「日中歴史共同研究」八路軍(中共)の戦いに関する部分(中国側)2

 時間があいてしまったが、『日中歴史共同研究』の中国側論文の続きを。
 まずは『第二部 戦争の時代  第三章 中日戦争と太平洋戦争  一、太平洋戦争中の中国戦場』(報告書P206)より。執筆者は陶文勝l氏。
 原文で示された参考文献は、注に示した。


「太平洋战争爆发以后,日本实行“以战养战”的方针,要把华北变成其“兵站
地”,集中了大部侵华日军实行“治安战”。日军将华北划分为“治安区”(即敌占区)、“准治安区”(即游击区)和“非治安区”(即抗日根据地),分别采取不同的侵略手段。对敌占区,加强汉奸伪组织,强化基层保甲制度,扩大警察特务,对一切抗日活动严加镇压。对游击区,着重采取一种较为缓慢的“蚕食”手段,通过修筑公路网、碉堡群、封锁沟墙,制造无人区,隔断游击区和根据地的联系,并将敌占区的做法逐渐在这些地区实施。对抗日根据地,则进行反复的、长时间的和残酷的扫荡,实行烧光、杀光和抢光的“三光政策”,甚至屡屡使用毒气。从1941 年到 1942 年日军在华北连续推行了五次“强化治安运动”,使根据地进入了极端困难的时期。*1如 1942 年5 月1 日开始的对冀中抗日根据地的“铁壁合围”大“扫荡”,持续时间竟长达2 个月之久。
  日军把冀中当作向晋察冀边区和北部太行山区提供后勤补给的基地,为大“扫荡”进行了长达一年的准备, 布置了无数的碉堡和稠密的公路网,华北方面军司令官冈村宁次亲自进行部署指挥,实施了“纵横合击”,“辗转剔抉”等办法,企图消灭八路军主力;并建立伪政权,扩大伪军,以摧毁农村抗日秩序。过去大块的抗日根据地一般变成了游击区,形势十分险恶。在日军的残酷“扫荡”下,敌后根据地出现了严重的困难局面,根据地面积缩小了,人口由 1 亿下降到5000 万,八路军、新四军由50 万减少到40 万。*2
 中国共产党领导军民进行反“扫荡”,正规军与广泛的群众性的民兵和自卫队并肩作战,采取了地雷战、地道战、交通战、麻雀战、水上游击队等一整套人民战争的战略战术,使日军的“扫荡”不能达到目的。 在游击区,正规军、游击队、民兵相结合进行反“蚕食”斗争。 在敌占区则采取武装工作队的方式进行骚扰,使日军不得安宁。当时担任日本驻汪伪政府“大使”的重光葵曾感叹: ”最初3万人的八路军现在估计已有30万,以陕北为根据地,潜入日军占领的华北地区,北京、天津、济南及青岛一带都市以外的地方 几乎都成了他们活动区域,而且以其巧妙的社会政策而扩展其势力。……重庆尚且可凭借武力加以收拾,但是共产党军是大问题。……恐怕是将来大东亚新秩序的祸根。”*3
 1943 年,日军仍一再对敌后抗日根据地进行“扫荡”。但它不能克服兵力不足、异国作战、指挥笨拙等根本弱点,而且随着战争的进行,这些弱点暴露得越来越明显。华北、华中和华南抗日根据地军民经受了1941-1942 年反“扫荡”艰苦斗争的锻炼,在1943 年粉 碎日军的“扫荡”和“清剿”过程中不但恢复而且还部分地发展了根据地,使日军“确保华北兵站基地安定”的企图破产。
  1944 年,世界反法西斯战争开始进入大规模的战略反攻阶段。中共中央华北局提出“积蓄力量,准备反攻,迎接胜利”的方针,华北各敌后根据地打开了对敌斗争的新局面。在华中战场,新四军也展开了积极的反攻。在华南战场,东江纵队和琼崖纵队在斗争中不断发展壮大。抗日军民在敌后战场的作战牵制了日军对正面战场的进攻。 日军在进行豫湘桂作战时已对后方战场“甚为忧虑”,它鉴于“原来占领地区的治安急剧恶化”,而 伪军又“军纪松弛,战斗意志低落”,*4不得不从平汉路南段调回部分兵力以保卫中心城市和交通干线。
  1945 年日军在敌后战场已处于守势,敌后根据地依照毛泽东“削弱敌寇,发展我军, 缩小敌占区”的指示,展开更大规模的反攻,对敌进攻已不限于一个地区,而走向各个军 区之间的协同作战;战争形式已经转变为以运动战为主。到1945 年春,敌后抗日根据地已 拥有正规部队91 万,民兵220 万,总面积已达95 万平方公里,人口9550 万。*5)在人民力 量空前壮大的情况下,中国共产党第七次全国代表大会于1945 年4 月23 日至6 月11 日在 延安举行。大会认为,在抗日战争胜利以后,中国面临着两种命运、两个前途的斗争,中国共产党的任务就是要竭尽全力去争取光明的前途,反对障テ暗的前途。这次大会为中国共 产党领导人民去争取抗日战争和新民主主义革命的胜利奠定了政治和思想的基础。

 その日本語訳。参考文献は簡体字から日本漢字に直した。


 太平洋戦争が勃発した後、日本は「戦争で戦争を養う」という方針を実行し、華北を「兵站基地」に変えるべく、多くの日本侵略軍を集めて「治安戦」を行った。日本軍は華北を「治安区」(敵占領区)、「準治安区」(遊撃区)、「非治安区」(抗日根拠地)に分類し、それぞれ異なる侵略の手段を採用した。敵占領区では、漢奸の偽組織に力を入れ、基礎保甲制度を強化し、警察特務を拡大して、すべての抗日活動を厳しく鎮圧した。遊撃区では、比較的緩慢な「蚕食」の手段が取られ、交通網やトーチカをめぐらし、溝や壁で封鎖して無人区を製造し、遊撃区と根拠地の連携を断った。あわせて敵占領区での方法を少しずつこの地区でも実施した。抗日根拠地に対しては、反復的で長期的かつ残酷な掃討を行った。焼き尽くし,殺しつくし,奪いつくすの「三光政策」を実施して、たびたび毒ガスさえも使用した。1941年から1942年にかけて日本軍は華北で連続して5回の「治安強化運動」を推し進め、根拠地は極端に困難な時期を迎えた。*6 1942年5月1日に始まった冀中抗日根拠地*7への「鉄壁の包囲」による大「掃討」は2ヶ月の長きにも渡って続けられた。
 日本軍は、冀中を晋察冀辺区*8と北部太行山区に対する後方補給基地とし、大「掃討」を行うために一年間準備した。無数のトーチカと緻密な交通網を設置した。華北方面軍司令官岡村寧次は自ら部署の指示を行い、「縦横から攻める」「転々と削り取る」などの方法を実施し、八路軍の主力の消滅をはかり、あわせて偽政権を作り偽軍を拡大して、農村の抗日秩序を破壊しようとした。大きく削り取られた抗日根拠地は、だいたいにおいて遊撃区に変わり、形勢は充分に悪化した。日本軍の残酷な「掃討」のもと、敵後根拠地は深刻で困難な局面を迎えた。根拠地の面積は縮小し、人口は1億人から5000万まで減り、八路軍,新四軍は50万から40万に減少した。*9
 中国共産党に導かれた軍民は、反「掃討」を行い、正規軍と広範な群集的な性格を持つ民兵および自衛隊は、協力して作戦を行い、地雷戦,地下道戦,交通戦*10,雀戦*11,水上遊撃隊などの一連の人民戦争的戦略戦術を採用した。このため日本軍の「掃討」は目的を達せられなかった。遊撃区においては、正規軍,遊撃隊,民兵などが協力しあって反「蚕食」闘争を行った。敵占領区では、武装工作隊によって騒乱を起し、日本軍を不安に陥れた。当時、汪偽政府の駐在「大使」であった重光葵はこう嘆息している。「最初は3万人であった八路軍は今では30万になっている。陜北を根拠地とし、日本軍が占領する華北に潜入し、北京,天津,済南および青島一帯の都市以外の地域は、ほとんど彼らの活動区域になった。さらにその巧妙な社会政策で勢力を拡大している。・・・重慶は武力でなんとかなるだろうが、共産党は大問題だ。・・・将来の大東亜新秩序の禍根となるかもしれない」*12
 1943年、日本軍はなおも再び敵後抗日根拠地への「掃討」を行った。しかし、兵力の不足,異国での作戦,稚拙な指揮などの根本的な弱点を克服することができず、これらの弱点は戦争が進むに連れてますますはっきりしてきた。1941年から1942年の反「掃討」を経て、苦闘に鍛えられた華北,華中,華南の抗日根拠地の軍民は、1943年の日本軍の「掃討」と「清剿」を粉砕した。根拠地を取り戻しただけでなく、一部は拡大させ、日本軍の「華北兵站基地の安定を確保する」というもくろみを破産させた。
 1944年、世界反ファシズム戦争は、大規模な戦略反攻段階に突入した。中共中央華北局は「力量を蓄積して反攻を準備し、勝利を迎える」の方針を提出し、華北の各敵後根拠地は、対敵闘争の新局面を開いた。華南戦場では、新四軍も積極的な反抗を展開した。華南の戦場では、東江連隊と琼崖連隊が闘争の中で不断に発展していった。抗日軍民の敵後戦場における作戦は、日本軍の正面戦場に対する進攻を牽制した。日本軍が豫湘桂作戦を行っていた時には、すでに敵後戦場は「甚だしい憂慮」であり、「もともとの占領区の治安が急激に悪化」していることおよび偽軍の「軍紀が緩み、士気が低下」*13したことに鑑みて、平漢鉄道の南から兵力を中心的な城市と交通幹線の防衛にまわさざるを得なくなった。
 1945年、日本軍は敵後戦場ですでに守勢にまわるようになっていた。敵後根拠地は、「敵侵略者を削減し、我が軍を発展させ、敵占領区を縮小せよ」という毛沢東の指示に基づき、さらに大規模な反攻を展開した。敵への進攻は一個の地区に限らず、各軍区の間の協同作戦であった。戦争の形式はすでに運動戦を主とするものに変わっていたのである。1945年春になると、敵後抗日根拠地はすでに91万の正規部隊,民兵220万を擁し、総面積は95万平方キロ、人口は9500万となっていた。*14人民の力量が空前の規模で大きくなった情況の下、中国共産党は第7次全国代表大会を1945年4月23日から6月11日にかけて、延安で挙行した。大会は、抗日戦争の勝利後、中国は2つの運命,2つの未来を賭けた闘争に直面すると見なし、中国共産党の任務は全力を尽くして明るい未来を勝ち取り、暗黒の未来に反対するべきであるとした。この大会は、中国共産党が人民を指導し、抗日戦争と新民主主義革命の勝利を勝ち取りに行くための政治と思想の基礎を打ち立てた。


 以上。参考文献としてあげられている『華北治安戦(下)』とは、『北支の治安戦 2』(防衛庁戦史編纂室編/)のことではないかと思われる。こちらの文献はもちろん日本語で読むことができる。
 なお岡村寧次の“纵横合击”,“辗转剔抉”や重光葵の発言はうまく訳すことができなかった。これらは日本の文献で探せば載っていると思うが(特に重光葵の発言は『北支の治安戦』でも見かけた記憶があるが詳しく思い出せない)、現在中国にいるので確認できない。ここは(特に)不十分な訳であることをご了承願いたい。

 最後に、中共の抗戦に特化した箇所ではないが、中国側の日中戦争に対する総まとめである『第二部 戦争の時代  第三章 中日戦争と太平洋戦争  四、結語』(報告書p215〜216)も参考までに訳しておく。執筆者は同じく陶文勝l氏。


 本部分所述的时期是近代中日关系史上两国间矛盾和冲突最尖锐,以至发生全面战争 的时期,是中日关系史上最障テ暗的年代。日本的大陆政策发展到了这个时期,导致了 “9•18”事变,日军迅速占领了中国东北三省。但日本并不满足于侵占东北,1935 年制 造了华北事变,继续向华北扩张,并终于在1937 年7 月7 日以炮轰宛平县城、进攻卢沟 桥为标志,发动了全面侵华战争。
 日本的侵华战争给中国人民带来了深重的民族灾难。侵略者先后践踏了中国大片土 地,侵占了中国大部分重要城市,企图把中国变为日本的殖民地。侵略者肆意屠杀中国军 民,强行掠取劳工,蹂躏和摧残妇女,进行细菌战和化学战,制造了南京大屠杀等一系列 惨案。据不完全统计,战争期间,中国军民伤亡3500 多万人。按1937 年的比值折算,中 国直接经济损失1000 多亿美元,间接经济损失5000 多亿美元。
 中国人民对日本的侵略进行了顽强的抵抗。中国国民党和中国共产党领导的抗日军队,分别担负着正面战场和敌后战场的作战任务,形成了共同抗击日本侵略者的战略态 势。以国民党军队为主体的正面战场,组织了一系列重大战役,给日军以沉重打击,使日 军速战速决的计划破产。中国共产党领导的敌后战场,广泛发动群众,开展游击战争,八 路军、新四军、华南游击队、东北抗日联军和其他人民抗日武装力量在极其困难的条件下 奋勇作战,给日军以重大杀伤,并起到了牵制日军的重要作用。两个战场互相支持,使中 华民族坚持了持久的抗战。
 在侵华战争期间,日本一直没有放弃诱降的政策,也扶植了一些地方的伪政权,并策 动了汪精卫为首的亲日派公开投降,但中国始终坚持了全民抗战,日本的诱降图谋从总体 上来说没有成功。
 中国人民抗日战争的伟大胜利,是中华民族全体同胞团结奋斗的结果,也是中国人民 同世界反法西斯同盟国人民并肩战斗的结果。中国人民抗日战争是世界反法西斯战争的重 要组成部分,是世界反法西斯战争的东方主战场。首先,在太平洋战争爆发以前,中国几 乎是单独对日作战的。中国是一个国力贫弱的国家,它以落后的经济和简陋的武器装备, 在缺少国际援助的情况下,敢于同经济上和军事上都实力雄厚的日本相抗衡,这本身就是 对世界正义力量的一种鼓舞和感召。其次,中国人民以自己的抵抗和牺牲,拖住了日本法 西斯的后腿,减轻了苏联和英、美等国在亚洲面临的战争压力。由于无法从中国战场抽调 大量部队,日本一直不能实行北进。惟其如此,苏恕y战争爆发后,苏联才能顺利地从远东 地区陆续抽调50 多万军队和大量重武器前往西线抗击恕y军。欧战爆发后,英、法受到严重 打击,对于它们在亚洲的殖民地已经无力加以保护。美国还在进行战争的准备。日本希望 迅速结束对华战争,抽调大部兵力向南夺取英、法、美、荷等国在东南亚和太平洋地区所控制的重要战略资源。但直到日本发动太平洋战争,南进的兵力只有10 个师团和三个混成
旅团,还不及侵华兵力的30%。
  再次,从“7•7”事变到1945 年,日本历年投入到关内战场上的陆军,最多的年份占 14 编制总额的90%,最少的一年占35%,八年中平均每年占76%以上。在太平洋战争中,日 本陆军的主力仍然被牵制在中国战场。世界反法西斯战争是一个整体。中国战场与太平洋 战场互相支持,互相援助,互相鼓励,共同为最终战胜法西斯作出了贡献。对于中国战场 的作用,罗斯福总统在太平洋战争爆发后不久就说过:“没有中国,如果中国不行了,多 少个日本师团可以腾出手来!他们去干什么?他们可以拿下澳大利亚,拿下印度——他们 可以唾手而得,然后直指中东”。*15总之,中国战场坚持的时间最长,牵制和消灭的日军 最多,消耗了日本大量的战争资源。有了这个主战场,才有反法西斯战争在东方的胜利。
 中日战争对于两国都是非常重要的。抗日战争是中国近代历史的一个根本转折,是中 国复兴的枢纽。战争改变了中国,极大地激发了中国的民族觉醒,改变了中国国内政治力 量的对比,国内两大政治势力共产党和国民党的力量迅速此长彼消。抗战胜利准备了新中 国与旧中国的决战,战争胜利后仅几年,中国人民就赢得了革命的胜利,取得了民族的独 立。
 战争也是日本历史的转折点。日本法西斯遭到彻底败亡,日本人民从此摈弃了给他们 带来巨大灾难的军国主义,走上了新的和平发展的道路。战争的结束也为中日两国建立全 新的平等关系提供了可能。

 本論文では、近代の中日関係史上、両国間の矛盾と衝突がもっとも先鋭化し、全面戦争にまでいたる中日関係史上もっとも暗黒であった時代について論じた。日本の大陸政策が発展したこの時期は、“9.18”事変を引き起こし、日本軍は迅速に中国の東北三省を占領した。しかし、日本は東北を占領しても満足せず、1935年には華北事変を起し、続けて華北地方に拡張し、ついには1937年7月7日の宛平県城への砲撃と、盧溝橋への進攻を分岐点として全面的な中国侵略戦争を発動したのである。
  日本の中国侵略は、中国人民に深刻な災厄をもたらした。侵略者は中国の広大な国土を踏みにじったのに前後して、中国の大部分の重要な都市を占領し、中国を日本の植民地に変えようとたくらんだ。侵略者はほしいいままに中国の軍民を虐殺し、労働者を強制的に奪い取り、女性を蹂躙し、細菌戦と化学戦を行い、南京大虐殺などの一連の惨殺事件を起した。不完全な統計によれば、戦争期間の中国軍民の死傷者は3500万人余りになる。中国の直接的な経済損失は、1937年当時の価値に換算して、1000億ドル余りであり、間接的な損失は5000億ドル余りになる。
  日本の侵略に対して、中国人民は頑強に抵抗した。中国国民党中国共産党が率いる軍隊は、正面戦場と敵後戦場で作戦任務を分担し、共同して日本侵略者に対抗する戦略態勢を形成した。国民党軍隊は主に正面戦場で、一連の重要な戦役を組織し、日本軍に深刻な打撃を与え、日本軍の速戦速決の計画を破産させた。中国共産党が指導した敵後戦場では、広範囲な群集を発動し、遊撃戦争を展開した。八路軍,新四軍,華南遊撃隊,東北抗日聯軍とその他の人民抗日武装勢力は、困難な条件下で勇気を奮って作戦を行い、日本軍を多く殺傷し、あわせて日本軍を牽制する重要な作用を担った。
 中国侵略の期間、日本は一貫して投降を促す政策を放棄せず、地方に偽政権を育て、あわせて汪精衛をトップとする親日派に公開投降を促した。しかし中国は最初から最後まで全民抗戦を堅持し、日本の投降を促す画策は全体的に言えば成功しなかった。
 中国人民の抗日戦争における偉大な勝利は、中華民族すべての同胞が団結して奮闘した結果であり、中国人民が世界反ファシズム同盟国の人民と肩を並べて戦った結果である。中国人民の抗日戦争は世界反ファシズム戦争の重要な部分であり、世界反ファシズム戦争の東方における主要な戦場である。最初、太平洋戦争が勃発する以前は、中国はほとんど単独で対日作戦を行っていた。中国は貧弱な国家であり、経済的に立ち遅れ武器も貧弱で、国際援助も欠乏していた。その中国があえて経済も軍事力も豊かな日本に抵抗したことは、世界の正義を求める勢力を鼓舞し感化した。次に、中国人民は自己の抵抗と犠牲をもって、日本ファシズムの足止めをし、ソ連,イギリス,アメリカなどがアジアにおける戦争の負担を軽減した。中国の戦場から大量の部隊をまわすことができないため、日本は最後まで北進を実行できなかった。そのため、独ソ戦が勃発した後、ソ連は順当に極東地区から50万余りの軍隊と大量の武器を次々と西戦線のドイツ軍との戦いにまわすことができた。欧州戦争が勃発した後、イギリス,フランスは深刻な打撃を受け、彼らのアジア植民地を保護することができなくなっていた。アメリカは戦争の準備が整っていなかった。日本は迅速に中国に対する戦争を終わらせ、大部隊を南へまわして、イギリス,フランス,アメリカ,オランダなどが東南アジアや太平洋地区で支配する重要な戦略資源を奪いに行きたかった。しかし、日本が太平洋戦争を発動するに至っても、南進の兵力はただ10個師団と三個の混成旅団のみで、これは中国侵略の兵力の30%にもおよばなかった。
  その次には、“7.7”事変から1945年まで日本が毎年関内*16の戦場に投入した陸軍は、最も多い年で14編成総額の90%、最小の年で35%、八年間の平均は年76%以上であった。太平洋戦争中、日本陸軍の主力はなお中国戦場で牽制されていた。世界反ファシズム戦争は一体である。中国の戦場と太平洋の戦場は相互に支持しあい、援助しあい、鼓舞しあった、共同でファシズムとの最終戦争の勝利に貢献した。中国戦場の役割について、太平洋戦争勃発後しばらくしてルーズベルト大統領はこう述べた。「中国がなかったら、もし中国がだめになったら、どれだけの日本の師団が出てきたことだろう! 彼らはどこへ行くか? 彼らはオーストラリアやインドを手に入れるだろう。彼らは簡単にそれらを手に入れた後、中東をめざすであろう」*17。総じて、中国の戦場は最も長い時間堅持され、最も多くの日本軍を牽制し消滅させ、日本の大量の戦争資源を消耗させた。この主戦場があったから、東方における反ファシズム戦争の勝利もあった。
  中日戦争は両国どちらにも非常に重要であった。抗日戦争は中国近代史の根本的な転換点であり、中国の復興に関して中心的役割があった。戦争は中国を変えた。最大級の規模で中国の民族的覚醒が起こった。中国の国内の政治勢力のバランスも変わり、国内の二大政治勢力である共産党と国民党の勢力は迅速に変わった。抗戦の勝利は、新中国と旧中国の決戦を準備し、戦争に勝利してから幾年もたたぬうちに、中国人民は革命の勝利を勝ち取り、民族の独立を得た。
 戦争は日本にとっても歴史の転換点であった。日本ファシズムは徹底的に敗北し、日本人民は彼らに巨大な災厄をもたらした軍国主義を捨て去って、平和的発展の道を歩むようになった。戦争の終結によって中日両国は健全でまったく新しい平等な関係をつくることが可能になった。


まとめと雑感
 
 今回に限らず、中国の文献を訳す上で(私にとって)必ず出てくる問題が、「領導」という中国語をどう訳すかである。例えば「中国共産党領導人民」だと辞書通りに訳せば、「中国共産党に率いられた人民」「中国共産党率いる人民」「中国共産党が指導する人民」「中国共産党に導かれた人民」などと訳せるわけで、たぶんそれで大筋は間違っていないと思うが、原文が伝えたいニュアンスと微妙に違う気がするのである。何がどう違うのかうまく言えないが(言えたら訳している)、ともかく何か違うのである。しかし、現状、私にはこれ以外にどう訳せば適切かわからない。なので、読み手には、この「領導」という言葉が関係する文章に関してはあまり適切な訳ではないことを頭において読んでいただきたい。

 結語においては、中国の戦場が第二次世界大戦で果たした役割が簡潔にまとめられている。
 まず大前提となるのは「中国戦場は、世界反ファシズムの重要な戦場の一つ」であるという認識である。そこを大前提として三つの歴史的役割がまとめられている。

・弱小国である中国が、強国である日本ファシズムの侵略(という不正義)に抵抗を続けたことによって、世界中の正義を愛する勢力を鼓舞したこと。(これは言い換えれば、ファシズム・侵略に対しては徹底的に戦うべきで、そしてそれはどんなに小さく弱い存在であっても可能だ、という認識が世界の多くの人の共通認識として形成され、第二次世界大戦において連合国側の国民の士気を高める下地となった、ということも言えるだろうか?)
・日本を中国戦場に足止めしたことで、他の連合国の戦いに寄与したこと(日本の北進を阻み、南進も思うようにはさせなかったこと)
・日本の陸軍の兵力の多くを中国戦場に足止めし、連合国の戦いに寄与したこと(2点目では日本の国力や戦争政策など全体的なことに影響を与えてことを言っているが、ここでは「陸軍の兵力」というより具体的なことを指している)

 また、この論文で特徴的なのは、中共の戦いの意義付けや中国戦場の戦いの意義付けとして、日本側の認識やルーズベルト大統領の認識など中国外部の見解を引き合いに出し、「自画自賛」といわれる事態をなるべく避け、客観性を訴えようとしている点であろう。

 それと、ブログの趣旨上、中共の戦いに関係する部分だけを取り出したが、よく言われるように「日中歴史共同研究」の中国側研究全体では、国民党の抗戦について非常に多く語られている。そこらへんは誤解ないよう書いておく。

 ところで産経新聞が社説にて

日中戦争での中国側の死傷者数をめぐっては、国民政府軍312万人、死者は約132万人、負傷者は180万人、中国共産党軍58万人超とした日本側に対し、中国側は「不完全な統計では、約3500万人が死傷した」とし、双方の数字に大きな差が出た。

http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2514.html


とか非常にアホなことを言っている。この「比較」のどこがインチキか、一目でわかると思うが、一応太字強調しておいた。*18

 私としては、とりあえず敵後根拠地の大まかな動き(拡張と縮小の時期や戦略方針の転換時期)などがわかってその点では有意義だった。・・・・・・けっこう、忘れたりごっちゃにしてしまうんだよね・・・やっぱり史料を読むだけじゃなくて、適時まとめておくのは大切だと思う。
 また、中国が第二次世界大戦中の自国の歴史的役割を強調することに対して、一部では「日本はアメリカに負けたが、中国には負けていない」という意見もあるだろう。百歩譲ってその見解を認めるとして、私ならこうつけくわえる。「確かに日本はアメリカに負けたが、アメリカを日本に勝利させたのは中国である」と。これが現在の私の見解であることを明記しておく。

*1:中央档案馆、中国第二历史档案馆、吉林省社会科学院合编:《细菌战与毒气战》,中华书局1989 年版,第 436- 438 页。

*2:中共中央党史研究室:《中国共产党历史》,上卷,人民出版社1971 年版,第583- 584 页。

*3:重光葵纪念馆编:《重光葵外交意见书》第2 卷,现代史料出版社2007 年2 月,第66 页

*4:日本防卫厅战史室编、天津市政协编译组译:《华北治安战》(下),天津人民出版社1982 年版,第 409、411 页

*5:《中国共产党历史》,上卷,第627 页

*6:中央档案館、中国第二歴史档案館、吉林省社会科学院合編:『細菌戦与毒気戦』,中華書局1989 年版,第 436- 438頁。

*7:ブログ主注:河北省中部のこと

*8:ブログ主注:山西省,チャハル省(現在は存在しない),河北省にまたがる共産党の統治地域

*9:中共中央党史研究室:『中国共産党歴史』,上巻,人民出版社1971 年版,第583- 584 頁

*10:ブログ主注:日本軍の作戦に必要な鉄道路線や通信設備を破壊すること

*11:ブログ主注:民兵が数人のグループに分かれ、交代で延々と日本軍に対しヒットアンドランを繰り返すことで日本軍を消耗させる作戦

*12:重光葵記念館編:『重光葵外交意見書』第2 巻,現代史料出版社2007 年2 月,第66 頁

*13:日本防衛庁戦史室編、天津市政協編譯組譯:『華北治安戦』(下),天津人民出版社1982 年版,第 409、411 頁

*14:中国共産党歴史』,上巻,第627頁

*15:Elliott Roosevelt, As He Saw It, p.53.

*16:ブログ主注:「満州国」以外の中国の地域を指す。

*17:Elliott Roosevelt, As He Saw It, p.53.

*18:万一わからない人のためにさらにつけくわえるが、日本側が出した死傷者数は「軍人のみ」の死傷者数であり、中国側の3500万人と言うのは決して「軍人に限定していない」ということ。開きが出るのは当然である。しかもこの「不完全な統計では約3500万人が死傷した」という文は『結語』中の文章であると思うが、原文は「据不完全统计,战争期间,中国军民伤亡3500 多万人」であり、軍民合わせた数であることが明記されているのに、それは無視されて翻訳引用されている。