『都市伝説と犯罪』

一条真也です。

『都市伝説と犯罪』朝倉喬司著(現代書館)を読みました。
『犯罪風土記』(秀英書房)、『バナちゃんの唄』(情報センター出版局)などの名著で知られる著者が、「事実は小説より奇なり」な事件を人々がどのように伝えてきたかを検証するという本です。


             津山三十人殺しから秋葉原通り魔事件まで


著者は、業界誌を経て、『週刊現代』記者を10年以上務めた後に独立、フリーライターとして現在に至っています。現在、全関東河内音頭振興隊隊長を務めているとか。
河内音頭といえば、ブログ『告白』でも紹介した「河内十人斬り」です。実際に明治時代に起こった大量殺人事件ですが、わたしはこの事件に興味を抱いています。
東京は浜松町の書店「ブッククラブDAN」のサブカル・コーナーで本書を見つけ、しっかり「河内十人斬り」も取り上げられていたので購入し、一気に読了しました。



正直言って、思ったよりもアッサリした内容でした。かつての『犯罪風土記』のディープさを期待していたわたしとしては、少々ガッカリしたことは事実です。
アマゾンを覗くと、「内容がとっても薄くフィクションとしての完成度も低い」「過去の様々な有名な猟奇事件を取り上げているけど、書いてある内容はWikipedia程度です。この内容で2000円は高い」といった辛らつなレビューが並んでいますが、たしかにそう言われても仕方ない部分もあります。
くだんの「河内十人斬り」や横溝正史の小説『八つ墓村』のモデルになった「津山三十人殺し」にしても、たしかに現場に取材には行っています。
事件の分析にフィールドワークは必要不可でしょうが、それが現場に行って、たまたま近くにいた人に事件の思い出を聞く程度に終わっているのです。
もっと資料などを読み込んで、犯罪に至った心理分析などを行ってほしかったです。
はっきり言って内容が薄い感じがしたのですが、これは本書の内容がコンビニに置かれているような実話雑誌に連載されていたということも影響しているのでしょうか。



それでも、あらゆる本を面白く読む者としては(笑)、興味深い部分もありました。
まず、「河内十人斬り」や「津山三十人殺し」の共通点として、それぞれの事件の犯人が幼少時代に過保護にされて育っていたという事実です。
「河内十人斬り」の城戸熊太郎は幼くして実母を亡くしたがゆえに、不憫に思った父から過保護にされたくだりが町田康の『告白』にも書かれています。
さらに本書には、「津山三十人殺し」の犯人である都井睦雄も幼少時に両親を相次いで亡くし、不憫に思った祖母から甘やかされて育った事実が描かれています。



両事件に似たものとしては、1926年(大正15年)に岩淵熊次郎が千葉県香取郡久賀村で起こした大量殺人事件、いわゆる「鬼熊事件」も挙げることができます。
3つの事件の犯人は、ともに村人との人間関係がうまくいかないストレスが伏線となり、最後は女性問題で凶行に至ったことが共通しています。
やはり、いつの時代も、人間関係は最重要問題なのですね。
特に、戦前の閉鎖的な村社会においてはそうだったでしょう。
本書には、「津山三十人殺し」を起こす直前の都井の心境を「村社会そのものが彼の目には自分に敵対するひとつの人格のように映ったのである」と記しています。



その一方では意外にも、大量殺人の犯人に対する村人たちの「温かいまなざし」のようなものも認められます。
「河内十人斬り」の犯人である熊太郎と弥五郎が一種のヒーローとなり、河内音頭にまで彼らの名が歌われました。
そこには、2人の大量殺人犯を憎む気持というものはあまり感じられません。
また、「津山三十人殺し」の現場を訪れた著者は次のように書いています。
「惨劇から、かれこれ70年経った現場を取材してみて、私は意外なほど都井に同情的な声が多いのに驚いた。そう、稀代の殺人鬼と称された、あの都井に対して、である」
1926年(大正15年)に岩淵熊次郎が千葉県香取郡久賀村で起こした大量殺人事件、「鬼熊事件」の場合に至っては、犯人は村人たちにサポートされています。
熊次郎は1カ月以上も逃走を続けて全国の注目を集めたのですが、そこには彼が潜伏した山に食料などを差し入れた村人たちの存在があったのです。
著者は、この「鬼熊事件」についても次のように書いています。
「熊が1カ月以上も逃げ切れたのは、村人の支援があったからであり、この事件の底には、警察に体現された国家の論理と、村落共同体につちかわれた『情』や『道理』との密かなせめぎ合いが進行していたのである」
村社会というものには、どんな罪を犯した者であれ、一度は仲間であった人間を基本的に擁護するというシステムが働くのでしょうか。
それとも、地元だからこそ、警察やマスコミも知りえないような裏事情のようなものを知っているのでしょうか。



3つの事件の犯人がいずれも最後は、逮捕される前に自殺を遂げている点も共通しています。「死んだら、みな仏さま」でもあり、自殺によって生まれた「荒魂」が村に新たな災いをもたらすことを恐れたのかもしれません。
著者は、「河内十人斬り」について次のように書いています。
「確かなのは、『十人斬り』をここまで著名にしたのは、恨みを残して死んだ『荒魂』を供養しないと、村に災厄が起こるという、古くからの民俗的心意が基底に働いての事象だったということである」



大量殺人事件の犯人も、殺さなかった村人には親近の情があったようで、「鬼熊事件」の熊次郎などは、自殺直前に会見した新聞記者に次のように語ったそうです。
「すまねえ、すまねえ、堪忍しておくんなせえ。わしは村の衆にも、ここから大声であやまって死にてえだが、怒鳴ったくれえでは20、30人の衆にしか聞こえねえだから記者さまよ、わしのこの気持ちと無念を字に書いて何百万という人に伝えてくだせえ」
こう言ってから、熊次郎は涙をポロポロと流し、次の言葉を付け加えたそうです。
「お月さんのあがるのを拝んで死にてえ、他人様の山を血で汚してはワルいだから、山の下の肥作り場でやるつもりだ」
それから熊次郎は1人になって剃刀で首を切ったり、首を吊ったりしましたが、なかなか死に切れませんでした。最後は、警察に内緒で知らせてくれる人がおり、駆けつけた兄が手渡した毒入りモナカを食べて絶命しました。
なんだか、しんみりとしてしまう話ですね。当時の多くの民衆が彼らに共感を示したのも何となく理解できる気がします。



戦前の大量殺人犯には、どこかしら人情味のようなものが感じられるのに比べ、最近の大量殺人犯にはそんなものの欠片もありません。たとえば、本書の冒頭にある「検証・秋葉原通り魔殺人事件」は、次のような一文で始まっています。
「19世紀の産業革命が世界に2度の大戦をもたらしたとしたら、20世紀末に始まったIT革命が世の中に今、盛大に呼び込んでいるのが、個人の、無目的なテロだ」
これは、本書で最も印象に残った名文でした。
ブログ「名前の祈り、ネットの呪い」にも書いた加藤智大がネットの世界にはまり込んでいく様子が本書にも綴られています。
ネットで無視されれば極端に落ち込み、ネットで批判されれば逆上して、ついには秋葉原の路上を血で染めてしまう。
そこには、明らかにネットから呪いをかけられた一人の被害妄想の人間の姿があります。この被害妄想について、著者は次のように述べています。
「被害妄想、というと、精神の病の何か格別な症状のように思われがちだが、必ずしもそうではなく、私たちのごくふつうの心の働き方、働かせ方に広く根を張った、その分、いったんそれが先鋭化すると、とても頑固に当の本人を呪縛してしまう『心の一傾向』なのだと思う。そして私は、携帯やインターネットによるコミュニケーションは、この種の『妄想』の成長に極めて促進的に働く特性をもっていると考えている」
この著者の見方は非常に的確であり、本書の中でも最も興味深く読みました。



そして、もう一人忘れてはならない現代の大量殺人犯として、著者は「附属池田小事件」の犯人である宅間守をあげます。
判決の日、「どうせ死刑なんやろ。ひとこと言わさんかい!」と裁判長に向かって怒鳴り、法廷から引きずり出されていった宅間。
自ら極刑を強く希望し、判決の1年後には実際に死刑に処された彼こそ、わたしたには窺い知れない深い「こころの闇」を抱えていました。
法廷や獄中で、「反省」の態度を引き出したい弁護人など完全に無視して、宅間は以下のような言葉を吐き続けました。
「やる限り極刑覚悟でやるんやから、どっちにしろ数こなす必要があったからね。幼稚園でやっとったら、もっと殺せた思います」
「大量殺人は、後に続くやつが出てくることを祈りながらやるんでね。今でもずっと祈ってるけど・・・・・世の中むちゃくちゃになったらええんです」
「遺族は国から7500万円もらってホクホクですな、よろしいな」



この稀代の殺人鬼を妊娠したとき、宅間の母親はうわ言のように、こう口走ったとか。
「あかんわ、これ。おろしたいねん私、あかんわ絶対、お父ちゃん」
まるでオカルト映画「オーメン」の主人公ダミアンのような悪魔の子を宿したと思ったのでしょうか。著者は、このエピソードを紹介した後、次のように述べます。
「母親は何を感じたのだったか。精神を病んだ本人自身、今は記憶も蒸発しているに違いない。確かなことは、63年、父親の意向でこの世に生を受けた宅間が、ほぼ母親の『予言』どおりの生涯を送ったということである」
そして、「あかん」とつぶやいた若き日の母親に答えるように、宅間は獄中で次のように手記を書きました。
「これでよかったのだ、これで。私は生まれてきたのが間違いだったのだ」



母子の間の問答が成立したのかどうかは知りませんが、何の関係もない8人の犠牲者が巻き添えを食ったわけです。
宅間守は、わたしと同じ1963年に生を受けました。
そして、彼が附属池田小学校に乱入して大量殺人を犯したとき、ちょうど、わたしの長女が同じく国立の附属小倉小学校に通っていました。
ですので、事件当時は大変な衝撃を受けたことを記憶しています。
そのときに犠牲になったお子さんたちの親御さんの心中を思うと、胸が痛みます。
猟奇事件の犯人をヒーロー視する人々も、いつでも自分自身が理不尽な凶行の被害者や遺族になりうるのだということを想像すべきかもしれません。


2010年8月28日 一条真也

『実践!多読術』

一条真也です。

『実践!多読術』成毛眞著(角川oneテーマ新書)を読みました。
著者は、書評ブロガーとして有名な人です。2008年に出版した『本は10冊同時に読め!』(知的生き方文庫)では、「超並列」読書術というものを紹介しています。


                本は「組み合わせ」で読みこなせ


本書の「はじめに」には、その「超並列」読書術について次のような説明があります。
「動物の中で人だけが本を読む。したがって、本を読まずして自身が成長し、人生に成功する方法などあるはずもない。しかし、ただ本を読めば良いというものではない。適切な本を選んで多読を心がける、そして並列に読むことが大事だ」
著者は、基本的に新刊書だけを読み、それも小説の類はまったく読まないそうです。
「超並列」読書によって「多面的な物の見方」を得ることの大切さを訴えています。
それならば、古典や小説も読んだほうが多面的な物の見方ができるのでは?



でも、本書を読んで、著者の考え方に共感できた部分も多かったです。
まず、「書評」というものに対する著者の考え方に非常に共感しました。
著者は、あくまでも自分が薦めたい本を誰かに伝えたくて書評を書いているそうです。
佐々木俊尚氏によれば、著者のような書評家を「キュレーター」と呼ぶそうです。
キュレーターというのは、もともと博物館や美術館などの学芸員のことで、観客に観てほしい作品を展示します。つまり、キュレーターというのは専門家ではありますが、「評論家」でなく、あくまで「推薦人」なのです。
著者は日頃から、気に入った本を薦める書評ばかり書いています。
そのため、褒める文章だけはうまくなった気がするとした上で、次のように述べます。
「これは、日常生活においても、仕事の上でも得なことだ。人間関係を円滑にするためには、褒めることが基本だからだ。少なくとも、人を蔑み、バカにするための言葉がうまくなるよりもはるかに得だ。人をバカにしてメシが食えるのはテレビの中のコメンテーターやタレントくらいなものである」
匿名ブロガーなどの中には、非常に悪意のある書評を書く者がいます。
そんな人には、ぜひ、この文章を読ませたいものですね。



ここで思い浮かぶのは、哲学者の内田樹氏です。
内田氏は2010年1月22日のブログで、自身のことを「『絶賛書評』家」と呼んだ上で、次のように書いています。
「世の批評家たちのなかには絶賛しないどころか、書評でひとの本の欠点を論う人がいるが、あれはどうかと思う。
 書評というのは、いわば『本』の付属品である。
 鰻屋の前に立って、道行く人に向かって『ここの鰻は美味しいですよ』というのは赤の他人の所業でもつきづきしいが、『ここの鰻はまずいぞ』と言い立てるのはやっぱりお店に対して失礼である。
 つかのまとはいえ、先方の軒先を借りてるんだから。
 そういうことは自分の家に帰って、同好の士を集めて、『あそこはタレが甘いね』とか『ご飯が硬いんだよ』とかぼそぼそ言えばよろしいのではないかと思う」
わたしは、この内田氏のブログの文章を勢古浩爾著『ビジネス書大バカ事典』(三五館)を読んで知りました。「さすが、内田樹!」と言いたくなる文章ですが、まさに「書評の本質は絶賛にあり」と、わたしも思います。



いま、大きな話題となっている電子書籍に対する著者の考え方にも共感しました。
著者は「書籍は情報であることはもちろんだが、それ自体が作品でもある。装丁にも、スピンと呼ばれるしおり紐にも、版の組み方にも、ノンブルにもそれぞれの価値がある」と書いているのですが、わたしが言いたかったことをよく代弁してくれた思いがしました。
これだけ多くの本を読みながら、本を消耗品として見なさずに、作品として見る。つまり、本への愛情が感じられて、好感が持てました。



それから、「これから成功するかもしれない書店のビジネスモデル」という章を興味深く読みました。著者は、専門書店をモジュール化したビジネスモデルを考えているそうで、次のように述べています。
「たとえば築地に行くと、料理の本だけに特化した書店がある。ホームセンターにはDIYやガーデニングに特化した書店コーナーがある。秋葉原には、模型専門の書店がある。じっさいイギリスには、ガーデニング専門の書店が目立つ。これに加えて、たとえば自動車専門であるとか、時代小説専門といった専門業種をセレクトして、間口一間でモジュール化する」
非常に面白いアイデアだと思います。わが社では、グリーフケア・ワークの専門ショップ「ムーンギャラリー」をオープンし、そこに「グリーフケア」の専門書店を併設しましたが、今後は「冠婚葬祭」や「人間関係」といったジャンルの専門書店なども構想しています。



さて本題の読書術では、第三章「経営者は自然科学に学べ」が興味深かったです。
「仮説検証は経営の仕事、だから自然科学に学べ」「マーケッターは、把握できないものに手を出すな」「日本の軍事記録は人心掌握術を学ぶべき教科書」「ノンフィクション・ミステリーで、常識を疑う心を養う」など、どの章も説得力に富んでいます。
ノンフィクションでは、フェルナン・ブローデル著『地中海』全5巻(藤原書店)やロビン・ガーディナー、ダン・ヴァンダー・ヴァット著『タイタニックは沈められた』(集英社)など、わたしの愛読書も紹介されていたので嬉しくなりました。
著者が入浴中に読むという『知の再発見』双書(創元社)も、わたしのお気に入りです。
一方、著者が推薦しているブローデル『歴史入門』(中公文庫)、グレアム・フィリップス著『消されたファラオ――エジプト・ミステリーツアー』(朝日新聞社)や瀬地山澪子著『利休――茶室の謎』(創元社)は未読なので、ぜひ読んでみたいと思いました。
早速、『歴史入門』をアマゾンで注文しました。『消されたファラオ』もアマゾンの古書で注文できましたが、『利休』のほうはまったく入手不可能でした。
どなたか古書店などで見つけられたら、御連絡下されば幸いです。



最後に「経済・経営編」として、著者が薦める本に、『マネジメント――務め、責任、実践』全3巻、ピーター・ドラッカー著、有賀裕子訳(日経BP社)がありました。
著者は、「ドラッカーの凄みは手法の鮮やかさだと思う」と述べます。一般に経済学者は現実を必死に理論化し、その理論の正当性を検証するという科学的な手続きを重んじます。しかしドラッカーは、直感的に現実を捕まえて表現することができるというのです。
もちろん、ドラッカーは経済学者ではありません。
それどころか経営学者でも哲学者でもなく、いわば「ドラッカー」という存在としか表現できないとして、著者は次のように述べます。
ドラッカーを語りはじめると一冊を費やしかねない。しかし、ドラッカーを解説する本を読むよりも、ドラッカーを一冊読むほうがはるかに手っとり早いのだ」
最短で一流のビジネスマンになる!ドラッカー思考』(フォレスト出版)という本を書いたわたしも、そう思います。(笑)
なんだか、ドラッカーの著書をもう一度読み直してみたくなりました。


2010年8月28日 一条真也