ボクが萌え豚になる前の話

ぶひぃ!(朝のご挨拶)

今でこそ可愛らしい娘(*性別は問いません)との出会いに夢膨らませてコミックやライトノベルを買い漁る萌え豚になってしまったのだけど、本格的にそうなったのは高校に入ってからだと思う。まぁ、中学の頃からそういった傾向はあったのだけど、まさかここまで酷くなるとは思わなかった。

ボクが萌え豚になる前にも収集癖があって、その対象は鉄道模型だった。今になって思えば、がさつな性格も相まって精密な模型を丁寧に扱えるわけもなく、決して安くはない(入門用の3両セットで1万とかするしね)代物を親はよく買い与えたものだと思う。

趣味というのは採算度外視でお金をつぎ込めるがゆえに趣味なのだと思うのだけど、いかんせん鉄道模型趣味は殊更にお金がかかるので撤退せざるを得なかった。鉄道<二次元に興味の対象が移りつつあったのもあるが。

今朝方、撮った写真をパソコンに取り込んでいたら、急に懐かしくなったので久しぶりに鉄道模型を取り出して遊んでみた次第。


マイクロエースから701系の仙台色が出たとき、701系100番台(2両)と701系1000番台(4両固定)の組み合わせで、「何か違う……」と思ったことを覚えている。というのも、その当時、前者は常磐線での、後者は白石⇔小牛田での運用に限られていたので見たことがなかったのだ。地元を離れているうちに運用が変わったようで、かつて黒磯行の最終は719系8連だったのが701系6連(2両+4両固定)になり、いつぞやに乗った時に黒磯側の2両が100番台(1000番台のときもあれば1500番台もあるし、E721系がくっつくときもある)で、模型通りの組み合わせでちょっと感動した。

701系E721系は2両で走ることも多くて、特に今の時期は18きっぱーでやたらと混むのでうんざりする。空いていれば文句はないのだけど。その点ワンマン運転に対応していない719系は最低でも4両で(磐越西線だと2両だけどさ)、変則的な座席配置で2人掛けのクロスシートがあるのでそこに座れれば快適。ただ、以前に比べて郡山以南に来ることが少なくなったので残念。


ここからは過去帳入りの車両たち。715系の記憶はあまりないのだけど、二重窓になっていて、窓と窓の間に牛の置物とか所ジョージの人形が飾られていたのは覚えている。子供ながらに「なぜそのチョイス?」と思ったのだけど、遊び心が許されたおおらかな時代だったのかもね。

455系は未更新車と更新車で顔つきが違うんだよね。いかつい更新車よりも柔和な未更新車のほうが可愛らしくて好み。ふかぁとした未更新車の座り心地も好きだった。更新車はテンピュールみたいにあんまり反発しなくて、腰の部分が薄くてちょっと座りにくかった。
中には165系(だったと思う)からの改造車もあって、ドア幅が異様に狭かったり、横長の田の字窓をしていて異彩を放っていた。クロハが組み込まれていたS-40編成にも運よく乗ったことがあるけど、元グリーン車の割にあんまり乗り心地は良くなかった(*個人の感想です)。
3両編成用の停車位置目標が撤去されたのを見て、「あぁ、455系は置き換えられたのだな」としんみり感じた。休憩用車両として鉄道博物館に展示されているから、会いに行こうかな。

高校時代、朝の通学でお世話になった417系。455系の未更新者と同じ顔つきだったので、しばらくは別の形式だと思わなかった。国鉄が地方向けのスタンダードモデルの位置づけで開発・投入したものの、財政難で5編成しか作られず、その編成数の少なさがかえって仇になった可哀そうな娘。455系と同じ時期に置き換えられたものの、1編成だけ阿武隈急行に引き取られ、現役で活躍中。(追記:訓練車としてもう1編成残存してるらしい。)


*手前が417系、奥が455系
「455系なのにドアはボタン式だし、デッキはないし、あれぇ、変なの」と思いながら通学してた。

しばらく鉄道模型の世界から離れている間に、マイクロエースからE721系が出たんですってね。やっぱり地元の車両だから揃えたいなぁとなんて思ったり。京急あたりも集めたいのだけど、そうなると都営・京成・北総ととんでもないことになるんだよなぁ、これが。

#6

■「自殺について」講読(5)

◆生きようとする意志の肯定と否定とに関する説

意欲すること!なんて広大な言葉ではないか!(p78)

  • 理性はわたしたちが選択した目標へ向けてみずから備え付けた道標に過ぎない
  • その道標を天国へ向けるか、地獄へ向けるかはその人次第

わたしたちが経験的意識の立場にとどまっているかぎり、わたしたちは、あの―よりよい超絶的―意識から、なんらの慰藉をも得ることはできない(p79~)

  • 超絶的意識がわたしたちを見棄てて、経験的意識のうえに置き去りにするのは当然のことである
  • 超絶的意識に達するためには自己を滅却すること(=経験的意識からの解脱)が必要になる

生殖の後に、生が続き、生の後には、死が必ずついてくる(p81~)

  • 或る個人(父)が享受した生殖の淫乱は彼自身が贖いきれず、別の或る個人(子)の生涯と死を以て贖われる
  • わたしたち自身の生は、わたしたちみずからが死によって贖う
  • 自乗した強さの生存意欲である生殖は、或る異なった個人の生と死によって贖わなければならない

すべての説明は、その限界に存在するひとつの資料で立ちどまるよりほかはない(p83~)

  • より良い超絶的意識への移ろいを実現するためには、客観のあらゆる種類が綜合する点すなわち主観から始めるのが最良である
    • 完全な哲学者:より良い超絶的意識を経験的意識から厳密且つ全的に区別し表現する
    • 聖者:より良い超絶的意識を実践躬行する

「汝らは、道徳的良心に対して満足を与えるほどの行為はできないだろうから、せめても、論理的・知性的良心に恥じないだけに行いを慎しみ、決して真理に逆らうようなことはするな」(p89~)

  • 死は、それがひとつの悩みであるかぎり、解脱へ導くよすがとなるが、解脱そのものではない
  • みずからの意志のみは、わたしたちを救いもし、罰にわたすこともできる
  • 意志とそれがもたらす報いこそ、生命である

性慾を満足させることは、とりもなおさず、最も強く生を肯定することになるのだから、そのことだけとしても必ず忌避しなければならない(p90~)

  • 両性の交わりは外部からの動因に昴奮させられたものであるが、手淫は認識の現れない単なる肉体に対する肯定に過ぎない

完璧な聖者にあってのみ、単に悩みを眺めただけで、解脱の境に達しえるのであり、凡人たちは、必ず自分で悩みを体験しなければならない(p92~)

  • 天才には寂寥の孤独という免れざる悩みがつきまとう
  • そのような悩みこそ、天才をして、生きようとする意志を破棄し、かかる荒涼とした知己の得られぬ世界を断念させる因となる

個体の死滅と種族の保持とは、必須的な相関補足で、死があるから繁殖の必要が生ずるのだし、繁殖が無ければ死は無くともよいのであろう(p93)

恋愛の幻影も、またこれと同様で、遠くから望みをかけ、未来に願いを懐いているうちは、歓喜の楽園とも見えるが、ひとたび、通り過ぎてから、ふりかえって後の方から見直すと、嘔気を催すほどではなくとも、ごく価値の少ない・ほとんどなんらの意義をももたぬくらいのものだということがわかってくる(p104)