宍倉佐敏『古典籍古文書料紙事典』

火曜日に装丁の依頼があり金曜日が締切りという日程だったので、当然次週の金曜日のことだと勝手に解釈して引き受けた仕事だったが、いざ始まってみたら中二日でやる仕事だった。今さら断ることも出来ず引き受けたが、目次とタイトルの原稿が送られてきただけでは、装丁のイメージもつかめないので、ネットで『紙漉重宝記』復刻版や『和国諸職絵尽』、『和紙の歴史』『紙の今昔』など資料になる図版が掲載されていそうな本を手当たり次第に購入した。しかし、これ等の本が届いたのは既に締切りが過ぎた土曜日の夜や日曜日になってからだった。


締切り日には間に合わないが、月曜日の朝までにはメールで送る約束を取り付け、月曜日は5時起きしてカンプを作り何とか送ることが出来た。


そんな裏話のある『古典籍古文書料紙事典』だが、さらに驚いたのは、見本が届いた時に著者の宍倉さんから携帯に電話が入った。「大貫さん、宍倉です」「あ、宍倉先生、『古典籍古文…』ではお世話になりました。ありがとうございます」「あ、やっぱり忘れていますね、何度かお会いしているんですが……」「えッ…?」「『西国立志編』で顕微鏡写真の……」「え、あの時の……全く結びつきませんでした、失礼しました」と、十数年前に何度かお会いしていたが、すっかり忘れていた。



宍倉佐敏『古典籍古文書料紙事典』(八木書店、2011年)


偶然は更につづき、今回装丁に使ったタントという紙は宍倉さんが特種製紙に勤めていたときに開発にかかわった紙と言うことで、偶然ながらこれにも驚かされた。



宍倉佐敏『古典籍古文書料紙事典』カラー口絵(八木書店、2011年)


460頁に及ぶ大部の力作で、目次を紹介するとカラー口絵が48頁に及び

第1部 料紙の基礎知識
 第1章 概 説
 第2章 製 法
 第3章 形態と特徴
 第4章 装幀と料紙
 第5章 原 料
第2部 料紙の調査事例
 第1章 古典籍
 第2章 古文書
 第3章 漢籍・経典
 第4章 百万塔陀羅尼
 第5章 歴代古紙聚芳
 第6章 藩札と私札
第3部 料紙の調査方法
 第1章 調査の流れ
 第2章 必要な道具とその使い方
 第3章 観察と分析方法
 第4章 観察と撮影方法
用語辞典

と、制作段階では目を通すことも出来ず、届いたばかりでまだ読んではいないが、紙に興味を持つ人の必携の書であることは間違いない。

池部三山と鳥居素川の骨折りで明治40年4月、夏目漱石が朝日新聞入社した。以後、漱石は「虞美人草」「坑夫」「三四郎」「門」「永日小品」「行人」「こころ」「みちくさ」など次々に連載を発表し50歳のときに「明暗」を絶筆として亡くなった。



名取春仙:画、夏目漱石「明暗」(東京朝日新聞、大正5年)、「明暗」の挿絵には落款がなく誰が描いたものであるのかが分からなかったが、第38回の挿絵に「NATORI」の署名があり春仙が描いたことが判明した。



漱石の入社を切掛に新聞小説の刷新が行われ、挿絵家も新人が採用されることになった。通俗物は右田年英が引き続き担当したが、純文芸ものには東京朝日新聞では名取春仙が、大阪朝日新聞には野田九甫が採用された。


春仙は漱石が入社した明治40年に入社し、二本立ての新聞小説のうち通俗的な時代小説ではなく、純文学的な作品を担当することになる。漱石の第一作「虞美人草」(明治40年6月〜10月)や二葉亭四迷「平凡」(40年10月〜12月)には題字の飾りカットを描くに過ぎなかったが、島崎藤村「春」(41年4月7日~8月19日)からは、春仙の持ち味を出した挿絵風コマ絵ともいうべき作品が登場した。

漱石三四郎」(明治41年9月1日〜12月29日)に続く森田草平「煤煙」では春仙の作風はほぼ確立していく。



春仙は、その後も泉鏡花「白鷺」、谷崎潤一郎「鬼の面」、長塚節「土」など朝日新聞連載小説の代表作のほとんどを描き、新聞小説挿絵に新風を吹き込んだ。



名取春仙:画、泉鏡花「白鷺」(朝日新聞明治42年


国民新聞には川端龍子が、平民新聞には平福百穂が採用され新聞小説挿絵は新しさを打ち出そうという気運に充ちていたが、洋画の様式を取り入れた春仙のコマ絵には他の追随を許さないモダンさに溢れていた。(つづく)