「熱中高校」へのリアクション

承前*1


内藤朝雄氏の「“熱中高校”って、なんだ」のリアクションを幾つか読む。
http://d.hatena.ne.jp/muffdiving/20070318/1174286627に曰く、


このような管理教育で育った奴って、どうなるんだろうなと。

 確かに上からの指示や権威には盲従的に従うけど、その指示や権威が正しいかということは考えなくて、なおかつ密告好きで出る杭を打つような奴になるのが多いんじゃないかと。

 その結果、コンプライアンスクソ食らえで不祥事続発しまくってるしね。愛知でいえばトヨタも結構不祥事あるし。

 で、今の企業じゃそういうのって「いちばん要らない人材」だと個人的に思うんだが。

 つーか、企業がリストラに入ったら真っ先にリストラされる奴だと思うよ。なんの付加価値もねえし。かといってフリーランスにもなれねえっていうか。

また、http://blog.livedoor.jp/baisemoi_bullet/archives/53329907.htmlに曰く、

この東郷高校に関わった、つまりここに出てくる教師の多くは、現在でも教職に就いています。
 東郷以外の学校に移って、現在校長や教頭になっている者もいるとの事です。
 また、東郷の思考(放棄)を身に付けて進学し、社会に出た者は更に大勢いる事でしょう。中には教師となって東郷に戻り、あるいは他の学校で、自分達の施された教育を今の生徒達にも施そうとする者もいるでしょう。
 東郷高校の教育に、教員に反省と改善があったという話は、確認されていません。
 彼らの多くは今でも「そうするのが正しい教育だ」と信じて存在している筈です。

 そして、こうした教育を正しいと思っているのが「愛知の超管理主義教育校」1校の関係者だけでない事は明白です。
 教育改革国民会議、そこから出発した「教育再生審議会」が、安倍晋三山谷えり子伊吹文明と言った教育行政の(教育再生政策の)トップが、こうした教育を理想としている事も最早明白でしょう。
 彼らの動きが歯止めが掛からなければ、数年以内に全国の中学・高校が「東郷高校」になるでしょう。そう出来るだけの法整備と意欲のもとに。以前の憲法教育基本法の元でもこうした学校は(政府の注意を受けながらも)存在しえたのです。
 事実、国旗国歌法によって、君が代を決められた口や声の大きさで歌う事を、教師や生徒に義務づける事が出来る様になりました。
 形から入る「愛国心」や「規範」や「集団行動」の教育を、日本全国で文部科学省の指示で行えるようになりました。

 「東郷高校」は昔の一部の学校の状況ではなく、きっと、近未来の日本全国の学校の姿です。
http://blog.livedoor.jp/baisemoi_bullet/archives/53329907.html

勿論、「管理教育」によってある人間の人格や人生の全てが決定されてしまうわけではないだろう。それは学校以外にも世界はあるというだけでなく、幸か不幸か、人々(特に庶民)は、ナチズムとかスターリン主義とか日本の総動員体制の中でも、世間といい加減に関わるということによって、状況をやり過ごし、生き延びてきた。現在でも、例えば少なからぬ北朝鮮人民はそのようにして生き延びている筈だ。ただ、「管理教育」が影響を与えない筈はない。
ところで、「「東郷高校」は昔の一部の学校の状況ではなく、きっと、近未来の日本全国の学校の姿です」という文言は少し慎重に考える必要がある。たしかに、稲田朋美を初めとして(伊吹文明もそうかな)、「東郷高校」に萌える資質を持った人たちが政府の中枢近くにいるということは事実だ。しかし、このような「管理教育」によって、ネオリベラリズムの荒波を〈勝ち組〉としてサヴァイヴァルしていくスキルを伝授できるかどうかは疑問である。少子化によって、教育それ自体が構造的不況業種になっていることを勘案すれば、このような粗雑な「管理教育」は市場の論理によって却下されるのではないか。これに限って言えば、〈資本の文明化作用〉を少しは信頼してもいいのではないかと思う。また、このような「管理教育」は(例えば内藤氏のような)反抗的主体を一緒に形成(生産)してしまうというリスクもより高い。
http://blog.livedoor.jp/gegenga/archives/50714945.htmlは、「熱中高校」は「SF小説だよね?」と驚きつつ、自らの80年代前半の「都立高校」のことを語っている。自由な「都立高校」というのは私も(伝聞では)知っていた*2。そこで、

生徒会長立候補者を監禁
なんて考えられませんでした。
生徒会はなく、すべての行事は生徒有志が作る“実行委員会”によって運営されていました。
とある。生徒が「行事」を「生徒有志が作る“実行委員会”によって運営」するということは一面では有意義だし、楽しいことであるに違いない。しかし、他面では面倒臭いことだし、生徒が自らをサーヴィスの消費者と考えるなら、そういうことは余計なこととなるのだろう。私が「1990年代に入って、大学や専門学校で教えるという経験を持つようになり、そこではかつてなら〈管理強化粉砕するぞ、ゴルァ!〉と学校幹部が数時間吊し上げられるのは必至だったようなことが逆に学生(生徒)に対する当然あるべきサーヴィスとして学校側にも学生側にも認識されていたようで、吃驚したという記憶がある」と書いたのはそのことと関係がある。だから、「「東郷高校」は昔の一部の学校の状況ではなく、きっと、近未来の日本全国の学校の姿です」とはいっても、より洗練され、〈強制〉とか〈管理〉とかとも意識されず、良質な(価値ある)教育サーヴィスの提供という名目で行われるということになるのだろう。
ところで、Mixiに「愛知県立東郷高等学校」のコミュあり*3

*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070319/1174299253

*2:どの地方でも、高校の自由さは1970年代前半の高校闘争の時の諸先輩の戦いぶりにかなり依存しているらしいと思っているのだが、どうだろうか。

*3:http://mixi.jp/view_community.pl?id=120195