読書感想日記 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2006-07-30

[] 先日のエントリの補足

先日のエントリで俺がやりたかったのは、非モテ問題を捉える枠組み、フレームを作りたかったの。残念ながら、問題の解決方法を提案できてるわけじゃない。でも、問題の切り口で議論の方向が左右されることは多い。「非モテの原因は、男の外見しか見ない女のせいだ!」「他人に責任を押し付けるより、まず自分で努力したらどう?」という低ーいレベルの議論をいくらやっても仕方がない。

俺は、以下のようなことがらの組み合わせを使って、そうした議論に陥りにくいだろうという枠組みを提案してみたわけ。

  • 深く思考することは、《雰囲気》の支配から離れ、ほんとうの意味での倫理を求めることだよ。
  • 深い思考によってしか自由は享受できないよ。
  • 気の向くままにしたいことができる、というのは欲望に束縛されてるだけ。自由とは違うよ。
  • 自由とは、自分を訓練し、束縛することでより大きな可能性を手にできるということだよ。
  • 深い思考の代わりに《雰囲気》を使って、同様の効果を得ることもできるよ。
  • 女の子の集団は、はまだうまく《雰囲気》を社会様式として構築できてないよ。
  • とにかくデネットおもしろいよデネット

そういう意味で、単純に「非モテ女の子が原因」みたいに思われるのは心外なのね。先日のエントリの中で、集団と個人との違いを明確にしていなかったのはよくなかったと思う。俺が問題視してるのは女の子の「集団」。女の子なら誰しも経験があるんじゃないかな。学校のクラスサークルなどでよくある、小規模の女の子同士の集団。その中での濃密な人間関係と、同調圧力。あの《雰囲気》は――と言えば、わかってもらえるかな?――ほとんどの人間にとっては苦痛であるにもかかわらず、なくならない。

あの《雰囲気》に接すると、たいていの男の子は引いちゃう。「女の子って、ときどき怖いね」とか言いながら。その意味では男の子には逃げ場がある。男の子の集団にはああいう《雰囲気》はほとんどないから、そこに戻ればいいんだ。もちろん、男の子の集団には別の問題が――DQNの集団とかが――あるけど、少なくともそれはコミュニケーションの問題じゃない(どちらかといえば暴力の問題で、それには法的に抑制をかけることができる)。

これが具体的に、非モテの問題とどう関わっているかって? んじゃ説明しよう。非モテの問題は、「ふつうの女の子個人」と「非モテ男の子個人」の二者間の問題として捉えられることが多いけど、これは間違い。男の子にとっては女の子しか見えてないけど、女の子にとっては男の子の他にも、たくさんの友達の、特に同性の視線がある。

男の子の世界】
 
        自分⇔女の子女の子の世界】
 
        自分⇔男の子
            ↑
      たくさんの他人の視線

こうした理由で、女の子は無自覚なままに、男の子の外見を気にせざるを得ない。しかも、女の子自身、こうした傾向の行き着く先を制御できているように見えない。男の子の外見を重視することで、女の子はどれだけのメリットを手に入れたの? ――さぁ? …つまり、劣悪な状況に自身を追い込んでいるように見えるんだな。

これは女の子に固有の問題、女の子の「集団」の問題なんだけれども、それを女の子「個人」の問題として取り扱っても仕方がない。普通女の子個人に何ができるっていうの? この問題に対して、男性は深く関わろうとしてこなかった。それでも責任を取ろうとすることはできる。例えばあなたが作家なら、問題解決のための男の子女の子のロールタイプを提案すること。それは一つの責任のとり方だ。俺が本田に期待したのはそういうこと。でもね、それを本田に期待しなきゃいけない状況ってどんな状況よ? 喪男癒しをやってもらったら、今度は女の子癒しも? どこまでおんぶにだっこしてもらえば気が済むの? と、自分自身思うわけだ。

だから、今度は、俺が書こう。――これが、俺が先日のエントリで書き忘れていたことだ。自ら責任を引き受けること、それを実践しよう。俺がこのエントリを書いているのは、俺にとっての責任のとり方だ。「それは俺達の問題じゃない」と言って、俺は他者を切り捨てたりしない。女の子の抱える問題に関わりあおう。一緒に悩もう。

[] その手の人向けの補足

先日のエントリでは女の子の集団に問題がある、と書いた。これがまた微妙なところで、「それが女の子の文化の特色じゃないの?」と反論しようとすれば反論できるところだ。でも、男性文化と女性文化というのを対比させた瞬間にそれはカルスタの文脈になっちゃう。そうなったら、後は泥沼化するだけだ。それを踏まえずに「それは男性的な思考だ」というだけで否定しちゃうのは勘弁して欲しい。そういうわなにはまらないように、人類の進化という尺度まで問題を引き下げてみたんだから。

女の子の文化の可能性を追求してもいいけど、宮台のことを忘れちゃいけないと思う。宮台は「流動性」に対する女の子の可能性に賭けて、そして失敗した。結局、恋愛依存しながらもセックスの相手が頻繁に変わるような、人間関係の過剰な流動性には誰も耐えられなかった(その結果、女の子メンヘルになった)。遠い未来にはそういう可能性もうまく行くかもしれないけど、今日の問題に対する答えじゃない、と俺は思うんだな。

カルスタついでに言えば、オタクモテ文化におけるサバルタンだ、という見方もできる。その分析自体は正しいかもしれないけど、それが何の救いになるっていうの?

2006-07-17

[] シロクマさんの方法論に倫理を読む

ある行動がいいことなのか、わるいことなのか。その理由を考えることがある。例えば俺の場合で言えば、エロマンガを買うときとかだ。買うほうがいいんだろうか、買わないほうがいいんだろうか。買いたいんだとすれば、それはどうしてなんだろう? そして、そういう問いかけ自体にはどんな意味があるんだろう?

シロクマさんのエントリは、こういう「なぜ?」をどこまでもどこまでも、何回も何回も繰り返した結果の、誠実な回答だ(<シロクマさんありがとう!)。さて、人間は最終的に、こうした理由の探索を「もういいや」ってあきらめざるを得ない。まぁそりゃそうだよね。それ以上進んでしまうと、自分にとって問いかけ自体の意味がなくなっちゃう、そういう地点があるの。そうした、人間思考停止するに足る探索の終着点こそが、その人にとっての倫理だ、という言い方もできる。カッコつきの、世間で言うところのいわゆる《倫理》ではない、ホンモノの倫理っていうのは、そういうものだ。

こうした思考の終着点がどこにあるのかは、人によって異なることは間違いない。ちょっと考えただけで終わりにしちゃう人もいれば、ずーっと深くまで考える人もいる。思考の探索をどこまでやるか。それによって人を分類することはある程度可能だ。

理由を知ることは、つまり、類推できるということだ。一段深く考える人は、一歩先のことを予測できる。予知じゃなくて予測であって、それは外れる事だって多いけど、それこそが思考重要なところで、何も考えないのに比べればずっと効率がいい。責任ある大人だったら、健康とみなされる状態だったら、ほとんどの人は一歩先のことを必ず考えるはずだ。自分のこれからやること、やってしまったこと。得をしたのかな? 損をしたのかな? 周りの人はどんな風に思うだろう? こうした思考があなたの未来予測を助ける、

さらに思考する人は二歩先まで予測できる。なるほど、世界の仕組みは大体こんなもの、その中で自分はこんな位置にいて、この程度のコストを払えばこんな感じの便益が得られる…そういう予測ができる。でもこういう人は、一歩先までで満足する人に比べるとずっと少ない。感覚的には十人に一人というくらいを想定して欲しい。もちろん、社会的に構成に偏りが出ることも考慮に入れて欲しいな。一歩先まで考える人たちしかいない集団がある一方、ほとんどの人が二歩先まで考えることができるという集団もある。こういうタイプの人たちにも当然幅があって、自分の身の回りでうまく立ち回り、のほほんと生きていければいいや、という適当タイプもいれば、社会を相手に大立ち回りをして、大金持ちになってやるぜ! というタイプもいる。でも、それは知識の幅が違うだけだ。思考の深さが違うわけじゃない。

さらに、三歩先まで考えることができる人もいる。この人たちはもっと少ない。百人に一人とか、そういう数しかいない。こうした人たちにとっては《雰囲気》――つまり世間的な価値観やら倫理観といったものはまったく様相を変える。なぜ、楽をしたいの? なぜ、大金持ちになりたいの? ……みんなが当たり前と考えていることすら、思考の対象になる。ここまで来てやっと、《雰囲気》を批判し、その未来を予測できるようになる。人は雰囲気に流されがちで、なかなかそれを対象として捉えることができない。でも、深い考察だけがそれを可能にする。こうやって、どれだけ深く考えることができるかというのは、生まれながらというものもあるけど、何より訓練の賜物だろう。訓練を重ねることで、人はより深い思考を身に付けることができる。

先のシロクマさんの方法論は、俺からするとどうしても、シロクマさんの倫理として読める。「コミュニケーション重要性」と「未知のものの重要性」、そこで方法論が停止してる。なぜ、コミュニケーション重要なの? そんなに重要だというなら、それはシロクマさんの目的なんじゃないの? とか思っちゃう。

なんにせよ、シロクマさんの認識のフレームにおいては、「利己的」「コミュニケーション」「インセンティブ」などの単語は、もう日常の意味でのそれとはかけ離れている。こうした言葉の使い方は、社会一般に漂っている《雰囲気》からも乖離してる。シロクマさんは三歩先を考える人のように見えるんだ。で、自由であるというのは、こうした人にとってのみ意味があるんじゃないか、と思ってる。自由というものの意味をふくめ、ちょっとそれについて説明してみたいんだ。

[] 自由って何? ということに対する合理主義者への説明

自由というのは、単純に欲望を満たすことじゃない。「○○したいからする」「△△したいからする」これが欲望を満たす一番手短な方法だけど、現実的には絶対無理。もしあなたが、自由というのが「したいことがなんでもできる」ことだと考えているのであれば、それは絶対に満たされないよ。というのも、ホッブズの権利観「万人に対する万人の闘争」を考えれば明らかであるように、人間の求める権利は他者と絶対にぶつかる。ぶつかって、さらに悪い状況を引き起こす。残念だけどこれは現実で、どうにも変えようがない。あなたがどんなにがんばっても、どんなに正当性を叫んでも、この現実だけは変えられない。

繰り返すけど、あなたの欲望をそのまま突き進めれば他人とぶつかって、さらに悪い状況を引き起こす。これは現実で、変えようがない。あなたが欲望すればするほど、状況は悪化する。

だとすれば、じゃあ自由ってなんだろう? 

あなたの行動が誰かの心を傷つけてしまった。そういうことってよくある。例えば、あなたが不倫の結果妊娠してしまったりして、それを中絶してしまった場合など、だ。でも、あなたはそのことについて、誰かに責任を持たなきゃいけない必要があるの? 謝らなけりゃいけないの? 法的に言えば「あなたは謝る必要はない」ということになる。でも、これは、あなたに責任がないといっているわけでもない。つまり、あなたには謝っても、謝らなくてもいい、という自由があるということだ。そう、あなたは謝ることができる、責任を自ら引き受けることができる。あなたは自分の行動に、好きなように枷をはめることができる。これこそがまさに自由なの。三歩先のことまで考えれば、責任を持つほうが望ましいことがあるの。罪を背負うことが望ましいことがあるの。

俺達の世界は、まだまだ計算不可能性に満ち溢れていて、だからこそ時間についていえば未来に開かれているし、社会についていえば他者に開かれている。だから、新しい問題の解決法なんていうのはまだまだ、いくらだってある。あなたは自由に、問題の解決法を発見していい。挑戦していいんだ。それこそが「自由」の最も重要意味だ。未来のために、敢えてあなたはコストを今支払うことができる。

でも、一歩先のことしか考えない人は、こういうとき、常に「責任を負わない」「罪を負わない」という選択肢しか選べない。彼らには、自由を享受する能力がない。いつも既存の問題解決法に頼ろうとする。彼らの結論はいつだって同じだ。彼らの思考は「約束問題」を解決できない。より分かりやすい、劣悪な状況へとまっしぐら、というわけ。

あなたは責任を負わなくてもいい。私は悪くなかった、と言い張ってもいい。でも、みんながそういうことを言っちゃう社会って、ホントに住みやすいの? そういう問題を考えない、考えたくないあなたは、三歩先を考える人間にはなれないし、したがって自由でもない。ただ、劣悪な状況へと突き進んでいくだけだ。自由というのはそういう概念だと俺は考えてる。

[] ところで約束問題ってなによ?

約束問題というのは、便益を今得るために、コストを後で支払うと「約束」する時に発生する問題だ。ところで、こういう形の約束は多い。典型的には借金とかね。等価交換のそれぞれの支払いに時間的な距離がある場合だと考えてもらっていい。

で、問題はこういうことだ。あなたが今もってる「今の財産」と、俺が将来手に入るであろう「未来財産」を交換しましょう、そのほうが二人にとってメリットがたくさんありますよ、と。そういう状況を想像して欲しい。んで、そのとき、俺もあなたも、その交換が「等価交換」であることを納得する。だから、その交換は妥当だと考える。交換してもいいよ、と約束する。

そのあと、実際の交換となるわけだけど、まず俺はあなたの「今の財産」を受け取る。ここまではいいの。重要なのはその後だ。時間が経ち、俺が「将来の財産」を手に入れ、あなたにそれを支払うことになる。その時、俺は必ずこう思う。『気が変わった。支払いたくない。』 約束なんて知ったことじゃない(実に自然な考え方でしょ?)。そうなると、支払わないために俺はいろいろな言い訳を用意するだろう。それであなたを納得させることができなければ、今度はケンカだ。そういう結果になることは十分にある。

そうなると、約束問題は別の局面を迎える。途中で気が変わってしまうのは実に自然だし、だからみんなそう考えるだろう。するとみんな約束なんて守れないんだから、時間的な距離のある交換ができなくなってしまうことになる、という問題だ。その交換があなたに(そして俺に)どれだけ多くのメリットをもたらすとしても、その選択肢を捨てなきゃいけない。それはとても不自由なことなんだけど、だって仕方がないじゃん、俺自身ですら気が変わるのを押さえきれないんだもの。これはどうにもしようがない現実なの。

では、この劣悪な状況を越えて、よい結果を得るためには――約束をするためにはどうしたらいい? 俺が約束を守れるようになるには、あなたに俺を信用してもらうためには、どうしたらいい? これが約束問題で、先に挙げた劣悪な状況の一つの標本だ。よりよい答えは誰しも分かっているのに、実践できない。

こういう、本能的な問題に対応するためのものが訓練なんだ。あらかじめ準備し、訓練することで、約束問題は超えられる。自分を訓練しようとするのは人間だけに見られる行動で、つまりこれこそが人間らしい行動だということもできる。

[] 訓練と、その代替手段としての《雰囲気》

セックスと愛情との関連について、たまーに話に上がることがあるよね。いろいろな意見があるけど、主流なのは「愛情のないセックスはすべきじゃない」ってのと「セックスにそれ以外の意味を付加すべきじゃない」って意見だ。うんうん、どっちもいいたいことは分かる。でも、ここで何より重要なのは、愛情とセックスは多少は関連しているという事実と同時に、必ず関連しているわけでもない、という事実だ。事実は単純にそれだけなの(と俺は思う)。

多くの人間関係では約束問題が絡む。こうした「関連してないわけじゃないけど、かならず関連してるわけでもない」みたいな不確定さが、約束問題を引き起こすからだ。じゃあ、あなたは裏切られることを必ず覚悟しなきゃいけないの? そうでなければ、好きな人を必ず裏切ることになるの? 破綻運命付けられてるの?

そうじゃない。そんなことはない。そうした劣悪な結果は訓練によって回避可能だ。あなたが方針を決定し、訓練することで、あなたに約束を守る能力があることを相手に伝えることができる。愛がないセックスはしない、とあなたが決断し、自分をそうなるように自分をあらかじめ訓練することは可能だ。同じように、愛情とセックスを関連付けない、とあなたが決断し、そうなるように訓練することだってできる。恋愛においてセックスが自由であるというのはそういう意味だ。そうやって自分の性のあり方を自己決定し、それに向けて自己を訓練し、約束問題を超えることができる。劣悪な現実の回避手段は一つじゃなくって、いくつもある。それらのうちのどれを選んでもいいし、新しいものを発見しようと挑戦してもいい。それこそがあなたの性が「自由である」ということなの。

しかし同時に、それはあなたの欲望のままに行動できなくなることを意味してる。約束問題を超えるためには、あなたは自分の本能のままにセックスすることはできない。本能のままに人を愛することはできない。しかしそれが現実なの。いくらがんばっても、残念ながらこの世界では無理なのであきらめて欲しい。あなたがこうした努力をせずに、そして相手の努力を評価せずにいるなら、あなたは約束問題を超えられないし、その関係は破綻する。あなたが今まで何度も破綻を経験したタイプ人間ならおさらだ。それは残念だけど、仕方がない。

ところで、約束問題と同様、破綻が目に見えてる関係というのはいっぱいある。例えば「共有地の悲劇*1」「囚人のジレンマ*2」などなど。こうした問題はどれもこれも、欲望に任せているとハマってしまう問題だ。でも、過去の人たちだってこうした問題をどうにかこうにか乗り越えたりしてきてる。なぜ乗り越えられたんだろう? それは社会の《雰囲気》によるんじゃないのか、と俺は思ってる。《雰囲気》によって、本人が納得できないことをさせる。《雰囲気》で押し流す。一歩先のことしか考えられない人たちにとっても、雰囲気は有効に活用できる。思考や訓練といった負担なしにみんなに提供できる。

非モテはどちらかというと女の子の問題」と俺がいうときに考えているのは、この部分だ。男社会が構築した社会様式は、そしてそれらによって作り上げられる《雰囲気》は、男の子のもつ本能によく対応している。例えば、男の子がみんな持ってる闘争本能というもの。これに対して、男の子は領域を分割し、便宜的な上下関係を導入し、明確化することで、無用な争いを起こさないようにしてる。これすごいことなんだよ?

女の子はについてはまだ、こうした社会様式が構築されていない(ように見える)。また、自身の性の本能的な特徴について女の子自身十分に理解しているとは言えないし、当然それに対処できるように訓練されているとも言えない。それは千鶴子たんが84年の時点で看破していたことだけど、20年たった今、いまだに進展しているように見えない。

[] 女子バブル、という用語を考えた

ぶっちゃけ女の子は「わたし、雰囲気に弱いの」なんて言ってる場合じゃないと思うのよ。それが言えたのは、女の子が大きな責任を負えなかった時代だけなの。女の子は《雰囲気》に弱すぎる――集団の同調圧力に弱すぎる。もしこの社会の中で責任を負うのであれば、なんらかの対策をすべきだと思うよ。同様に、自身の攻撃性も自覚し、対策すべきだと思う。女の子だって十分に攻撃的だ。ただ、それは暴力じゃなくて、コミュニケーションの上で行われる。言葉で人は死ぬんだよ?

もちろん、こうした責任をすべて男(とくに喪男)に押し付けることは可能だ。でもそれしかできないんだったら、今まで何度も繰り返したように、自由じゃないの。主体性がないの。そこで「これって自分の問題じゃないの?」と責任を引き受ける自由こそが重要なの。女の子の一部は、こうしたことを明確ではないにしろ、自覚してるし、対策を採っている。リブの活動が手に入れた女性の自由は、彼女達のためにこそあるといってもいい。

そういう、三歩先を考えることができる女性のために導入された自由のはずなのに、自分の欲望を満たすためのものと思い込んじゃった女性が少なからずいるの*3。そういう女性は、好きなときに好きなことができること=欲望を満たすこと=自由、だと思い込んじゃった。そんなの、この現実世界では不可能なのに。たぶんね、女子バブルだったと思うんだよ、今までは。勘違いが見せかけの女性の強さを生み出してきたけど、それはやっぱりバブルに過ぎなかったんだ。その結果、男の子女の子も、社会的にも不安を抱える結果になっちゃった。そこで新たな政策を投入……それは違うよね。原因を見つけたのなら、必要なのは対処療法じゃない。

訓練し、自己を律することで、現実に陥りがちなさまざまな劣悪な状況を避けることができるようにする。約束によって自分を束縛することで、さらに大きな便益を手に入れる。それができる、ということが自由だ。それこそが教育目的とすべきところの一つであって、それを「我慢しろ、なんかよくわかんないけどそれがいいことなんだ」としか説明できなかったところに今までの教育の問題点があったと思うんだよね。

だけど、今はもう違う。必要なテキストは用意された(<デネット読んでみてよ)。いま必要なのは、問題を認識し、訓練によってそれを乗り越えることだ。非モテの問題を解決するために、脱オタしたり、ファッションセンスを磨くことは重要かな? 断じて違う。それは一歩先の視点でしかない。それは自由じゃないし、問題を引き起こす原因そのものであることは説明したとおりだ。

これが俺の、非モテ問題解決のための思考のフレームだ。問題解決のために新しい敵を作ったりしていないつもりだよ。敵はあくまでも、この劣悪な現実であって、喪男でも負け犬でもない。現実を見ろっていうのはそういうことだと思う。「分かりやすい敵がいない」なんて嘆かなくてもいいし、悪人がいないと成立しない解釈なんていらない

[] こういう本を読んで考えたよ!

俺の視点なんて大したことなくて、たった二冊でたどり着ける。

自由は進化する

自由は進化する

倫理21

倫理21

*4

これだけ。デネットの説明する自由が、柄谷が引用するカント幸福主義批判とよく一致するんで驚いた。

それから、柄谷の本にはもう一点、「他者を手段としてのみならず目的とせよ」という倫理があったけど、これをもう少し具体的な位置で論じてるのは次の本になるんじゃないかな。

インターネットは民主主義の敵か

インターネットは民主主義の敵か


*1:一歩先までしか読んでないとハマる。

*2:二歩先まで読んでてもハマる。

*3:女は色情狂になることを自由であると錯覚するように仕向けられている、って言ったの誰だっけ?

*4:なんだか、ASIN 記法でうまくいかないので、Amazon への直接リンクhttp://www.amazon.co.jp/gp/product/4582702244

2006-07-05

[] 鏡の法則その批判

鏡の法則」やその批判がどんなものか知らない人はリンク先を見ていただきたい。俺が気になっているのは、この「鏡の法則」をどう解釈するか、というところなの。

鏡の法則」は、斜め読みすると何だかいい話なんだけど、きちんと読んでいこうとすると引っかかっちゃう人がいるという、そういう話だ。pavlushaさんのまとめが分かりやすいので、ちょっと引用させてもらおう。

 よく読むと、この話の全体構造は次のようになっています。

1.A子の息子がC君にいじめられる。

  ↓

2.B氏がA子にアドバイスする。

  ↓

3.A子がアドバイスを実践する。

  ↓

4.A子とA子の家族和解する。

  ↓

5.C君がA子の息子をいじめなくなる。

うーん、実にわかりやすい。

この4.と5.の間に何の関係もないじゃないか、というのがもっぱらの批判で、こんなのにひっかかるようではA子さんは心配だ、という意見がちらほら見られるわけ。そして同時に、4.→5.のつながりがないからこそ、これは「よくできた作り話にすぎない」という意見もある。

で、ね。用心深いひとは「こりゃA子さんだまされてるよ!」って思うみたいだ。たしかにそう解釈もできる。でもちょっと待って。そんなだまされやすいA子さんのことをなぜ信用するの? 人の言う事をほいほい聞いて、十分以上に受け取ってしまうA子さんだもの。1.の「A子の息子がC君にいじめられる」というのが、A子さんの早合点だという可能性だって十分あるんじゃないの?

そうなると、この話は急に様相を変えてくる。5.の結論が出てくるのは当然だ。だってA子さんの息子は、最初からいじめられてなんかいないんだもの。何もしなくったってC君に謝ってもらったに違いない。

作り話である必要もない。「1.と5.」「2.と3.と4.」は、実はほとんど関係のない話が並行して進んでいただけで、因果関係はない、ということになる。B氏が悪い人で、うまいことして儲けようとか、A子さんを騙そうと考えてる、なんて勘ぐる必要はない。ただ誤解が誤解を生んだだけだ。

この「鏡の法則」に対する批判は多い。その中で、「B氏の発言は疑ったけどA子さんの発言を疑わなかった」人も多い。そういう人たちが、A子さんはだまされやすい人だ、なんて言ったりするけど、結局その人たちだってA子さんと同じ、だまされやすい人なんじゃないかな。ただ、どういうタイプのしゃべり方に騙されやすいか、それが違うだけだ。そういう考え方もできる。

じゃあ、鏡の法則現実を変えたわけじゃなくて、B氏がA子さんを騙そうとしているわけでもないとすれば、この話の主題はいったい何なの? ここで重要なのは、1.以前と5.以降でくらべると、確実にA子さんの家族関係はよくなったということだ。で、それだけなの。そして、それこそがこの話の主題なんじゃないかと俺は考えてる。「気の持ちよう」で世界は変わるってわけだ。息子のことで心を痛めていたA子さんに新たな視点を与えることで、痛みの堂々巡りから視点をそらし、より発展性のある良い思考パターンに持っていったというわけ。

でも、注意して欲しい。「気の持ちよう」だからといって、どんなものでもいいってわけじゃない。例えば「息子といっても他人は他人、あなたが気に病む問題じゃない、息子さんは自分で何とかするはず」というメッセージでも、A子さん自身は救われただろう。だけど、そういう考え方を身に付けたA子さんは、今後は少しだけ家族に冷淡になっていくだろう。つまり、一時的な心の安寧を手に入れることによって、将来的にはより不幸になるだけだ。「気の持ちよう」といっても、それはけっこう難しい問題なんだ。

そういう意味では、このB氏の導入した「気の持ちよう」は、なかなか優秀なんじゃないかと思う。なんといっても、他者を理解しようという気持ちほど、人を救うものはない。喪の人には分かってもらえるんじゃないかな。A子さんが家族を理解し始めたことで、A子さんとその家族はちょっとだけでも幸せになるだろう。

B氏を胡散臭いという人は、しかし、A子さんの問題を解決できるだろうか? けっこう難しい問題だと思うんだ。

2006-07-04

[] タクティカルロア

タクティカルロアが…終わった…くそぅ! (萌えパートを除けば)まぎれもない傑作だったよ!「左舷」「右舷」をちゃんと「ひだりげん」「みぎげん」と呼んだりとか、そういうところでいい作品だった!(<バカにしてるように見えますが、全力で褒めてます)

 第一話を見たときは、ほんとに途中でチャンネルを変えようと何度思ったことか…二話目を見ることができたのは奇跡に近い出来事。ところが、三話、四話と進むにつれ、次第に萌えパートの比率がどんどん下がるのです。そしてそれと同時に、どんどん面白くなってきやがるのですよ。対潜装備もなしに潜水艦に挑む第十話なんて、もう心ふるえちゃうくらいのときめき。発射口が、ばたばたばたっ、て開いて、大空にミサイルが飛び立つ、あのカット。そして大空から海中へと飛び込む(対潜水艦戦ですから)、あのカット

 そのころにはもう、キャラ萌えの痛さなんてどこかに行っていた。いや違うな。かつて、キャラ立ちキャラ萌えで消費した作品はたくさんあった。しかし、キャラ萌えキャラ立ちで消費した作品は? …それもいっぱいあるな。まあいい、この作品はキャラ萌えキャラ立ちで消費した。萌えっ子ばかりの戦艦舞台にして、痛みと人の死を描いた。その瞬間に、あのえげつなかった第一話を、俺は何とか許せるようになっていたんだ。 あくどいと思った真夏ちゃんのキャラだって、今なら萌えられる。不思議だな、こんな気持ち。

 俺、第一話見た後、この作品をホントに酷評してた。今では申し訳なかったなーって思う。もし(俺より先に第一話を見た)みんながその時、この作品の可能性に気付いていれば…さっき見た、あんなくそったれな最終話ではなくて、艦隊戦でドンパチとかの、楽しい第2クールをみんなと過ごせたんじゃないかと思う。それだけが、ただもう、残念でならない。

 第一話と第十三話を切り捨てて脳内で補完することにします。

2006-06-30

[] ほんとにそれだけでいいの?

俺の「どうしてシンプルでリーゾナブルな性風俗にお金をぶっこまないのか?」という質問に対して、シロクマさんはその理由をこんな風に列挙する。

・単純に、性風俗店が近辺に無い

性風俗店にはリスクがある

不特定多数との粘膜接触は総てリスキーである

田舎的ムラ社会への影響

・男女交際に関するスキルや経験の蓄積、殊に配偶対象選択プロセスを精錬する

・対異性コミュニケーション、特に長期的交際に関するノウハウ育成

・相互理解のデータバス拡張

・仲良くなった相手の確保

・自己陶酔

うんうん、どれも納得できる。シロクマさんは誠実だ。でも、俺としてはやっぱり気になっちゃう。ほんとうに欲しいのはそれだけなの?

 さらに意地悪な質問をしてしまおう。こうした列挙を続けることで、シロクマさんのほんとうに欲しいもの(のうちで現実に得ることができるかもしれないもの)にたどり着けると思う? 質問を別の形に変換してもいい。こうやって列挙されたたくさんの理由のリスト(たぶん、時間と共にさらに少しずつ増えていくだろう)を評価基準に、みんなが自分の行動を選択できると思う? シロクマさん自身、ほんとに選択してる?

 こういう質問を繰り返すのには、当然、意図がある。俺が言いたいのはこういうことだ。シロクマさんが書いたような《理由》の、たくさんの組み合わせで世の中は動いている。だけど、あまりにもそうした《理由》が多すぎる。だから、そうした理由を重ねても、中長期的展望はなかなか見えない。計算不可能なの。それこそが近代の限界なんだし、またそうしたことはポスト構造主義のひとたちがいっぱい言ってたことでもある。

 間違いを恐れずに言えば、倫理道徳というのは、中長期的未来予測(とそれに基づく実践)のための、人間の持つ思考ツールの一つなんだ。おそらくそれは、人間の進化の歴史の中でゆっくりと磨き上げられてきた能力で、つまり進化の最後のほうに付け加えられた能力だ。んで、ある程度大きな集団でそこそこ有効に働く。法と倫理が比較されることに注目してもいいかもしれないし(どちらも集団で長期的に有効に働く)、経済学の祖であるアダム・スミスが倫理学者であったことも忘れちゃいけない。そして最近の進化○○学(生物でも心理でも、お好きな学問をどうぞ)は、こうした倫理道徳といったものの重要意味を再発見してる。

 せっかくある能力なんだもの、有効に使わない手はないと思うよ。いや、ちょっと言い方が違うな。倫理道徳というものの有効性をもっと前面に出していいと思うよ。シロクマさんのリストを見ると、そんなふうに思っちゃうのだ。