地球規模で拡大する所得格差

最近、所得格差に関する注目すべき報告書、研究書、あるいは雑誌の特集記事が続々と発刊されています。例えば:

  • World Bank(2005). World Development Report 2006: Equity and Development
  • OECD(2011). Divided We Stand
  • Asian Development Bank(2012) Asian Development Outlook 2012: Confronting Rising Inequality in Asia
  • The Economist 13 Oct. 2012, Special Report on World Economy: For Richer, For Poorer
  • Milanovic, Branko(2011). The Haves and Have-Nots
  • Joseph E. Stiglitz(2012). The Price of Inequality

最近の格差研究は格段に深化しているように思えます。まったく新しい視点からの事実発見や、目からウロコの論点指摘など、ワクワクするような研究が目白押しです。ですが、このように格差研究が隆盛を極める時代は、不幸な時代であるともいえるでしょう。

最近の格差研究が明らかにしている地球規模の所得格差拡大について、昨日(11月9日)、ある研究会で報告してきました。



[file:sfujikazu:地球規模で拡大する所得格差(PPTスライド).pdf]

第二次グルメ・ブームの裏

NTT労組機関誌『あけぼの』2012年4月号


第二次グルメ・ブームの裏


 いま、第2次グルメ・ブームが起きているという。今年1〜3月のTVドラマでは「ハングリー!」「孤独のグルメ」と2本のグルメ・ドラマが放映された。直接、グルメをテーマにしていなくても、食事をともにするシーンがドラマに登場するのは数え切れない。「花のズボラ飯」「にがくてあまい」「めしばな刑事タチバナ」「深夜食堂」などの、これまでとはひと味違ったグルメ・マンガも人気を呼んでいる。
 第1次グルメ・ブームは、「美味しんぼ」に代表される食の奥義モノや、「ミスター味っ子」などのグルメ・バトルを楽しむものであった。これに対して、いま展開中の第2次グルメ・ブームの特徴は、手の届く身近なグルメ、自分で作れるDIYグルメであろう。「花のズボラ飯」「にがくてあまい」にはちゃんとレシピがついている。グルメ・ドラマでも番組サイトにレシピがアップされたり、レシピ本が発売されることが多い。
 食をめぐる人々の志向は、いま微妙に変化しつつある。雲の上の至高の味よりも、身近な食体験へ、そして食体験を共有することの喜びへと、次第に関心の軸がシフトしつつある。内食向けのレシピ集やB級グルメの盛行はおそらくその反映だ。
 ところで、「みんなでおいしいものを食べると幸せになる」は、グルメ・ドラマの定番決めゼリフだ。グルメ・ドラマだけでなく、多くのTVドラマに食事をともにする場面が登場する。そこで人々は打ち解け、つながりをたしかめあい、そして元気になる。食の喜びは自分自身の味覚の世界で自己完結するのではない。美味の共有を通じて、共感(シンパシー)の連鎖が人々をつないでいくことが大切なのだ。
 けれども、最近では、誰かと食事をともにするのではない「孤食」の傾向が、次第に増えつつある。


全文はコチラから → [file:sfujikazu:潮流(経済)(2012年4月号).pdf]

「散策・労働の小径」第4回(『ひろばユニオン』2012年4月号)



貴重な記録 映画の中の労働


 映画がこの世に誕生したのは、いまから約120年前。それは「労働映画」だった。今回は今年のアカデミー賞受賞作品『ヒューゴの不思議な発明』を切り口に、映画と労働についてみていきたい。


映画界の「原点回帰」
 今年の第84回アカデミー賞は、初ノミネート・初受賞の「初物づくし」や最高齢受賞記録など、記録塗り替えの話題に事欠かなかった。
 もうひとつの大きな特徴は「映画の原点回帰」である。最近のハリウッド路線に飽き飽きしていた映画ファンも、久方ぶりにアカデミー賞の行方を見守ったことだろう。
 フランス映画で作品賞受賞という快挙をなしとげた『アーティスト』は、白黒・無声映画で1920年代末のハリウッドを描く異色作。アカデミー賞がはじまったのはちょうどこの頃である。
 当時は、映画が無声からトーキーへと切り替わる時期だった。第1回アカデミー賞(対象期間27〜28年)は無声映画『つばさ』に作品賞を授与するとともに、初めてのトーキー映画『ジャズシンガー』(脚本賞受賞)を製作したワーナーブラザーズに特別賞を贈った。その後、無声映画が作品賞に選ばれることはなく、今回の『アーティスト』受賞で、83年ぶりに無声映画が復活したことになる。
 一方、スコセッシ監督が初の3Dファンタジーに挑む『ヒューゴの不思議な発明』は、アメリカ人監督が30年代のパリを舞台に、草創期フランス映画へのオマージュをこめて描く冒険ファンタジーだ。まさに対照的な趣向で『アーティスト』と話題を二分した。
 結果として主要部門賞は『アーティスト』に譲ったものの、視覚効果賞、音響編集賞、撮影賞、美術賞は『ヒューゴの不思議な発明』が総なめにした。この作品は映画職人の技量の結晶という点でも、原点回帰を象徴する。そして、映画マニアをうならせる細部の神々が、各シーンのここかしこに宿っている。


最初の映画は「労働映画」
 ということで、今回の趣向は、この映画をめぐるトリビア、労働の小径版。
 主人公の少年が住むリヨン駅の時計塔内部の歯車の描写、狂言回しのバネ仕掛けの自動人形(オートマトン)等々、いずれもマニアックなメカの数々が、リヨン駅構内の日常風景の裏側にある異世界を演出する。3Dの使い方も見事だ。これまでの見世物興業とは一線を画し、映像表現としての3Dの可能性を引き出している。
 こわれた自動人形を修理する主人公の父親、そしてその父親の意思を継ごうとする主人公は、誇り高きメカニック(機械職人)として描かれている。このことも映画の原点と無関係ではない。
 19世紀末に誕生した映画は機械工業文明の申し子である。撮影機、映写機、フィルムといったコア技術はいうまでもなく、実は映画製作のプロセスそのものもまた、機械工業文明のモノ創りそのものだ。芝居小屋、見世物小屋と地続きの由来を持ちながらも、映画がそれらとはまったく異なる新しいメディアに発展していった理由のひとつはおそらくここにある。
 この映画の中心にすえられているのは、19世紀末から20世紀初頭にかけて先駆的なファンタジー映画、SF映画を数多く生み出したフランスの映画作家ジョルジュ・メリエスの生涯と仕事である。手書き着色、総天然色の彼の作品が、最新設備を備えた映画館の巨大画面に映し出されるのはまさに幻想的だ。
 ところで、この映画には、脇役ながら、映画史の最初期を飾る映像がもうひとつ登場する。シネマトグラフの発明者にして映画興行の創始者リュミエール兄弟の作品である。 映画を最初に発明したのは誰か,については諸説がある。けれども、スクリーンに映写された動画を鑑賞するという今日の形式の映画を発明したという点では,フランスのリュミエール兄弟による「シネマトグラフ」の発明と,1895年12月28日、パリのグラン・カフェ地階のサロンでの世界初の映画興行(有料一般上映)こそ,映画の誕生を告げるものといえるだろう。
 メリエスが、特撮幻想映画によって夢を紡ぐ人だったのに対して、リュミエール兄弟は徹底した記録の人であった。当時のフランスの人々の日常生活の種々相を様々な角度から映像におさめた。
 シネマトグラフの最初の上映プログラムは10本の短編映画で構成されている。その冒頭に置かれていたのが『工場の出口』(撮影は1894年頃)という作品で,リヨンのリュミエール工場(写真用乾板等を製造)から出てくる労働者の群像を撮影したものである。最初の映画は労働映画だった。
 『ヒューゴの不思議な発明』の後半は、映画創世記のおさらいのような展開になっていて、映画史に残る数々の映像が登場する。『工場の出口』も一瞬のショットではあるが2回出てくる。
 リュミエール兄弟は、この作品の他にも、造船所、道路舗装工事、精錬所などで働く労働者の群像や鍛冶職人など、19世紀末の働くフランス人の映像をいくつか残している。いずれも、社会史・労働史の貴重な資料だ。


労働映画 発掘・保存を
 新しいもの好きの明治の日本人は、当時欧米で競って開発されていた映画技術を、さっそくほぼ同時期に導入した。
 染色技術を学ぶためにリヨン大学に留学した京都西陣出身の稲畑勝太郎は、リュミエール兄弟の兄オーギュストと同窓生だったことから、シネマトグラフ興業の成功を知るとさっそく機材を購入し,日本への導入をはかる。
 稲畑勝太郎による日本ではじめての「シネマトグラフ」興業は,1897年2月15日,大阪南地演舞場で開催された。活動写真時代の幕開けである。
 こうして,世界での映画の開始とほぼ同時に、日本でも映画製作がはじまった。そしてかなり初期のころから,労働映画といえるような作品も作られている。
 例えば、1907年公開の『足尾銅山大暴動』(吉沢商店のカメラマン小西亮撮影)は間違いなく,最初の労働映画にして労働争議映画である。また、同じ年に、『天下の電話交換手』、『月給日の快楽』、『紡績会社内部紊乱』などの作品も公開されている。
 映像記録の特徴のひとつは、製作者の意図を超えて、カメラの前にある現実をすべて記録する、ということである。だから、たとえどのような意図にせよ、労働に向けられたカメラの記録した映像は、過去のものであれば貴重な労働史の資料であり、現代の記録としても、労働をめぐる状況を考える上で、有益な示唆を提供する。
 過去の映画製作・上映に関する各種の記録から推測すると、日本でも相当に多くの労働映画が最初期の頃から製作されてきたことが分かる。ところが、それらの発掘・保存はほとんど進んでいない。残されているフィルムも劣化・消滅の危機に瀕している。
 失われたと思われていたメリエスの作品が発掘・復元され、晴れの上映会が催されるという『ヒューゴの不思議な発明』のハッピーエンドが、日本の労働映画にも訪れることを願ってやまない。

高齢者世代の消費へのインパクト

NTT労組機関誌『あけぼの』2012年3月号


高齢者世代の消費へのインパク


平成23年高齢社会白書』によれば、65歳以上の高齢人口と現役世代(15〜64歳の生産年齢人口)の比率は、2010年時点で2.8,2055年には1.3にまで低下すると予測されている。1人の高齢者を1.3 人の現役世代が支えるということである。

耳にタコができるくらい聞かされていることではあるが、聞くたびにため息が出る。高齢化社会トップランナー日本の危機的状況は、国民共有の認識である。なんとかしなければならない。とはいえ、打出の小槌がどこかにあるはずもないから、超高齢化社会の福祉をめぐる負担と給付のバランスを考えると、誰でも目の前が暗くなる。パニックに陥りそうになるのも無理はない。

ところで、われわれはこの問題を考えるときに、どうしても、財政負担増、労働力人口減少、あるいは国民貯蓄率低下など、マクロ経済に対する否定的インパクトの側面のみに目を奪われがちだ。そのように考えることが、いわば「習い性となる」かのごとく、頭に刷り込まれている。しかし、よく考えてみると、福祉財源から給付されたお金は、国民経済への負担という側面を持つと同時に、そのお金が消費されることによって内需を支える効果を持つのである。


全文はコチラから→潮流(経済)(2012年3月号).pdf 直

農業へのまなざしの変化と産業の未来

国際労働財団(JILAF)のメールマガジン掲載の「産業・労働ウォッチング」連載第2回です。今回は農業をとりあげました。

工場を飛び出すロボットたち

国際労働財団(JILAF)のメールマガジンに月2回ほど産業・労働ウォッチングの記事を書くことになりました。第1回は下記のとおりです。

派遣 vs 正社員? 時代映すCM

「散策・労働の小径」第3回(『ひろばユニオン』2012年3月号)


派遣 vs 正社員? 時代映すCM


派遣会社のCMが受けている。登場するのは、人気女優と、誰もが知っているアニメキャラ。ふり返れば、労働市場ビジネスのCMが本格的なスタートを切ったのは、規制緩和が大きな契機だった。

派遣社員のヒットCM
 07年末にリクルートに買収されて以来、鳴かず飛ばずだったスタッフサービスのTVCM「オー人事」シリーズが、今年に入ってから久方ぶりにヒットを飛ばしている。いま一番輝いている女優のひとり、多部未華子(通称たべちゃん)を起用した「派遣社員サイボーグ022・グッジョブ.私!正しいがんばり方」である。
 職場のスーパーお助け人として活躍するたべちゃんのサイボーグはまさにはまり役。綾瀬はるかが演じたサイボーグ(『僕の彼女はサイボーグ』、08年)の切なさもよかったけれど、今回のたべちゃん・サイボーグの不思議系も見事にキャラ立ちしている。これをふくらませると映画のネタになるかも。
 「サイボーグ022」という中途半端なコードネームは、スタッフサービスのフリーダイアル番号「022=オー人事」に由来する。神山健治監督によるアニメ版CM「正社員サイボーグ003」と対をなす企画だ。
 「サイボーグ003」とは、アニメファンなら誰でもご存知の石ノ森章太郎原作『サイボーグ009』のヒロイン、フランソワーズ・アルヌールのこと。神山健治監督は、この名作のリメーク版『009 RE:CYBORG』を、今年秋の封切に向けて鋭意製作中だ。同監督のサイトの掲示板によれば、「サイボーグ003として出演予定のフランソワーズ・アルヌールが、株式会社スタッフサービスと広告契約を結びました!」とある。この辺の凝った設定にも、今回の「オー人事」CMの企画に担当者がかなり入れ込んでいる様子がうかがえる。
 「正社員サイボーグ003」のテーマは、「間違ったがんばり方」。「超聴覚」と「超視覚」の能力を職場でもフルに発揮するフランソワーズ君なのだが、同僚や上司のプライバシーをバラしてしまったり、課長を気絶させてしまったりと、ついつい「間違ったがんばり方」をしてしまう。そこで今度は、「正しいがんばり方」をしてくれる「サイボーグ022」が登場するというわけだ。
 このCMの優れているところは、雇う側からみた「正しいがんばり方」と同時に、働く側から見た「望ましいがんばり方」についても提案していること。とてもうまくできているコピーなので、やや長いけれど引用しておこう。両者の「仕事に対する姿勢」を次のように対比させている。
 まず、「派遣社員サイボーグ022」の場合、「基本的にはマイ・ウェイ・マイペースであるが、仕事で困っている人をみかけたときには、自分らしく解決する。プライベートを充実させることで、仕事にさらに力が発揮できると考えている。」
 これに対して、「正社員サイボーグ003」はというと、「たとえそれが自分の気持ちを傷つけるとしても、たとえそれがひどく理不尽なことであっても、世界と組織のためには仕事を遂行するべきと考えている。多忙な毎日のせいで、プライベートの楽しみ方に疎くなっている。」
 前者のような「望ましい働き方」と、後者のような「こんながんばり方、イヤ」という働き方を、派遣と正社員という雇用形態に対応させて、なんとなく流れで納得させてしまうところがこわい。よく考えれば、そんなはずはないのに、このように派遣と正社員の働き方を対比してしまう先入観が徐々に形成されつつあるのは、残念ながら否定しがたい。そして、ドラマもCMもそうした風潮を助長する。時々クールに反省してみる必要がありそうだ。

CM変えた規制緩和
 さて、振り返ってみると、CMが仕事について積極的に語るようになったのは、比較的近年のこと。そもそもCMは、企業が提供するモノあるいはサービスがいかにすぐれているか、魅力的なものであるかをユーザーにアピールするものだ。労働市場という特殊な市場には、CMが目的とするような商品の売り込みは本来なじまない。また、実際、かつてはその必要もあまり感じられていなかったのだ。
 しかし、1990年代に進展した労働市場規制緩和は、労働者派遣、職業紹介等々の各種労働市場サービスのビジネスチャンスを拡大し、次第にこうした状況を変えていった。そして、97年に、スタッフサービスのTVCM「オー人事」シリーズが開始される。平成後期不況の到来とともに、日本の経済構造、労働市場構造が大きく転換するこの年に、労働市場ビジネスのCMが本格的なスタートを切ったのは、いま考えてみれば象徴的なできごとだった。
 「部下にめぐまれなかったら」「上司にめぐまれなかったら」「オー人事オー人事」というコピーのもとに数々の名作が生まれ、多くの人々がこのCMシリーズの絶妙のテーマ設定とシナリオに共感し、ブラックなユーモアを楽しんだ。「そうそう、職場の現実ってこんなものだよ」というパパのコメントが妙にリアルだったとしても、当時は、そこで描かれている市場志向型への働き方の変化が、まさかわが身にふりかかろうとは、誰も想像していなかっただろう。
 それから15年後の今日、派遣社員はお茶の間の話題にもなるくらい日常化し、3人に1人はさまざまな非正社員の雇用形態で働くようになった。まさに様変わりである。

就職難 多彩なCM
 いまでは、スタッフサービスだけではなく、就職情報誌やキャリアアップの教育ビジネスなど、さまざまな労働市場サービスに関するTVCMが流れるようになった。いずれにも共通するのは、今日の厳しい就職事情、雇用情勢を背景に、仕事探しの辛さと職業生活の哀歓をベースとするテーマで人々の共感に訴えようとしていることである。そして、かなりの傑作を生み出している。
 身につまされるような傑作の例をあげると、例えばアルバイト求人情報誌DOMOの「正社員発見編」(07年)は、山の中を何日間も捜索した挙句に発見されたくたびれ果てた正社員を描いて、DOMOだったら「正社員もバイトも見つかる」とアピールする。ブラックすぎるユーモアにはちょっと笑えないけれど、印象に残る傑作だった。
 学生向けの就活情報誌マイナビは、超氷河期の就活に苦しむ学生たちを勇気づけるために、人気バンドflumpoolによる就活応援委員会を立ち上げ、書き下ろしの就活応援ソング「フレイム」(3枚目のシングル)を行定勲監督のメガホンにより映像化した(10年)。就活の辛さと青春の切なさをダブらせて、グッと胸に迫るものがある。
 思うに、およそ文化的コンテンツは、「困難な時代」ほど傑作が生まれるのかもしれない。CMもまた然り。とはいえ、CMが苦難の職探しと仕事の苦悩をテーマに人々の共感を呼ぶような不幸な時代には、あまり長続きしてほしくないものだ。