヒヨコマメを食べなかったろう。どうせ食べ物に困ったことがないんだろうね。そんなやつらからのほどこしなんて要らないさ、それにあたしはインジェラ(伝統的なクレープ風のパン。エチオピア人の主食)が食べたいんだよ!」と言って、パンを振り払った。そんな彼女を、若い警官達は滑稽な見せ物を見るように笑っていた。


昨今エチオピアは、他の多くのアフリカ諸国同様、外国からの投資が増え、首都アジスアベバを中心に都市部では商業ビルやホテルの建設ラッシュが続いている。農業分野においても、これまでは自家消費を中心とした零細農家がほとんどであったが、最近は輸出用の農作物を生産するための広大な商業用農地が生まれつつある。女の言っていた「アルムディン」も、新聞やニュースで連日もてはやされる、「大成功」組の投資家の一人だ。



ある意味で彼女は、この国にゴマンといるであろう、声なき人々を体現しているのではないだろうか。独りよがりの感傷かもしれないが、人生の大部分を、ごく普通の、貧しいけれども勤勉で敬虔な農民の一人であったはずだった女。それが、ほんの少しの歯車のずれで、あらがえない何かによって、――――それが急速な近代化のうねりなのか、気候変動なのか――― ささやかすぎるはずの生活を失ってしまったようにみえて仕方なかった。今の彼女を支配しているのは、精神を狂おすほどの、世の中に対するそして人生に対する憤りだけ。その年老いた体で、日々の飢えを畑から盗んだ農作物でしのぎ、誰にも気に留められることなく、生きる人生。違った場所に生まれていたら、まったく違う人生が彼女を待っていただろう。

わたしたちに出来ることは、悲しいほど何もなく、間もなくして調書を受け取ったわたしたちは、苦い無力感を感じながら、その場を後にした。